第6話 夜を持たせる
日が落ちると、笠森城は別の城になった。
昼のうちは見えていた土塁の崩れも、木柵の割れも、泥に残った血の跡も、闇に沈む。
だが、見えなくなっただけだった。
壊れたものは壊れたまま。
足りないものは足りないまま。
そして、敵が近くにいるという事実も、消えてはいなかった。
門の外、南の谷の方から、時折、草を踏むような音が聞こえた。
風か。
獣か。
人か。
宗介には分からない。
分からないから、余計に怖かった。
竈の火の前に立っていても、背中が冷える。煙の臭い、味噌の臭い、汗の臭い。そのどれもが、夜の湿った空気に押し潰されていた。
「火を高くするな」
宗介は竈のそばにいた小者へ言った。
「鍋が煮えませぬ」
「煮えなくていい。温かいまま保てればいい。火が高いと、外から場所が分かる」
小者は顔をしかめた。
「そんなことまで気にするのか」
「気にします」
宗介は竈を見た。
赤い火。
黒い鍋。
薄い粥。
この火は命だ。
だが、外から見れば目印にもなる。
火を消せば、飯も湯も止まる。
火を上げすぎれば、敵に竈の場所を教える。
何もかも、ちょうどよくしなければならない。
それが一番難しい。
「細い薪を少しずつ。太い薪は奥に寄せる。煙が出すぎる湿った薪は使わない」
「湿った薪しか残ってなければ」
「その時は、よく乾いた火に少しずつ足す。一度に入れるな」
自分で言いながら、宗介は思った。
なんて地味な話だ。
戦国の夜。
敵が近くにいる。
普通なら、槍や刀や軍略の話になるのだろう。
だが、宗介が気にしているのは、薪の太さと煙の量だった。
けれど、煙が目にしみれば、粥を混ぜる者の手が止まる。
火が消えれば、怪我人に湯を渡せない。
湯がなければ、身体が冷える。
身体が冷えれば、声が弱くなる。
そうやって、城は内側から萎んでいく。
「宗介」
喜兵衛が近づいてきた。
手には板切れを持っている。昼から続けていた印の板だった。
「蔵へ入れた南谷の米は九俵。うち一俵は俵の外が少し濡れておる。明日の朝、開けて見る」
「床には直に置いていませんか」
「置いておらぬ。お前がうるさいからな」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。調子が狂う」
喜兵衛は不機嫌そうに言ったが、声に昨日のような刺はなかった。
宗介は板を覗いた。
南谷の米。
失った一俵。
城に入った九俵。
門へ配った干し飯。
怪我人へ回した粥。
水桶の残り。
まだ粗い。
だが、昨日までは存在しなかった城の腹が、少しずつ形になっていた。
「水桶は」
「門の左右に二つずつ。井戸のそばに三つ。怪我人のところに一つ」
「火消し用は」
喜兵衛が眉を寄せた。
「火消し?」
「敵が火矢を使うかもしれません。水を全部飲み水にすると、火が出た時に困ります」
「火矢か」
喜兵衛の顔が険しくなった。
「この城に火をかけられれば、確かに厄介だ」
「藁、薪、木柵、屋根。燃えるものばかりです」
宗介は周囲を見た。
夜の城は黒い。
だが、その黒の中に、燃えるものが山ほどある。
乾いた藁。
積んだ薪。
仮の屋根。
俵。
木柵。
火が回れば、飯どころではない。
「飲み水と火消しの水を分けましょう。桶に印をつけます。火消し用は門と竈の間。飲み水は門の左右。混ぜない」
「水が足りぬ」
「足りません。だから分けます」
「足りぬから一緒に使うのではないのか」
「一緒にすると、必要な時に空になります」
宗介は井戸の方を見た。
「飲みたい者が火消し用まで飲めば、火が出た時に消せません。火消し用を飲まないように印をつける。飲み水が足りなければ、そちらを汲み足す」
喜兵衛はしばらく黙った。
それから市松を呼んだ。
「おい、市松。桶に印をつけろ。飲む水と、火を消す水だ」
市松が眠そうな顔で来た。
「火を消す水なんて、飲んだら駄目なのか」
「駄目だ」
宗介は言った。
「火が出た時、お前が燃えたくなければ」
市松は顔をしかめた。
「それは嫌だ」
「なら書いて」
「字は下手だぞ」
「丸でいい。飲み水は丸。火消しは二本線」
「本当に丸と線ばっかりだな」
「夜でも分かるから」
市松はぶつぶつ言いながら、桶に炭で印をつけ始めた。
その様子を見ていた宇平次が、門の方から歩いてきた。
「また何か分けているのか」
「水です」
「今度は水まで勝手に分けるか」
「勝手ではありません。喜兵衛と話しました」
宇平次は喜兵衛を見る。
喜兵衛は渋い顔で頷いた。
「火矢に備えるそうだ」
「火矢か」
宇平次は門の外へ視線を向けた。
「賊まがいの連中に、そこまでの用意があるか」
「ないなら、それでいいです」
宗介は答えた。
「あった時に、水がなければ困ります」
「何でも先に悪い方を考えるのだな」
「良い方だけ考えて助かるなら、そうしたいです」
宇平次は鼻を鳴らした。
笑ったのか、呆れたのか、分からない。
「門の者には、味噌握りを回した」
「はい」
「だが、眠そうな奴がいる」
「交代を早められますか」
「人が足りぬ」
「立ったまま寝られるよりはましです」
宇平次の目が鋭くなった。
「分かっている」
声は荒かったが、否定ではなかった。
宗介は言い方を間違えたと思い、少し頭を下げた。
「すみません。戦うことは分かりません。ただ、眠った人は動けません」
「それも戦だ」
宇平次は低く言った。
「見張りが寝れば、門は開く。そんなことは分かっている」
「では、半分ずつ。完全に寝かせられなくても、壁にもたれて目を閉じるだけで違います。粥を薄く一椀。水を少し。槍を置く場所は決めておく。呼ばれた時に探さないように」
「槍の置き場まで決めるのか」
「暗いので」
宇平次は一度空を見上げた。
月は細い。
雲が流れると、城の庭はさらに暗くなる。
「……分かった。門の内側、左の土塁に休ませる。槍は壁へ立てるな。倒れる。横に並べる」
「それがいいと思います」
「お前に言われると腹が立つ」
「すみません」
「だが、そうする」
宇平次は踵を返した。
少しずつだ。
宗介はそう思った。
まだ信用されたわけではない。
認められたわけでもない。
だが、話が通るようになってきた。
それは、昨日粥を配ったからではない。
今日、米を数え、水を置き、荷車を通し、怪我人を戻したからだ。
飯は腹に落ちる。
段取りは、結果でしか信じてもらえない。
その時、南の闇から短い叫び声が上がった。
門の上の見張りが叫ぶ。
「動きあり! 南の坂下!」
城内の空気が一気に張り詰めた。
竈の前にいた小者が鍋を放り出しそうになる。
「鍋を置くな!」
宗介は叫んだ。
「火を消すな! こぼしたら粥がなくなる!」
小者がびくりとし、鍋の柄を握り直す。
門の方では、宇平次が怒鳴っていた。
「槍を取れ! だが走るな! 持ち場を離れるな!」
喜兵衛が蔵の戸へ向かう。
「蔵を閉める! 市松、板を持て!」
「へい!」
宗介は水桶を見た。
飲み水。
火消し。
門の左右。
井戸のそば。
怪我人の場所。
印はついている。
それだけで、暗い中でも少しは迷わない。
南の闇に、松明の火が二つ見えた。
いや、三つ。
低い位置で揺れている。
敵が火を持っている。
宗介の喉が干上がった。
「火消しの桶を門の内へ!」
宗介は叫んだ。
「二本線の桶だ! 飲み水を持っていくな!」
市松がすぐ反応した。
「二本線! 二本線の桶だ!」
小者二人が桶を担いで走る。
その前に、門の上から弓の弦音がした。
一本。
二本。
外で誰かが叫ぶ。
松明の一つが落ちた。
だが、もう一つが木柵の方へ投げ込まれた。
火のついた藁束だった。
土塁の内側へ転がり、乾いた草へ火が移りかける。
「水!」
足軽が叫ぶ。
「二本線!」
市松の声が重なった。
火消しの桶が運ばれる。
水がかけられた。
じゅっと音がし、白い煙が上がる。
一度では消えない。
「踏め! 土をかけろ!」
宇平次が叫ぶ。
足軽が土を蹴り、別の者が濡れた藁を被せる。
宗介は竈の前で、手を握り締めていた。
走り出したい。
だが、自分が行っても邪魔になる。
水桶を運ぶ力も、火の中へ飛び込む度胸も足りない。
できることは、次の桶を指示することだけだった。
「井戸のそばの二本線をもう一つ! 飲み水は動かすな!」
「二本線、もう一つ!」
市松が叫び返す。
その声が、夜の城内を走った。
火は広がらなかった。
小さな煙だけが残り、門の内側に焦げた藁の臭いが漂った。
宗介は膝から力が抜けそうになった。
だが、外の動きは止まっていない。
松明は消えたが、闇の中で人の気配がある。
敵は様子を見ている。
門を燃やせるか。
中が混乱するか。
水がどこにあるか。
そういうことを見ているのかもしれない。
宇平次が門の上へ上がった。
「射るな! 無駄矢を使うな! 姿が見えた者だけだ!」
足軽たちが息を殺す。
宗介は竈の火を見た。
こちらの火も低いまま。
外からは、強く見えないはずだ。
「粥を門へ」
宗介は小声で言った。
おきぬが驚いた顔をする。
「今かい」
「今です。門の者が冷えます。小椀でいい。走らず、こぼさず」
「矢が来たら」
「門の内側だけです。外へは出ない」
おきぬは唇を結んだ。
「分かった」
薄い粥が小椀に分けられる。
量は少ない。
腹いっぱいには程遠い。
だが、湯気がある。
塩気がある。
味噌の匂いがある。
門に立つ足軽たちの手へ、それが渡っていく。
「熱いぞ」
「飲めるだけ飲め」
「槍を置くな」
「分かってる」
短い声が行き交う。
昨日までなら、飯の配り方で揉めていたかもしれない。
今は違う。
誰に渡したか、市松が板に印をつける。
足りない者を探す。
二度取りを叱るより、まだ渡っていない者を先に見つける。
宗介はその板を横目で見た。
丸と線だらけ。
汚い。
だが、城はそれで動いている。
「宗介」
弥四郎の声がした。
振り向くと、若い城主が竈のそばに立っていた。
鎧姿のまま、顔に煤がついている。
「門の火は消えました」
「見た」
「敵はまだ外にいます」
「それも見ている」
弥四郎は竈の低い火を見た。
「お前は、なぜ門へ行かぬ」
責めている声ではなかった。
確かめる声だった。
宗介は正直に答えた。
「行っても、戦えません。火を消す邪魔になるかもしれません。ここで粥と水と桶を見ている方が、まだ役に立ちます」
「怖いからではないのか」
「怖いです」
即答だった。
弥四郎がわずかに目を見開く。
宗介は苦笑した。
「怖くないわけがありません。外で人が叫んで、火が投げ込まれて、矢が飛ぶかもしれないんです。怖いです」
「では、なぜ逃げぬ」
「逃げる道を知りません」
それは半分本音だった。
もう半分は、違う。
「それに、ここで逃げたら、粥が焦げます」
弥四郎は一瞬黙った。
それから、息だけで笑った。
「粥か」
「はい。焦げた分だけ、腹に入りません」
「お前は、本当に飯のことばかりだな」
「飯のことしか、できません」
宗介は竈の火を見た。
「でも、今はそれをやります」
弥四郎はしばらく宗介を見ていた。
若い城主の目に、奇妙なものを見る目はまだある。
だが、それだけではなかった。
「できることを知っている者は、強い」
「俺は強くありません」
「強いとは、槍を振ることだけではない」
弥四郎はそう言って、門の方へ歩き出した。
「粥を切らすな」
「はい」
「水もだ」
「はい」
「火も消すな。だが高くするな」
宗介は少しだけ笑った。
「承知しました」
弥四郎が門へ向かう。
その背中は若い。
まだ細い。
だが、昨日より大きく見えた。
外から、また声が上がった。
今度は近い。
門の外で何かがぶつかる音がした。
丸太か。
石か。
宗介には分からない。
宇平次の怒号。
足軽の叫び。
弓の音。
闇の中で、笠森城が揺れる。
「おきぬ、怪我人の粥は」
「残ってる」
「温め直して。冷えたら飲めません」
「門が先じゃないのかい」
「怪我人が冷えて騒げば、手を取られます。先に温める」
「はいよ」
おきぬはもう反論しなかった。
市松が板を持って駆けてくる。
「門の左、水が減った!」
「飲み水か、火消しか」
「丸の桶!」
「井戸から丸の桶を足す。二本線は動かさない」
「分かった!」
市松が走る。
宗介はその背中を見送った。
子供のような年の少年が、夜の城を走っている。
板と炭を持って。
それが戦場の役目になっている。
おかしな話だった。
だが、必要だった。
やがて、外の音が少し遠ざかった。
門の上から見張りが声を上げる。
「退いた! 南へ下がる!」
城内に、すぐ歓声は上がらなかった。
皆、疑っていた。
また来るのではないか。
これは誘いではないか。
宇平次が叫んだ。
「追うな! 門を開けるな! 持ち場を離れるな!」
弥四郎の声も続く。
「火を確かめよ。怪我人を見よ。水を戻せ。矢を拾えるところだけ拾え。外へ出るな」
命が落ちる。
足軽たちが動く。
宗介は竈の前で、深く息を吐いた。
膝が震えていた。
手も震えていた。
何も斬っていない。
何も倒していない。
それなのに、全身が汗で濡れていた。
喜兵衛が戻ってきた。
袖が濡れ、顔に煤がついている。
「火は広がらなんだ」
「よかった」
「火消しの桶を分けておらねば、少し遅れた」
喜兵衛は渋い顔で言った。
「少しの遅れが、危うかった」
宗介は何も言えなかった。
少し。
その少しで、燃えるか燃えないかが決まる。
死ぬか、生きるかが決まる。
「門の者は」
「一人、腕にかすり傷。大きな怪我はない。だが疲れておる」
「粥を回します」
「薄いのをな」
「はい」
喜兵衛は竈の火を見た。
「薄い粥でも、あるとないでは違う」
それは、喜兵衛が初めて口にした納得だった。
宗介は小さく頷いた。
「違います」
夜はまだ長かった。
敵は一度退いただけ。
南谷の村人も、城の隅で震えている。
蔵には九俵の米が入ったが、一俵は失われた。
水は減った。
薪も減った。
足軽たちは疲れている。
何も解決していない。
それでも、火は消えていない。
粥はまだ温かい。
水桶には印がある。
門の者は、どこに水があるか知っている。
休む者は、槍をどこへ置けばいいか知っている。
それだけで、昨日の夜とは違っていた。
宗介は鍋をかき混ぜた。
薄い粥が、暗い湯気を立てる。
米の粒は少ない。
けれど、腹に落ちれば熱になる。
熱があれば、人はもう少しだけ立てる。
夜を勝つことはできない。
だが、夜を持たせることはできるかもしれない。
宗介はそう思いながら、門へ運ぶ小椀を一つずつ並べた。
第6話─了




