第5話 十俵の帰り道
南谷村から笠森城へ向かう道は、細かった。
米俵を積んだ荷車が一台。
その前後に足軽が二人。
荷車の横には喜兵衛がつき、少し遅れて久住宗介が歩いていた。
十俵。
たった十俵。
だが、その十俵は、ただの米ではなかった。
南谷村が城へ預けた米であり、笠森城が今夜を越すための米であり、敵に奪われれば城と村の両方が苦しくなる米だった。
荷車の上には、米俵だけを積み上げていない。
宗介が無理に空けさせた隙間がある。
歩けなくなった者を乗せるため。
途中で子供や年寄りが倒れた時、荷を全部降ろさずに済むため。
米だけを見れば、無駄な空きだった。
だが、人も荷の一つだ。
しかも、米俵よりずっと壊れやすい。
「重くなるぞ」
喜兵衛は村を出る前、そう言った。
宗介は答えた。
「動けぬ者が出てから空きを作る方が、もっと遅くなります」
喜兵衛は不満そうだったが、最後には黙った。
今、その空きには太吉が座っている。
南谷村から城へ知らせに走った時、膝を痛めた男だ。本人は歩けると言い張ったが、数町も進まぬうちに顔色が悪くなった。
宗介はすぐに荷車へ乗せた。
「俺は米俵じゃねえ」
太吉は悔しそうに言った。
「米俵より大事です」
宗介がそう返すと、太吉は黙った。
冗談ではなかった。
足を引きずる者が道の真ん中で止まれば、荷車も人も詰まる。詰まれば、敵に追いつかれる。ひとりを乗せることは、全体を進ませることだった。
道の両側は竹藪だった。
夕暮れが近づき、風が葉を鳴らす。その音が、誰かの足音にも聞こえる。宗介は何度も振り向いた。
怖い。
藪の奥から、いつ槍が出てくるか分からない。
刀も槍も使えない自分がここにいる意味は、本当にあるのか。
そう思うたび、荷車の車輪が泥を噛む音が耳に入った。
ぎしり。
ぎしり。
止めるな。
進ませろ。
現場が止まれば、全てが詰まる。
「久住」
喜兵衛が低く言った。
「この先の曲がりで、道が少し狭くなる」
宗介は顔を上げた。
前方の道が、竹藪へ食い込むように曲がっている。片側は浅い溝。もう片側は斜面。荷車が傾けば、米俵が落ちる。
「そこで止めないでください」
「何?」
「止めると、後ろが詰まります。曲がりの前で荷を寄せて、車輪を見ながらゆっくり通します。人は先に通さない。荷車の後ろに固めます」
「人を先に逃がすのではないのか」
「ここで先に行かせると、曲がりの向こうで立ち止まります。荷車が通れなくなる。先に道を見る者だけ一人」
喜兵衛は舌打ちした。
「面倒なことばかり言う」
「道が面倒なんです」
「それはそうだ」
喜兵衛は足軽の一人へ顎をしゃくった。
「佐吉、先を見ろ。曲がりの向こうに何かあれば戻れ。深追いするな」
「へい」
佐吉が槍を低く構え、曲がりの先へ進んだ。
宗介は荷車の前に回った。
「車輪の右を見てください。溝へ落とさないように。押す者は二人で足ります。多すぎると互いに邪魔になります」
村の若者が不満そうに言った。
「こんな時にゆっくりしてられるか」
「急いで落としたら、もっと遅くなります」
「敵が来たらどうする」
「だから、落とさないんです」
宗介の声は、自分でも驚くほど硬かった。
村の若者は言い返しかけたが、喜兵衛が睨むと黙った。
荷車が曲がりに入った。
ぎし、と木が軋む。
牛が鼻を鳴らす。
太吉が荷車の縁を掴み、米俵が揺れないように押さえた。
その時だった。
曲がりの先から、佐吉が戻ってきた。
顔色が変わっている。
「藪の奥に影! 三、いや四!」
場が凍った。
南谷の者たちが息を呑む。
牛が不穏に首を振った。
宗介の膝から力が抜けかけた。
来た。
とうとう来た。
「荷車を止めるな!」
宗介は反射的に叫んだ。
自分の声に、自分が驚いた。
「曲がりを抜ける! ここで止めたら詰まる!」
「敵だぞ!」
若者が叫ぶ。
「止まったら狙われる! 前へ出せ!」
喜兵衛が即座に怒鳴った。
「聞こえたか! 押せ! 車輪を見る者は右! 槍持ちは藪側へ!」
足軽二人が藪側へ出た。
槍先を低く構える。
戦うためというより、飛び出してくる影を少しでも遅らせる構えだった。
荷車がぎしぎしと進む。
宗介は牛の横に立った。
牛の目が血走っている。
「落ち着け、落ち着け」
自分にも言っていた。
落ち着け。
ここで牛が暴れれば、荷車は倒れる。
十俵が道に散る。
太吉が落ちる。
後ろの村人が詰まる。
それだけは駄目だ。
藪が揺れた。
男たちが飛び出してきた。
鎧らしい鎧はない。粗末な胴丸、槍、鉈。賊か、落ち武者崩れか、どこかの小勢力の先触れか。宗介には分からない。
ただ、目だけは分かった。
飢えている目だ。
米を見ている。
「米を置いていけ!」
男の一人が叫んだ。
足軽の佐吉が槍を突き出した。
「寄るな!」
槍と槍がぶつかる音がした。
宗介は腰が引けた。
戦うなど無理だ。
目の前で刃物が動いている。現代で見たどんな危険とも違う。ひと突きで血が出る距離だった。
だが、逃げるわけにもいかない。
「太吉!」
宗介は叫んだ。
「米を押さえろ! 落ちた俵は拾うな!」
「落ちたらどうする!」
「拾うために止まれば、全部取られる!」
太吉の顔が歪んだ。
だが、彼は荷車の縁にしがみつき、米俵を押さえた。
「善助! 後ろの者を散らすな! 道の左へ寄せろ! 右は溝だ!」
「分かった!」
善助が村人たちを怒鳴りつける。
「左へ寄れ! 走るな! 子を抱えろ!」
ひとりの女が悲鳴を上げ、子供を抱いたまま走り出しそうになった。
おきぬではない。南谷の若い母親だった。
宗介はそちらへ駆け寄りかけたが、足が泥に取られた。
「ぐっ!」
膝をついた。
泥が手につく。
情けない。
こんな時に転ぶのか。
知識があっても、道一つまともに走れない。
「何をしている!」
喜兵衛の怒声が飛んだ。
宗介は歯を食いしばって立ち上がった。
「水!」
「何?」
「子供に水を少し! 泣き声で牛が暴れる!」
喜兵衛の目が一瞬だけ丸くなった。
すぐに、彼は荷車の脇に下げていた竹筒を取って、善助へ投げた。
「飲ませろ! 少しだけだ!」
若い母親が子供に水を含ませた。
子供の泣き声が少しだけ弱まる。
牛の首の揺れも、ほんの少し落ち着いた。
その間にも、藪から出た男たちは足軽二人と押し合っていた。
数は多くない。
だが、こちらも少ない。
敵を倒す必要はない。
荷車を通すまで、止めればいい。
「喜兵衛!」
宗介は叫んだ。
「米俵を一つ、見せ荷にできますか!」
「何だと!」
「全部を守るために、一つだけ道端へ転がす! 拾わせて足を止める!」
「ふざけるな! 米を捨てるのか!」
「十俵全部を取られるよりましです!」
喜兵衛の顔が怒りで赤くなった。
宗介も震えた。
自分が何を言っているか分かっている。
村から預かった米だ。
命の米だ。
それを囮にしろと言っている。
正しいかどうかなど分からない。
だが、敵の目は米に向いている。
ならば、その目を一点へ寄せるしかない。
喜兵衛は一瞬、荷車を見た。
太吉を見る。
押している若者を見る。
藪から出てくる男たちを見る。
「……一番外の、縄の短い俵だ!」
喜兵衛が吠えた。
「中身は割れ米だ! 落とせ!」
太吉が目を剥いた。
「本気か!」
「落とせ!」
荷車の端にあった小さめの俵が、道端へ転がった。
どすん、と鈍い音がする。
敵の一人がそちらを見た。
もう一人も目を奪われた。
「米だ!」
その一瞬で、足軽の佐吉が槍を押し返した。
「今だ! 車を出せ!」
喜兵衛が叫んだ。
荷車が曲がりを抜けた。
牛が前へ出る。
車輪が溝をかすめたが、落ちなかった。
宗介は心臓が喉から飛び出すかと思った。
「止まるな! 坂の上まで行け!」
善助が村人を押し出す。
若い者が荷車を押す。
母親が子を抱え、年寄りが杖を突き、太吉が荷車の上で米俵を押さえる。
敵は落ちた俵へ寄った。
だが、一人だけが諦めずに追ってきた。
足軽のもう一人が槍を合わせる。
短い押し合い。
呻き声。
血が一筋、泥へ落ちた。
宗介は息を呑んだ。
斬られたのは、こちらの足軽だった。
肩から血が出ている。
「乗せろ!」
宗介は叫んだ。
「荷車の空きへ! 今乗せろ!」
「米がある!」
「空きを作っただろう!」
喜兵衛がすぐに動いた。
傷を負った足軽を荷車の後ろへ押し上げる。太吉が手を伸ばし、引っ張った。傷の男は呻いたが、何とか乗った。
もし荷車に米を隙間なく積んでいたら。
この男は置いていくしかなかったかもしれない。
その考えに、宗介の背中が冷えた。
「布!」
宗介は自分の袖を掴んだ。
だが、どう切ればいいのか分からない。
刃物も持っていない。
喜兵衛が短刀で布を裂いた。
「押さえろ!」
「血を止めるんです! 強く、でも息ができるように!」
「分かっておる!」
喜兵衛が怒鳴りながらも、傷口を押さえる。
宗介は自分の無力さに歯を噛んだ。
知っていることはある。
だが、治療などできない。
応急の言葉を出すのが精いっぱいだった。
背後では、落とした俵を奪い合う声がした。
敵同士で揉めているのか、怒号が重なる。
その隙に、荷車は坂を上がった。
笠森城の門が見えてきた。
門の上から声が飛ぶ。
「戻ったぞ!」
「荷車だ!」
「怪我人がいる!」
宇平次の声が響いた。
「門の左右を空けろ! 水桶を退かすな! 真ん中を通せ!」
昨日なら、水桶が邪魔になっていたかもしれない。
人が集まり、誰が何をするか分からず、門の前で詰まったかもしれない。
だが今、門の中央は空いていた。
水桶は左右。
人は脇。
荷車は真ん中。
宗介は門をくぐった瞬間、膝から崩れそうになった。
だが、まだ終わっていない。
「怪我人を荷車から降ろすな!」
宗介は叫んだ。
「先に寝かせる場所を作ってから! 下ろしてから場所を探すな!」
おきぬが走ってきた。
「こっちだ! 風の当たらないところを空けてある!」
市松が板切れを抱えている。
「門の水、左が半分切った!」
「右から回せ! 左へ運ぶ者を一人!」
「粥は?」
「鍋は生きてる!」
鍋は生きてる。
その言葉に、宗介は妙なほど救われた。
竈の火は消えていなかった。
薄い粥がまだある。
怪我人に熱いものを飲ませられる。
門に立つ者にも、少しは回せる。
荷車が庭の端へ入る。
米俵が降ろされる。
喜兵衛が数えた。
「一、二、三……九俵」
声が重かった。
宗介は泥だらけの顔を上げた。
「一俵、落としました」
「捨てたのだ」
喜兵衛は言った。
その声は怒っていた。
だが、宗介だけを責める声ではなかった。
「だが、九俵は戻った。人も戻った」
荷車の上で、肩を斬られた足軽が呻いている。
太吉も震えながら座っている。
善助は母親と子供を城内へ入れ、年寄りを座らせていた。
九俵。
一俵を失った。
完全な勝ちではない。
そもそも、勝ちと呼んでいいのかも分からない。
だが、十俵全部を奪われずに済んだ。
荷車は戻った。
怪我人は置き去りにしなかった。
村人も何人か城へ入った。
宗介はそれだけで、胸がいっぱいになった。
そこへ、片瀬弥四郎が来た。
若い城主は、門の外へ目を向け、それから荷車、米俵、怪我人、村人を見た。
「何があった」
喜兵衛が膝をついた。
「道中、藪より賊が出ました。数は多くありませぬ。米一俵を失いましたが、九俵と村人は戻りました。足軽一名、肩に傷」
弥四郎の目が宗介へ向く。
「宗介」
「はい」
「お前の目で申せ」
宗介は唾を飲み込んだ。
「曲がり道で襲われました。道が狭く、そこで止まれば詰まるところでした。荷車を止めずに通し、敵の目を逸らすため、一俵を道端へ落としました」
郎党の一人が眉を吊り上げた。
「米を捨てたのか」
「はい」
宗介は逃げずに言った。
「十俵を守るために、一俵を捨てました」
「勝手なことを」
郎党が言いかけた時、喜兵衛が口を開いた。
「わしが許しました」
場が静まった。
宗介は喜兵衛を見た。
喜兵衛は苦い顔のまま、弥四郎へ頭を下げている。
「米を惜しめば、荷車ごと取られたやもしれませぬ。あそこで一俵を落としたから、敵の足が止まりました」
弥四郎は黙って聞いた。
「荷車に空きを残していたため、怪我人も乗せられました。門も詰まらず通せました。水桶の置き場も、邪魔になりませなんだ」
喜兵衛は一度息を吐いた。
「悔しいが、こやつの段取りが効きました」
その言葉は、宗介の胸に重く落ちた。
褒められたというより、ようやく一つ、仕事として認められた気がした。
弥四郎は荷車の上の怪我人へ近づいた。
「名は」
「佐吉でございます……」
「よく戻った。手当てを受けよ」
「はっ……」
弥四郎はおきぬへ目を向けた。
「粥は」
「あります」
「飲ませよ。湯もだ」
おきぬが頷き、すぐに動いた。
弥四郎は次に善助へ向かった。
「南谷の米、九俵は城で預かる。一俵は失った」
善助は唇を噛んだ。
「……はい」
「だが、その一俵で、お前たちと残りの米が戻った。失った分は、城の帳に記す」
弥四郎は市松を呼んだ。
「書け。南谷より十俵預かり。道中、一俵を失う。城へ九俵。失った一俵は、城の判断によるものとする」
市松は慌てて板に炭を走らせた。
字は拙い。
だが、残る。
善助の顔が変わった。
完全に納得したわけではない。
失った米は戻らない。
それでも、城が「知らぬ」と言わなかったことは、村人たちの胸に残ったはずだった。
弥四郎は宗介を見る。
「一俵を失ったことは軽くない」
「はい」
「だが、人と荷車と九俵が戻ったことも軽くない」
「はい」
「勝ちではないな」
宗介は頷いた。
「はい。勝ちではありません」
「では何だ」
問われて、宗介は少し考えた。
勝利。
撃退。
武功。
そういう言葉ではない。
これはもっと地味で、泥臭くて、誰にも誇れないようなものだ。
だが、命に近い。
「被害を小さくしました」
宗介は答えた。
「全部を守れなかった。でも、全部を失わずに済みました」
弥四郎は静かに頷いた。
「それも戦か」
「たぶん」
宗介は正直に言った。
「俺にも、まだ分かりません」
弥四郎は少しだけ笑った。
「分からぬまま働く者は、嫌いではない」
その時、門の外で遠く鬨の声が上がった。
大きくはない。
だが、近い。
敵は一俵を奪って満足したわけではないのだろう。
川向こうの連中か。
南谷を狙った賊か。
その背後に、もっと大きな勢力の影があるのか。
宗介には分からない。
分からないが、今やることは分かる。
「門の者に水を!」
宗介は声を張った。
「握りを配れ! 怪我人には粥! 蔵へ米を入れる者は喜兵衛の指示を聞け! 俵を湿った床に置くな!」
足軽たちが動く。
昨日ほどの迷いはない。
宇平次が門で叫んだ。
「兵糧方の声を聞け! 飯を持たぬ者は申せ! 水桶は左右だ、真ん中を塞ぐな!」
兵糧方。
その言葉が、宗介の耳に残った。
誰かが自分をそう呼んだ。
刀はない。
槍もない。
武功もない。
けれど、今この小さな城の中で、宗介には立つ場所ができかけている。
煙の中、竈の火が赤く揺れた。
九俵の米が蔵へ運ばれる。
一俵の喪失が、重く胸に残る。
怪我人の呻き声が聞こえる。
村人のすすり泣きも聞こえる。
それでも、城はまだ崩れていない。
腹を満たせば兵は立つ。
水が届けば、門は持つ。
荷を止めなければ、人は戻る。
宗介は泥と汗で汚れた手を握りしめた。
今夜は、まだ終わっていない。
だが、笠森城は昨日より少しだけ、倒れにくくなっていた。
第5話─了




