第19話 勇者様、本部からの要請
視界が白く塗り替わる感覚とともに、凪は放課後の廊下から、見慣れた商店の軒先へと引き戻された。地面には、あの日拾いきれなかった水たまりの跡が、まだうっすらと残っていた。
「おかえりなさい」
出迎えた栞の声には、いつもと違う硬さがあった。凪はその表情だけで、何か良くない知らせがあるのだと察した。
「審問官から、本部の意向として伝えられました」
「本部」
「規格外の魔物、あれの正体がエンシェントドラゴンだと判明したそうです。それで」
栞はそこで一度言葉を切った。
「勇者様に、対応していただきたいと」
その一言に、凪の全身から力が抜けそうになった。薬草採取ですら精一杯だった自分に、エンシェントドラゴンなどという規格外の相手が務まるはずがない。
「無理です。絶対に無理です」
「分かってます」
栞は即座にそう答えた。
「レイさんは、もう少し様子を見ると言ってくれていました。でも、本部の判断は別のようです」
組織としての判断は、個人の理解とは別の理屈で動く。その事実が、これまでレイとの間に築いてきた小さな安心を、あっさりと揺るがしていった。
宿への帰り道、栞は珍しく口数が少なかった。何を考えているのか読み取れないまま、凪はしばらくその横顔を見つめていた。
やがて、ぽつりと栞が呟いた。
「わたしがこの世界に来て、最初に配属されたのも、こういう本部からの無茶な要請でした」
凪は思わず足を止めた。栞がこの世界に来た経緯について、これほど具体的に語るのは初めてのことだった。
「最初の勇者様、じゃないんですか」
「はい。今の勇者様が二人目です」
栞はそう言うと、遠くを見るような目をした。
「一人目の時は、右も左も分からないまま、本部の言う通りに動くしかありませんでした。強くなってほしいから、少しでも早く成長してほしいからって、次々に大きな討伐を割り振られて」
「それで」
「わたしも、それが正しいんだと思ってました。勇者様のためになると思って、言われるままにクエストを取り次いでいました」
その声には、これまで聞いたことのない苦さが滲んでいた。
「結局、その方は途中で心が折れてしまって。そのまま、日本に帰ることになりました」
「帰った」
「はい。もう、二度とこちらには来ませんでした」
凪はそれ以上、何も聞けなかった。死んでしまったわけではない。それでも、栞にとってその出来事が、決して軽いものではなかったことは、その表情から十分に伝わってきた。
「だから、今度は違うやり方をしたいと思ってます」
栞は足を止め、まっすぐに凪を見た。
「本部の言いなりにはなりません。無茶な要請には、無茶なりの対処法を探すので」
その言葉に、凪は少しだけ息を吐いた。絶望的な状況ではあったけれど、少なくとも一人で抱え込まされているわけではない。それに、栞にとっても、これは自分自身への誓いのようなものなのだと感じ取れた。
「対処法、あるんですか」
「まだ、ないです」
「ないんですか」
「でも、これから探します」
あっさりとした開き直りに、凪は思わず力が抜けた。深刻な空気の中にも、いつもの栞らしさが確かに残っていた。
その夜、二人は宿の一室で、エンシェントドラゴンについて分かっていることを整理することになった。目撃情報は少なく、はっきりしているのは、北の山間部に棲息していることと、これまでのどんな討伐隊も返り討ちに遭っていることだけだった。
「戦って勝てる相手じゃない、ということですよね」
「はい」
「じゃあ、どうすれば」
その問いに、栞はしばらく黙り込んだ。ただ今度の沈黙は、諦めからくるものではなく、何かを考え抜こうとする真剣な間だった。窓の外には、いつもより暗く沈んだ夜空が広がっていた。




