表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

第6話 夜を持たせる

 日が落ちると、笠森城は別の城になった。


 昼のうちは見えていた土塁の崩れも、木柵の割れも、泥に残った血の跡も、闇に沈む。


 だが、見えなくなっただけだった。


 壊れたものは壊れたまま。


 足りないものは足りないまま。


 そして、敵が近くにいるという事実も、消えてはいなかった。


 門の外、南の谷の方から、時折、草を踏むような音が聞こえた。


 風か。


 獣か。


 人か。


 宗介には分からない。


 分からないから、余計に怖かった。


 竈の火の前に立っていても、背中が冷える。煙の臭い、味噌の臭い、汗の臭い。そのどれもが、夜の湿った空気に押し潰されていた。


「火を高くするな」


 宗介は竈のそばにいた小者へ言った。


「鍋が煮えませぬ」


「煮えなくていい。温かいまま保てればいい。火が高いと、外から場所が分かる」


 小者は顔をしかめた。


「そんなことまで気にするのか」


「気にします」


 宗介は竈を見た。


 赤い火。


 黒い鍋。


 薄い粥。


 この火は命だ。


 だが、外から見れば目印にもなる。


 火を消せば、飯も湯も止まる。


 火を上げすぎれば、敵に竈の場所を教える。


 何もかも、ちょうどよくしなければならない。


 それが一番難しい。


「細い薪を少しずつ。太い薪は奥に寄せる。煙が出すぎる湿った薪は使わない」


「湿った薪しか残ってなければ」


「その時は、よく乾いた火に少しずつ足す。一度に入れるな」


 自分で言いながら、宗介は思った。


 なんて地味な話だ。


 戦国の夜。


 敵が近くにいる。


 普通なら、槍や刀や軍略の話になるのだろう。


 だが、宗介が気にしているのは、薪の太さと煙の量だった。


 けれど、煙が目にしみれば、粥を混ぜる者の手が止まる。


 火が消えれば、怪我人に湯を渡せない。


 湯がなければ、身体が冷える。


 身体が冷えれば、声が弱くなる。


 そうやって、城は内側から萎んでいく。


「宗介」


 喜兵衛が近づいてきた。


 手には板切れを持っている。昼から続けていた印の板だった。


「蔵へ入れた南谷の米は九俵。うち一俵は俵の外が少し濡れておる。明日の朝、開けて見る」


「床には直に置いていませんか」


「置いておらぬ。お前がうるさいからな」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。調子が狂う」


 喜兵衛は不機嫌そうに言ったが、声に昨日のような刺はなかった。


 宗介は板を覗いた。


 南谷の米。


 失った一俵。


 城に入った九俵。


 門へ配った干し飯。


 怪我人へ回した粥。


 水桶の残り。


 まだ粗い。


 だが、昨日までは存在しなかった城の腹が、少しずつ形になっていた。


「水桶は」


「門の左右に二つずつ。井戸のそばに三つ。怪我人のところに一つ」


「火消し用は」


 喜兵衛が眉を寄せた。


「火消し?」


「敵が火矢を使うかもしれません。水を全部飲み水にすると、火が出た時に困ります」


「火矢か」


 喜兵衛の顔が険しくなった。


「この城に火をかけられれば、確かに厄介だ」


「藁、薪、木柵、屋根。燃えるものばかりです」


 宗介は周囲を見た。


 夜の城は黒い。


 だが、その黒の中に、燃えるものが山ほどある。


 乾いた藁。


 積んだ薪。


 仮の屋根。


 俵。


 木柵。


 火が回れば、飯どころではない。


「飲み水と火消しの水を分けましょう。桶に印をつけます。火消し用は門と竈の間。飲み水は門の左右。混ぜない」


「水が足りぬ」


「足りません。だから分けます」


「足りぬから一緒に使うのではないのか」


「一緒にすると、必要な時に空になります」


 宗介は井戸の方を見た。


「飲みたい者が火消し用まで飲めば、火が出た時に消せません。火消し用を飲まないように印をつける。飲み水が足りなければ、そちらを汲み足す」


 喜兵衛はしばらく黙った。


 それから市松を呼んだ。


「おい、市松。桶に印をつけろ。飲む水と、火を消す水だ」


 市松が眠そうな顔で来た。


「火を消す水なんて、飲んだら駄目なのか」


「駄目だ」


 宗介は言った。


「火が出た時、お前が燃えたくなければ」


 市松は顔をしかめた。


「それは嫌だ」


「なら書いて」


「字は下手だぞ」


「丸でいい。飲み水は丸。火消しは二本線」


「本当に丸と線ばっかりだな」


「夜でも分かるから」


 市松はぶつぶつ言いながら、桶に炭で印をつけ始めた。


 その様子を見ていた宇平次が、門の方から歩いてきた。


「また何か分けているのか」


「水です」


「今度は水まで勝手に分けるか」


「勝手ではありません。喜兵衛と話しました」


 宇平次は喜兵衛を見る。


 喜兵衛は渋い顔で頷いた。


「火矢に備えるそうだ」


「火矢か」


 宇平次は門の外へ視線を向けた。


「賊まがいの連中に、そこまでの用意があるか」


「ないなら、それでいいです」


 宗介は答えた。


「あった時に、水がなければ困ります」


「何でも先に悪い方を考えるのだな」


「良い方だけ考えて助かるなら、そうしたいです」


 宇平次は鼻を鳴らした。


 笑ったのか、呆れたのか、分からない。


「門の者には、味噌握りを回した」


「はい」


「だが、眠そうな奴がいる」


「交代を早められますか」


「人が足りぬ」


「立ったまま寝られるよりはましです」


 宇平次の目が鋭くなった。


「分かっている」


 声は荒かったが、否定ではなかった。


 宗介は言い方を間違えたと思い、少し頭を下げた。


「すみません。戦うことは分かりません。ただ、眠った人は動けません」


「それも戦だ」


 宇平次は低く言った。


「見張りが寝れば、門は開く。そんなことは分かっている」


「では、半分ずつ。完全に寝かせられなくても、壁にもたれて目を閉じるだけで違います。粥を薄く一椀。水を少し。槍を置く場所は決めておく。呼ばれた時に探さないように」


「槍の置き場まで決めるのか」


「暗いので」


 宇平次は一度空を見上げた。


 月は細い。


 雲が流れると、城の庭はさらに暗くなる。


「……分かった。門の内側、左の土塁に休ませる。槍は壁へ立てるな。倒れる。横に並べる」


「それがいいと思います」


「お前に言われると腹が立つ」


「すみません」


「だが、そうする」


 宇平次は踵を返した。


 少しずつだ。


 宗介はそう思った。


 まだ信用されたわけではない。


 認められたわけでもない。


 だが、話が通るようになってきた。


 それは、昨日粥を配ったからではない。


 今日、米を数え、水を置き、荷車を通し、怪我人を戻したからだ。


 飯は腹に落ちる。


 段取りは、結果でしか信じてもらえない。


 その時、南の闇から短い叫び声が上がった。


 門の上の見張りが叫ぶ。


「動きあり! 南の坂下!」


 城内の空気が一気に張り詰めた。


 竈の前にいた小者が鍋を放り出しそうになる。


「鍋を置くな!」


 宗介は叫んだ。


「火を消すな! こぼしたら粥がなくなる!」


 小者がびくりとし、鍋の柄を握り直す。


 門の方では、宇平次が怒鳴っていた。


「槍を取れ! だが走るな! 持ち場を離れるな!」


 喜兵衛が蔵の戸へ向かう。


「蔵を閉める! 市松、板を持て!」


「へい!」


 宗介は水桶を見た。


 飲み水。


 火消し。


 門の左右。


 井戸のそば。


 怪我人の場所。


 印はついている。


 それだけで、暗い中でも少しは迷わない。


 南の闇に、松明の火が二つ見えた。


 いや、三つ。


 低い位置で揺れている。


 敵が火を持っている。


 宗介の喉が干上がった。


「火消しの桶を門の内へ!」


 宗介は叫んだ。


「二本線の桶だ! 飲み水を持っていくな!」


 市松がすぐ反応した。


「二本線! 二本線の桶だ!」


 小者二人が桶を担いで走る。


 その前に、門の上から弓の弦音がした。


 一本。


 二本。


 外で誰かが叫ぶ。


 松明の一つが落ちた。


 だが、もう一つが木柵の方へ投げ込まれた。


 火のついた藁束だった。


 土塁の内側へ転がり、乾いた草へ火が移りかける。


「水!」


 足軽が叫ぶ。


「二本線!」


 市松の声が重なった。


 火消しの桶が運ばれる。


 水がかけられた。


 じゅっと音がし、白い煙が上がる。


 一度では消えない。


「踏め! 土をかけろ!」


 宇平次が叫ぶ。


 足軽が土を蹴り、別の者が濡れた藁を被せる。


 宗介は竈の前で、手を握り締めていた。


 走り出したい。


 だが、自分が行っても邪魔になる。


 水桶を運ぶ力も、火の中へ飛び込む度胸も足りない。


 できることは、次の桶を指示することだけだった。


「井戸のそばの二本線をもう一つ! 飲み水は動かすな!」


「二本線、もう一つ!」


 市松が叫び返す。


 その声が、夜の城内を走った。


 火は広がらなかった。


 小さな煙だけが残り、門の内側に焦げた藁の臭いが漂った。


 宗介は膝から力が抜けそうになった。


 だが、外の動きは止まっていない。


 松明は消えたが、闇の中で人の気配がある。


 敵は様子を見ている。


 門を燃やせるか。


 中が混乱するか。


 水がどこにあるか。


 そういうことを見ているのかもしれない。


 宇平次が門の上へ上がった。


「射るな! 無駄矢を使うな! 姿が見えた者だけだ!」


 足軽たちが息を殺す。


 宗介は竈の火を見た。


 こちらの火も低いまま。


 外からは、強く見えないはずだ。


「粥を門へ」


 宗介は小声で言った。


 おきぬが驚いた顔をする。


「今かい」


「今です。門の者が冷えます。小椀でいい。走らず、こぼさず」


「矢が来たら」


「門の内側だけです。外へは出ない」


 おきぬは唇を結んだ。


「分かった」


 薄い粥が小椀に分けられる。


 量は少ない。


 腹いっぱいには程遠い。


 だが、湯気がある。


 塩気がある。


 味噌の匂いがある。


 門に立つ足軽たちの手へ、それが渡っていく。


「熱いぞ」


「飲めるだけ飲め」


「槍を置くな」


「分かってる」


 短い声が行き交う。


 昨日までなら、飯の配り方で揉めていたかもしれない。


 今は違う。


 誰に渡したか、市松が板に印をつける。


 足りない者を探す。


 二度取りを叱るより、まだ渡っていない者を先に見つける。


 宗介はその板を横目で見た。


 丸と線だらけ。


 汚い。


 だが、城はそれで動いている。


「宗介」


 弥四郎の声がした。


 振り向くと、若い城主が竈のそばに立っていた。


 鎧姿のまま、顔に煤がついている。


「門の火は消えました」


「見た」


「敵はまだ外にいます」


「それも見ている」


 弥四郎は竈の低い火を見た。


「お前は、なぜ門へ行かぬ」


 責めている声ではなかった。


 確かめる声だった。


 宗介は正直に答えた。


「行っても、戦えません。火を消す邪魔になるかもしれません。ここで粥と水と桶を見ている方が、まだ役に立ちます」


「怖いからではないのか」


「怖いです」


 即答だった。


 弥四郎がわずかに目を見開く。


 宗介は苦笑した。


「怖くないわけがありません。外で人が叫んで、火が投げ込まれて、矢が飛ぶかもしれないんです。怖いです」


「では、なぜ逃げぬ」


「逃げる道を知りません」


 それは半分本音だった。


 もう半分は、違う。


「それに、ここで逃げたら、粥が焦げます」


 弥四郎は一瞬黙った。


 それから、息だけで笑った。


「粥か」


「はい。焦げた分だけ、腹に入りません」


「お前は、本当に飯のことばかりだな」


「飯のことしか、できません」


 宗介は竈の火を見た。


「でも、今はそれをやります」


 弥四郎はしばらく宗介を見ていた。


 若い城主の目に、奇妙なものを見る目はまだある。


 だが、それだけではなかった。


「できることを知っている者は、強い」


「俺は強くありません」


「強いとは、槍を振ることだけではない」


 弥四郎はそう言って、門の方へ歩き出した。


「粥を切らすな」


「はい」


「水もだ」


「はい」


「火も消すな。だが高くするな」


 宗介は少しだけ笑った。


「承知しました」


 弥四郎が門へ向かう。


 その背中は若い。


 まだ細い。


 だが、昨日より大きく見えた。


 外から、また声が上がった。


 今度は近い。


 門の外で何かがぶつかる音がした。


 丸太か。


 石か。


 宗介には分からない。


 宇平次の怒号。


 足軽の叫び。


 弓の音。


 闇の中で、笠森城が揺れる。


「おきぬ、怪我人の粥は」


「残ってる」


「温め直して。冷えたら飲めません」


「門が先じゃないのかい」


「怪我人が冷えて騒げば、手を取られます。先に温める」


「はいよ」


 おきぬはもう反論しなかった。


 市松が板を持って駆けてくる。


「門の左、水が減った!」


「飲み水か、火消しか」


「丸の桶!」


「井戸から丸の桶を足す。二本線は動かさない」


「分かった!」


 市松が走る。


 宗介はその背中を見送った。


 子供のような年の少年が、夜の城を走っている。


 板と炭を持って。


 それが戦場の役目になっている。


 おかしな話だった。


 だが、必要だった。


 やがて、外の音が少し遠ざかった。


 門の上から見張りが声を上げる。


「退いた! 南へ下がる!」


 城内に、すぐ歓声は上がらなかった。


 皆、疑っていた。


 また来るのではないか。


 これは誘いではないか。


 宇平次が叫んだ。


「追うな! 門を開けるな! 持ち場を離れるな!」


 弥四郎の声も続く。


「火を確かめよ。怪我人を見よ。水を戻せ。矢を拾えるところだけ拾え。外へ出るな」


 命が落ちる。


 足軽たちが動く。


 宗介は竈の前で、深く息を吐いた。


 膝が震えていた。


 手も震えていた。


 何も斬っていない。


 何も倒していない。


 それなのに、全身が汗で濡れていた。


 喜兵衛が戻ってきた。


 袖が濡れ、顔に煤がついている。


「火は広がらなんだ」


「よかった」


「火消しの桶を分けておらねば、少し遅れた」


 喜兵衛は渋い顔で言った。


「少しの遅れが、危うかった」


 宗介は何も言えなかった。


 少し。


 その少しで、燃えるか燃えないかが決まる。


 死ぬか、生きるかが決まる。


「門の者は」


「一人、腕にかすり傷。大きな怪我はない。だが疲れておる」


「粥を回します」


「薄いのをな」


「はい」


 喜兵衛は竈の火を見た。


「薄い粥でも、あるとないでは違う」


 それは、喜兵衛が初めて口にした納得だった。


 宗介は小さく頷いた。


「違います」


 夜はまだ長かった。


 敵は一度退いただけ。


 南谷の村人も、城の隅で震えている。


 蔵には九俵の米が入ったが、一俵は失われた。


 水は減った。


 薪も減った。


 足軽たちは疲れている。


 何も解決していない。


 それでも、火は消えていない。


 粥はまだ温かい。


 水桶には印がある。


 門の者は、どこに水があるか知っている。


 休む者は、槍をどこへ置けばいいか知っている。


 それだけで、昨日の夜とは違っていた。


 宗介は鍋をかき混ぜた。


 薄い粥が、暗い湯気を立てる。


 米の粒は少ない。


 けれど、腹に落ちれば熱になる。


 熱があれば、人はもう少しだけ立てる。


 夜を勝つことはできない。


 だが、夜を持たせることはできるかもしれない。


 宗介はそう思いながら、門へ運ぶ小椀を一つずつ並べた。


第6話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ