第15話 勇者様、井戸で悲鳴を上げる
井戸の中を覗き込みながら、凪は縄梯子を使って慎重に降りていった。水の出が悪い原因は、どうやら底に詰まった落ち葉や小石らしい。
「思ったより、綺麗な水ですね」
底に足がついたところで、凪はそう呟いた。ひんやりとした空気と、かすかな水音だけが響く、静かな空間だった。
油断していたのは、その静けさの中でだった。
詰まった落ち葉をかき分けようと手を伸ばした瞬間、暗がりから何かが跳ねて、勢いよく顔に張りついた。
「――ッ!」
冷たく、ぬめった感触が頬から鼻先にかけて広がる。悲鳴を上げる間もなく、それは自分から離れて水面に着水し、ぴょこんと涼しい顔で浮かんでいた。
カエルだった。
ウサギのような愛らしさも、羽虫のような小ささもない、あの独特のぬめりと質感を顔面いっぱいに感じてしまった衝撃は、これまでのどの失敗よりも生々しかった。
「な、なんで、顔に」
声が震える。全身に鳥肌が立ち、頬の感触がいつまでも消えてくれない。井戸の外から栞の心配そうな声が降ってくる。
「大丈夫ですか」
答えようとしたけれど、言葉にならなかった。膝から力が抜けていく感覚が、いつもより早く訪れる。
勇者が、井戸の底で、カエルに顔面を制圧される。
その事実だけが頭の中をぐるぐると回り続けたまま、凪の心は静かに折れていった。
視界が白く塗りつぶされる。
『わっしょいルーレット、スタート!』
紅白の部屋、勝手に回るルーレット、祭り囃子。もう何度目かも数えていない光景を、凪はぼんやりと眺めていた。
カラン、と音を立てて、針は「二十四時間」の上で止まった。
『二十四時間、決定でーす! それでは、良い現代生活をー!』
声とともに、視界がまた白く染まる。
次に目を開けたとき、凪は自室のベッドの上に横たわっていた。土曜の夜、時刻はさっき離れたままの九時過ぎを示している。
顔の感触を思い出し、凪は思わず自分の頬をごしごしと擦った。カエルのことは、しばらく思い出したくもなかった。
翌日、日曜の昼は家族で買い物に出かけることになっていた。行き先は隣町のホームセンターで、特に代わり映えのない、いつも通りの休日の一幕だった。
帰りの車の中、後部座席に座った凪は、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。買い物袋の中身を確認する母の声、ラジオから流れる知らない曲、父の運転する車の振動。そのすべてが、いつになく心地よい眠気を誘ってくる。
瞼が重くなっていくのを感じながら、凪は抗うこともなくその眠気に身を委ねた。
意識が完全に途切れる直前、視界の端が白く滲み始めたことに、凪は気づかなかった。
次に目を開けたとき、頭上に広がっていたのは車の天井ではなく、井戸のある区画の、見慣れた夜空だった。
地面に横たわったまま、凪はしばらく状況が飲み込めずにいた。隣にしゃがみ込んでいた栞が、ほっとしたように息を吐く。
「戻ってきましたね」
「……はい」
「車の中で寝てたんですか」
「はい……」
なんとも締まらない帰還だった。凪は身体を起こしながら、まだ夢と現の境があやふやな頭で、カエルのいない世界に戻ってこられたことにだけ、ひとまず安堵していた。




