第9話 客にも腹がある
西の尾根に、小さな旗が揺れていた。
笠森城の門上から見れば、距離はある。
だが、賊のような散り方ではなかった。人影はまとまり、列を乱さずに動いている。槍を持つ者もいる。荷を担ぐ者もいる。
敵か。
味方か。
それとも、弱った城の腹を覗きに来た者か。
久住宗介には分からなかった。
ただ、一つだけ分かる。
人が来るなら、腹も来る。
それが使者であれ、兵であれ、見物人であれ、食う口が増えることに変わりはない。
「門を開けるな」
宇平次の声が飛んだ。
「弓は構えよ。ただし、射るな。若の命を待て」
足軽たちが門の上と土塁に散った。
まだ疲れている。
昨夜の火矢騒ぎで眠れていない者も多い。だが、水の場所、槍の置き場、休む者の場所が決まっているため、昨日ほどの混乱はなかった。
片瀬弥四郎は門の内側に立ち、西の尾根を見ていた。
若い顔に疲れはある。
だが、目は逃げていない。
「旗は読めるか」
弥四郎が問うと、門上の見張りが目を細めた。
「白地に、黒い三つ引きのように見えます。はっきりとは」
宇平次が低く言った。
「槙尾の衆かもしれませぬ」
「槙尾」
宗介の頭の奥で、かすかな記憶が動いた。
自分の知識ではない。
この身体に残っていた、近隣の地名と人名の欠片。
笠森から西へ山を二つ越えたあたりの小領。
槙尾郷。
そこを押さえる小領主、槙尾左馬助。
尾張へも、美濃へも、はっきり旗を立てきれぬ半端な場所。
笠森と同じく、大きな勢力の狭間にある小さな家。
「味方ですか」
宗介が小声で聞くと、宇平次が鼻を鳴らした。
「昨日の味方が今日の敵になるのが、この辺りだ」
「では、敵ですか」
「今日の敵が明日の味方になるのも、この辺りだ」
宗介は黙った。
ひどい答えだ。
だが、たぶん正しい。
弥四郎は門の外へ目を向けたまま言った。
「槙尾は南谷の動きを見に来たのだろう。昨夜の火も見えたはずだ」
「笠森が弱ったかどうか、探りに来たとも考えられます」
宇平次が言う。
「あるいは、賊を追ってきたふりをして、米を求めるか」
喜兵衛の声だった。
いつの間にか、蔵から出て門近くまで来ていた。手には板切れを持っている。
宗介はその板を見た。
米。
水。
薪。
南谷の預かり米。
門番の飯。
怪我人の粥。
昨日までなら、こうした相手が来れば、とりあえず城内へ入れていたのかもしれない。あるいは、門前で怒鳴り合いになっていたかもしれない。
だが、今の笠森城には余裕がない。
入れる人数を間違えれば、飯が減る。
飯だけでなく、城の弱さも見られる。
「若」
宗介は弥四郎に声をかけた。
「何だ」
「全員を城へ入れてはいけません」
宇平次がこちらを見た。
「言われずとも、そのつもりだ」
「はい。ただ、食わせ方も決めておくべきです」
「まだ食わせると決まったわけではないぞ」
「決まっていないから、先に決めます」
宗介は門の内側を見た。
水桶は左右。
竈は奥。
蔵はさらに奥。
怪我人と南谷の者がいる場所は、門から見えにくい位置に寄せてある。
しかし、門を開けて人を入れれば、見えるものは見える。
焦げ跡。
疲れた足軽。
薄い粥。
蔵へ運んだ米俵。
隠しても限界はある。
「使者なら、中へ入れるのは二人まで。供は門外。武器は門の外で預けさせる。水は出す。飯は……」
宗介は一瞬迷った。
出さない方が米は減らない。
だが、何も出さなければ、こちらの窮状を悟られるかもしれない。
客に何も出せない城。
それは弱く見える。
出しすぎても弱い。
食わせ方は、腹だけでなく面子にも関わる。
「飯は、味噌湯と小さな握りを一つずつ」
喜兵衛が眉を動かした。
「米を出すのか」
「大きな握りではありません。小さいものです。温かい味噌湯をつければ、少なくても粗末に見えにくい」
「見栄か」
「はい」
宗介は正直に言った。
「ただの見栄ではありません。こちらに段取りがあると見せます。慌てて飯を探すより、決まったものをすぐ出す方が、弱く見えません」
弥四郎が宗介を見た。
「腹を満たすだけではないのだな」
「客にも腹があります。腹を見れば、心も少し見えます」
「心?」
「空腹で来た者は、飯を見る目が違います。余裕のある者は、すぐには食いつきません。探りに来た者は、飯より蔵や兵を見ます」
宇平次が腕を組んだ。
「まるで飯で間者を見るような言い方だな」
「間者は分かりません。でも、腹が減っているかどうかは顔に出ます」
宗介は足軽たちを見た。
昨日、粥の匂いで目の色が変わった者たちだ。
腹は嘘をつきにくい。
「よし」
弥四郎が短く言った。
「門を開ける前に用意せよ。使者二人のみ中へ。供は外。宇平次、門の扱いは任せる」
「はっ」
「喜兵衛、客に出す分を宗介と決めよ。南谷の預かり米には手をつけるな」
「承知」
「宗介」
「はい」
「少なく出して、貧しく見せるな。多く出して、軽く見せるな」
難しいことを言う。
宗介は思わず苦笑しそうになった。
だが、弥四郎の言う通りだった。
「承知しました」
竈の前に戻ると、おきぬがすでにこちらを見ていた。
「また何か来るのかい」
「客です。たぶん」
「敵じゃなくて?」
「それはまだ分かりません」
「嫌な客だねえ」
「はい」
宗介は小さな握りを作るよう頼んだ。
飯は多く使えない。
だが、小さすぎれば侮られる。
味噌を少し塗り、炙る。
香りを立てる。
量ではなく、温かさと匂いで出す。
「焼くのかい」
「焦がさない程度に。香りを出したいんです」
「手間がかかるね」
「手間で米の少なさをごまかします」
おきぬは声を殺して笑った。
「それを口に出すんじゃないよ」
「はい」
味噌湯は薄くした。
ただし、湯だけではないと分かる程度に味噌を溶く。塩気を少し。具は入れない。具を入れる余裕はない。
それでも、湯気が立てば人の顔は少し緩む。
市松が板を抱えて近づいてきた。
「客にも印をつけるのか」
「つける」
「何て書く」
「槙尾。使者二人。味噌湯二椀。握り二つ。供には水だけ」
「供に飯は出さねえのか」
「出さない。出せない」
「怒らねえかな」
「怒るかもしれない」
市松が嫌そうな顔をした。
「怒ったら?」
「弥四郎様が相手をします」
「お前じゃないのか」
「俺が相手をしたら、たぶん負ける」
市松は少し笑った。
「正直だな」
「正直にしないと、死ぬ」
そう言ってから、宗介は自分の声の重さに少し驚いた。
冗談ではなかった。
この城では、できないことをできると言う方が怖い。
やがて、門の外から声が上がった。
「槙尾左馬助が家中、安西新蔵! 笠森の若殿へ申し入れあり!」
宇平次が門上から答えた。
「用向きを申せ!」
「昨夜の火と騒ぎを見た! 南谷筋に賊が出たと聞く! 見舞いと、様子伺いに参った!」
見舞い。
様子伺い。
どちらも本当かもしれない。
どちらも嘘かもしれない。
宗介は味噌湯の椀を見た。
湯気が細く上がっている。
「使者二人のみ入れ!」
宇平次が叫ぶ。
「供は門外にて待て! 武器は預かる!」
門外でざわめきが起きた。
しばらく押し問答があった。
だが、やがて門が少しだけ開き、二人の男が入ってきた。
一人は三十前後。
痩せているが、目が鋭い。これが安西新蔵だろう。
もう一人は若い。従者か、書き役か。腰の刀は門外で預けたらしく、帯が少し軽そうに見えた。
宗介は二人の顔を見た。
まず、足元。
泥が乾ききっていない。
それなりに急いで来た。
次に、唇。
乾いている。
水はあまり飲んでいない。
そして目。
門の焦げ跡、足軽の数、竈の煙、蔵の方向。
順に見ている。
見舞いだけではない。
探っている。
弥四郎は門の内側、少し開けた場所で二人を迎えた。
若いが、座ってはいない。
立ったまま、相手を見下ろしすぎず、見上げすぎず。
「笠森城主、片瀬弥四郎である」
安西新蔵は膝をついた。
「槙尾左馬助が家中、安西新蔵にございます。昨夜の火、また南谷の騒ぎを聞き、主より見舞いを申しつかりました」
「見舞い、痛み入る」
弥四郎の声は静かだった。
「賊は南谷筋に出た。昨夜、笠森にも火を投げ入れたが、退けた」
「ご無事で何より」
新蔵は顔を上げた。
「して、南谷の者は」
「城で保護している」
「ほう」
その一音に、いくつかの意味が混じっていた。
南谷を抱えたのか。
米を入れたのか。
城の腹は持つのか。
そう聞いているように、宗介には聞こえた。
弥四郎は余計なことを言わなかった。
「まずは湯を」
合図を受け、宗介はおきぬに目で伝えた。
おきぬと南谷の女が、味噌湯と小さな炙り握りを運ぶ。
椀は欠けていないものを選んだ。
握りは小さい。
だが、味噌の香りが立っている。
新蔵の目が一瞬だけ動いた。
宗介は見逃さなかった。
腹が減っている。
少なくとも、ここまで来る間に満足には食っていない。
「粗末なものだが」
弥四郎が言うと、新蔵は頭を下げた。
「戦の後に温かきもの、ありがたく頂戴いたします」
新蔵は椀を取り、ゆっくり飲んだ。
従者の若者は、少し早く飲んだ。
熱さに慌てている。
かなり喉が渇いていたのだろう。
宗介は市松へ小声で言った。
「若い方、水も少し」
「供には水だけじゃ」
「中の従者には少し。湯を急いで飲むのは喉が渇いてる」
「分かった」
市松が小さな椀で水を運んだ。
新蔵はそれを見た。
目がわずかに細くなる。
こちらの動きを見ている。
宗介は余計な顔をしないようにした。
ただの兵糧方。
ただの飯を運ぶ者。
そう見えていればいい。
「南谷の賊は、どこの者と見ておられますか」
新蔵が聞いた。
「まだ定かではない」
弥四郎は答えた。
「ただの賊にしては、火を使う。道も見ている。背後に誰かおるやもしれぬ」
「同じ見立てにございます」
「槙尾にも出たか」
「西の沢で荷を奪われた者が二組。ただ、旗は見ておりませぬ」
宇平次の眉が動いた。
弥四郎は静かに言った。
「それで、見舞いだけではあるまい」
新蔵は椀を置いた。
小さな握りにはまだ手をつけていない。
腹が減っているはずなのに、すぐ食べない。
探りの場だと分かっている男だった。
「主、左馬助より申し入れがございます」
「聞こう」
「笠森、槙尾、南谷筋。今、各々が別々に賊へ当たれば、米も人も削られます。そこで、ひとまず道と水場の見張りを合わせませぬか」
弥四郎は答えなかった。
宇平次も口を閉じている。
喜兵衛は蔵の方から見ていた。
宗介は心の中で言葉を繰り返した。
道と水場の見張りを合わせる。
軍事同盟というほどではない。
だが、道と水場を共有するなら、飯の問題が出る。
見張りは誰が出す。
どこで休む。
飯はどちらが持つ。
水はどこの井戸を使う。
薪は誰が集める。
また、腹だ。
「見張りを合わせるとは、どの道を言う」
弥四郎が問う。
「西の尾根道、南谷へ降りる曲がり、川向こうの渡し。三か所にございます」
「人は」
「槙尾より六。笠森より六。南谷より案内を二。日を分けて立てる」
宇平次が低く言った。
「こちらは昨夜の守りで疲れている」
「承知しております」
新蔵は頭を下げた。
「ゆえに、初日は槙尾が多く出してもよい。ただし、水と休み場を笠森に頼みたい」
喜兵衛が顔をしかめた。
宗介も同じ気持ちだった。
水と休み場。
言葉は軽い。
だが、それは飯と薪と場所を食う。
弥四郎がちらりと宗介を見た。
「兵糧方」
また、その呼び方だった。
新蔵の目が一瞬こちらへ来た。
宗介は胃が重くなるのを感じた。
使者の前で答えるのか。
嫌だ。
だが、呼ばれた以上、黙るわけにもいかない。
「はい」
「西の尾根、南谷の曲がり、川向こうの渡し。三か所へ見張りを置いた場合、何が要る」
宗介は頭の中で道を思い出した。
南谷への曲がり。
荷車が詰まりかけた場所。
川向こう。
西の尾根。
まだ見ていない場所もある。
「まず、水場が近いかどうかです」
宗介は答えた。
「水場から遠い見張りは、長く立てません。水を運ぶ者が必要になります。次に、雨を避ける場所。濡れれば火が使えず、足も冷える。三つ目に、飯をどうするか」
新蔵が口元だけで笑った。
「兵糧方らしいお答えだ」
「飯がなければ見張りは戻ります」
「確かに」
「笠森だけで三か所の飯と水を見るのは難しいです。槙尾から出る者の飯は槙尾で持ってください。笠森は水場と休む場所を示す。南谷の者には道を案内してもらう。ただし、南谷の村人へ負担をかけすぎると、村が持ちません」
新蔵の目が細くなった。
「南谷の負担まで見るのか」
「南谷が空になれば、道も米も失います」
宗介は答えた。
「見張りを立てるなら、見張りが食う分だけでなく、案内に出た者の家の仕事が止まる分も考えねばなりません」
宇平次が小さく唸った。
喜兵衛も腕を組む。
弥四郎は黙って聞いている。
新蔵は、今度こそ炙り握りへ手を伸ばした。
一口で食べず、半分だけ齧る。
香ばしい味噌の匂いが立った。
「笠森には、面白い者がいる」
新蔵が言った。
宗介は嫌な汗をかいた。
「面白い者ではありません。飯のことしか分かりません」
「飯のことが分かる者は、少ない」
新蔵は残りの握りを食べた。
やはり腹は減っていた。
だが、それを隠すだけの分別がある男だった。
「では、こうしてはいかがか」
新蔵が弥四郎へ向き直る。
「初日の西尾根は槙尾が四、笠森が二。南谷の曲がりは笠森が四、南谷案内が一。渡しは槙尾が二。飯は各々持ち。水場は共有。ただし、汲みすぎぬよう、互いに印を置く」
印。
その言葉に宗介は少し驚いた。
新蔵は市松の板を見ていたのだろう。
丸と線。
それを笑わず、利用しようとしている。
この男は油断できない。
弥四郎は静かに頷いた。
「悪くない。だが、今日すぐには決めぬ。西尾根と渡しの水場を確かめたい」
「それでよろしゅうございます」
「使者を一度戻せ。槙尾左馬助殿には、笠森は道と水場を合わせる用意あり、と伝えよ。ただし、米は各々で持つ」
「承知」
新蔵は深く頭を下げた。
「それと」
弥四郎の声が少し低くなった。
「笠森の蔵を探る必要はない。見舞いなら見舞いとして受ける。探りなら、こちらも探りとして扱う」
場の空気が張った。
新蔵はゆっくり顔を上げた。
一瞬だけ、笑った。
「若いが、よく見ておられる」
「若いからこそ、見えるものもある」
弥四郎は言った。
宗介は、その横顔を見た。
未熟ではある。
だが、弱くはない。
新蔵は立ち上がり、もう一度頭を下げた。
「本日は、温かき湯と飯、痛み入ります」
「供には水を出す」
「ありがたく」
新蔵たちが門へ向かう。
宗介は市松に合図した。
門外の供へ、水を回す。
飯は出さない。
だが、水は出す。
供の男たちは椀を受け取り、目に見えて喉を鳴らした。
やはり渇いていた。
だが、飯を求めて騒ぐ者はいない。
槙尾の衆にも、まだ締まりはある。
門が閉じられた後、宇平次が息を吐いた。
「見舞い半分、探り半分だな」
「半分も見舞いなら上出来でございます」
喜兵衛が言った。
弥四郎は宗介を見た。
「どう見た」
宗介は少し考えた。
「腹は減っていました」
「そこか」
宇平次が呆れた声を出す。
「ですが、すぐには食いつきませんでした。新蔵という人は、余裕がないのに余裕があるように見せる人です。槙尾も苦しいのかもしれません」
弥四郎が頷いた。
「続けよ」
「水場と休み場をこちらに頼むと言いました。飯は各々と言い直しましたが、本当は笠森に少し負担させたかったのかもしれません」
喜兵衛が唸る。
「米を出せとは言わず、水と場所からか」
「水と場所を押さえれば、次に飯の話になります」
宗介は門の外を見た。
「ただ、道と水場を合わせる話自体は悪くないと思います。南谷の曲がりは危ない。昨日もそこで襲われました。見張りがあれば、荷は動かしやすくなります」
「問題は、見張りにも腹があることか」
弥四郎が言った。
「はい」
「なら、まず何をする」
「西尾根と渡しの水場を見ます。水があるか、汲みやすいか、夜に行けるか。休む場所があるか。薪があるか。そこを見ずに人を置けば、見張りが飢えるか凍えるか、勝手に村から取るかになります」
宇平次が嫌そうな顔をした。
「また見に行くのか」
「見ないと決められません」
「お前は本当に、道と水と飯ばかりだな」
「それしか分かりません」
弥四郎が小さく笑った。
「では、それを見よ。だが一人では行かせぬ。宇平次、兵を二人。喜兵衛、蔵から持たせる干し飯を少し」
「また米が減る」
喜兵衛がぼやく。
宗介はすぐに言った。
「見に行く者が途中で腹を減らして戻れば、もっと無駄になります」
「分かっておる」
喜兵衛は板を叩いた。
「印をつける。持ち出しは少しだ」
市松が近くで声を上げた。
「俺も行くのか?」
「お前は城で板を書け」
「ちぇ」
「外へ出たいのか」
「ちょっとだけ」
「危ない」
「分かってるよ」
市松は口を尖らせながら、板に槙尾の印を書き足した。
白地に黒の三つ引き。
下手な絵だった。
だが、それで十分だった。
昼を過ぎる頃、笠森城の庭にはまた別の緊張が生まれていた。
敵の夜襲。
南谷の避難。
隠し飯。
そこへ今度は、槙尾との見張りの話。
城の外へ、少しずつ線が伸びていく。
宗介は竈の前に戻り、鍋の底を見た。
粥はまだある。
だが、減っている。
米も水も薪も、使えば減る。
人が増えれば、もっと減る。
味方が来ても、腹は増える。
敵が来れば、腹を守らねばならない。
宗介は炭で汚れた手を見た。
刀を握る手ではない。
米を数え、水桶を分け、板に印をつける手だ。
その手で、どこまでやれるのか。
分からない。
分からないが、やるしかない。
西の尾根には、まだ槙尾の旗が小さく揺れていた。
その向こうには、さらに大きな勢力の影がある。
尾張。
美濃。
三河。
今はまだ名だけの遠い影。
だが、小さな城の米と水の話は、少しずつその影へ触れ始めている。
宗介は味噌のついた小さな握りを一つ、布に包んだ。
見張りに出る者の分だ。
客にも腹がある。
味方にも腹がある。
そして、腹を間違えれば、味方は簡単に敵になる。
その怖さを、宗介はようやく少しだけ知り始めていた。
第9話─了




