第七十二話 米のない陣
南谷を占拠した和木原の兵が、朝になっても飯を炊けずにいた。
その知らせを聞いた久住宗介は、手にしていた椀を置いた。
敵が南谷へ入ってから、最初の夜が明けたところである。
前日の戦いで笠森の兵は二人負傷し、南谷の外れを敵に明け渡した。片瀬弥四郎と宇平次は、村の者を逃がす時間を稼いでから城へ退いている。
そのおかげで大勢の村人が助かった。
ただし、家も畑も米も、すべてを持ち出せたわけではない。
和木原の兵は、残された家へ入り、食い物を探していたという。
ところが、思ったほど集まらなかったらしい。
「敵は昨夜、南谷外れの家を六軒ほど改めたそうです。米は小袋二つほど見つかっただけで、兵庫助がひどく怒っていたと」
報告したのは善助だった。
南谷奥の避難先から来ている。
眠れなかったのだろう。目の下には隈ができ、袖には泥が乾いてこびりついていた。
宗介は、その顔を見て尋ねた。
「村の者が持ち出せなかった米もあったはずです。敵が見つけた二袋以外は、まだ家に残っているのでしょうか」
「蔵の奥へ隠した家もあります。ですが、今は近づけませぬ。敵が家を一軒ずつ調べておりますので、いずれ見つかるやもしれません」
善助は悔しそうに唇を噛んだ。
「それと、兵庫助は今朝までに食い物を集めよと命じていたのに、人足が持ち帰ったのは麦の小袋が幾つかだけだったそうです」
宗介は顔を上げた。
和木原大塚兵庫助。
南谷へ進んできた兵を率いる武士である。
その兵は二十人を超え、三十人近いかもしれない。
兵たちは前日の朝、和木原の渡しで飯を食い、それぞれ小さな包みを背負って進んできた。
大釜も荷車も伴っていない。
身軽に進軍するための支度だったのだろう。
しかし、南谷を占拠した後は、そこで兵を食わせなければならない。
前日のうちに村の米を奪い、飯を炊くつもりだったのかもしれなかった。
「若様へ報告しましょう」
宗介は立ち上がった。
善助が頷く。
二人が広間へ向かうと、片瀬弥四郎はすでに宇平次と話していた。
前日の負傷者二人は、まだ槍を持てない。
城の兵も疲れている。
それでも、南谷を敵に奪われたままにするわけにはいかなかった。
弥四郎は報告を聞き終えると、しばらく考えてから口を開いた。
「和木原の兵は、南谷で十分な米を得られなかった。ならば、渡しから運び込むか、さらに谷の奥へ進むか、どちらかを選ぶことになるな」
「はい。ただ、敵も持参した兵糧が残っているはずです」
宗介は慎重に答えた。
「すぐ飢えると考えるのは危険です。三日分を持って参集せよという触れも出ていました。実際にどれだけ持っているかは分かりません」
喜兵衛が横から頷く。
「食い物が足りぬという話を聞いて、敵が弱っていると思い込むのは危ういな。腹が減った兵ほど、荒いことをする場合もある」
「その通りです」
宗介は頷いた。
敵が食べ物を探している。
それ自体は事実だ。
しかし、まだ戦える。
槍も持っている。
しかもこちらより人数が多い。
兵糧が乏しいからといって、正面から戦って勝てるわけではなかった。
宇平次が言った。
「若様。南谷へ入った兵を追い払うなら、今しかないかもしれませぬ。向こうが渡しから麦を運び込み、腰を落ち着ければ、取り戻すのはさらに難しくなります」
弥四郎は頷いた。
「俺もそう考えている。だが、前日と同じように正面から槍を並べても、数で押されるだけだ」
そこで宗介へ向き直る。
「敵の兵糧を見て、何か使えることはないか」
宗介は考えた。
敵は南谷にいる。
持参した米や麦は、兵それぞれが背負っているはずだ。
ほかに村から奪った小袋がある。
これから渡しの方から補給が届く可能性もある。
しかし、そこへ至るまでには、笠森へ通じる川沿いの旧道を使わなければならない。
荷車なら通れる道だ。
だが、すでに和木原の兵が南谷に入っている以上、その道を正面から押さえに行けば、敵の背後へ回り込む必要がある。
少ない兵で試すには危険すぎた。
「すぐに兵糧を奪う方法は思いつきません」
宗介は正直に答えた。
「ただ、南谷から食い物を得られなかったのであれば、和木原の兵は持参した兵糧を使うしかありません。そして、その兵糧が誰のものかが気になります」
弥四郎が目を細める。
「兵の持ち物ではないのか」
「和木原の家臣なら、それで済むでしょう。ですが、周辺の小領主から集められた兵もいるはずです。あの者たちは、自分の家から三日分の飯を持って来たのではありませんか」
宇平次が顔を上げた。
宗介は続けた。
「和木原が兵を食わせられなくなった時、ほかの家から来た兵の飯まで集めようとしたら、揉めるかもしれません」
喜兵衛が低く唸った。
「なるほどな。借りてきた兵には、借りてきた兵の腹がある」
弥四郎は少し考えた。
そして宇平次へ向き直った。
「牛渡しで、槍を交えることを嫌がった五人がいたな」
「はい。川向こうの小領主から来た者たちでした。川筋の警固に加わるとは聞いたが、南谷の道を奪う戦をするとは聞いていないと申しておりました」
「あの者たちが、今も兵庫助の下にいるか確かめたい」
弥四郎は静かに言った。
「和木原の兵すべてを相手にする必要はない。兵庫助に従わぬ者がいるなら、それも見ておくべきだ」
宇平次は頷いた。
宗介は、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
敵の腹を見る。
それは、単に麦俵の数を数えることではない。
誰が食わせているのか。
誰の飯を食っているのか。
その違いを見ることでもあった。
◇
南谷外れの集落は、ひどく荒れていた。
笠森城から近づくことのできる高みへ上がると、宗介にもその様子が見えた。
戸を外された家。
庭へ引きずり出された籠。
土間に散らばった藁。
昨日まで人が暮らしていた場所である。
そこへ槍を持った兵が入り込み、食い物を探していた。
宗介は、胸の奥が重くなるのを感じた。
村の者たちが苦労して蓄えた米だ。
笠森の蔵にある米より、ずっと少ない家もあるだろう。
それを奪われれば、村へ戻れたとしても暮らしていけない。
だが、敵の兵も飯を求めている。
その姿が見えるだけに、余計に厄介だった。
「兵は、二十人ほど見えます」
宇平次が小声で言った。
「残りは家の中か、川沿いの道へ出ているのでしょう。兵庫助らしい男もおります」
宗介は視線を向けた。
具足を着けた大塚兵庫助が、家の前に立っている。
その周囲には槍を持つ男が数人いた。
さらに、少し離れた場所で五人ほどの兵が腰を下ろしている。
兵庫助の家臣たちとは、具足の形が違っていた。
その中に、以前牛渡しで見た年長の男がいた。
「あの五人でしょうか」
宗介が尋ねると、宇平次は頷いた。
「間違いあるまい。牛渡しで、こちらと戦うことを拒んだ者だ」
宗介は、その五人を見つめた。
彼らは槍を地面へ立て、何かを話している。
周囲の兵とは、少し距離があった。
その時、兵庫助が声を張った。
「飯を出せと言っている! 和木原の兵が空腹で動けなくなれば、お前たちも困るのだぞ!」
宗介は、思わず身を低くした。
高みから声が聞こえる。
兵庫助は、五人へ向かって怒鳴っていた。
年長の男が立ち上がる。
「我らが持参した兵糧は、我らの主より与えられたものにございます。他家の兵へ分けよとの命は受けておりませぬ」
「同じ川筋の警固に加わっているのだ。飯くらい融通できぬのか!」
「昨日、南谷へ進む前にも分けました。これ以上は、我ら自身の帰る飯が足りなくなります」
兵庫助の顔が赤くなる。
「和木原主膳様の名に背くつもりか!」
年長の男は、すぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「我らは主家の命で川筋の警固へ参りました。南谷の家へ入り、米を取り上げるために来たわけではございませぬ」
宗介は、胸の奥で何かが動くのを感じた。
思った通りだった。
和木原の兵は、ひとつの家の兵だけではない。
周辺の小領主から集められた者がいる。
その者たちは、自分の主君を持っている。
兵庫助が命じれば何でも従うわけではなかった。
宇平次も同じことを考えたらしい。
「若様へ伝えよう」
低い声だった。
「敵の中で、飯を巡って揉めている。ここを見過ごす手はない」
宗介は頷いた。
ただし、嬉しいだけではなかった。
自分の飯を守ろうとしている男たちは、敵の兵でもある。
しかし、その言い分はもっともだった。
彼らにも帰る家がある。
持参した兵糧がなくなれば、帰り道で困る。
その怖さは、宗介にもよく分かった。
◇
片瀬弥四郎が南谷の高みへ着いたのは、昼前だった。
城門の守りを佐太へ任せ、宇平次の報告を受けて自ら出てきたのである。
同行する足軽は十人に満たない。
昨日の負傷者は残している。
人数だけなら、今も和木原の方が多かった。
だが、弥四郎は高みから敵の様子を見た後、静かに言った。
「兵庫助の兵が、南谷の家から米を取っているのだな」
「はい。確認できた範囲では、小袋を二つ持ち出しています。ほかにも家を改めていますが、まとまった米は見つかっていないようです」
宗介が答えた。
弥四郎は頷いた。
「ならば、まず家を荒らすのを止めさせる」
宇平次が顔を上げた。
「若様。こちらは数で劣ります。正面から押し返すなら、昨日より厳しい戦になるでしょう」
「分かっている。だから、全員を相手にはせぬ」
弥四郎は、少し離れて座っている五人の兵を見た。
「先に、あの者たちへ話を通す」
宗介は思わず顔を上げた。
「若様ご自身が、敵の兵へ話すのですか」
「相手も他家の者だ。和木原の家臣ではないなら、笠森の城主が直接話す意味はある」
弥四郎は落ち着いていた。
「ただし、こちらへ寝返れとは言わぬ。自分の家へ帰るなら、笠森は追わぬ。それだけだ」
宇平次はしばらく考え、頷いた。
「ならば、槍の届かぬ場所で話しましょう。私が前へ立ちます」
「頼む」
弥四郎は高みから下りた。
宗介は、その背中を見送った。
若い城主は、敵へ勝つために槍を持ったわけではない。
まず、戦わなくてもよい相手を分けようとしている。
それが、どれほど大事なことなのか。
宗介には、少しずつ分かり始めていた。
宇平次が道へ出て声を張った。
「川筋の警固に来た五人へ話がある! 片瀬弥四郎様が、主家を持つ者として言葉を交わしたいと申されている!」
和木原の兵が振り向いた。
兵庫助も顔を上げる。
しかし、五人の中の年長の男が先に動いた。
仲間へ何かを告げ、槍を持って立ち上がる。
宇平次が厳しい声で言った。
「槍はそこへ立てておけ。こちらも進まぬ」
男は頷き、槍を地面へ立てた。
それから、弥四郎の前へ歩み出た。
「片瀬の若様。牛渡しでお会いした者にございます」
弥四郎は頷いた。
「覚えている。あの時、お前たちは笠森の者へ無理に槍を向けなかった。今日も、南谷の家を荒らしている様子は見えぬ」
男は深く頭を下げた。
「我らは主家より、三日分の兵糧を持って川筋の警固へ加われと命じられました。南谷を奪えとも、家の米を取り上げろとも聞いておりませぬ」
「ならば、ここに留まる理由はあるまい」
弥四郎は静かに続けた。
「和木原の渡しへ戻るなら、笠森は追わぬ。主家へ帰る道も妨げぬ。ただし、南谷の者へ槍を向けるなら、こちらも守らねばならぬ」
男は、しばらく弥四郎を見ていた。
その顔には迷いがあった。
和木原主膳は、周辺の小領主に渡しを通す際の便宜を与える立場でもある。
簡単に逆らえば、主家が困るかもしれない。
だが、このまま兵庫助へ従えば、南谷の家を荒らし、食い物を奪うことになる。
男はやがて頭を下げた。
「若様のお言葉、ありがたく承りました。我らはここで笠森と戦うつもりはございませぬ。ですが、和木原の渡しへ戻ることだけは、兵庫助殿へ伝えてからにいたします」
「それでよい」
弥四郎は頷いた。
男は仲間のもとへ戻った。
宗介は高みから、その様子を見ていた。
まだ何も決まっていない。
五人が帰ると決めたわけでもない。
だが、少なくとも彼らは笠森と戦うつもりがないと、はっきり口にした。
それだけで、敵の槍が五本減る可能性が生まれた。
◇
兵庫助が怒鳴ったのは、それから間もなくだった。
「勝手に帰ることなど許さん!」
その声が、南谷の家々へ響いた。
年長の男は一歩も引かなかった。
「我らは和木原の家臣ではございませぬ。主家へ戻り、受けた命令の範囲を確かめます。これ以上の戦は、主君の許しなく引き受けられませぬ」
「主膳様へ何と申し開きをするつもりだ!」
「南谷で米を奪う命令までは受けていない、と申し上げます」
兵庫助の顔が真っ赤になった。
だが、男はすでに仲間へ支度を命じていた。
五人は自分たちの荷を背負い、槍を持つ。
和木原の兵たちとは距離を置いたまま、川沿いの道へ向かった。
宗介は息を呑んだ。
本当に帰る。
五人は、笠森へ味方するわけではない。
ただ、自分の主家へ戻る。
それだけだった。
しかし、兵庫助にとっては大きな痛手のはずだった。
今まで二十人を超えていた兵から、五人が抜ける。
残る者の中にも、飯を巡って不満を持つ者がいる。
しかも、南谷から食い物は十分に得られていない。
宇平次が低く言った。
「若様。兵庫助の兵が減りました」
弥四郎は頷いた。
「だが、まだこちらより多い。焦るな」
その言葉に、宇平次は槍を持ち直した。
宗介は、敵の様子を見つめた。
兵庫助は、残る者たちへ怒鳴っている。
家を探せ。
米を出せ。
人足を動かせ。
その命令に従い、何人かの兵が集落の奥へ向かった。
別の者は川沿いの道へ走り出す。
渡しから補給を求めるつもりなのかもしれなかった。
宗介は、その動きを見て顔を上げた。
「若様。兵庫助は兵を分け始めています」
「見えている。米を探す者と、渡しへ戻る者だな」
「はい。南谷外れに残る兵は、さらに少なくなります。ただ、奥へ向かった者が避難先へ進まないか心配です」
弥四郎は宇平次へ向き直った。
「今から南谷奥の道を守る。敵が村の奥へ進む前に、こちらが場所を取る」
宇平次が頷いた。
「承知しました。善助に道を案内させます」
宗介は、そこで初めて弥四郎が何を考えているのか分かった。
敵の本隊へ正面から挑むのではない。
兵庫助が米を探すために兵を分けたところで、南谷の奥へ進む道を押さえる。
そこを守れば、避難した村の者たちを守れる。
しかも敵は、食い物を探すために兵を分けている。
南谷外れへ残る兵の数も減る。
そこで初めて、戦う場所をこちらが選べるのだ。
◇
宇平次の槍が、南谷の道へ並んだ。
昨日、敵に押し込まれた場所より少し奥である。
そこには低い土手があり、片側に水の抜ける細い溝が走っていた。
善助が何度も泥を掻いた場所だった。
道幅は広くない。
槍を持った兵が、一度に大勢進むには向かない。
弥四郎は自ら土手の上へ立った。
その下で、宇平次が足軽を並べる。
宗介は少し離れた場所にいた。
善助とともに、避難先へ戻る道を確かめている。
もし敵が押し込んできたら、ここで退く。
そのための道も見ておかなければならなかった。
宗介は、近くに積まれた小袋へ目を向けた。
南谷の者が持ち出した米である。
すでに避難先へ運ばれたものも多いが、途中に残っている袋もあった。
これを敵へ渡すわけにはいかない。
「善助さん。残っている米は、今のうちに奥へ運びましょう。槍がぶつかってからでは、人足が動けなくなります」
善助は頷き、弥三たちへ声をかけた。
男たちが小袋を背負い、谷の奥へ向かう。
宗介は、その列を見送った。
自分は荷を背負っていない。
情けないことに、五十一歳の体では、山道を往復するだけでも息が上がる。
だが、誰がどの荷を運び、どこへ置いたかを見ることならできる。
それでよい。
そう思うことにした。
その時、谷口の方から怒鳴り声が響いた。
「片瀬の兵が前へ出てきたぞ!」
兵庫助の声だった。
宇平次が槍を構える。
敵の兵が数人、道へ現れた。
兵庫助自身も、その後ろにいる。
しかし、昨日より明らかに人数が少なかった。
五人は帰った。
食い物を探す者は、別の家へ回っている。
渡しへ戻った者もいる。
今、兵庫助の手元にいるのは、見える限り十人余りだった。
それでも笠森の兵より多い。
宇平次は油断しなかった。
槍を並べたまま、兵庫助へ声を張った。
「南谷奥へ進むな! 村の者はすでに退いている。家を荒らし、米を奪うためにこれ以上兵を進めるなら、笠森が相手になる!」
兵庫助は苦々しげに顔を歪めた。
「片瀬の若造め。兵を少し並べたくらいで、和木原の軍勢に勝てると思うな!」
弥四郎は土手の上から答えた。
「勝てると思うから出てきたのではない。南谷の者を守るために出てきた。お前が兵を退けば、笠森も追わぬ」
「退く理由などない!」
「ならば、ここで戦うしかないな」
弥四郎の声は静かだった。
宇平次が槍を構え直す。
敵の兵も前へ出た。
最初の一人が槍を突き込む。
宇平次はそれを払い、足元へ穂先を向けた。
男は慌てて下がる。
別の兵が横へ回ろうとしたが、土手の斜面で足を滑らせ、十分に踏み込めなかった。
笠森の足軽たちは、狭い道へ槍を揃えている。
敵が一人ずつ前へ出ても、簡単には抜けない。
宗介は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
昨日と同じように怖かった。
いや、昨日より怖い。
今度は、逃げ遅れた村の者たちの食い物が背後にある。
敵を通せば、それも奪われるかもしれない。
宇平次が一歩踏み込んだ。
槍の石突きが敵兵の胸へ当たり、男が後ろへ倒れる。
続いて笠森の足軽が槍を前へ出し、敵の進みを止めた。
兵庫助が怒鳴る。
「押し込め! 数はこちらが多い!」
だが、兵は思うように動かなかった。
正面には笠森の槍。
片側には土手。
もう片側は細い溝と湿った土地。
一度に大勢で押し込めない。
しかも、兵庫助の後ろには、もう以前のような人数がいなかった。
宗介は、その違いを見た。
数が少ない。
そして、何人かの兵は明らかに疲れている。
腹を空かせているのかどうかまでは分からない。
だが、昨日から村の家を改め、食い物を探し、ろくに休めていないことは確かだろう。
兵庫助は、まだ戦える。
しかし、その兵をどこまで使えるのか。
そこが問題だった。
弥四郎が声を張った。
「兵庫助! 川筋の警固に来た者を、南谷の家を荒らすために使うな! これ以上進めば、和木原の兵を失うぞ!」
兵庫助は歯を食いしばった。
振り返る。
後ろから別の兵が走ってきた。
食い物を探しに出ていた者らしい。
「兵庫助様! 谷の奥へ続く道にも笠森の者がおります。米はほとんど見つかりませぬ!」
その報告を聞いた瞬間、兵庫助の顔が変わった。
宗介は息を呑んだ。
敵は、南谷へ入れば米が手に入ると思っていたのだろう。
だが、村の者たちは持てるだけ持ち出した。
家に残った米は少ない。
その上、笠森の兵が谷の奥へ通じる道を押さえている。
ここで戦い続けても、米が手に入る保証はない。
むしろ、兵を失う危険が増えるだけだ。
兵庫助は、しばらく弥四郎を睨んでいた。
やがて、苦々しげに命じた。
「兵を下げろ。渡しへ戻る」
宇平次は槍を下ろさなかった。
敵が本当に退くまで、道を守るためだ。
兵庫助は、最後に弥四郎へ言い放った。
「今日は退く。だが、南谷を守りきったと思うなよ。和木原主膳様は、まだ兵を持っておられる」
弥四郎は静かに答えた。
「分かっている。だからこそ、こちらも守る」
兵庫助は舌打ちし、背を向けた。
和木原の兵が、川沿いの道へ下がり始める。
足取りは重かった。
誰も勝ち誇っていない。
槍を持ったまま、ただ歩いていく。
宗介は、その背中を見ていた。
兵を失う前に退いたのだ。
和木原にも、守らなければならない兵がいる。
食わせ続けなければならない兵がいる。
それを、今日の兵庫助は選んだのだろう。
◇
夕方、南谷外れの家々へ人が戻り始めた。
もちろん、すぐに全員を帰したわけではない。
宇平次が川沿いの道へ見張りを出し、敵の兵が十分に離れたことを確かめてから、善助と弥三が家の様子を見に行った。
宗介も同行した。
戸の外れた家。
荒らされた土間。
ひっくり返された籠。
昨日までの暮らしが、そのまま壊されていた。
宗介は、胸が痛むのを感じた。
南谷を取り戻した。
だが、元どおりになったわけではない。
残された米の一部は奪われた。
家の道具も壊されている。
畑を踏まれた場所もあった。
弥三が、家の前で立ち尽くしていた老人へ声をかける。
「まず、家へ戻れたことを喜びましょう。壊れたものは、あとで見ます」
老人は頷いた。
だが、顔には笑みがなかった。
宗介は、その様子を見て思った。
敵が退けば終わりではない。
その後に、人を食わせる仕事が残る。
家を直す仕事が残る。
畑を戻す仕事も残る。
戦は、槍を下ろした後も続く。
それでも、今日は明らかな前進だった。
和木原の兵は、南谷へ居座れなかった。
飯を集められず、兵を分け、周辺の小領主から来た者にも見放され、最後には退いた。
笠森の兵が多かったからではない。
地の利を使い、村の者を逃がし、米を運び出し、戦う場所を選んだからだ。
そして何より、敵が思うように兵糧を得られなかったからだった。
宗介は、荒らされた家の前で立ち止まった。
昨日、ここから米の小袋を背負って逃げた者たちがいる。
あの時、すべてを運べなかったことが悔しかった。
だが、持ち出せた分だけ、敵へ渡さずに済んだ。
その米が、今は南谷奥の者たちの腹を支えている。
宗介はようやく、その意味を実感した。
笠森へ戻ると、片瀬弥四郎が城庭で報告を受けていた。
宇平次は、和木原の兵が川沿いの旧道を戻ったこと、南谷外れを再び笠森の見張りが確かめられる状態になったことを伝えた。
弥四郎は静かに頷いた。
「よくやった。だが、今夜は油断するな。和木原が兵を戻しただけなら、また来ることもある」
「承知しました」
「南谷の者は、家を確かめたら今夜は安全な場所で休ませろ。明日になってから、戻れる家と直さねばならぬ家を分けて見ればよい」
宗介は頭を下げた。
無理に全員を家へ帰せば、また兵が来た時に逃げ遅れる。
それでは意味がない。
今は戻れる道があることを確かめた。
家へ戻るのは、その後でよい。
弥四郎は宗介へ向き直った。
「今日、和木原が退いた理由は、兵糧だけではない。だが、兵を食わせられぬことが、向こうの判断を重くしたのは確かだろう」
「はい。ほかの家から来た五人が帰ったことも大きかったと思います。あの者たちに、南谷の家を荒らす義務はありませんでした」
「そうだな」
弥四郎は頷いた。
「人を集めれば兵になる。だが、集めた者が皆、同じ理由で戦うわけではない。飯も同じだ。誰の飯で、誰を食わせているかを知らねば、軍勢の本当の力は分からぬ」
宗介は、その言葉を胸に刻んだ。
兵を何人集めたか。
槍が何本あるか。
それだけでは、軍勢の強さは分からない。
飯を誰が持っているのか。
その飯を誰へ渡せるのか。
どこまで運べるのか。
そして、いつまで食わせられるのか。
そのすべてが、兵の動きを決める。
宗介はようやく、自分の仕事が戦の勝敗へ直接つながっていることを知った。
弥四郎が最後に言った。
「今日は南谷を取り戻した。次は、和木原がなぜこれほど笠森の道を欲しがるのか、そこまで見ねばならぬ」
宗介は顔を上げた。
その通りだった。
和木原主膳は、すでに多くの銭と兵糧を使っている。
黒谷の炭道を押さえ、牛渡しへ杭を持ち込み、槙尾西沢へ飯場を据えようとし、最後には南谷へ兵を進めた。
そのたびに笠森が抵抗している。
それでも、やめようとしない。
単に渡し賃を取るためだけなら、ここまで兵を動かすだろうか。
宗介には、まだ答えが出なかった。
だが、和木原の兵を見れば、何か分かるかもしれない。
彼らは飯を必要としている。
食わせるために麦を買い、釜を運び、人足を使っている。
その兵を動かしてまで、主膳は何を手に入れたいのか。
宗介は、城の蔵へ目を向けた。
笠森の米は、まだ少ない。
だが、今日は南谷から運び出した米が、村の者たちの腹を守った。
敵へ奪わせなかったことが、戦いを短くした。
それは、槍を振らない自分にもできた仕事だった。
宗介は、薄い粥を口へ運んだ。
米と粟と麦の混じった粥である。
味は決して豊かではない。
だが、今日は昨日より温かく感じられた。
南谷の者たちも、今夜は自分たちの米を食べられる。
和木原の兵は退いた。
それだけで、今日は十分だった。
しかし、弥四郎の言葉が耳に残っていた。
なぜ、和木原はここまで道を欲しがるのか。
宗介は、椀を置いて考えた。
その答えを見つけなければ、また同じ戦いが起きる。
今度こそ、受け身で守るだけでは済まなくなるかもしれなかった。




