第7話 失った一俵
夜が明けた。
笠森城の空は、薄い灰色だった。
朝日と呼ぶには弱く、雨雲と呼ぶにはまだ軽い。けれど、城の庭に残った焦げ跡や泥の黒さを見せるには、十分すぎる明るさだった。
門の内側には、焦げた藁が固まっている。
土塁の端には、火消しに使った水が流れ、泥と灰が混じっていた。水桶は空になったもの、半分残ったもの、倒れたものがある。竈のそばでは、薄い粥の鍋がまだ温かさを残していた。
夜を越えた。
ただ、それだけだった。
勝ったわけではない。
敵を討ち果たしたわけでもない。
門も柵も傷んだまま。足軽たちの目の下には濃い影がある。南谷の村人たちは城の隅で身を寄せ合い、子供のすすり泣きが時折聞こえた。
久住宗介は、竈の横で膝に手をついていた。
眠っていない。
いや、ほんの少しは目を閉じたかもしれない。
だが、眠ったという感覚はなかった。
火が消えていないか。
水桶が空になっていないか。
怪我人が冷えていないか。
門の者に粥が届いたか。
そればかり考えているうちに、夜が明けていた。
「久住」
喜兵衛の声がした。
振り向くと、喜兵衛もまた酷い顔をしていた。顔に煤がつき、袖は濡れ、目は赤い。それでも手には板切れを持っている。
「数えるぞ」
宗介は頷いた。
「はい」
戦が終わったあとではない。
夜を越えたあとだ。
だからこそ、数えなければならない。
今、何が残っているのか。
何を失ったのか。
誰が立てて、誰が立てないのか。
それを知らなければ、次の一日が始められない。
喜兵衛は板を地面へ置いた。
「南谷の米、城へ入った九俵。失った一俵。昨夜の粥に使った米が、これだけ」
板には、拙い字と丸と線が混ざっていた。
市松がつけた印だ。
眠気で線は歪んでいる。
だが、何もないよりずっといい。
「水は」
宗介が聞くと、市松が井戸の方から走ってきた。
「丸の桶、門の右が空。左が半分。怪我人のところも半分。二本線の桶は一つ空、一つ少し残り」
「飲み水と火消し用を混ぜた者は?」
「一人いた。宇平次殿に怒鳴られてた」
「名前は」
「……佐助」
「責めるためじゃない。次に間違えないために、佐助に印を覚えさせる」
市松は目を瞬いた。
「怒らねえのか」
「怒って水が増えるなら怒る」
「増えねえな」
「なら、覚えさせる」
市松は少し笑った。
疲れた笑いだった。
それでも、笑いだった。
喜兵衛が板を指で叩いた。
「薪は減った。乾いた薪が思ったより少ない。湿った薪を無理に使わなんだのはよいが、今日の昼には割って干す場所を作らねばならぬ」
「屋根の下に空きはありますか」
「蔵の脇に少し」
「米俵と離してください。火が怖い」
「分かっておる」
喜兵衛は不機嫌そうに言った。
だが、以前のように噛みつく不機嫌ではない。
疲れと、焦りと、責任の重さから出る声だった。
宗介は足元の泥を見た。
板に書かれた数字ではない。
丸と線。
米の残り。
水の残り。
薪の残り。
そして、人の残り。
「怪我人は?」
喜兵衛の顔が曇った。
「昨夜の火矢で大きな怪我はない。南谷から戻る道で肩を斬られた佐吉は、熱が出ておる。ほかは、火消しで手を焼いた者が二人。足を捻った者が一人」
「死者は」
「昨日から数えれば二人。夜だけなら、なしだ」
なし。
その一言で、宗介は息を吐きかけた。
だが、すぐに胸が詰まった。
昨日から数えれば二人。
その二人には、名前があったはずだ。
腹が減っていた顔があったはずだ。
水を求める声があったはずだ。
戦国では、それでも少ないと言われるのかもしれない。
だが、宗介には軽くできなかった。
「名を、板に残せますか」
喜兵衛がこちらを見た。
「死んだ者のか」
「はい」
「兵糧方の板にか」
「飯を食うはずだった口です」
喜兵衛は黙った。
市松も黙った。
宗介は言い過ぎたかと思った。
だが、喜兵衛はしばらくして板を市松へ渡した。
「名を聞いておけ」
「へい」
「雑に書くな」
「字は下手だって言ってるだろ」
「下手でもよい。忘れるな」
市松は板を抱えて走った。
宗介はその背中を見送った。
死者を数える。
それは、米を数えるより重かった。
その時、城の隅から声が上がった。
「若様はどこじゃ!」
南谷の庄屋だった。
昨夜、北の祠へ年寄りと子を逃がす手配をした男である。夜のうちに城へ入ったのだろう。顔色は悪く、髪には藁が絡んでいた。
その後ろに、善助と太吉がいる。
太吉は荷車から降りていたが、膝を庇っている。
庄屋の目は赤かった。
「米はどうなりました」
宗介は答えようとして、口を閉じた。
これは自分が先に答えることではない。
ちょうど片瀬弥四郎が門の方から戻ってきた。鎧は昨夜のまま、頬に煤がついている。若い顔には疲れが濃いが、足取りは乱れていなかった。
「庄屋」
弥四郎が声をかける。
庄屋は膝をついた。
「若様。南谷より預けました米、十俵のうち一俵を失ったと聞きました」
「その通りだ」
弥四郎は逃げなかった。
「道中、賊の襲撃を受けた。荷車を通すため、一俵を落とした。城へ戻ったのは九俵だ」
庄屋の唇が震えた。
「その一俵で、冬を越す者もおります」
「分かっている」
「本当に、分かっておられますか」
周囲の空気が硬くなった。
宇平次が眉を吊り上げた。
だが弥四郎は、庄屋を叱らなかった。
「分からぬところもある。俺は米を作っておらぬ。田を守る苦しさを、お前たちほど知ってはおらぬ」
庄屋は顔を上げた。
宗介も弥四郎を見た。
若い城主の声は静かだった。
「だが、一俵を軽んじてはおらぬ。失った一俵は、城の帳に残す。南谷から奪ったものにはせぬ。城の判断で失ったものとする」
弥四郎は市松を呼んだ。
「板を」
市松が慌てて戻ってくる。
弥四郎は板に書かれた拙い印を見て、庄屋へ示した。
「ここに残す。紙にも残す。後に城の米が入れば、まず南谷へ返す」
庄屋はすぐには頷かなかった。
「後とは、いつでござります」
鋭い問いだった。
約束だけなら、いくらでもできる。
宗介は喉の奥が苦くなった。
現代でも同じだ。
後で払う。
後で返す。
後で何とかする。
その言葉ほど信用できないものはない。
弥四郎は一瞬考えた。
その一瞬が、宗介には大事に見えた。
適当に言わない。
できないことを、できるとは言わない。
「今は日を切れぬ」
弥四郎は言った。
庄屋の顔が強張る。
「だが、代わりを出す。失った一俵分、南谷の者が城で働く間の飯は城から出す。薪割り、水汲み、柵の修繕、荷運び。働ける者には働いてもらう。その飯は、南谷の預かり米から引かぬ」
宗介は息を呑んだ。
それは、悪くない。
米そのものをすぐ返せないなら、労働の飯を城が持つ。
南谷の者をただの避難民にしない。
城を手伝う者にする。
その分、城と村の間に筋が通る。
庄屋も黙った。
完全に満足した顔ではない。
だが、怒りだけではなくなった。
「……働けぬ者は」
「年寄りと子には、粥を出す。多くは出せぬ。だが、見捨てぬ」
弥四郎は宗介へ目を向けた。
「できるか」
急に話が来た。
宗介は板の印を見た。
米は多くない。
水も薪も厳しい。
南谷の者を丸ごと抱えれば、城の腹はすぐ苦しくなる。
しかし、働く者に飯を出さなければ、柵は直らない。薪も割れない。井戸の水も回らない。
「できます」
そう言ってから、すぐに言い直した。
「いえ、無理なくはできません。ですが、決めてやれば回せます」
弥四郎の口元が少し動いた。
「申せ」
「南谷の者を、まず三つに分けます。働ける者。子と年寄り。怪我や足を痛めた者。働ける者には、仕事ごとに飯を出す。水汲み、薪割り、柵の修繕、荷運び。子と年寄りには薄い粥。怪我人には湯と粥」
「また分けるのか」
宇平次がぼそりと言った。
「分けないと揉めます」
宗介は答えた。
「南谷の者だけ多く食えば、城の足軽が怒ります。城の者だけ食えば、南谷が恨みます。だから、誰が何をして、どれだけ食ったか、見えるようにします」
庄屋が宗介を見た。
「働ける者には働け、と」
「はい」
「年寄りや子には、働けぬから少なく食え、と」
「違います」
宗介は首を振った。
「年寄りや子には、身体を冷やさない飯を出します。働く者には、身体を動かす飯を出します。同じ飯では、どちらにも足りません」
庄屋は黙った。
宗介はさらに続けた。
「それと、南谷の預かり米には手をつけすぎません。城の米と分けます。混ぜたら、あとで分からなくなります」
喜兵衛が頷いた。
「蔵の奥に、南谷の九俵をまとめた。床から離してある」
「縄の印は」
「二重のままだ」
「なら、そこへ板をかけましょう。南谷預かり米、と」
市松が顔をしかめた。
「字が多い」
「では、谷の印でもいい。南を表す印と、二重の縄の絵」
「絵かよ」
「夜でも分かる」
「またそれか」
市松は呆れたように言ったが、板を拾った。
弥四郎が庄屋へ向き直る。
「これで足りるとは言わぬ」
「……はい」
「だが、城は南谷をただの米蔵とは見ぬ。村が残らねば、城も残らぬ」
その言葉に、庄屋の目が少し揺れた。
宗介は弥四郎を見た。
昨日、自分が言ったことだ。
だが、弥四郎はそのまま繰り返したのではない。
若い城主の言葉として、腹に落としている。
それが分かった。
「承知しました」
庄屋は深く頭を下げた。
「南谷の者、働ける者は働かせます。どうか、年寄りと子をお見捨てなきよう」
「見捨てぬ」
弥四郎は短く言った。
その後、城の庭はまた動き出した。
南谷の村人たちは、宗介の前に集められた。
働ける男。
水を運べる女。
子を見られる年寄り。
足を痛めた者。
荷を担げる若者。
宗介は一人ずつ見ながら、胸が重くなった。
人を荷のように分けている気がした。
嫌な感覚だった。
だが、分けなければ全員が混ざって動けなくなる。
現代の現場でも、人の配置を間違えれば事故が起きた。
得意な者に重すぎる役を押しつけても潰れる。
苦手な者に無理をさせても壊れる。
戦国では、それがすぐ命に繋がる。
「善助は水場」
宗介は言った。
「井戸から門までの道を覚えている。水桶を二つずつ。満杯にしない」
「また半分か」
善助が言う。
「半分より少し多く。こぼさず運べる分です」
「分かった」
「太吉は荷車の修理を手伝ってください。膝を使いすぎない仕事を」
「俺は歩ける」
「歩けても、走れません」
太吉は悔しそうに顔を歪めた。
宗介は少し声を落とした。
「昨夜、荷車の上で米を押さえてくれました。あれがなければ、俵が落ちていました。今は膝を潰さないでください」
太吉は何も言わなかった。
ただ、視線を逸らして頷いた。
「女衆は、竈と怪我人の場所を二つに分けます。おきぬの指示を聞いてください。子供は火の近くに寄せすぎない。煙を吸わせない」
おきぬが腰に手を当てた。
「急に人を押しつけるね」
「すみません」
「まあ、人がいるのは助かるよ。粥を混ぜる手が足りなかった」
おきぬは南谷の女衆を見た。
「泣くのは後。今は手を動かすよ」
強い声だった。
南谷の女たちは顔を見合わせたが、やがて頷いた。
宇平次は足軽を連れて柵の修繕へ向かった。
宗介は南谷の若者を数人、そこへ回した。
「槍を持たせるなよ」
宇平次が言った。
「持たせません。木を運ぶ手です」
「邪魔をしたら怒鳴るぞ」
「怒鳴る前に、どこへ運ぶか教えてください」
「……分かっておる」
宇平次は面倒そうに言いながら、南谷の若者たちへ指を向けた。
「そこの折れた柵を運べ。立て直す木はこっちだ。勝手に積むな。倒れる」
言葉は荒いが、仕事は振っている。
それでいい。
宗介は胸の中でそう思った。
昼前になる頃、城の庭は混沌としていた。
だが、昨夜の混乱とは違う。
水桶が動く。
薪が割られる。
粥が薄く煮られる。
怪我人に湯が運ばれる。
柵の前には木が積まれ、蔵の脇には乾かす薪が並ぶ。
市松の板には、丸と線と下手な絵が増えていく。
南谷預かり米の印。
飲み水の印。
火消し水の印。
働く者へ渡した味噌握りの印。
子供へ渡した粥の印。
汚く、頼りなく、すぐ消えそうな印ばかり。
それでも、それがあるから揉め事が少し減った。
「俺はまだ食ってねえ」
足軽が言えば、市松が板を見る。
「門の右はまだだ。待て。今行く」
「南谷の者ばかり食ってるだろ」
「南谷の働き手には小さい握り一つ。足軽には粥と握り。印が違う」
「……そうか」
完全には納得していない。
だが、怒鳴り合いにはならない。
それだけで、宗介には十分だった。
やがて、弥四郎が蔵の前へ宗介を呼んだ。
喜兵衛もいる。
宇平次も、腕を組んで立っていた。
「宗介」
「はい」
「今日から、お前を兵糧方の差配役として置く」
宗介は一瞬、言葉が出なかった。
「差配役、ですか」
「大きな役ではない」
弥四郎は言った。
「喜兵衛の下だ。蔵を勝手に動かす権はない。だが、米、水、薪、粥、干し飯、人足の動きについて、見たことを申せ。必要な分け方を示せ」
喜兵衛が渋い顔で頷いた。
「わしの下だ。勘違いするな」
「はい」
宗介はすぐに頭を下げた。
偉くなったわけではない。
出世でもない。
むしろ、責任が増えただけだ。
それでも、得体の知れない流れ者ではなく、役目を与えられた。
その意味は大きかった。
宇平次がぼそりと言った。
「門で槍を持つわけではないがな」
「持てません」
宗介は正直に答えた。
「持てぬ者には、持てぬ者の役がある」
弥四郎が言った。
「昨夜、それを見た」
宗介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが、すぐに浮かれてはいけないと思い直した。
米は減っている。
水も薪も足りない。
南谷の者を抱えたことで、城の腹はさらに重くなった。
差配役などと言われても、できることは限られている。
「弥四郎様」
「何だ」
「まず、今日の夕方までにもう一度数えます。米、水、薪、人。南谷の者を入れた分、昨日の数はもう使えません」
弥四郎は頷いた。
「任せる」
「それと、南谷へ戻る道を見張る必要があります。敵が米一俵を得て、また来るかもしれません」
宇平次の顔が険しくなる。
「分かっている。だが人が足りぬ」
「なら、見張りに飯を届けます。見張りが空腹で戻ってくれば、見張りではなくなります」
「また飯か」
「はい」
宇平次は呆れたように息を吐いた。
だが、否定はしなかった。
その時、門の方から声が上がった。
「若! 南の道より、人影!」
全員が振り向いた。
宇平次が真っ先に走る。
宗介も後を追いかけかけて、途中で止まった。
門へ行っても、戦えない。
まず確認すべきは、水と飯だ。
「市松!」
「何だよ!」
「門の右と左、水を確認! 見張りに握りが渡っているかも!」
「分かった!」
市松が走る。
宗介は竈へ向かった。
「おきぬ、薄い粥を少し取り分けてください。人影が敵でなく、村の逃げ遅れなら冷えているかもしれません」
「敵なら?」
「門の者へ回します」
「無駄がないねえ」
「余裕がないだけです」
宗介は椀を並べた。
手は震えていなかった。
いや、少し震えていた。
それでも、昨夜ほどではない。
自分の立つ場所が、ほんの少しだけ分かってきたからかもしれない。
門の上から、見張りの声が落ちてきた。
「南谷の者らしい! 年寄りと子がいる!」
城内にざわめきが走る。
南谷の庄屋が顔を上げた。
宗介は椀を見た。
薄い粥。
少ない米粒。
でも、温かい。
「粥を門へ」
宗介は言った。
「先に子供と年寄り。働ける者は水を飲ませてから仕事を聞きます」
おきぬが頷いた。
南谷の女衆も、今度はすぐに動いた。
笠森城の腹は、さらに重くなる。
けれど、見捨てれば村は空になる。
村が空になれば、城もいずれ空になる。
宗介は椀を手に取り、門へ向かった。
失った一俵は戻らない。
死んだ二人も戻らない。
だが、残ったものを数え、分け、届かせることはできる。
それが今の宗介に与えられた役目だった。
第7話─了




