第8話 食う口、働く手
南の道から来たのは、南谷の逃げ遅れた者たちだった。
年寄りが三人。
子供が四人。
女が二人。
若い男が一人。
荷は少ない。布に包んだ鍋が一つ、干し飯らしい小袋が二つ、あとは着替えとも呼べぬ布切れだけだった。
門をくぐった時、子供の一人は泣く力もなく、母親の袖を掴んだまま足を引きずっていた。
久住宗介は、その子の顔を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
腹が空いている。
水も足りていない。
怖さで固まっている。
その顔は、昨日の足軽たちと同じだった。
「門の脇に座らせないでください。人が詰まります」
宗介は言った。
「怪我人の場所とは分けます。子供と年寄りは竈の風下を避けて、壁際へ。先に水を少し。粥は熱すぎないように」
おきぬが椀を抱えて走った。
「はいよ。子供はこっちだ。泣くのは後でいいから、まず座りな」
南谷の女衆も動く。
昨日までは避難してきた者だった。
今は、別の避難者を受け入れる側に回っている。
それだけで、城の中の空気が少し変わっていた。
だが、良い方にだけ変わったわけではない。
「また増えたのか」
足軽の一人が低く吐き捨てた。
「食う口ばかり増える」
「俺たちの飯も薄いのに、まだ粥を出すのか」
「南谷の米は城へ入れたんだろう。なら南谷の者が食うのは当然じゃねえのか」
「だが、その米を守るのは俺たちだ」
声は小さい。
だが、宗介には聞こえていた。
そして、それが間違っていないことも分かっていた。
腹が減れば、人は荒れる。
自分の分が削られると思えば、さらに荒れる。
善意だけで城は回らない。
可哀想だから食わせる。
それだけでは、次に足軽が怒る。
足軽が怒れば、門が揺らぐ。
門が揺らげば、南谷の者も城の者も守れない。
「市松」
「何だよ」
市松は板切れを抱えて走ってきた。目の下は黒いが、昨日より少しだけ動きに迷いがない。
「南谷から今入った者を別に印をつけてください。年寄り、子供、女衆、若い男。食わせた粥と水も」
「また板が要る」
「要ります」
「板ばっかり増えるな」
「板がないと、怒鳴り声が増えます」
市松は嫌そうな顔をしながらも、木片を拾って炭を走らせた。
丸。
線。
小さな人の印。
谷を表す印。
字が読めない者にも、何となく分かるように。
宗介はその板を見てから、足軽たちの方へ向かった。
何人かがこちらを見る。
好意的な目ではない。
宗介は足を止めた。
怖い。
敵の槍とは違う怖さだ。
腹を空かせた味方の不満は、じわじわと近づいてくる。正面から斬られるより厄介かもしれない。
「飯を減らすつもりはありません」
宗介は言った。
足軽の一人が鼻で笑った。
「増えた口に食わせて、減らぬわけがあるか」
「一人分ずつ見れば、少し薄くなります」
「ほら見ろ」
「ですが、働く手も増えます」
宗介は南谷から来た若い男を指した。
痩せているが、肩はしっかりしている。農作業をしてきた身体だ。
「あの者は、薪を運べます。水も汲めます。柵の木も運べる。女衆は粥を混ぜ、怪我人を見られる。年寄りも、子供の面倒や縄を結ぶことならできます」
「子供にまで働かせるのか」
「無理な仕事はさせません。けれど、座って震えているだけにすれば、もっと怖くなります。手を動かせる者には、小さくても役を持たせます」
足軽たちは黙った。
完全に納得したわけではない。
だが、ただ食うだけではない、と聞いて少し目の色が変わった。
「食う口を、働く手にします」
宗介は続けた。
「ただし、働けぬ者を追い出す話ではありません。年寄りも子供も、城の邪魔にならぬ場所へ分ける。火に近づけすぎない。水を先に渡す。泣いて動けぬ者が門を塞がないようにする。それも段取りです」
「綺麗に言うな」
足軽の一人が言った。
「腹が減るのは変わらねえ」
「変わりません」
宗介は頷いた。
「だから、誰に何が渡ったか見えるようにします。南谷の者だけ多く食えば、俺が止めます。足軽だけが取れば、それも止めます」
「お前が止めるのか」
「喜兵衛と弥四郎様に止めてもらいます」
そこは正直に言った。
自分一人で足軽を止められるわけがない。
力もない。
武器もない。
殴られれば倒れる。
足軽の一人が、ふっと笑った。
「そこは自分で止めると言わねえのか」
「止められません」
「情けねえな」
「はい」
宗介はあっさり認めた。
妙な空気になった。
苛立ちが、少しだけ抜けた。
その時、宇平次がやってきた。
「何を集まっている。門が暇になったわけではないぞ」
足軽たちが姿勢を正す。
宇平次は宗介を見た。
「揉めていたのか」
「揉める前です」
「なら揉めるな」
「そのために話していました」
宇平次は一瞬、面倒そうな顔をした。
だが、足軽たちの顔を見て、怒鳴るのをやめた。
「飯で揉めるな。揉めるなら、敵が来てからにしろ」
「それは困ります」
宗介が思わず言うと、宇平次が睨んだ。
「冗談だ」
「すみません」
「お前は冗談が通じにくい」
「今は特に」
宇平次は鼻を鳴らした。
それから足軽たちへ言った。
「門の者には飯を回す。水もだ。ただし、二度取りは許さん。食っていない者を先に出せ。腹が足りぬなら俺に言え。勝手に南谷の者を責めるな」
足軽たちは渋々頷いた。
宇平次の言葉は荒いが、効く。
宗介の言葉だけでは足りないところを、埋めてくれる。
それがありがたかった。
昼近くになると、笠森城の庭には新しい動きが生まれていた。
南谷の若い男は、善助と一緒に水を運んでいる。
満杯ではない。
半分より少し多く。
何度も往復するための量だ。
女衆はおきぬの下で、粥を混ぜ、椀を並べ、怪我人の口元へ湯を運ぶ。
年寄りの一人は、震える手で縄を結んでいた。
南谷の米俵につけた二重の縄と、城の米を分けるための縄である。
子供たちは、最初は泣いていた。
だが、市松が炭の印を教えると、一人が興味を示した。
「これは?」
「飯を渡した印」
「これは?」
「水」
「これは?」
「火を消す水。飲んだら怒られる」
市松は偉そうに言った。
つい昨日まで自分も聞いていたくせに、もう教える側の顔をしている。
宗介はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
子供の一人が小さな板に丸を描いた。
歪んだ丸だった。
だが、描いた本人は真剣だった。
その時、喜兵衛が蔵から顔を出した。
「宗介」
「はい」
「来い。見せるものがある」
兵糧蔵の中は、昨日より少しだけましになっていた。
湿った俵は壁際から離され、南谷の九俵には二重縄と板の印がついている。塩の袋は味噌樽から離され、干し飯の袋も口を縛り直していた。
まだ乱れている。
まだ臭いも悪い。
だが、何がどこにあるか、少しだけ見えるようになっていた。
喜兵衛は奥の俵を指した。
「これを開けた」
俵の口が少しほどかれている。
中の米は、ところどころ色が悪かった。
宗介は顔を近づけ、臭いを嗅いだ。
酸っぱい。
完全に腐っているわけではない。
だが、長く置けば周りまで悪くなる。
「これはすぐ使うしかありません」
「やはりか」
「粥にします。味を濃くしすぎない。悪いところは除ける。怪しいものを握り飯にして持たせるのは避けたいです。傷んだ飯を持って歩かせると、腹を壊すかもしれません」
「腹を壊す、か」
喜兵衛は苦い顔をした。
「戦の前に腹を壊されては困る」
「はい」
「だが、捨てるには惜しい」
「捨てません。すぐ使う。今日の夕方までに粥へ回します。ただし、南谷の預かり米とは混ぜないでください」
「混ぜぬ」
喜兵衛は即答した。
その声には、兵糧方としての意地があった。
宗介は少し安心した。
喜兵衛は頑固だ。
だが、守ると決めたものは守る男だ。
「もう一つある」
喜兵衛は蔵の端へ案内した。
そこには、小さな袋が三つ置かれていた。
「これは?」
「誰かが隠しておった」
宗介は眉をひそめた。
「米ですか」
「干し飯と、少しの塩だ」
喜兵衛の声は低かった。
「蔵の裏の隙間に押し込んであった。城の者か、南谷の者かは分からぬ」
宗介の胸が重くなった。
来たか、と思った。
腹が絡めば、人は隠す。
責めれば、もっと隠す。
放っておけば、不公平が広がる。
どう扱うかで、城の空気が決まる。
「弥四郎様に伝えましょう」
「犯人を探すか」
「探さないわけにはいきません。ですが、最初から盗人として吊るすように探すと、皆が黙ります」
「甘いな」
「甘いかもしれません」
宗介は袋を見た。
干し飯。
塩。
どちらも命だ。
「でも、なぜ隠したかを知らないと、また隠されます」
喜兵衛は黙った。
宗介は続けた。
「自分の子に食わせたかったのかもしれない。夜番で足りないと思ったのかもしれない。あるいは、本当に盗むつもりだったのかもしれない。全部同じに扱うと、次が見えません」
「お前は、いちいち面倒だ」
「はい」
「だが、面倒を避けると後で大事になる」
喜兵衛は袋を担いだ。
「若へ持っていく」
弥四郎は、門近くで宇平次と話していた。
南の道に見張りを置くかどうかを相談していたらしい。
喜兵衛が袋を置くと、空気が変わった。
「蔵の裏に隠してありました」
弥四郎は袋を見た。
宇平次の顔が険しくなる。
「盗みか」
「まだ分かりません」
宗介が言うと、宇平次が眉を上げた。
「蔵の裏に隠して、盗みでないと?」
「盗みかもしれません。ですが、今すぐそう決めると、持っている者は隠します」
「持っている者がほかにもいると?」
「いると思います」
宗介は正直に言った。
「腹が不安な時、人は手元に置きたがります。責めても、それは消えません」
「では見逃すのか」
「いいえ。出させます」
「どうやって」
宗介は少し考えた。
現代なら、全員に申告させる。持ち物確認。ルールの説明。罰則。
だが、ここで同じことをそのままやれば反発が出る。
戦国の城で、流れ者が荷を改めるなど無理だ。
「弥四郎様の名で、半刻だけ出す時を作ってください」
宗介は言った。
「隠している飯や塩があれば、今出した者は盗みとはしない。ただし、板に印をつけて、持ち主と理由を聞く。子や年寄りのためなら、こちらで配る形に直す。夜番のためなら、持ち場の飯に組み込む」
「出さなかった者は?」
宇平次が問う。
「半刻を過ぎて見つかれば、盗みとして扱う。そう言えば、出す者は出ます」
「甘いようで、厳しいな」
弥四郎が言った。
「最初に逃げ道を作り、その後は締める」
「はい」
「なぜだ」
「恐怖で隠した者と、悪さで隠した者を分けるためです」
弥四郎は袋を見つめた。
それから、静かに頷いた。
「よい。そうしよう」
宇平次は不満そうだったが、反対はしなかった。
「ただし、俺が立つ」
宇平次は言った。
「お前が言うだけでは舐められる」
「お願いします」
宗介は素直に頭を下げた。
城の庭に、人が集められた。
足軽。
小者。
南谷の者。
女衆。
怪我人を除き、動ける者はほとんど来た。
弥四郎が前に立つ。
若い城主の顔は、疲れていても真っ直ぐだった。
「蔵の裏より、干し飯と塩が出た」
ざわめきが広がった。
誰かが息を呑む。
誰かが目を逸らす。
弥四郎は続けた。
「今より半刻、手元に隠した飯、米、塩がある者は出せ。今出すなら、盗みとはせぬ。理由を聞き、印をつけ、必要なら改めて配る」
宇平次が低く付け加えた。
「半刻を過ぎて見つかれば、盗みだ。容赦はせぬ」
空気が冷えた。
宗介は腹に力を入れた。
出るか。
誰も出ないか。
沈黙が続いた。
やがて、南谷の女が一人、震えながら前へ出た。
布に包んだ小さな干し飯を差し出す。
「子に……食わせようと」
宇平次の眉が動いた。
だが弥四郎は手を上げて止めた。
「名は」
「おつね、と申します」
市松が板に印をつける。
南谷。
女。
子のため。
干し飯一包み。
宗介はおつねへ言った。
「それは預かります。その代わり、子供の粥の印へ入れます。勝手に持つより、毎回渡るようにします」
おつねは泣きそうな顔で頷いた。
次に、小者が一人出た。
「夜番が怖くて……腹が減った時のために」
干し飯が少し。
その次に、足軽が一人。
塩を小袋に入れていた。
「汗をかくと、力が抜けるので」
宗介はその言葉に反応した。
塩。
足軽は感覚で知っている。
汗をかけば塩気が欲しくなる。
なら、これは責めるだけではもったいない。
「門番と柵の修繕に出る者へ、塩を少し混ぜた水か、味噌を薄くした湯を回せますか」
宗介が呟くと、喜兵衛が目を細めた。
「塩を飲ませるのか」
「少しだけです。多すぎると喉が渇きます。汗をかく者へ、薄く」
「また面倒なことを増やす」
「倒れるよりは」
喜兵衛はため息をついた。
「考えておく」
半刻の間に、思ったより多くの小さな隠し飯が出た。
大きな量ではない。
だが、それだけ不安が城の中にあったということだった。
弥四郎は一人ひとりの理由を聞いた。
怒鳴らなかった。
だが、最後に言った。
「隠すな。隠せば、隣が疑う。隣を疑えば、門が揺らぐ。腹が不安なら申せ。全てに応えられるとは言わぬ。だが、隠して城を割ることは許さぬ」
その言葉は、強かった。
若いが、城主の言葉だった。
宗介は静かに息を吐いた。
隠し飯を出させたことで、不安が消えたわけではない。
むしろ、見えてしまった。
城の中に、これだけの恐れが溜まっている。
米があるか。
自分の子は食えるか。
夜番で倒れないか。
足軽だけが損をしないか。
南谷だけが守られすぎていないか。
そういうものが、蔵の裏の隙間に詰まっていた。
夕方、宗介は竈の前に立っていた。
傷みかけの米は、粥に回された。
味噌を少し溶き、塩気を整える。
門番には小さな味噌握りと、薄い味噌湯。
柵の修繕に出る者には、少しだけ塩を効かせた粥。
子供と年寄りには、熱すぎない薄粥。
怪我人には湯。
同じ飯ではない。
だが、不公平に見えすぎないよう、板に印をつける。
面倒だ。
本当に面倒だ。
だが、面倒を省けば、また誰かが隠す。
おきぬが鍋を混ぜながら言った。
「食わせるってのは、大変だねえ」
「はい」
「ただ米を炊けばいいわけじゃない」
「はい」
「面倒な男が来たもんだ」
「すみません」
「褒めてるんだよ」
おきぬはそう言って、少し笑った。
宗介も、ほんの少しだけ笑った。
その時、門の方から宇平次の声が飛んだ。
「宗介! 若が呼んでいる!」
宗介は手を拭き、門の近くへ向かった。
弥四郎は、南の空を見ていた。
その横に、見張りの足軽がいる。
「南の道ではありません」
見張りが言った。
「西の尾根に、人影がありました。旗らしきものも」
宗介は息を呑んだ。
敵か。
昨日の賊か。
それとも別の者か。
弥四郎の表情は硬い。
「旗の色は」
「遠くて分かりませぬ。ただ、賊のような散り方ではありませぬ。まとまって動いております」
宇平次が低く言った。
「小領主の手勢かもしれませぬ」
小領主。
笠森城の周囲にいる、同じような小さな勢力。
助けか。
敵か。
様子見か。
米の匂いを嗅ぎつけた者か。
宗介には分からない。
だが、一つだけ分かった。
城の中をどうにか回し始めた途端、城の外が動き出した。
弥四郎は宗介を見た。
「兵糧方」
初めて、弥四郎がそう呼んだ。
「はい」
「人が増えるかもしれぬ」
宗介の胃が重くなった。
増える。
兵かもしれない。
使者かもしれない。
敵かもしれない。
味方だとしても、腹はある。
「なら、まず数えます」
宗介は言った。
「何人来るのか。食わせるのか、食わせないのか。泊めるのか、追い返すのか。決める前に、数えます」
弥四郎は頷いた。
「そう言うと思った」
西の尾根に、小さな旗が揺れていた。
笠森城の竈からは、薄い粥の湯気が上がっている。
城の腹は、ようやく見え始めたばかりだった。
そこへ、また新しい腹が近づいてくる。
宗介は炭で汚れた手を握った。
食う口は増える。
だが、働く手にもできる。
敵なら、食わせている場合ではない。
味方なら、食わせ方を間違えれば味方でなくなる。
米と水と薪と人。
また、数えるものが増えた。
第8話─了




