第七十三話 槙尾の名を盗んだ男
南谷を取り戻した翌朝、久住宗介が最初に見たのは、土間に散らばった麦だった。
踏み潰された粒が泥に混じり、戸口から差し込む朝日に鈍く光っている。壁際には口を裂かれた袋が転がり、竈の灰には誰かが乱暴に火を掻き出した跡が残っていた。
和木原の兵が食い物を探した家である。
家の主は六十を越えた男だった。名を徳蔵という。
宗介が訪ねた時、徳蔵は壊れた戸板を起こそうとしていた。片方の蝶番に当たる木の継ぎ目が割れ、何度立てても戸が傾いてしまう。
「食える麦は、どれほど残りましたか」
宗介が声をかけると、徳蔵は振り返った。
「蔵へ隠しておいた分は無事でした。ここにあったのは、すぐ食うためのものです。持っていかれた分より、踏まれた分の方が惜しい」
老人は泥に混じった麦を見下ろした。
「食わずに捨てるなら、最初から触らねばよかったものを」
宗介は答えられなかった。
和木原の兵にも腹はある。
しかし、腹が減っていることと、人の家を荒らしてよいことは別である。
昨日、笠森の兵は南谷外れから和木原の兵を退かせた。周辺の小領主から来た五人が離脱し、兵庫助の手元に残った兵も分散したため、片瀬弥四郎は少ない兵で谷奥への道を守ることができた。
だが、戦場から敵が去っただけで、暮らしが戻るわけではない。
壊れた戸は直さなければならず、奪われた食い物は戻らない。踏まれた畑も、明日になれば勝手に元どおりになるものではなかった。
善助が家へ入ってきた。
「久住殿。家の様子を見に戻った者たちが、谷口へ集まっております。若様から、今日のうちに損を確かめるよう申しつかりました」
宗介は頷いた。
「まず、今夜寝られない家と、食べ物を失った家を優先しましょう。壊れた道具の数は、その後でも確かめられます」
善助はすぐに動いた。
宗介も続こうとしたが、徳蔵が呼び止めた。
「久住殿。ひとつ、妙なことがありました」
老人は壊れた戸板を脇へ寄せ、土間の隅から細い木片を取り出した。
指二本ほどの幅しかない。
表面には墨で文字が書かれている。
「和木原の兵が落としていったものです。家の中へ入った若い兵が、懐から紙と一緒に出しておりました。去った後に、これだけ残っていた」
宗介は受け取った。
墨の一部は擦れていたが、文字は読める。
そこには、短くこう書かれていた。
『南谷口、槙尾預かり』
宗介は眉を寄せた。
槙尾預かり。
そんな取り決めは聞いたことがない。
南谷の水場と牛渡しについては、以前、槙尾左馬助の前で弥四郎と和木原主膳が話し合っている。
その場で確認されたのは、南谷の渡し役が川の水を見て止めること、笠森の水札を定められた場所で使えること、和木原が笠森札の荷を一方的に賊荷と呼ばないことだった。
南谷の道そのものを槙尾が預かり、和木原へ任せるという話ではなかった。
「徳蔵さん。この木片を持っていた兵は、どんなことを話していましたか」
「ここから先は槙尾の名で改める、と。俺が、これまでそんな話は聞いておらんと言ったら、もう決まったことだと怒鳴りおりました」
宗介は木片を握り直した。
兵が勝手に言ったことかもしれない。
あるいは、和木原の上役がそう教えたのか。
まだ分からない。
だが、放っておける話でもなかった。
「若様へお見せします。徳蔵さんも、あとで見たままを話していただけますか」
「構いませぬ。家を荒らされたことも、槙尾の名を出されたことも、忘れようがありませんからな」
宗介は深く頭を下げた。
老人の目には、まだ怒りが残っていた。
ただ、今はその怒りよりも、散らばった麦を見つめる寂しさの方が強く見えた。
◇
笠森城へ戻ると、思いがけない客が来ていた。
川向こうの小領主、早瀬家の使いである。
名を草間新兵衛といった。
四十を越えた、日に焼けた顔の武士だった。右の頬には古い傷があり、槍を握ってきた者らしい節くれ立った手をしている。
宗介は、その顔に見覚えがあった。
牛渡しで和木原の兵と向き合った時、後ろに立つ五人を率いていた男である。
先日、南谷から退いたのも、この男たちだった。
草間は片瀬弥四郎の前で深く頭を下げた。
「早瀬家家臣、草間新兵衛にございます。先日は、我らを追わずに帰していただき、ありがとうございました」
弥四郎は落ち着いた声で答えた。
「お前たちは笠森へ攻め込むために来たのではないと言った。その言葉どおり、南谷で村の者へ槍を向けなかった。追う理由はなかった」
「そのことを、我が主にも申し上げました」
草間は懐から折り畳んだ書付を取り出した。
「本日は、これを見ていただきたく参りました」
弥四郎が受け取り、開く。
しばらく文字を追っていた若い城主の表情が、徐々に険しくなっていった。
「草間。この書付は、和木原から早瀬家へ届いたものに相違ないな」
「はい。奥田弥五郎殿の使いが持参いたしました。我が主は、この書付を受けて槍持ち五人を出したのでございます」
弥四郎は宗介へ紙を渡した。
そこには、周辺の小領主へ兵を求める理由が記されていた。
川筋の警固。
賊荷の取り締まり。
商人の往来を守るための協力。
ここまでは以前から聞いていた話と変わらない。
問題は、その後だった。
『槙尾左馬助殿の御裁定により、笠森が設けた水札ならびに牛渡しの差配は改められ、川筋の警固は和木原主膳が預かる』
宗介は、思わず紙から顔を上げた。
「これは……槙尾で決めたことと違います」
弥四郎が頷いた。
「違う。左馬助殿は、笠森の水札を認めた。牛渡しを止める判断も、小六へ任せると確認された。和木原が川筋を預かるなど、一度も言われておらぬ」
宇平次が書付を覗き込み、顔を険しくした。
「和木原は、槙尾の裁定が変わったと触れ回っていたのか」
草間は深く頭を下げた。
「我らはそう聞かされておりました。槙尾の裁定に従わぬ笠森が川筋を乱しているゆえ、警固の兵を出すのだと」
宗介の背筋が冷たくなった。
ようやく分かった。
あの五人は、最初から笠森を攻めるつもりで来たのではない。
槙尾が決めた取り決めに従わない者を抑えるため、兵を出したつもりだったのだ。
ところが、実際に牛渡しへ来てみれば、笠森は槙尾の裁定を守っている。
南谷へ進んでからは、和木原の兵が村の家を荒らし、食い物を奪い始めた。
草間たちが戦いを拒んだ理由も、これで筋が通った。
「早瀬の殿は、この内容を今も正しいとお考えですか」
宗介が尋ねると、草間は首を横に振った。
「我が主は、槙尾へ使いを出しております。裁定が本当に改められたのか、直接確かめるためです。ただ、その返事を待つ間にも和木原が兵を集めておりますので、笠森へも知らせるべきだと判断されました」
弥四郎は書付を見つめた。
「この紙を、笠森へ渡してよいのか」
「我が主の許しを得ております。和木原から受け取った原本は早瀬家へ残し、これは家中で写したものでございます。原本を持参した者の名も、写しを取った者の名も添えております」
宗介は、その言葉に少しだけ安堵した。
原本がある。
誰が持ってきたかも分かる。
草間自身も、その書付を信じて兵を出した者である。
もちろん、和木原が偽りを書いたと断定するには、槙尾の確認が必要だ。
だが、確かめるだけのものは揃い始めていた。
宗介は、南谷の徳蔵から預かった木片を取り出した。
「若様。南谷で、こんなものも見つかりました」
弥四郎は受け取り、文字を確かめる。
『南谷口、槙尾預かり』
草間がそれを見て眉を寄せた。
「我らにも、似た言葉が伝えられておりました。南谷の入口は槙尾の名で改めるゆえ、笠森の者を通してはならぬと」
宇平次が低く唸った。
「つまり、槙尾の名を使って兵を集め、その兵で南谷の道を押さえようとしたわけか」
「その疑いは強い」
弥四郎は頷いた。
「だが、まず左馬助殿へ確かめる。槙尾の名が書かれている以上、笠森だけで決めつけることはできぬ」
草間も深く頷いた。
「我が主も、同じ考えにございます」
弥四郎はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「俺が槙尾へ行く」
宇平次が顔を上げた。
「若様ご自身が赴かれるなら、護衛をつけます。和木原が道へ兵を出している以上、無防備に通すわけには参りませぬ」
「頼む。ただし、大勢を連れていく必要はない。槙尾へ戦を仕掛けに行くのではないからな」
弥四郎は宗介へ向き直った。
「お前も来い。以前の裁定で何を決めたか、現物を持って説明できる者が要る」
宗介は頷いた。
「水札と、槙尾の立ち会い印のある写しを持っていきます。南谷で見つかった木片も、徳蔵さんから預かったものとして説明します」
「それでよい」
弥四郎は草間へ礼を述べた。
「早瀬の殿にも伝えてくれ。笠森は和木原へ兵を返せとは言わぬ。だが、槙尾の名を勝手に使い、周辺の家へ兵を出させたのなら、見過ごすわけにはいかぬ」
草間は深く頭を下げた。
その顔には、牛渡しで見た時とは違うものが浮かんでいた。
警戒だけではない。
ようやく、自分たちが何のために槍を持たされたのか確かめられるという安堵にも見えた。
◇
槙尾へ着いた頃には、昼を過ぎていた。
笠森からは片瀬弥四郎、宇平次、宗介、護衛の足軽二人が同行している。
残る兵は城を守らせた。
南谷が荒らされた直後であり、和木原の兵が再び動く可能性もある。城を空にする余裕などなかった。
槙尾の館では、安西新蔵が待っていた。
「若様。早瀬家からも使いが来ております。左馬助様は、すでに事情をお聞きになりました」
新蔵の表情は硬かった。
いつもの実務的な落ち着きがない。
それだけでも、事態の重さが伝わってきた。
館の奥へ通されると、槙尾左馬助が上座に座っていた。
以前、笠森と和木原の争いを裁いた小領主である。
左馬助は弥四郎へ目を向け、静かに言った。
「片瀬殿。南谷で戦があったことは聞いている。まず、村の者がどうなったかを聞かせてもらいたい」
弥四郎は深く頭を下げた。
「逃げ遅れた者を残さぬよう努めました。幸い、大きな死者は出ておりませぬ。ただ、南谷外れの家が荒らされ、米や道具を奪われた家もございます」
「そうか」
左馬助は短く息を吐いた。
「戦をすれば、槍を持たぬ者が先に苦しむ。川筋の争いがここまで広がったことは、俺としても重く見ている」
弥四郎は、持参した書付を差し出した。
「左馬助殿。本日は、これを確かめていただきたく参りました」
安西新蔵が紙を受け取り、上座へ運ぶ。
左馬助は文字を追った。
その顔色が、少しずつ変わっていく。
読み終えても、しばらく言葉はなかった。
やがて、低い声が響いた。
「俺が、笠森の水札を禁じたことになっているのか」
弥四郎は頭を下げた。
「はい。早瀬家へ届いた和木原の書付には、そのように記されております」
「俺はそのような裁定をしておらぬ」
左馬助の声は、静かだった。
だが、広間の空気が一気に冷えた。
「笠森の水札は、南谷外れと槙尾西沢で使うことを認めた。ただし、西沢については槙尾の立ち会い印を要するとした。牛渡しは南谷の渡し役が水を見て止める。和木原には、笠森札の荷を理由なく賊荷と呼ぶなと命じた」
宗介は黙って頷いた。
すべて、あの庭で確認した内容だった。
左馬助は続けた。
「その裁定を改めた覚えはない。まして、川筋すべてを和木原へ預けるなど、一度も申しておらぬ」
安西新蔵が顔を上げた。
「左馬助様。早瀬家の使いからも、同じ書付の話を聞いております。あちらは原本を残しておりますので、必要なら取り寄せられます」
「取り寄せよ」
左馬助は即座に命じた。
「和木原が自分の名で勝手に川筋を押さえるというなら、まだ争いの当事者同士の話だ。だが、槙尾の裁定が変わったと触れ回り、その名で周辺の家へ兵を求めたとなれば、別の話になる」
宗介は左馬助の顔を見た。
今まで、槙尾は笠森と和木原の争いを仲裁する立場だった。
水場の取り決めを確かめ、濡れ荷の帳を認め、双方が勝手に荷を奪わないよう裁定してきた。
だが、今回は違う。
和木原は、その裁定そのものを都合よく書き換えた疑いがある。
槙尾の名を使い、ほかの小領主から兵を集めた。
それが本当なら、左馬助自身の面目に関わる。
「片瀬殿」
左馬助が弥四郎へ向き直った。
「お前は、和木原主膳へ何を求める」
弥四郎は少しも迷わなかった。
「南谷への出兵をやめること。槙尾の裁定を勝手に変えたと触れ回らぬこと。そして、周辺の家から集めた兵を、それぞれの主家へ返すことです」
「和木原の渡しを奪いたいとは思わぬか」
「思いませぬ」
弥四郎は明確に答えた。
「和木原の渡しは、和木原が守ればよい。笠森は南谷の水を守り、牛渡しを渡れる日にだけ使う。商人には、通る道を選ばせたい。それだけにございます」
左馬助は、しばらく弥四郎を見つめていた。
それからゆっくり頷いた。
「筋は通っている」
しかし、そこで話を終わらせなかった。
「ただし、和木原にも言い分はあろう。書付の原本を確かめたうえで、主膳を槙尾へ呼ぶ。裁定を改めたと言い触らした理由を、本人の口から聞く」
安西新蔵が深く頭を下げた。
「承知しました」
左馬助はさらに続けた。
「それまでは、槙尾西沢へ和木原の兵を入れぬ。笠森も兵を進めるな。南谷の村へ再び槍を向ける者がいれば、槙尾の名で止める」
宗介は胸の奥が軽くなるのを感じた。
それは、笠森に味方すると宣言したのとは違う。
槙尾自身が決めた取り決めを守るという話だった。
だが、その違いは大きい。
今までは笠森が何かを止めるたび、和木原は笠森が勝手に道を支配していると言い立ててきた。
今度は、槙尾が自分の裁定を守るために動く。
同じ川筋でも、争いの形が変わろうとしていた。
◇
槙尾から戻る道で、弥四郎はしばらく口を開かなかった。
宇平次も黙っている。
宗介は、歩きながら先ほどの左馬助の言葉を思い返していた。
和木原を呼ぶ。
裁定を改めたと言い触らした理由を聞く。
それは、和木原主膳にとって厄介なことのはずだった。
しかし、まだ終わりではない。
主膳が素直に槙尾へ来るとは限らない。
書付の内容を使者の間違いだと言い張るかもしれない。
あるいは、槙尾が動く前に兵を進めてくることも考えられる。
宗介がそんなことを考えていると、弥四郎が声をかけた。
「宗介。今日は、槍を一本も使わずに済んだな」
「はい。ただ、和木原が引いたわけではありません」
「分かっている」
弥四郎は歩みを緩めた。
「それでも、早瀬家の五人が持ち帰った書付によって、槙尾が動いた。牛渡しであの者たちを無理に討っていれば、今日の話はなかったかもしれぬ」
宗介は頷いた。
あの時、宇平次は五人へ槍を向けた。
だが、相手が別の主家の兵だと分かると、無理に戦わせなかった。
その後、弥四郎も南谷で帰る道を妨げなかった。
だから五人は、自分の主家へ戻ることができた。
そして、その主が和木原の触れを確かめようとした。
槍を交えなかったことが、ようやく別の形で返ってきたのである。
「若様。あの五人には、三日分の兵糧がありました」
宗介は言った。
「和木原がそれを取り上げようとした時、彼らは自分たちの飯を守りました。あそこで無理に従っていたら、帰る食い物もなくなっていたかもしれません」
「その通りだろう」
「和木原は、兵を借りても、その兵の腹まで自由にできると思っていたのかもしれません」
弥四郎は静かに笑った。
「俺も、気をつけねばならぬな」
宗介は顔を上げた。
「笠森の兵も、ただ命じれば動くわけではない。宇平次たちには飯も休みも要る。村の者を普請へ出すなら、家へ帰すことも考えねばならぬ。お前が何度も言ってきたことだ」
宗介は少し照れくさくなった。
自分が言ってきたことなど、難しい兵法ではない。
腹が減れば動けない。
休まなければ倒れる。
荷を運ぶ道がなければ、米は届かない。
それだけだった。
だが、和木原はその当たり前を、兵の数で押し潰そうとしていた。
そして今、その無理が少しずつ表へ出始めている。
弥四郎は前方の道へ目を向けた。
「主膳は、渡しも道も、兵も商人も、すべて自分の手へ入れたいのだろう。だが、人を集めれば集めるほど、食わせねばならぬ。従わせようとすればするほど、反発する者も出る」
宗介は黙って聞いていた。
「笠森は、同じ道を進まぬ」
若い城主の声は、はっきりしていた。
宗介は、その言葉に深く頷いた。
◇
夕方、笠森城へ戻ると、喜兵衛が蔵の前で待っていた。
南谷の家々から、食い物を失った者へ渡す米について相談したいという。
宗介はすぐに蔵へ向かおうとしたが、弥四郎が止めた。
「今日は、先に飯を食え」
「ですが、南谷の者たちは困っているはずです」
「だからこそ、お前が倒れては困る。米の数は喜兵衛も見られる。まず腹へ入れてから話せ」
宗介は返す言葉を失った。
朝から歩き続けている。
槙尾への往復も、五十一歳の体にはこたえた。
考えてみれば、昼の握り飯を食べる暇もなかった。
弥四郎に言われて初めて、空腹に気づいたのである。
おきぬから椀を受け取り、竈のそばへ座る。
米に粟と麦を混ぜた粥だった。
豪勢な飯ではない。
だが、温かかった。
宗介はゆっくり口へ運んだ。
和木原は、笠森の道を奪うために兵を集めた。
しかし、その兵の中には、和木原のために死ぬつもりのない者がいた。
自分の家の飯を守りたい者がいた。
主君から聞かされた話と、実際に目の前で起きていることが違うと気づいた者もいた。
その五人が帰った。
ただ帰っただけではない。
持ち帰った書付が、和木原の言い分を揺るがし始めている。
宗介は椀を置き、城門の方へ目を向けた。
南谷では、今も家を直す者たちがいる。
黒谷では、彦蔵が窯口の土を練っている。
槙尾では、左馬助が和木原を呼ぶ支度を始めている。
笠森の兵は少ない。
米も豊かではない。
それでも、昨日より味方が増えたわけではなくとも、笠森の言葉を聞こうとする者は確かに増えていた。
その時、城門の方から足音が響いた。
安西新蔵の配下だった。
槙尾からの使いである。
「若様へ、左馬助様よりお知らせにございます」
弥四郎が広間へ戻る。
宗介も椀を置いて後に続いた。
使いの男は、膝をついて言った。
「早瀬家に残された書付の原本を、槙尾で確認いたしました。持参した者の口上も一致しております」
弥四郎の顔が引き締まった。
「左馬助殿は、どうなさる」
「和木原主膳へ、槙尾への出頭を求める使いを出されました」
男はそこで、少し声を落とした。
「ただし、主膳はすでに使いを受け、返答したそうです」
宇平次が顔を上げた。
使いは続けた。
「和木原主膳は、槙尾へ出向くことを拒みました。川筋の警固は和木原が引き受けた仕事であり、槙尾に改めて裁かれる筋合いはない、と」
広間が静まった。
宗介は胸の奥が冷えるのを感じた。
和木原主膳は、とうとう槙尾の裁定そのものを拒み始めた。
今までは槙尾の名を利用しながら、都合が悪くなれば槙尾へ従わないという。
弥四郎は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねた。
「左馬助殿は、その返答をどう受け取られた」
使いの男は深く頭を下げた。
「槙尾の裁定を借りて兵を集めながら、槙尾の問いには答えぬというなら、もはや当事者同士の争いでは済まぬ、と」
宗介は息を呑んだ。
使いは最後に、はっきりと告げた。
「左馬助様は、川筋の諸家へ使いを出されます。和木原主膳が槙尾の名を使って集めた兵について、各家の判断を改めて確かめるとのことです」
弥四郎は静かに頷いた。
宇平次も顔を引き締めている。
宗介は、懐に入れていた早瀬家の書付の写しを思い出した。
槙尾の名を借りた触れ。
五本の槍。
三日分の兵糧。
あの小さな書付が、とうとう周辺の家々を動かし始めていた。
和木原は兵を集めた。
だが、その兵を出した者たちは、まだ和木原の家臣になったわけではない。
それぞれの主を持ち、それぞれの家へ帰る飯を持っている。
その当たり前のことが、和木原の軍勢を内側から揺らそうとしていた。
宗介は弥四郎の横顔を見た。
若い城主は、使いの男へ頭を下げていた。
「左馬助殿へ伝えてくれ。笠森は槙尾の裁定を守る。だが、南谷へ再び兵を向けられれば、今度も村の者を守るために戦う、と」
使いは深く頷いた。
宗介は静かに息を吐いた。
戦は、まだ終わっていない。
しかし、和木原主膳が一方的に笠森を追い詰めていた頃とは、確かに何かが変わり始めていた。
槍の数だけでは決まらない戦いが、ここから始まろうとしていた。




