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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第7話 失った一俵

 夜が明けた。


 笠森城の空は、薄い灰色だった。


 朝日と呼ぶには弱く、雨雲と呼ぶにはまだ軽い。けれど、城の庭に残った焦げ跡や泥の黒さを見せるには、十分すぎる明るさだった。


 門の内側には、焦げた藁が固まっている。


 土塁の端には、火消しに使った水が流れ、泥と灰が混じっていた。水桶は空になったもの、半分残ったもの、倒れたものがある。竈のそばでは、薄い粥の鍋がまだ温かさを残していた。


 夜を越えた。


 ただ、それだけだった。


 勝ったわけではない。


 敵を討ち果たしたわけでもない。


 門も柵も傷んだまま。足軽たちの目の下には濃い影がある。南谷の村人たちは城の隅で身を寄せ合い、子供のすすり泣きが時折聞こえた。


 久住宗介は、竈の横で膝に手をついていた。


 眠っていない。


 いや、ほんの少しは目を閉じたかもしれない。


 だが、眠ったという感覚はなかった。


 火が消えていないか。


 水桶が空になっていないか。


 怪我人が冷えていないか。


 門の者に粥が届いたか。


 そればかり考えているうちに、夜が明けていた。


「久住」


 喜兵衛の声がした。


 振り向くと、喜兵衛もまた酷い顔をしていた。顔に煤がつき、袖は濡れ、目は赤い。それでも手には板切れを持っている。


「数えるぞ」


 宗介は頷いた。


「はい」


 戦が終わったあとではない。


 夜を越えたあとだ。


 だからこそ、数えなければならない。


 今、何が残っているのか。


 何を失ったのか。


 誰が立てて、誰が立てないのか。


 それを知らなければ、次の一日が始められない。


 喜兵衛は板を地面へ置いた。


「南谷の米、城へ入った九俵。失った一俵。昨夜の粥に使った米が、これだけ」


 板には、拙い字と丸と線が混ざっていた。


 市松がつけた印だ。


 眠気で線は歪んでいる。


 だが、何もないよりずっといい。


「水は」


 宗介が聞くと、市松が井戸の方から走ってきた。


「丸の桶、門の右が空。左が半分。怪我人のところも半分。二本線の桶は一つ空、一つ少し残り」


「飲み水と火消し用を混ぜた者は?」


「一人いた。宇平次殿に怒鳴られてた」


「名前は」


「……佐助」


「責めるためじゃない。次に間違えないために、佐助に印を覚えさせる」


 市松は目を瞬いた。


「怒らねえのか」


「怒って水が増えるなら怒る」


「増えねえな」


「なら、覚えさせる」


 市松は少し笑った。


 疲れた笑いだった。


 それでも、笑いだった。


 喜兵衛が板を指で叩いた。


「薪は減った。乾いた薪が思ったより少ない。湿った薪を無理に使わなんだのはよいが、今日の昼には割って干す場所を作らねばならぬ」


「屋根の下に空きはありますか」


「蔵の脇に少し」


「米俵と離してください。火が怖い」


「分かっておる」


 喜兵衛は不機嫌そうに言った。


 だが、以前のように噛みつく不機嫌ではない。


 疲れと、焦りと、責任の重さから出る声だった。


 宗介は足元の泥を見た。


 板に書かれた数字ではない。


 丸と線。


 米の残り。


 水の残り。


 薪の残り。


 そして、人の残り。


「怪我人は?」


 喜兵衛の顔が曇った。


「昨夜の火矢で大きな怪我はない。南谷から戻る道で肩を斬られた佐吉は、熱が出ておる。ほかは、火消しで手を焼いた者が二人。足を捻った者が一人」


「死者は」


「昨日から数えれば二人。夜だけなら、なしだ」


 なし。


 その一言で、宗介は息を吐きかけた。


 だが、すぐに胸が詰まった。


 昨日から数えれば二人。


 その二人には、名前があったはずだ。


 腹が減っていた顔があったはずだ。


 水を求める声があったはずだ。


 戦国では、それでも少ないと言われるのかもしれない。


 だが、宗介には軽くできなかった。


「名を、板に残せますか」


 喜兵衛がこちらを見た。


「死んだ者のか」


「はい」


「兵糧方の板にか」


「飯を食うはずだった口です」


 喜兵衛は黙った。


 市松も黙った。


 宗介は言い過ぎたかと思った。


 だが、喜兵衛はしばらくして板を市松へ渡した。


「名を聞いておけ」


「へい」


「雑に書くな」


「字は下手だって言ってるだろ」


「下手でもよい。忘れるな」


 市松は板を抱えて走った。


 宗介はその背中を見送った。


 死者を数える。


 それは、米を数えるより重かった。


 その時、城の隅から声が上がった。


「若様はどこじゃ!」


 南谷の庄屋だった。


 昨夜、北の祠へ年寄りと子を逃がす手配をした男である。夜のうちに城へ入ったのだろう。顔色は悪く、髪には藁が絡んでいた。


 その後ろに、善助と太吉がいる。


 太吉は荷車から降りていたが、膝を庇っている。


 庄屋の目は赤かった。


「米はどうなりました」


 宗介は答えようとして、口を閉じた。


 これは自分が先に答えることではない。


 ちょうど片瀬弥四郎が門の方から戻ってきた。鎧は昨夜のまま、頬に煤がついている。若い顔には疲れが濃いが、足取りは乱れていなかった。


「庄屋」


 弥四郎が声をかける。


 庄屋は膝をついた。


「若様。南谷より預けました米、十俵のうち一俵を失ったと聞きました」


「その通りだ」


 弥四郎は逃げなかった。


「道中、賊の襲撃を受けた。荷車を通すため、一俵を落とした。城へ戻ったのは九俵だ」


 庄屋の唇が震えた。


「その一俵で、冬を越す者もおります」


「分かっている」


「本当に、分かっておられますか」


 周囲の空気が硬くなった。


 宇平次が眉を吊り上げた。


 だが弥四郎は、庄屋を叱らなかった。


「分からぬところもある。俺は米を作っておらぬ。田を守る苦しさを、お前たちほど知ってはおらぬ」


 庄屋は顔を上げた。


 宗介も弥四郎を見た。


 若い城主の声は静かだった。


「だが、一俵を軽んじてはおらぬ。失った一俵は、城の帳に残す。南谷から奪ったものにはせぬ。城の判断で失ったものとする」


 弥四郎は市松を呼んだ。


「板を」


 市松が慌てて戻ってくる。


 弥四郎は板に書かれた拙い印を見て、庄屋へ示した。


「ここに残す。紙にも残す。後に城の米が入れば、まず南谷へ返す」


 庄屋はすぐには頷かなかった。


「後とは、いつでござります」


 鋭い問いだった。


 約束だけなら、いくらでもできる。


 宗介は喉の奥が苦くなった。


 現代でも同じだ。


 後で払う。


 後で返す。


 後で何とかする。


 その言葉ほど信用できないものはない。


 弥四郎は一瞬考えた。


 その一瞬が、宗介には大事に見えた。


 適当に言わない。


 できないことを、できるとは言わない。


「今は日を切れぬ」


 弥四郎は言った。


 庄屋の顔が強張る。


「だが、代わりを出す。失った一俵分、南谷の者が城で働く間の飯は城から出す。薪割り、水汲み、柵の修繕、荷運び。働ける者には働いてもらう。その飯は、南谷の預かり米から引かぬ」


 宗介は息を呑んだ。


 それは、悪くない。


 米そのものをすぐ返せないなら、労働の飯を城が持つ。


 南谷の者をただの避難民にしない。


 城を手伝う者にする。


 その分、城と村の間に筋が通る。


 庄屋も黙った。


 完全に満足した顔ではない。


 だが、怒りだけではなくなった。


「……働けぬ者は」


「年寄りと子には、粥を出す。多くは出せぬ。だが、見捨てぬ」


 弥四郎は宗介へ目を向けた。


「できるか」


 急に話が来た。


 宗介は板の印を見た。


 米は多くない。


 水も薪も厳しい。


 南谷の者を丸ごと抱えれば、城の腹はすぐ苦しくなる。


 しかし、働く者に飯を出さなければ、柵は直らない。薪も割れない。井戸の水も回らない。


「できます」


 そう言ってから、すぐに言い直した。


「いえ、無理なくはできません。ですが、決めてやれば回せます」


 弥四郎の口元が少し動いた。


「申せ」


「南谷の者を、まず三つに分けます。働ける者。子と年寄り。怪我や足を痛めた者。働ける者には、仕事ごとに飯を出す。水汲み、薪割り、柵の修繕、荷運び。子と年寄りには薄い粥。怪我人には湯と粥」


「また分けるのか」


 宇平次がぼそりと言った。


「分けないと揉めます」


 宗介は答えた。


「南谷の者だけ多く食えば、城の足軽が怒ります。城の者だけ食えば、南谷が恨みます。だから、誰が何をして、どれだけ食ったか、見えるようにします」


 庄屋が宗介を見た。


「働ける者には働け、と」


「はい」


「年寄りや子には、働けぬから少なく食え、と」


「違います」


 宗介は首を振った。


「年寄りや子には、身体を冷やさない飯を出します。働く者には、身体を動かす飯を出します。同じ飯では、どちらにも足りません」


 庄屋は黙った。


 宗介はさらに続けた。


「それと、南谷の預かり米には手をつけすぎません。城の米と分けます。混ぜたら、あとで分からなくなります」


 喜兵衛が頷いた。


「蔵の奥に、南谷の九俵をまとめた。床から離してある」


「縄の印は」


「二重のままだ」


「なら、そこへ板をかけましょう。南谷預かり米、と」


 市松が顔をしかめた。


「字が多い」


「では、谷の印でもいい。南を表す印と、二重の縄の絵」


「絵かよ」


「夜でも分かる」


「またそれか」


 市松は呆れたように言ったが、板を拾った。


 弥四郎が庄屋へ向き直る。


「これで足りるとは言わぬ」


「……はい」


「だが、城は南谷をただの米蔵とは見ぬ。村が残らねば、城も残らぬ」


 その言葉に、庄屋の目が少し揺れた。


 宗介は弥四郎を見た。


 昨日、自分が言ったことだ。


 だが、弥四郎はそのまま繰り返したのではない。


 若い城主の言葉として、腹に落としている。


 それが分かった。


「承知しました」


 庄屋は深く頭を下げた。


「南谷の者、働ける者は働かせます。どうか、年寄りと子をお見捨てなきよう」


「見捨てぬ」


 弥四郎は短く言った。


 その後、城の庭はまた動き出した。


 南谷の村人たちは、宗介の前に集められた。


 働ける男。


 水を運べる女。


 子を見られる年寄り。


 足を痛めた者。


 荷を担げる若者。


 宗介は一人ずつ見ながら、胸が重くなった。


 人を荷のように分けている気がした。


 嫌な感覚だった。


 だが、分けなければ全員が混ざって動けなくなる。


 現代の現場でも、人の配置を間違えれば事故が起きた。


 得意な者に重すぎる役を押しつけても潰れる。


 苦手な者に無理をさせても壊れる。


 戦国では、それがすぐ命に繋がる。


「善助は水場」


 宗介は言った。


「井戸から門までの道を覚えている。水桶を二つずつ。満杯にしない」


「また半分か」


 善助が言う。


「半分より少し多く。こぼさず運べる分です」


「分かった」


「太吉は荷車の修理を手伝ってください。膝を使いすぎない仕事を」


「俺は歩ける」


「歩けても、走れません」


 太吉は悔しそうに顔を歪めた。


 宗介は少し声を落とした。


「昨夜、荷車の上で米を押さえてくれました。あれがなければ、俵が落ちていました。今は膝を潰さないでください」


 太吉は何も言わなかった。


 ただ、視線を逸らして頷いた。


「女衆は、竈と怪我人の場所を二つに分けます。おきぬの指示を聞いてください。子供は火の近くに寄せすぎない。煙を吸わせない」


 おきぬが腰に手を当てた。


「急に人を押しつけるね」


「すみません」


「まあ、人がいるのは助かるよ。粥を混ぜる手が足りなかった」


 おきぬは南谷の女衆を見た。


「泣くのは後。今は手を動かすよ」


 強い声だった。


 南谷の女たちは顔を見合わせたが、やがて頷いた。


 宇平次は足軽を連れて柵の修繕へ向かった。


 宗介は南谷の若者を数人、そこへ回した。


「槍を持たせるなよ」


 宇平次が言った。


「持たせません。木を運ぶ手です」


「邪魔をしたら怒鳴るぞ」


「怒鳴る前に、どこへ運ぶか教えてください」


「……分かっておる」


 宇平次は面倒そうに言いながら、南谷の若者たちへ指を向けた。


「そこの折れた柵を運べ。立て直す木はこっちだ。勝手に積むな。倒れる」


 言葉は荒いが、仕事は振っている。


 それでいい。


 宗介は胸の中でそう思った。


 昼前になる頃、城の庭は混沌としていた。


 だが、昨夜の混乱とは違う。


 水桶が動く。


 薪が割られる。


 粥が薄く煮られる。


 怪我人に湯が運ばれる。


 柵の前には木が積まれ、蔵の脇には乾かす薪が並ぶ。


 市松の板には、丸と線と下手な絵が増えていく。


 南谷預かり米の印。


 飲み水の印。


 火消し水の印。


 働く者へ渡した味噌握りの印。


 子供へ渡した粥の印。


 汚く、頼りなく、すぐ消えそうな印ばかり。


 それでも、それがあるから揉め事が少し減った。


「俺はまだ食ってねえ」


 足軽が言えば、市松が板を見る。


「門の右はまだだ。待て。今行く」


「南谷の者ばかり食ってるだろ」


「南谷の働き手には小さい握り一つ。足軽には粥と握り。印が違う」


「……そうか」


 完全には納得していない。


 だが、怒鳴り合いにはならない。


 それだけで、宗介には十分だった。


 やがて、弥四郎が蔵の前へ宗介を呼んだ。


 喜兵衛もいる。


 宇平次も、腕を組んで立っていた。


「宗介」


「はい」


「今日から、お前を兵糧方の差配役として置く」


 宗介は一瞬、言葉が出なかった。


「差配役、ですか」


「大きな役ではない」


 弥四郎は言った。


「喜兵衛の下だ。蔵を勝手に動かす権はない。だが、米、水、薪、粥、干し飯、人足の動きについて、見たことを申せ。必要な分け方を示せ」


 喜兵衛が渋い顔で頷いた。


「わしの下だ。勘違いするな」


「はい」


 宗介はすぐに頭を下げた。


 偉くなったわけではない。


 出世でもない。


 むしろ、責任が増えただけだ。


 それでも、得体の知れない流れ者ではなく、役目を与えられた。


 その意味は大きかった。


 宇平次がぼそりと言った。


「門で槍を持つわけではないがな」


「持てません」


 宗介は正直に答えた。


「持てぬ者には、持てぬ者の役がある」


 弥四郎が言った。


「昨夜、それを見た」


 宗介は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 だが、すぐに浮かれてはいけないと思い直した。


 米は減っている。


 水も薪も足りない。


 南谷の者を抱えたことで、城の腹はさらに重くなった。


 差配役などと言われても、できることは限られている。


「弥四郎様」


「何だ」


「まず、今日の夕方までにもう一度数えます。米、水、薪、人。南谷の者を入れた分、昨日の数はもう使えません」


 弥四郎は頷いた。


「任せる」


「それと、南谷へ戻る道を見張る必要があります。敵が米一俵を得て、また来るかもしれません」


 宇平次の顔が険しくなる。


「分かっている。だが人が足りぬ」


「なら、見張りに飯を届けます。見張りが空腹で戻ってくれば、見張りではなくなります」


「また飯か」


「はい」


 宇平次は呆れたように息を吐いた。


 だが、否定はしなかった。


 その時、門の方から声が上がった。


「若! 南の道より、人影!」


 全員が振り向いた。


 宇平次が真っ先に走る。


 宗介も後を追いかけかけて、途中で止まった。


 門へ行っても、戦えない。


 まず確認すべきは、水と飯だ。


「市松!」


「何だよ!」


「門の右と左、水を確認! 見張りに握りが渡っているかも!」


「分かった!」


 市松が走る。


 宗介は竈へ向かった。


「おきぬ、薄い粥を少し取り分けてください。人影が敵でなく、村の逃げ遅れなら冷えているかもしれません」


「敵なら?」


「門の者へ回します」


「無駄がないねえ」


「余裕がないだけです」


 宗介は椀を並べた。


 手は震えていなかった。


 いや、少し震えていた。


 それでも、昨夜ほどではない。


 自分の立つ場所が、ほんの少しだけ分かってきたからかもしれない。


 門の上から、見張りの声が落ちてきた。


「南谷の者らしい! 年寄りと子がいる!」


 城内にざわめきが走る。


 南谷の庄屋が顔を上げた。


 宗介は椀を見た。


 薄い粥。


 少ない米粒。


 でも、温かい。


「粥を門へ」


 宗介は言った。


「先に子供と年寄り。働ける者は水を飲ませてから仕事を聞きます」


 おきぬが頷いた。


 南谷の女衆も、今度はすぐに動いた。


 笠森城の腹は、さらに重くなる。


 けれど、見捨てれば村は空になる。


 村が空になれば、城もいずれ空になる。


 宗介は椀を手に取り、門へ向かった。


 失った一俵は戻らない。


 死んだ二人も戻らない。


 だが、残ったものを数え、分け、届かせることはできる。


 それが今の宗介に与えられた役目だった。


第7話─了

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