表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/49

第9話 客にも腹がある

 西の尾根に、小さな旗が揺れていた。


 笠森城の門上から見れば、距離はある。


 だが、賊のような散り方ではなかった。人影はまとまり、列を乱さずに動いている。槍を持つ者もいる。荷を担ぐ者もいる。


 敵か。


 味方か。


 それとも、弱った城の腹を覗きに来た者か。


 久住宗介には分からなかった。


 ただ、一つだけ分かる。


 人が来るなら、腹も来る。


 それが使者であれ、兵であれ、見物人であれ、食う口が増えることに変わりはない。


「門を開けるな」


 宇平次の声が飛んだ。


「弓は構えよ。ただし、射るな。若の命を待て」


 足軽たちが門の上と土塁に散った。


 まだ疲れている。


 昨夜の火矢騒ぎで眠れていない者も多い。だが、水の場所、槍の置き場、休む者の場所が決まっているため、昨日ほどの混乱はなかった。


 片瀬弥四郎は門の内側に立ち、西の尾根を見ていた。


 若い顔に疲れはある。


 だが、目は逃げていない。


「旗は読めるか」


 弥四郎が問うと、門上の見張りが目を細めた。


「白地に、黒い三つ引きのように見えます。はっきりとは」


 宇平次が低く言った。


「槙尾の衆かもしれませぬ」


「槙尾」


 宗介の頭の奥で、かすかな記憶が動いた。


 自分の知識ではない。


 この身体に残っていた、近隣の地名と人名の欠片。


 笠森から西へ山を二つ越えたあたりの小領。


 槙尾郷。


 そこを押さえる小領主、槙尾左馬助。


 尾張へも、美濃へも、はっきり旗を立てきれぬ半端な場所。


 笠森と同じく、大きな勢力の狭間にある小さな家。


「味方ですか」


 宗介が小声で聞くと、宇平次が鼻を鳴らした。


「昨日の味方が今日の敵になるのが、この辺りだ」


「では、敵ですか」


「今日の敵が明日の味方になるのも、この辺りだ」


 宗介は黙った。


 ひどい答えだ。


 だが、たぶん正しい。


 弥四郎は門の外へ目を向けたまま言った。


「槙尾は南谷の動きを見に来たのだろう。昨夜の火も見えたはずだ」


「笠森が弱ったかどうか、探りに来たとも考えられます」


 宇平次が言う。


「あるいは、賊を追ってきたふりをして、米を求めるか」


 喜兵衛の声だった。


 いつの間にか、蔵から出て門近くまで来ていた。手には板切れを持っている。


 宗介はその板を見た。


 米。


 水。


 薪。


 南谷の預かり米。


 門番の飯。


 怪我人の粥。


 昨日までなら、こうした相手が来れば、とりあえず城内へ入れていたのかもしれない。あるいは、門前で怒鳴り合いになっていたかもしれない。


 だが、今の笠森城には余裕がない。


 入れる人数を間違えれば、飯が減る。


 飯だけでなく、城の弱さも見られる。


「若」


 宗介は弥四郎に声をかけた。


「何だ」


「全員を城へ入れてはいけません」


 宇平次がこちらを見た。


「言われずとも、そのつもりだ」


「はい。ただ、食わせ方も決めておくべきです」


「まだ食わせると決まったわけではないぞ」


「決まっていないから、先に決めます」


 宗介は門の内側を見た。


 水桶は左右。


 竈は奥。


 蔵はさらに奥。


 怪我人と南谷の者がいる場所は、門から見えにくい位置に寄せてある。


 しかし、門を開けて人を入れれば、見えるものは見える。


 焦げ跡。


 疲れた足軽。


 薄い粥。


 蔵へ運んだ米俵。


 隠しても限界はある。


「使者なら、中へ入れるのは二人まで。供は門外。武器は門の外で預けさせる。水は出す。飯は……」


 宗介は一瞬迷った。


 出さない方が米は減らない。


 だが、何も出さなければ、こちらの窮状を悟られるかもしれない。


 客に何も出せない城。


 それは弱く見える。


 出しすぎても弱い。


 食わせ方は、腹だけでなく面子にも関わる。


「飯は、味噌湯と小さな握りを一つずつ」


 喜兵衛が眉を動かした。


「米を出すのか」


「大きな握りではありません。小さいものです。温かい味噌湯をつければ、少なくても粗末に見えにくい」


「見栄か」


「はい」


 宗介は正直に言った。


「ただの見栄ではありません。こちらに段取りがあると見せます。慌てて飯を探すより、決まったものをすぐ出す方が、弱く見えません」


 弥四郎が宗介を見た。


「腹を満たすだけではないのだな」


「客にも腹があります。腹を見れば、心も少し見えます」


「心?」


「空腹で来た者は、飯を見る目が違います。余裕のある者は、すぐには食いつきません。探りに来た者は、飯より蔵や兵を見ます」


 宇平次が腕を組んだ。


「まるで飯で間者を見るような言い方だな」


「間者は分かりません。でも、腹が減っているかどうかは顔に出ます」


 宗介は足軽たちを見た。


 昨日、粥の匂いで目の色が変わった者たちだ。


 腹は嘘をつきにくい。


「よし」


 弥四郎が短く言った。


「門を開ける前に用意せよ。使者二人のみ中へ。供は外。宇平次、門の扱いは任せる」


「はっ」


「喜兵衛、客に出す分を宗介と決めよ。南谷の預かり米には手をつけるな」


「承知」


「宗介」


「はい」


「少なく出して、貧しく見せるな。多く出して、軽く見せるな」


 難しいことを言う。


 宗介は思わず苦笑しそうになった。


 だが、弥四郎の言う通りだった。


「承知しました」


 竈の前に戻ると、おきぬがすでにこちらを見ていた。


「また何か来るのかい」


「客です。たぶん」


「敵じゃなくて?」


「それはまだ分かりません」


「嫌な客だねえ」


「はい」


 宗介は小さな握りを作るよう頼んだ。


 飯は多く使えない。


 だが、小さすぎれば侮られる。


 味噌を少し塗り、炙る。


 香りを立てる。


 量ではなく、温かさと匂いで出す。


「焼くのかい」


「焦がさない程度に。香りを出したいんです」


「手間がかかるね」


「手間で米の少なさをごまかします」


 おきぬは声を殺して笑った。


「それを口に出すんじゃないよ」


「はい」


 味噌湯は薄くした。


 ただし、湯だけではないと分かる程度に味噌を溶く。塩気を少し。具は入れない。具を入れる余裕はない。


 それでも、湯気が立てば人の顔は少し緩む。


 市松が板を抱えて近づいてきた。


「客にも印をつけるのか」


「つける」


「何て書く」


「槙尾。使者二人。味噌湯二椀。握り二つ。供には水だけ」


「供に飯は出さねえのか」


「出さない。出せない」


「怒らねえかな」


「怒るかもしれない」


 市松が嫌そうな顔をした。


「怒ったら?」


「弥四郎様が相手をします」


「お前じゃないのか」


「俺が相手をしたら、たぶん負ける」


 市松は少し笑った。


「正直だな」


「正直にしないと、死ぬ」


 そう言ってから、宗介は自分の声の重さに少し驚いた。


 冗談ではなかった。


 この城では、できないことをできると言う方が怖い。


 やがて、門の外から声が上がった。


「槙尾左馬助が家中、安西新蔵! 笠森の若殿へ申し入れあり!」


 宇平次が門上から答えた。


「用向きを申せ!」


「昨夜の火と騒ぎを見た! 南谷筋に賊が出たと聞く! 見舞いと、様子伺いに参った!」


 見舞い。


 様子伺い。


 どちらも本当かもしれない。


 どちらも嘘かもしれない。


 宗介は味噌湯の椀を見た。


 湯気が細く上がっている。


「使者二人のみ入れ!」


 宇平次が叫ぶ。


「供は門外にて待て! 武器は預かる!」


 門外でざわめきが起きた。


 しばらく押し問答があった。


 だが、やがて門が少しだけ開き、二人の男が入ってきた。


 一人は三十前後。


 痩せているが、目が鋭い。これが安西新蔵だろう。


 もう一人は若い。従者か、書き役か。腰の刀は門外で預けたらしく、帯が少し軽そうに見えた。


 宗介は二人の顔を見た。


 まず、足元。


 泥が乾ききっていない。


 それなりに急いで来た。


 次に、唇。


 乾いている。


 水はあまり飲んでいない。


 そして目。


 門の焦げ跡、足軽の数、竈の煙、蔵の方向。


 順に見ている。


 見舞いだけではない。


 探っている。


 弥四郎は門の内側、少し開けた場所で二人を迎えた。


 若いが、座ってはいない。


 立ったまま、相手を見下ろしすぎず、見上げすぎず。


「笠森城主、片瀬弥四郎である」


 安西新蔵は膝をついた。


「槙尾左馬助が家中、安西新蔵にございます。昨夜の火、また南谷の騒ぎを聞き、主より見舞いを申しつかりました」


「見舞い、痛み入る」


 弥四郎の声は静かだった。


「賊は南谷筋に出た。昨夜、笠森にも火を投げ入れたが、退けた」


「ご無事で何より」


 新蔵は顔を上げた。


「して、南谷の者は」


「城で保護している」


「ほう」


 その一音に、いくつかの意味が混じっていた。


 南谷を抱えたのか。


 米を入れたのか。


 城の腹は持つのか。


 そう聞いているように、宗介には聞こえた。


 弥四郎は余計なことを言わなかった。


「まずは湯を」


 合図を受け、宗介はおきぬに目で伝えた。


 おきぬと南谷の女が、味噌湯と小さな炙り握りを運ぶ。


 椀は欠けていないものを選んだ。


 握りは小さい。


 だが、味噌の香りが立っている。


 新蔵の目が一瞬だけ動いた。


 宗介は見逃さなかった。


 腹が減っている。


 少なくとも、ここまで来る間に満足には食っていない。


「粗末なものだが」


 弥四郎が言うと、新蔵は頭を下げた。


「戦の後に温かきもの、ありがたく頂戴いたします」


 新蔵は椀を取り、ゆっくり飲んだ。


 従者の若者は、少し早く飲んだ。


 熱さに慌てている。


 かなり喉が渇いていたのだろう。


 宗介は市松へ小声で言った。


「若い方、水も少し」


「供には水だけじゃ」


「中の従者には少し。湯を急いで飲むのは喉が渇いてる」


「分かった」


 市松が小さな椀で水を運んだ。


 新蔵はそれを見た。


 目がわずかに細くなる。


 こちらの動きを見ている。


 宗介は余計な顔をしないようにした。


 ただの兵糧方。


 ただの飯を運ぶ者。


 そう見えていればいい。


「南谷の賊は、どこの者と見ておられますか」


 新蔵が聞いた。


「まだ定かではない」


 弥四郎は答えた。


「ただの賊にしては、火を使う。道も見ている。背後に誰かおるやもしれぬ」


「同じ見立てにございます」


「槙尾にも出たか」


「西の沢で荷を奪われた者が二組。ただ、旗は見ておりませぬ」


 宇平次の眉が動いた。


 弥四郎は静かに言った。


「それで、見舞いだけではあるまい」


 新蔵は椀を置いた。


 小さな握りにはまだ手をつけていない。


 腹が減っているはずなのに、すぐ食べない。


 探りの場だと分かっている男だった。


「主、左馬助より申し入れがございます」


「聞こう」


「笠森、槙尾、南谷筋。今、各々が別々に賊へ当たれば、米も人も削られます。そこで、ひとまず道と水場の見張りを合わせませぬか」


 弥四郎は答えなかった。


 宇平次も口を閉じている。


 喜兵衛は蔵の方から見ていた。


 宗介は心の中で言葉を繰り返した。


 道と水場の見張りを合わせる。


 軍事同盟というほどではない。


 だが、道と水場を共有するなら、飯の問題が出る。


 見張りは誰が出す。


 どこで休む。


 飯はどちらが持つ。


 水はどこの井戸を使う。


 薪は誰が集める。


 また、腹だ。


「見張りを合わせるとは、どの道を言う」


 弥四郎が問う。


「西の尾根道、南谷へ降りる曲がり、川向こうの渡し。三か所にございます」


「人は」


「槙尾より六。笠森より六。南谷より案内を二。日を分けて立てる」


 宇平次が低く言った。


「こちらは昨夜の守りで疲れている」


「承知しております」


 新蔵は頭を下げた。


「ゆえに、初日は槙尾が多く出してもよい。ただし、水と休み場を笠森に頼みたい」


 喜兵衛が顔をしかめた。


 宗介も同じ気持ちだった。


 水と休み場。


 言葉は軽い。


 だが、それは飯と薪と場所を食う。


 弥四郎がちらりと宗介を見た。


「兵糧方」


 また、その呼び方だった。


 新蔵の目が一瞬こちらへ来た。


 宗介は胃が重くなるのを感じた。


 使者の前で答えるのか。


 嫌だ。


 だが、呼ばれた以上、黙るわけにもいかない。


「はい」


「西の尾根、南谷の曲がり、川向こうの渡し。三か所へ見張りを置いた場合、何が要る」


 宗介は頭の中で道を思い出した。


 南谷への曲がり。


 荷車が詰まりかけた場所。


 川向こう。


 西の尾根。


 まだ見ていない場所もある。


「まず、水場が近いかどうかです」


 宗介は答えた。


「水場から遠い見張りは、長く立てません。水を運ぶ者が必要になります。次に、雨を避ける場所。濡れれば火が使えず、足も冷える。三つ目に、飯をどうするか」


 新蔵が口元だけで笑った。


「兵糧方らしいお答えだ」


「飯がなければ見張りは戻ります」


「確かに」


「笠森だけで三か所の飯と水を見るのは難しいです。槙尾から出る者の飯は槙尾で持ってください。笠森は水場と休む場所を示す。南谷の者には道を案内してもらう。ただし、南谷の村人へ負担をかけすぎると、村が持ちません」


 新蔵の目が細くなった。


「南谷の負担まで見るのか」


「南谷が空になれば、道も米も失います」


 宗介は答えた。


「見張りを立てるなら、見張りが食う分だけでなく、案内に出た者の家の仕事が止まる分も考えねばなりません」


 宇平次が小さく唸った。


 喜兵衛も腕を組む。


 弥四郎は黙って聞いている。


 新蔵は、今度こそ炙り握りへ手を伸ばした。


 一口で食べず、半分だけ齧る。


 香ばしい味噌の匂いが立った。


「笠森には、面白い者がいる」


 新蔵が言った。


 宗介は嫌な汗をかいた。


「面白い者ではありません。飯のことしか分かりません」


「飯のことが分かる者は、少ない」


 新蔵は残りの握りを食べた。


 やはり腹は減っていた。


 だが、それを隠すだけの分別がある男だった。


「では、こうしてはいかがか」


 新蔵が弥四郎へ向き直る。


「初日の西尾根は槙尾が四、笠森が二。南谷の曲がりは笠森が四、南谷案内が一。渡しは槙尾が二。飯は各々持ち。水場は共有。ただし、汲みすぎぬよう、互いに印を置く」


 印。


 その言葉に宗介は少し驚いた。


 新蔵は市松の板を見ていたのだろう。


 丸と線。


 それを笑わず、利用しようとしている。


 この男は油断できない。


 弥四郎は静かに頷いた。


「悪くない。だが、今日すぐには決めぬ。西尾根と渡しの水場を確かめたい」


「それでよろしゅうございます」


「使者を一度戻せ。槙尾左馬助殿には、笠森は道と水場を合わせる用意あり、と伝えよ。ただし、米は各々で持つ」


「承知」


 新蔵は深く頭を下げた。


「それと」


 弥四郎の声が少し低くなった。


「笠森の蔵を探る必要はない。見舞いなら見舞いとして受ける。探りなら、こちらも探りとして扱う」


 場の空気が張った。


 新蔵はゆっくり顔を上げた。


 一瞬だけ、笑った。


「若いが、よく見ておられる」


「若いからこそ、見えるものもある」


 弥四郎は言った。


 宗介は、その横顔を見た。


 未熟ではある。


 だが、弱くはない。


 新蔵は立ち上がり、もう一度頭を下げた。


「本日は、温かき湯と飯、痛み入ります」


「供には水を出す」


「ありがたく」


 新蔵たちが門へ向かう。


 宗介は市松に合図した。


 門外の供へ、水を回す。


 飯は出さない。


 だが、水は出す。


 供の男たちは椀を受け取り、目に見えて喉を鳴らした。


 やはり渇いていた。


 だが、飯を求めて騒ぐ者はいない。


 槙尾の衆にも、まだ締まりはある。


 門が閉じられた後、宇平次が息を吐いた。


「見舞い半分、探り半分だな」


「半分も見舞いなら上出来でございます」


 喜兵衛が言った。


 弥四郎は宗介を見た。


「どう見た」


 宗介は少し考えた。


「腹は減っていました」


「そこか」


 宇平次が呆れた声を出す。


「ですが、すぐには食いつきませんでした。新蔵という人は、余裕がないのに余裕があるように見せる人です。槙尾も苦しいのかもしれません」


 弥四郎が頷いた。


「続けよ」


「水場と休み場をこちらに頼むと言いました。飯は各々と言い直しましたが、本当は笠森に少し負担させたかったのかもしれません」


 喜兵衛が唸る。


「米を出せとは言わず、水と場所からか」


「水と場所を押さえれば、次に飯の話になります」


 宗介は門の外を見た。


「ただ、道と水場を合わせる話自体は悪くないと思います。南谷の曲がりは危ない。昨日もそこで襲われました。見張りがあれば、荷は動かしやすくなります」


「問題は、見張りにも腹があることか」


 弥四郎が言った。


「はい」


「なら、まず何をする」


「西尾根と渡しの水場を見ます。水があるか、汲みやすいか、夜に行けるか。休む場所があるか。薪があるか。そこを見ずに人を置けば、見張りが飢えるか凍えるか、勝手に村から取るかになります」


 宇平次が嫌そうな顔をした。


「また見に行くのか」


「見ないと決められません」


「お前は本当に、道と水と飯ばかりだな」


「それしか分かりません」


 弥四郎が小さく笑った。


「では、それを見よ。だが一人では行かせぬ。宇平次、兵を二人。喜兵衛、蔵から持たせる干し飯を少し」


「また米が減る」


 喜兵衛がぼやく。


 宗介はすぐに言った。


「見に行く者が途中で腹を減らして戻れば、もっと無駄になります」


「分かっておる」


 喜兵衛は板を叩いた。


「印をつける。持ち出しは少しだ」


 市松が近くで声を上げた。


「俺も行くのか?」


「お前は城で板を書け」


「ちぇ」


「外へ出たいのか」


「ちょっとだけ」


「危ない」


「分かってるよ」


 市松は口を尖らせながら、板に槙尾の印を書き足した。


 白地に黒の三つ引き。


 下手な絵だった。


 だが、それで十分だった。


 昼を過ぎる頃、笠森城の庭にはまた別の緊張が生まれていた。


 敵の夜襲。


 南谷の避難。


 隠し飯。


 そこへ今度は、槙尾との見張りの話。


 城の外へ、少しずつ線が伸びていく。


 宗介は竈の前に戻り、鍋の底を見た。


 粥はまだある。


 だが、減っている。


 米も水も薪も、使えば減る。


 人が増えれば、もっと減る。


 味方が来ても、腹は増える。


 敵が来れば、腹を守らねばならない。


 宗介は炭で汚れた手を見た。


 刀を握る手ではない。


 米を数え、水桶を分け、板に印をつける手だ。


 その手で、どこまでやれるのか。


 分からない。


 分からないが、やるしかない。


 西の尾根には、まだ槙尾の旗が小さく揺れていた。


 その向こうには、さらに大きな勢力の影がある。


 尾張。


 美濃。


 三河。


 今はまだ名だけの遠い影。


 だが、小さな城の米と水の話は、少しずつその影へ触れ始めている。


 宗介は味噌のついた小さな握りを一つ、布に包んだ。


 見張りに出る者の分だ。


 客にも腹がある。


 味方にも腹がある。


 そして、腹を間違えれば、味方は簡単に敵になる。


 その怖さを、宗介はようやく少しだけ知り始めていた。


第9話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ