第14話 勇者様、ゴブリンを拒否する
レイが去ったあと、栞はしばらく黙ったまま、その場に立っていた。凪が声をかけようか迷っていると、栞が先に口を開いた。
「凪さんのペースで、ゆっくりでいいので」
「え」
「少しずつ、経験を積んでいきましょうね」
その言い方は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。凪は小さく頷きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。規格外の魔物のことも、先代の勇者のことも、すぐに答えの出る問題ではない。それでも、栞のこの一言があれば、少しだけ前を向ける気がした。
「じゃあ、今日も何か依頼を受けましょうか」
栞はそう言うと、いつもの調子で掲示板の方へと向き直った。しばらく物色したあと、一枚の依頼書を手に取る。
「ゴブリン討伐とか、どうですか」
「え、嫌ですけど」
あまりにも即答すぎる拒否に、栞は目を丸くした。
「まだ言ってないです、理由」
「言われなくても分かります。汚いです」
「レイさんの後だから、少しは違うクエストを選んだ方がいいかと思ったんですけど」
「気持ちは嬉しいですけど、ゴブリンは無理です」
きっぱりとした拒絶に、栞はしばらく凪の顔を見つめたあと、小さく吹き出した。
「相変わらずですね」
「相変わらずでいいんです」
その開き直った態度に、栞は肩を震わせて笑いを堪えていた。深刻な空気を引きずっていた場が、あっという間にいつもの調子を取り戻していく。
「じゃあ、これは」
栞が次に示したのは、街の井戸の点検という、これ以上ないほど地味な依頼だった。凪はその内容に目を通し、満足げに頷く。
「これがいいです」
「汚くないですもんね、井戸」
「そういうことです」
凪の基準は結局、強さでも報酬でもなく、汚いか汚くないかという、あくまで独自のものさしのままだった。栞はその一貫したこだわりに、呆れよりも先に、どこか安心したような笑みを浮かべていた。
井戸のある区画までは、街の中心を抜けて少し歩く必要があった。道すがら、屋台の売り子が威勢よく声を張り上げている。
「勇者様、寄っていってください!」
「あ、あの串焼き」
「今は仕事中です」
栞にあっさりと止められ、凪は名残惜しそうに屋台を振り返りながら歩みを進めた。
「帰りに寄りましょう、逃げませんし、あの店」
「約束ですよ」
「はい、約束です」
軽いやり取りを交わしながら歩くうちに、街並みは次第に人通りの少ない裏路地へと変わっていく。井戸のある区画は、住宅の隙間にひっそりと存在する、古い共同水場だった。
「これが、例の井戸ですか」
「最近、水の出が悪いと苦情が来ているそうです」
覗き込んでみると、井戸の底は薄暗く、湿った土の匂いがかすかに立ち上ってきていた。虫でもなく、ゴブリンでもなく、ただの水路の問題だと分かって、凪は密かに胸を撫で下ろす。
「地味ですけど、意外と好きです。こういうの」
「勇者様は、本当に地味な仕事とご縁がありますね」
「そういう星の下に生まれたんだと思います」
軽口を交わしながら、凪は袖をまくり、井戸の点検に取りかかった。




