第17話 勇者様、雨の中で折れる
その日は朝から大雨だった。窓を叩く雨音を聞きながら、凪は宿の食料棚が空になっていることに気づき、小さくため息をついた。
「今日、審問官への報告に行かないといけないので」
栞はそう言うと、少し億劫そうに肩を回してから、朝早くに出かけていった。付き添い人としての務めらしく、こればかりは代われないという。つまり今日は、買い出しも何もかも、一人でこなす必要があるということだった。
宿で古びた傘を借り、凪は雨の中へと足を踏み出した。近くの商店までは、それほど遠くない。それでも一人での外出は、これまでほとんど経験がなかった。
買い物自体は、特に問題なく済んだ。パン、干し肉、少しの果物。両手いっぱいの袋を抱え、凪は店の軒先に置いていた傘立てへと向かう。
自分の傘が、ない。
代わりに、そこには見覚えのない、骨組みばかりが目立つ古い傘が一本、ぽつんと残されていた。
「……なんで」
誰かが間違えたのか、それとも意図的に取り替えられたのか、確かめる術はなかった。仕方なく、その傘を広げてみる。布地はところどころ破れ、まともに雨を防げる状態ではなかった。
骨だけがやけに主張する、この情けない傘を差しながら帰るしかないという事実が、じわじわと凪の心を締めつけていく。
「……もう、いいや」
力の抜けた声が、雨音にかき消されていく。膝から力が抜けていく。
視界が白く塗りつぶされる。
『わっしょいルーレット、スタート!』
紅白の部屋、勝手に回るルーレット、祭り囃子。もう何度目かも数えていない光景を、凪はぼんやりと眺めていた。今回だけは、長めに出てほしいという願いすら浮かばなかった。ただ、この惨めな気分から少しでも早く離れたかった。
カラン、と音を立てて、針は「十六時間」の上で止まった。
『二十時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー!』
声とともに、視界がまた白く染まる。
次に目を開けたとき、凪は自室のベッドの上にいた。時計を見ると、日曜の夜、九時を少し回ったところだった。
濡れた服もボロボロの傘も、もうどこにもない。それでも、あの情けない気分だけはしばらく胸の奥に居座り続けていた。
十六時間という数字を頭の中で計算してみる。日曜の九時から十六時間後は、ちょうど月曜の昼過ぎ、学校の昼休みあたりに当たるはずだった。
「……うそでしょ」
声に出してみても、現実は変わらなかった。翌朝、いつも通り制服に着替え、いつも通り学校へと向かう。教室に着いても、周囲は普段と変わらない様子だった。誰も凪が異世界で傘をすり替えられて泣きそうになっていたことなど知る由もない。
午前中の授業は、内容がほとんど頭に入ってこなかった。慌ただしい日々の中で、いつかノートに日記代わりの走り書きをしたことも凪の記憶からはすっかり抜け落ちていた。
午前中の授業は、内容がほとんど頭に入ってこなかった。慌ただしい日々の中で、いつかノートに日記代わりの走り書きをしたことも、凪の記憶からはすっかり抜け落ちていた。
昼休みが終わり、五限の国語の時間になると、担任が思い出したように声を上げた。
「そういえば、今日ノート提出日だから後ろから回して」
凪は机の中からノートを取り出し、特に気にする様子もなく前へと回した。日記のことなど、頭の片隅にすら浮かんでこなかった。
放課後、帰り支度をしていた凪に担任が声をかけた。
「汐見さん、ちょっといいかな」
「はい」
「これ、君のノートだと思うんだけど」
差し出されたのは、見覚えのある国語のノートだった。凪はそれを受け取りながら、まだ何が起きているのか、まるでピンと来ていなかった。
「今日集めた分、確認してたら、少し気になるページがあって」
担任の声のトーンが、いつもと少し違う。凪の背筋に遅れてじわりと嫌な予感が這い上がってきた。




