第七十四話 五人分の帰り飯
和木原へ貸し出された兵が、今度は帰ることを許されなくなっていた。
その知らせを笠森城へ持ち込んだのは、早瀬家の草間新兵衛だった。
朝の城庭では、喜兵衛が蔵から出す米を量り、おきぬが負傷した足軽のために湯を沸かしていた。南谷の家々はまだ修繕の途中で、和木原の兵に荒らされた家へ戻れない者もいる。
そんな中、草間は一人の使者を伴って門をくぐった。
「片瀬の若様。石浜家の兵五人が、和木原の渡しから戻れずにおります」
片瀬弥四郎は、すぐに広間へ二人を通した。
久住宗介も呼ばれた。
使者は石浜家の家臣で、名を平野勘兵衛といった。三十を少し越えた、痩せた顔の男である。旅の埃を払う余裕もなかったのか、袴の裾は泥で固まっていた。
「我が主は、和木原へ出した五人を戻すよう命じられました。槙尾左馬助様より、川筋の裁定を改めた事実はないとの知らせが届いたためにございます」
弥四郎が頷く。
「和木原は、槙尾の裁定が変わったとして周辺の家へ兵を求めた。その話が違うと分かった以上、石浜殿が兵を戻すのは当然の判断だろう」
「ありがたきお言葉にございます。ところが、和木原の者は警固の役目が終わっておらぬと言い、兵を帰してくれませぬ」
平野は膝の上で拳を握った。
「すでに三日分として持参した兵糧を食い尽くした者もおります。和木原から飯を出すと言われましたが、その代わりに、なお何日も警固へ従えと命じられたそうです」
宗介は顔を上げた。
三日分の兵糧。
和木原が周辺の小領主へ兵を求めた際、各家に持参させた食い物である。
その三日を越えた。
にもかかわらず、兵を帰さない。
和木原が飯を出す代わりに役目を延ばすなら、兵を貸した家の都合など、あってないようなものだった。
「石浜家の方々は、今どちらにいるのでしょう。和木原の館へ入れられているなら、こちらから無理に迎えに行くことはできません」
宗介が尋ねると、平野は首を横に振った。
「館ではございませぬ。渡しから少し上ったところの仮小屋におります。槍も持っておりますが、和木原の兵に見張られ、勝手に持ち場を離れることを許されておりません」
宇平次が低く唸った。
「兵を借りておきながら、戻すことまで妨げるか。ずいぶん勝手な話だ」
「石浜殿が兵を引くと決めた書付は、和木原へ渡したのだな」
弥四郎が確認すると、平野は頷いた。
「昨日、使いへ持たせました。しかし、奥田弥五郎殿から、川筋の警固が終わるまでは兵を戻せぬとの返答がございました」
弥四郎は少し考え、草間へ向き直った。
「早瀬家は、すでに兵を戻している。草間、お前はどう見ている」
「和木原は、周辺の家から借りた兵を手放したくないのでしょう。石浜家の五人を帰せば、ほかの家も同じことを求めます」
草間の声は落ち着いていた。
「ですが、こちらも黙っておれませぬ。今日、石浜家の兵を戻せなければ、我が主も早瀬家の兵を再び求められた時、どう返すべきか迷うことになります」
宗介は、その言葉の重さを感じた。
早瀬家の五人は、すでに和木原の軍勢から離れている。
石浜家の五人も帰れば、和木原のもとから合わせて十人が抜けることになる。
ただし、それで和木原の兵が尽きるわけではない。主膳自身の家臣もいれば、ほかの小領主から来た者もいるはずだった。
それでも、十人は小さな数ではない。
今の笠森が、城門と蔵を守る兵を残しながら外へ動かせる人数を思えば、なおさらだった。
弥四郎は腕を組んだ。
「石浜の五人を戻すには、どうすればよいと考える」
平野は顔を上げた。
「我が主からは、武力に訴えてはならぬと命じられております。石浜家が笠森と和木原の争いへ加わったことにされては困りますゆえ」
「もっともだ」
「そこで、南谷の牛渡しを使わせていただきたいのでございます。和木原の大渡しを通れば、兵庫助の者に止められます。ですが、南谷の古い渡しから川を越えれば、槙尾の方へ回って石浜領へ戻ることができます」
宗介は、牛渡しの様子を思い浮かべた。
小六が水位を見ている浅瀬である。
牛や人が小荷を運ぶための渡しで、増水した日には通さない。大荷や荷車を通すには向かないが、身軽な者が一人ずつ渡ることはできる。
しかし、川向こうには和木原の兵がいる。
五人が牛渡しへ近づくことを、見逃すだろうか。
「小六さんが水を見て通せると判断した日でなければ、使えません。それに、和木原の兵が追ってくる可能性もあります」
宗介の言葉に、宇平次が頷いた。
「渡しへ兵を並べるだけでは、和木原もこちらが戦を仕掛けると思うだろう。石浜の兵を帰すためだと、先に伝える必要がある」
弥四郎は平野を見た。
「石浜殿の書付を、もう一通用意できるか。五人が主家の命で帰ること、笠森へ降るわけではないこと、その二つをはっきりさせたい」
「持参しております」
平野は懐から書付を取り出した。
弥四郎は受け取り、内容を確かめた。
石浜家が出した五人の兵を帰還させること。
帰り道では、ほかの家の領内を荒らさぬこと。
武具は持ち帰るが、笠森の戦へ加わるものではないこと。
いずれも、筋の通った内容だった。
「よし。石浜の兵を帰すために、牛渡しを使うことは認めよう。ただし、水を見るのは小六だ。小六が危ないと言えば、俺でも渡らせぬ」
平野は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
弥四郎は宇平次へ向き直った。
「護衛を選べ。だが、兵を大勢出すな。こちらは五人を帰すのであって、和木原の渡しを奪うのではない」
「承知しました」
その時、宗介が口を開いた。
「若様。もうひとつ必要なものがあります」
弥四郎が目を向ける。
「帰り道の飯です」
◇
喜兵衛は、宗介の話を聞くなり渋い顔になった。
「石浜の兵に、笠森の米を出すのか」
「はい。五人分だけです」
「城の米がどれほど少ないか、お前が一番分かっているはずだろう。南谷の家を失った者にも飯を出さねばならんのだぞ」
宗介は頷いた。
反論できる話ではなかった。
笠森は豊かではない。
先日、槙尾から粟二俵と稗一俵を買い入れ、川沿いの旧道では和木原の麦三俵を奪った。
それでも、城の者と足軽を食わせ、避難した南谷の者へ必要な飯を出せば、余裕などない。
五人の兵へ飯を渡す。
それは、確かに笠森の腹を削ることだった。
「ですが、石浜の五人が帰れなければ、和木原の兵としてまた南谷へ来るかもしれません」
宗介は静かに答えた。
「その時は、宇平次さんたちが槍を持って止めることになります。兵を出せば、笠森の飯を食わせなければならない。怪我人が出れば、さらに手間もかかります」
喜兵衛が黙った。
「握り飯を五つ渡して帰れるなら、戦って五人を退かせるより、ずっと安く済むかもしれません」
「安く済む、か」
喜兵衛は蔵の方を見た。
宗介も同じ方を見た。
米は少ない。
だが、数えるだけでは増えない。
そして、守るだけでも減る。
兵糧は、食わせれば終わりというものではなかった。
誰へ食わせるかによって、翌日の槍の数まで変わる。
「五つだけだぞ」
喜兵衛が言った。
「城の備えに分けた米へは手をつけぬ。今日使う分から、五人の帰り飯を出す」
「ありがとうございます」
「礼は要らん。だが、ただ渡して戻ってくるなよ。何のために出す飯か、相手にもきちんと伝えろ」
宗介は頷いた。
おきぬに頼み、握り飯を五つ作ってもらった。
大きなものではない。
味噌も薄く塗るだけだった。
竹の皮へ包み、持って歩けるようにする。
さらに飲み水を用意し、草鞋の傷んだ者がいた時のために、城に残っていた予備の草鞋も一足持たせた。
おきぬは、包みを結びながら宗介を見た。
「敵だった兵に飯を渡すなんて、妙な仕事をするようになったね」
「本当に、そう思います」
「けれど、帰る兵なら笠森で戦わずに済む。そういうことなんだろう」
「はい」
おきぬは最後の結び目を締めた。
「なら、冷める前に持っていきな。向こうも腹を空かせているだろうから」
宗介は包みを受け取り、深く頭を下げた。
◇
牛渡しの川面には、昼前の光が差していた。
水は濁っていない。
上流で大きな雨も降っておらず、流れは普段より穏やかだった。
それでも、小六は何度も浅瀬へ目を向けていた。
川底の石。
流れる草。
水の深さ。
人が渡れるかどうかを、ひとつずつ確かめている。
宗介が近づくと、小六は頭を下げた。
「今日は渡せます。ただし、荷を重くしてはなりませぬ。槍を持つ者も、一人ずつ渡らせます」
「分かりました。石浜の方々へも、そのように伝えます」
宇平次は足軽六人を連れてきていた。
草間新兵衛と平野勘兵衛もいる。
こちら側の岸に槍を並べたままでは、和木原の兵を刺激する。そこで宇平次は足軽を少し離れた高みに置き、渡しの近くへは必要な者だけを連れてきた。
草間は川向こうを見ていた。
「石浜の兵が、無事に来られればよいのですが」
「和木原へは、早瀬と石浜の両家から使いを出したのだな」
宇平次が確かめると、草間は頷いた。
「はい。五人が主家の命で帰ることも、笠森へ加わるわけではないことも伝えております」
しかし、川向こうにはまだ誰も見えない。
宗介は竹の皮に包んだ握り飯を見つめた。
五人分。
決して多くはない。
だが、これを渡すために、どれほどの人が動いているだろう。
弥四郎が決めた。
喜兵衛が米を出した。
おきぬが握った。
小六が川を見ている。
宇平次が道を守り、草間と平野が兵を帰すために来ている。
握り飯五つの後ろには、それだけの手があった。
やがて、川向こうの木立が揺れた。
槍を持った男たちが現れる。
五人だった。
その後ろには、和木原の兵が四人ついている。
先頭の年配の男が、こちらへ手を上げた。
「石浜家の兵、五人! 主家の命により帰還する!」
平野が川岸へ進み、声を張った。
「石浜家家臣、平野勘兵衛だ! 主よりの書付を持参した。そなたら五人を迎えに来た!」
年配の男は、その声を聞いて大きく息を吐いた。
だが、後ろの和木原兵は納得していなかった。
ひとりが前へ出て怒鳴る。
「和木原の警固はまだ終わっておらん! 勝手に持ち場を離れるなら、主膳様への背きと見るぞ!」
年配の男は振り返った。
「我らは石浜家の家臣だ。主が戻れと命じた以上、和木原の警固へ留まり続ける理由はない」
「兵糧を食わせた恩を忘れたか!」
「持参した三日分は我らの主が用意した。和木原から出された飯については、受けた分を石浜家へ報告する。だが、飯を食わせたからといって、我らの主が変わるわけではない」
その答えに、宗介は思わず頷いた。
まさに、それだった。
飯を出せば、人が動く。
だが、飯を出した者が人のすべてを所有するわけではない。
笠森でも、普請飯を出すようになってから何度も確かめてきたことである。
働いた日の飯。
帰れる足。
元の家へ戻ること。
それを守らなければ、飯は人を縛る道具になってしまう。
宇平次が川岸から声を張った。
「石浜の兵を帰すだけだ! 笠森は和木原の兵を討ちに来たのではない。主家の書付もある。帰る者の道を塞ぐなら、和木原が他家の兵を勝手に抱え込んだことになるぞ!」
向こうの兵が顔を見合わせた。
川を挟んでいるため、すぐに槍を交える距離ではない。
しかし、ここで和木原が五人を力ずくで止めれば、石浜家そのものを敵に回しかねない。
和木原の兵たちにも、そのことは分かるのだろう。
しばらくして、四人のうち年長の男が一歩下がった。
「行くなら行け。ただし、主膳様へは、石浜家が勝手に警固を放り出したと伝える」
平野が答えた。
「石浜家も、主より帰還を命じた兵を和木原が戻さなかった経緯を、槙尾へ伝える。互いに見たままを残せばよい」
和木原の兵は、それ以上近づかなかった。
五人が川岸へ出てくる。
小六がすぐに声をかけた。
「川へ入る前に、足元を確かめてください。こちらが案内します。渡る時は一人ずつ。急いで進めば石に足を取られます」
年配の男は頷いた。
最初の一人が浅瀬へ入る。
水が草鞋を濡らし、脛のあたりまで上がった。
川底の石は滑りやすい。
男は槍を持ち直し、小六の示す足場を確かめながら進んだ。
宗介は息を止めて見守った。
途中で男の足がわずかに滑ったが、踏みとどまった。
そのまま、こちら側の岸へ渡りきる。
次の一人が進む。
また一人。
五人が渡り終えるまで、思ったより長く感じられた。
それでも誰も川へ落ちなかった。
宗介は、最後の男が岸へ上がった時、ようやく息を吐いた。
渡しの向こうには、和木原の兵がまだ立っている。
だが、槍を持って追ってくることはなかった。
◇
石浜の兵たちは、岸へ上がるとその場へ腰を下ろした。
五人とも疲れていた。
草鞋の紐が緩んでいる者もいる。
ひとりは足の裏を傷めたらしく、歩くたびに顔をしかめていた。
宗介は懐の包みを取り出した。
「皆さんへ、帰り道の飯を用意しました」
年配の男が顔を上げた。
「笠森から、我らへ飯を出してくださるのか」
「はい。ただし、一食分だけです。石浜の領内へ戻るまでの足しにしてください」
男は受け取ろうとして、手を止めた。
「我らは、つい昨日まで和木原の兵として動いておりました。笠森へ槍を向けた者もおります。その我らへ飯をいただけば、何か役目を返さねばなりませぬか」
宗介は首を横に振った。
「何も求めません。石浜の殿が帰れと命じたのですから、帰っていただくだけです」
男は宗介の顔を見つめた。
「笠森へ降れという話でもないのでございますな」
「もちろんです。皆さんには、帰る家があります」
宗介は包みを差し出した。
「腹を空かせたまま歩けば、道で倒れるかもしれません。せっかく川を越えたのですから、無事に帰ってください」
男はしばらく黙っていた。
やがて両手で握り飯を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
残る四人にも渡す。
竹筒の水を回し、足を傷めた者には予備の草鞋を渡した。
平野がその様子を見て、宗介へ頭を下げた。
「このご恩は、石浜家へ必ず伝えます」
「恩というほどのものではありません。一人につき握り飯ひとつですから」
宗介は苦笑した。
だが、平野は笑わなかった。
「そのひとつが、帰り道ではありがたいのでございます」
宗介は返す言葉を失った。
米の少ない笠森にとって、五つの握り飯は惜しい。
しかし、飯を持たぬ兵にとっては、そのひとつが帰る力になる。
誰が食うかで、同じ米の重さが変わる。
兵糧方として、忘れてはならないことだった。
宇平次が近づいてきた。
「食い終えたら、平野殿とともに戻れ。笠森の兵は、南谷の道を通る間だけ見守る。石浜領へ入る道は、そちらの者が案内してくれ」
年配の男は立ち上がり、深く頭を下げた。
「承知しました。片瀬の若様へも、礼をお伝えください」
「伝えておく」
宇平次は短く答えた。
それから宗介へ目を向ける。
「五人分の飯で、槍五本を帰したな」
宗介は少し考えた。
「こちらが帰したというより、石浜の殿が帰れと命じたんです。俺たちは、その帰り道を手伝っただけですよ」
「そうだな」
宇平次は頷いた。
そして、川の向こうを見た。
「だが、その手伝いがなければ、今日も和木原の槍として並んでいたかもしれん」
宗介は何も言わなかった。
ただ、竹の皮の包みが空になった手元を見つめた。
米は減った。
けれど、笠森へ向けられるかもしれなかった槍も、五本減った。
その事実だけは、確かだった。
◇
笠森城へ戻ると、弥四郎は報告を聞き終えるまで黙っていた。
石浜の五人が主家の命で戻ったこと。
和木原の兵が渡しで止めようとしたものの、最後には引いたこと。
小六が水を見て、一人ずつ渡らせたこと。
そして、笠森が帰り道の飯を出したこと。
宗介は順に伝えた。
弥四郎は静かに頷いた。
「無事に帰したか」
「はい。怪我人はありません。ただ、足を傷めた者が一人いましたので、草鞋を渡しています」
「それでよい」
若い城主は、宇平次へ向き直った。
「これで、早瀬と石浜の兵は和木原のもとから退いた。だが、和木原自身の兵は残っている。こちらが優勢になったなどと思うなよ」
「承知しております」
「ほかの家がどうするかは、それぞれの判断だ。笠森から無理に兵を引かせようとはするな」
宇平次は頷いた。
宗介も、その判断が正しいと思った。
兵を借りた家には、それぞれ事情がある。
和木原の渡しを使わなければ商いができない家もあるだろう。
主膳と長く付き合ってきた家もある。
槙尾の裁定が違っていたと分かっても、すぐには兵を戻せないところもあるはずだった。
だからこそ、早瀬と石浜が自分の判断で兵を戻したことには意味がある。
誰かに命じられたからではない。
自分たちの兵を、これ以上和木原へ預けておけないと考えたのだ。
喜兵衛が広間へ入ってきた。
「若様。今日の飯の減りを確かめました。帰り飯の五つは、約した通り当日の分から出しております。籠城に残す米へは手をつけておりませぬ」
弥四郎は頷いた。
「よくやった」
喜兵衛は宗介を見た。
「お前の言う通り、戦って兵を退かせるよりは、安く済んだかもしれんな」
「そうだといいのですが」
「少なくとも、こちらの兵に怪我人は出ておらん。米五つでそれが済んだなら、悪くない」
宗介は小さく頭を下げた。
喜兵衛の言葉には、普段より少し温かみがあった。
しかし、話はそこで終わらなかった。
夕方、柏屋惣右衛門が城へ来たのである。
商人は、いつものように穏やかな顔をしていたが、懐から取り出した紙を見せると、弥四郎の表情が変わった。
「和木原が、また触れを出したのか」
「はい。川向こうの商人たちへ、今日のうちに伝わっております」
惣右衛門は静かに続けた。
「和木原の川筋の警固に協力しない家の荷については、今後、渡しでの取り扱いを改めると」
宇平次が顔を険しくした。
「兵を戻した家へ、渡しで嫌がらせをするつもりか」
「そのように受け取る商人もおります。まだ具体的にどれほどの賃を取るかは書かれておりませぬ。ただ、荷改めを厳しくするとも記されております」
宗介は胸の奥で息を吐いた。
やはり、和木原は黙っていなかった。
借りた兵が帰れば、その家の商いを締めつける。
そうすれば、ほかの家は兵を戻しにくくなる。
主膳の考えは分かりやすかった。
だが、それは同時に、和木原の渡しが商人から信用を失うことにもつながる。
「柏屋さん。早瀬家や石浜家の商人は、今後どうするのでしょう」
惣右衛門は宗介を見た。
「それを相談しに参りました。和木原の渡しを使わずに荷を通せる道があれば、商人も選びようがございます」
宗介は頷いた。
南谷の牛渡しがある。
槙尾西沢へつながる道もある。
古炭道も、黒谷を取り戻したことで再び使えるようになりつつある。
ただし、どれも大荷を運ぶには向かない。
荷車を通せない場所も多い。
和木原の渡しを丸ごと置き換えられるわけではなかった。
「小荷なら、いくらか通せます。でも、和木原の渡しを使っていた大きな荷を全部受け入れることはできません。道を傷めますし、運ぶ人も足りません」
宗介が答えると、惣右衛門は頷いた。
「それでよろしい。できぬものまで通せると言われるより、よほど信用できます」
弥四郎は、しばらく考えていた。
やがて、静かに口を開いた。
「笠森が早瀬や石浜の荷をすべて引き受けることはできぬ。だが、両家が必要な小荷を通したいなら、南谷の道を使わせることは考えよう。槙尾の立ち会いが要る場所については、左馬助殿とも話す」
惣右衛門が深く頭を下げた。
「その言葉があれば、商人も考えられます」
「ただし、牛渡しは小六が止めると言えば止める。商人が多くなったからといって、水の危うい日に渡らせるつもりはない」
「承知しております」
宗介は弥四郎の横顔を見た。
今日は五人の兵を帰した。
そのことで、和木原の渡しを巡る争いがまた動き始めている。
だが、これまでとは少し違った。
和木原が笠森を困らせるために道を塞ぐ。
そのたびに笠森が新しい札を作り、何とか守る。
そんな形だけではなくなっている。
早瀬家が兵を戻した。
石浜家も兵を戻した。
商人たちは、和木原の渡し以外の道を考え始めた。
笠森がすべてを抱え込む必要はない。
それぞれの家が、自分の判断で動き始めている。
宗介は、その変化を頼もしく感じた。
同時に、怖くもあった。
道を選ぶ者が増えれば、和木原主膳はますます追い詰められる。
追い詰められた相手が、素直に引くとは限らない。
まして主膳には、まだ自分の兵がいる。
麦も残っている。
大釜も取り戻している。
次に何をするか、油断できる相手ではなかった。
弥四郎は最後に宇平次へ言った。
「今夜は兵を休ませろ。牛渡しには見張りを残すが、石浜の五人を帰したからといって、すぐ次の兵を迎えに行く必要はない」
「承知しました」
「そして宗介。明日は喜兵衛とともに、城の米と、南谷へ戻った者の食い物を確かめよ。和木原のことばかり見て、笠森の腹を空にするわけにはいかぬ」
「はい」
宗介は深く頭を下げた。
兵糧方の仕事は、まだ山ほど残っている。
今日の握り飯五つも、蔵から出した米である。
その分は確かに減った。
だが、今日帰っていった五人は、明日笠森へ槍を向けてこないだろう。
少なくとも、石浜家の命令が変わらない限りは。
そう考えれば、あの五つの握り飯は、ただ人の腹へ消えたわけではなかった。
城の兵を守るための飯でもあったのだ。
宗介は、庭の向こうにある蔵を見た。
まだ十分な米はない。
明日も粥は薄いだろう。
それでも、今日の笠森は槍を振らずに五人を帰した。
和木原が借りた兵を飯で縛ろうとしたところへ、笠森は帰るための飯を渡したのである。
同じ米でも、使い方で人の行き先が変わる。
宗介は、五十一歳になって初めて、そのことをこれほど強く実感した。
城の外では、夕暮れの風が南谷の方から吹いていた。
牛渡しの水は、今日も流れている。
あの川を越えて、石浜の五人は自分の家へ戻っていった。
笠森へ降ったわけでも、和木原を討ったわけでもない。
ただ、借りていた槍が持ち主のもとへ返った。
それだけのことが、今の和木原には痛いはずだった。
宗介は蔵へ向かい、喜兵衛とともに明日の米を確かめ始めた。
まだ戦は終わらない。
だが、兵を食わせる者が、必ずしも兵を従わせられるとは限らない。
その当たり前の道理が、少しずつ和木原の軍勢を削り始めていた。




