第七十一話 釜を返した翌朝
和木原の渡しで陣太鼓が鳴った。
大釜を返してから、まだ一日も経っていない。
夜明けの川面を震わせるような太鼓の音を聞き、小六は牛渡しの見張り場から駆け出した。
知らせが笠森城へ届いた時、久住宗介は喜兵衛と蔵の残りを確かめていた。
「和木原の兵が動きました! 渡しで飯を食わせた後、槍を持った者たちがこちら側へ渡っております!」
小六の声に、城庭の空気が一変した。
片瀬弥四郎が広間から出てくると、宇平次もすぐに駆けつけた。
「見えた兵はどれほどだ。昨日までの見張りとは違うのか」
「二十人は超えております。三十人近いかもしれませぬ。渡しの向こうには、まだ人が残っております」
宇平次の表情が険しくなる。
「集めた兵を、まとめて動かしたか」
小六は頷いた。
「ただ、荷車はついておりませぬ。兵がそれぞれ小さな包みを背負い、槍を持って歩いております」
宗介は顔を上げた。
荷車がない。
釜もない。
昨日まで和木原は、兵を置こうとする場所へ麦と釜を運び込み、そこで飯を炊かせようとしていた。
槙尾西沢でも、川沿いの旧道でも、同じやり方だった。
だが、今回は違う。
大釜は渡しへ戻された。
兵はそこで飯を食い、小さな包みだけを背負って歩き始めた。
宗介には、その違いがひどく気になった。
「小六さん。兵が背負っていた包みは、皆同じくらいの大きさでしたか」
「おおむね同じに見えました。草鞋や縄を腰へつけた者もおります。ですが、遠目でしたので中身までは分かりませぬ」
「ありがとうございます」
宗介は弥四郎へ向き直った。
「若様。和木原は、今度は飯場を作らずに兵を進ませるつもりかもしれません」
弥四郎が目を細める。
「渡しで食わせてから出したのは、そのためか」
「そう考えると筋が通ります。兵が一人ずつ食べ物を持てば、荷車の通れない道でも進めます。大釜を運ぶ必要もありません」
喜兵衛が腕を組んだ。
「ただし、背負った飯を食い尽くせば、それまでだな」
「はい。長く留まるには、後から補給が要ります。ですが、今日一日動くだけなら、今までより身軽です」
宇平次が苦い顔をした。
「和木原も考えたということか」
その通りだった。
笠森は、敵の大釜を奪うことで川沿いの旧道を守った。
黒谷では、釜を返す代わりに兵を退かせた。
和木原は、その両方を見ている。
大きな釜と荷車を前へ出せば、奪われる。
飯場を作れば、その場所を守らなければならない。
ならば、大釜は安全な渡しへ置き、兵だけを動かせばいい。
宗介は、自分たちが敵へ戦い方を教えてしまったような気分になった。
弥四郎は地面へ簡単な道筋を描かせた。
和木原の渡し。
川沿いの旧道。
南谷。
そして笠森城。
「兵が向かった先は分かるか」
「南谷の方角です」
小六が答えた。
「ただ、川沿いの旧道へ入った後のことは分かりませぬ。私は渡しを離れましたので」
弥四郎は頷いた。
「それでよい。渡しを空けたままにするわけにもいかぬからな」
宇平次が口を開いた。
「若様。南谷へ兵を出します。敵が三十人近いなら、城の下まで通してはなりませぬ」
「お前に動かせる兵は、どれほどだ」
「城門と蔵を守る者を残し、槍持ち八人、弓を使える者二人です。昨日の負傷者には休ませております」
十人。
向こうは、その三倍近いかもしれない。
正面から戦えば、苦しい。
弥四郎もそれは分かっているはずだった。
しかし、若い城主は少し考えただけで顔を上げた。
「俺も行く」
宇平次が驚いたように振り向いた。
「若様ご自身が出られるのですか。城を守る者が必要です」
「城門の守りは佐太に任せる。肩の傷があるから前へは出せぬが、兵をまとめる仕事ならできる」
弥四郎は続けた。
「和木原が兵を三十人集めたからといって、南谷の者を見捨てるわけにはいかぬ。俺が城へ籠もっている間に村を焼かれれば、笠森を守ったことにはならん」
その言葉に、宇平次は深く頭を下げた。
「承知しました。若様の前は、私が守ります」
宗介は胸の奥が重くなるのを感じた。
弥四郎が自ら出る。
それほどの事態なのだ。
もう、札を作って商人を説得するだけの争いではない。
槍を持った者が南谷へ向かっている。
その槍を止めるために、笠森の城主自身が動こうとしていた。
◇
南谷へ向かう支度が始まると、宗介は喜兵衛に呼び止められた。
「お前は、どれだけ飯を持たせるつもりだ」
蔵の前には、すでに小さな握り飯が並んでいる。
おきぬが朝の残りを使い、急ぎで用意したものだった。
「兵が十人、若様と宇平次さん、それに俺も行きます。昼までに戻れるとは限りませんから、一人二つは欲しいです」
「城の米も少ないぞ」
「分かっています。でも、腹を空かせたまま槍を持たせるわけにはいきません」
喜兵衛はしばらく黙っていた。
それから、宗介へ一包みを渡した。
「これはお前の分だ。忘れるな」
「俺は戦わないので、後でも構いません」
「戦わなくても歩く。お前は山道を少し登っただけで息が上がるだろう。途中で倒れられた方が迷惑だ」
宗介は苦笑した。
言い返す余地がない。
五十一歳の体は、若い足軽のようには動かない。
米俵を背負うどころか、自分の体を運ぶだけで精一杯である。
それでも、自分の腹を空にしてよい理由にはならなかった。
おきぬが竹筒を差し出す。
「水も持っていきな。南谷に水場があるからって、敵が来てる時に好きなところへ汲みに行けるとは限らないよ」
「ありがとうございます」
「それから、怪我人が出たら泥手で傷に触るんじゃないよ。布も持たせたから、宇平次たちへ渡しな」
宗介は深く頷いた。
槍の備えは宇平次。
飯の備えは喜兵衛とおきぬ。
道を知るのは善助たち。
そして、自分はそれをどう動かすか考える。
役目が違っても、誰かが欠ければ軍勢は動かない。
宗介は、握り飯の包みを懐へ収めた。
今日ほど、その小さな重みをありがたく感じたことはなかった。
南谷へ向かう道の途中で、善助と弥三が合流した。
二人とも顔が険しい。
「村の者には知らせました」
善助が言った。
「川向こうから兵が来るなら、南谷外れの家に残るのは危ない。子どもと年寄りには、谷の奥へ移るよう伝えております」
弥四郎が頷く。
「よく動いてくれた。家の者に無理はさせるな。城へ来る者がいれば受け入れるが、皆を城へ集めるだけの飯があるわけではない。まずは南谷の奥で身を守れ」
「承知しております」
弥三が口を開いた。
「ただ、米を置いていくのを嫌がる者がおります。家に蓄えたものを、和木原の兵へ渡すくらいなら背負って逃げると言い張っております」
宗介はその言葉に足を止めた。
当然だった。
戦国の百姓にとって、家の米は命そのものだ。
それを置いて逃げろと言われて、簡単に頷けるはずがない。
だが、米俵を背負ったまま山道を逃げるのは危ない。
子どもを連れ、年寄りを支え、さらに重い米を持てば、逃げ足は遅くなる。
宗介は弥三へ尋ねた。
「持ち出せる米は、小さな袋へ分けられていますか。俵のままでは、逃げる途中で動けなくなると思います」
「まだ分けておりませぬ。荷車へ載せようとしている家もあります」
「荷車は道を塞ぎます。逃げる者が増えれば、すれ違うことも難しくなる。まず家族が持てる分だけ分け、重いものは無理に動かさない方がよいです」
弥三の顔が曇った。
「残した米を奪われれば、冬を越せぬ家も出ます」
宗介は口を閉じた。
その通りだった。
人が助かればよい。
そう簡単に言い切れる話ではない。
命だけ助かっても、食べ物を奪われれば、その先がない。
弥四郎が、二人の間へ入った。
「南谷の者へ伝えよ。逃げる者には、小荷に分けた食い物を持たせる。笠森からも運ぶ手を出す。ただし、荷車で道を塞ぐな。持ち出せぬ米を守るために命を捨てることも許さぬ」
弥三が頭を下げた。
「承知しました」
「残る米については、俺が考える。今は人を奥へ下がらせろ」
若い城主の声には、逃げ道がなかった。
宗介は、その横顔を見ていた。
弥四郎は、米を守れると約束しなかった。
守れないものまで守ると言えば、村の者を危険へ引き戻してしまうからだろう。
その厳しさを、宗介も理解し始めていた。
◇
南谷外れの道へ着いた頃には、日が高くなっていた。
谷へ入る手前には、低い土手と細い溝がある。
以前、雨の後に水が溜まり、善助たちが泥を掻いた場所だった。
その先の道は、荷車が行き違うには狭い。
宇平次は、その曲がりで足を止めた。
「ここで迎える」
弥四郎が周囲を見回す。
「城へ続く道を守りながら、南谷の者が退く時間を稼げるか」
「この幅なら、敵が三十人いても一度に前へ出られるのは数人です。槍を揃えれば、しばらくは持ちこたえられましょう」
宇平次はそう答えたが、楽観している様子はなかった。
数で負けていることに変わりはない。
敵が別の道へ回れば、挟まれる危険もある。
宗介は、土手の向こうに広がる畑を見た。
南谷の者が耕した土地である。
ここを戦場にすれば、畑も傷む。
溝も崩れる。
だが、ここを通されれば、城下まで敵が進んでくる。
どちらを選んでも、損は避けられない。
その時、善助が谷の方から戻ってきた。
「若様。南谷外れの者は、ほとんど奥へ下がりました。ただ、家の米を運ぶ者がまだおります」
宗介は顔を上げた。
「人数は分かりますか」
「男が五人ほど。女衆も二人おります。小袋へ分けて運び始めたところですが、道が細く、何度も往復しております」
宗介は考えた。
敵が来るまで、どれだけ時間があるか分からない。
米を運びきれないかもしれない。
だが、まだ運んでいる者がいるなら、途中で放り出させるわけにもいかない。
「若様。俺は南谷の方へ戻り、荷を運ぶ人たちを見たいです。ここで槍を見ていても、役には立てません」
弥四郎は宗介へ向き直った。
「分かった。善助をつける。敵が見えたら荷を捨てても退け。米のためにお前を失うつもりはない」
「承知しました」
宗介は頭を下げた。
宇平次が一度だけ振り返る。
「宗介。後ろの者を早く下がらせろ。こちらも、いつまでも敵を止められるとは限らん」
「はい。お願いします」
宗介は善助とともに、谷の奥へ走りかけた。
しかし、数歩で息が上がった。
情けないことに、五十一歳の脚では、足軽のようには走れない。
善助が少し速度を落とす。
「久住殿、無理をなさらず。道はまだあります」
「……ありがとうございます」
宗介は息を整えながら、歩幅を広げた。
背後では、宇平次が足軽たちへ槍の位置を命じている。
その声が遠ざかるほど、胸の不安は大きくなった。
◇
南谷の集落は、いつもと違う静けさに包まれていた。
家の戸が開いたままになっている。
干していた布が取り込まれ、竈の火も落とされていた。
犬の鳴き声が遠くから聞こえる。
道の脇には、急いで持ち出したらしい籠がひとつ置かれていた。
宗介は、その光景を見て足を止めた。
人が暮らしていた場所が、急に空になる。
それは、何とも寂しいものだった。
だが、今は感傷に浸っている暇はない。
村の奥では、男たちが小袋を背負って歩いていた。
その中に権太の姿もあった。
下河原の溝を直すため、笠森で普請飯を食べていた男である。
今日は家の仕事ではなく、南谷の者たちを手伝いに来ていたらしい。
「久住殿。まだ米が残っております」
権太は肩で息をしながら言った。
「三軒分です。小袋へ分けましたが、運ぶ手が足りません」
宗介は小袋の数を見た。
十を超えている。
それぞれは大きくない。
だが、全部を運ぼうとすれば、何度も往復する必要がある。
「先に、運べる人を確認しましょう。無理に一人で二つ持たせないでください。足を取られて転べば、米だけでなく人も失います」
権太は頷いた。
「分かりました」
宗介は、袋の置き場所を変えさせた。
奥へ運ぶもの。
すぐ背負えるもの。
まだ口を締め直す必要があるもの。
それぞれを分け、運ぶ者が迷わず持てるようにする。
だが、その間にも時間は過ぎていく。
宗介の心臓は落ち着かなかった。
背後の谷口では、宇平次たちが敵を待っている。
いつ槍がぶつかるか分からない。
その時だった。
遠くで、男の怒鳴る声がした。
続いて、金属のぶつかる音。
宗介は顔を上げた。
宇平次たちが、敵と接触したのだ。
「善助さん。残りの荷を運ぶ人は、もう戻らせないでください」
宗介は言った。
「今持っているものだけで奥へ下がりましょう。これ以上、谷口へ近い場所へ人を出すのは危険です」
権太が悔しそうに顔を歪めた。
「まだ米が残っています」
「分かっています。でも、ここで皆が捕まれば、米を持ち出した意味がなくなります」
権太はしばらく黙っていた。
やがて、深く頷いた。
「……分かりました」
宗介は小袋をひとつ持ち上げようとした。
腰へ重みがかかる。
思わず顔をしかめた。
やはり、重い。
若い男なら簡単に背負えるものでも、自分には厳しかった。
善助がすぐに手を伸ばした。
「久住殿。それは私が持ちます。あなたは、奥で人が迷わず進めるよう見てください」
宗介は悔しさを飲み込んだ。
「お願いします」
そして、集落の奥へ向かう人の列を見た。
子どもを抱えた女。
杖をつく老人。
小袋を背負った男たち。
誰もが不安そうな顔をしている。
だが、足は止まっていなかった。
宗介は、その列の最後尾について歩いた。
後ろからは、まだ槍の音が聞こえていた。
◇
谷口では、宇平次が敵の兵を押しとどめていた。
敵は二十人を超えている。
その先頭に立っているのは、以前槙尾西沢で飯場を据えようとしていた大塚兵庫助だった。
兵庫助は、笠森の槍が道を塞いでいるのを見て顔を歪めた。
「また片瀬の兵か。貴様らはどこまで和木原の警固を邪魔するつもりだ」
宇平次は槍を構えたまま答えた。
「ここから先は南谷の集落だ。和木原が兵を進める理由はない。川筋の警固と言い張るなら、川へ戻れ」
「主膳様は、笠森が勝手に道と水場を押さえ、商人を囲い込んでいることを問題にしておられる。今度こそ、その勝手を改めさせる」
兵庫助が手を上げると、後ろの兵が槍を揃えた。
宇平次は一歩も退かなかった。
弥四郎も、その隣に立っていた。
若い城主は、兵庫助を真っ直ぐ見据える。
「大塚兵庫助。和木原主膳へ伝えよ。笠森は水場を奪っておらぬ。牛渡しも、渡れる日だけ使っている。槙尾の裁定も受けた。それでも兵を進めるなら、今度は俺が相手になる」
兵庫助の目が細くなった。
「片瀬弥四郎殿か。若い城主が自ら槍の前へ出るとは、随分と勇ましいことだ」
「勇ましさを競いに来たのではない。南谷の者を守りに来た」
弥四郎は静かに答えた。
「ここを通るなら、笠森と戦う覚悟が要る」
兵庫助はしばらく弥四郎を見つめていた。
やがて、ゆっくり手を上げる。
敵の槍が前へ出た。
宇平次が声を張った。
「槍を揃えろ! 道幅を使え!」
笠森の足軽たちが槍を並べる。
狭い道に、鉄の穂先が光った。
最初の敵兵が突き込んでくる。
笠森の槍がそれを受け、別の穂先が横から伸びた。
敵兵は踏み込みきれず、後ろへ下がる。
続いて二人目。
今度は宇平次が槍を払い、相手の足元へ鋭く突き出した。
男は慌てて後ずさった。
兵庫助が怒鳴る。
「左右へ回れ! この道だけを見ていては進めん!」
宇平次の顔が険しくなった。
敵は道の狭さを嫌い、両脇の畑へ兵を回そうとしている。
そこを通られれば、笠森の少ない槍では止めきれない。
しかし、弥四郎がすぐに命じた。
「宇平次、右の兵を二人回せ。左は土手が高い。こちらが先に場所を取れば、敵は簡単には登れぬ」
「御意!」
足軽二人が横へ走る。
宇平次は槍を構えたまま、敵の正面を見据えた。
この場で勝ち切る必要はない。
南谷の者が逃げる時間を稼げば、それでよい。
だが、敵にその意図を悟られれば、兵庫助はさらに兵を回してくるだろう。
宇平次は歯を食いしばった。
いつまで持つか。
それは、分からなかった。
◇
宗介が南谷の奥で最後の者を送り出した時、谷口から足軽が一人戻ってきた。
顔に泥がつき、息を切らしている。
「久住殿。若様より伝言です。村の者を下がらせたなら、すぐ城の方へ戻れ、と」
宗介は頷いた。
「村の外れに残っている人はいませんか」
「こちらで確かめた限りでは、すでに奥へ移っております」
宗介は、もう一度集落を見回した。
戸の開いた家。
残された籠。
持ち出せなかった米。
そこには、確かに人が暮らしていた。
だが、今は誰もいない。
宗介は胸の奥が痛くなるのを感じた。
守れたのは人だけだ。
米も、家も、畑も、すべて守れたわけではない。
それでも、今は戻るしかなかった。
城へ向かう道へ足を踏み出した時、背後から大きな声が響いた。
「笠森の兵が下がるぞ!」
宗介は振り向いた。
谷口の方から、槍を持った足軽たちがこちらへ退いてくる。
宇平次が最後尾に立ち、敵との間を保ちながら下がっていた。
弥四郎の姿もある。
若い城主は、兵たちへ何度も声をかけていた。
「急ぐな! 背を見せて走るな! 槍を揃えたまま下がれ!」
足軽たちは、その声に従っている。
敵も追ってきていた。
だが、笠森の槍が正面を向いているため、容易には踏み込めない。
その間に、村の者たちはさらに奥へ進んでいった。
宗介は、自分にできることを考えた。
槍は持てない。
敵を止めることもできない。
だが、退いてくる兵がそのまま城へ戻れば、腹を空かせたまま次の守りにつかなければならない。
今日は朝から動いている。
槍を構え続けていた腕も疲れているはずだった。
「善助さん。村の奥で、飲み水を用意できる場所がありますか」
善助は頷いた。
「あります。南谷の井戸が使えます。ただし、そこへ敵が来る前に離れなければなりませぬ」
「では、城へ戻る道の途中で、兵が水を飲めるようにしましょう。長く休ませるのではなく、一度だけ息を整えられる場所が欲しいんです」
宗介は足軽へ向き直った。
「若様へ伝えてください。村の者は下がりました。退く兵のために、城へ戻る途中で水を用意します」
足軽は頷き、再び走った。
宗介は、善助とともに井戸へ向かった。
もう、ゆっくりしている時間はない。
それでも、兵が倒れる前に水を飲ませたい。
握り飯も、まだ少し残っている。
城へ戻ってからでは遅い者もいるかもしれない。
宗介は、懐の包みを確かめた。
小さな握り飯。
それだけだった。
だが、今の自分にできる仕事は、それを必要な者へ渡すことだった。
◇
夕方、笠森の兵は城下へ戻った。
負傷者が二人出た。
一人は腕を切られ、もう一人は槍で脇腹を浅く傷つけられた。
死者は出ていない。
だが、誰も勝った顔はしていなかった。
南谷の外れには、和木原の兵が入った。
家の中を改め、残された米や食い物を探しているという知らせも届いた。
弥四郎は、城門の内側でその報告を聞いた。
宗介は、その横に立っていた。
「南谷の者は、ほとんど奥へ逃がせたのだな」
「はい。善助と弥三が確認しております。ただ、米や道具をすべて運び出すことはできませんでした」
弥四郎は頷いた。
「守れなかったものは、あとで数える。まず人が生きていることを確かめろ」
宇平次が顔を上げた。
「若様。敵は南谷へ入っております。今夜のうちに城へ向かってくる可能性もあります」
「分かっている。城門を固めろ。弓を持つ者は、夜も交代で立たせる。ただし、休ませる者は休ませよ。敵が動かぬのに全員を起こしておけば、明日こちらが先に倒れる」
「御意」
宇平次は深く頭を下げた。
宗介は、弥四郎の横顔を見ていた。
若い城主は、今日も退かなかった。
しかし、南谷を守りきることもできなかった。
兵の数が違いすぎる。
その現実を、今は誰も否定できなかった。
「宗介」
弥四郎が声をかけた。
「今日、南谷からどれほど米を運べた」
宗介は正直に答えた。
「まだ数えきれていません。小袋で持ち出したものが幾らかあります。ただ、すべてを城へ集めたわけではありません。村の者が自分の家の分を持っています」
弥四郎は頷いた。
「それでよい。笠森が全部取り上げる必要はない。各々が食って生きられることが先だ」
「はい」
「だが、南谷の外れを敵に押さえられた以上、次の荷をどう通すか考えねばならんな」
宗介は顔を上げた。
その通りだった。
和木原は、城を攻め落としたわけではない。
だが、南谷の外れを押さえた。
そこを通る道は、しばらく使いにくくなるだろう。
南谷の水場も、牛渡しへ向かう道も、敵の目が届くようになる。
槙尾から買った穀物を運ぶにも、道を選ばなければならない。
宗介は、胸の奥で何かが重く沈むのを感じた。
黒谷を取り戻した。
釜を返した。
それで少しは落ち着くと思っていた。
だが、和木原は大釜を取り戻した翌朝、兵へ飯を食わせ、身軽にして南谷へ進ませた。
こちらが一つ守れば、向こうは別の場所へ来る。
その繰り返しで、笠森の兵も米も減っていく。
いつまでも受け身でいては、いずれ守りきれなくなる。
「若様」
宗介は口を開いた。
「和木原は、今日の兵をどこで食わせるつもりなのでしょう」
弥四郎が宗介を見る。
「渡しへ戻さぬなら、南谷で食わせるつもりだろう」
「はい。ですが、今朝の兵は大きな荷を持っていませんでした。背負った小袋だけです」
宇平次も顔を上げた。
「つまり、持参した飯が尽きれば、補給が要るということか」
「そうです。南谷に残った米を奪うか、和木原の渡しから運ぶしかありません」
宗介は地面へ道筋を描いた。
和木原の渡し。
川沿いの旧道。
南谷の外れ。
そして笠森城。
「和木原が今夜も南谷に兵を置くなら、明日には食べ物を運ぶ必要が出るかもしれません。敵がどれだけ持参しているか分からないので、断言はできませんが……」
弥四郎は頷いた。
「ならば、和木原は南谷を押さえた代わりに、兵を食わせ続けねばならぬわけだな」
「はい」
「こちらは城へ戻れば、蔵の米を使える」
「そうです。ただ、籠城すればこちらの米も減ります。長く続けば、笠森が苦しくなります」
弥四郎は地面の道筋を見つめた。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「宇平次。今夜は兵を休ませろ。明朝、敵の数と荷の動きを確かめる」
「御意」
「そして宗介」
「はい」
「今日から、お前に城の兵糧だけでなく、南谷から運び出した食い物と、城へ入る荷の段取りを任せる」
宗介は思わず顔を上げた。
弥四郎は続けた。
「村の者が自分で持っている米まで取り上げろという意味ではない。笠森が出す飯、城へ預けられる荷、それを運ぶ人足のことだ。喜兵衛と相談して決めよ」
責任が増える。
それも、今までとは比べものにならないほど重い責任だった。
城の中だけなら、蔵を数えればよかった。
だが、南谷の者が避難している今は違う。
誰がどれだけ食えるのか。
城へ持ち込める荷はどれだけあるのか。
運ぶ人足をどこへ出せるのか。
それを考えなければ、兵も村の者も動けない。
宗介は、乾いた喉を鳴らした。
「俺に、務まるでしょうか」
弥四郎は、少しだけ笑った。
「分からぬ。だが、今までお前がやってきたことだ。米を数え、人を食わせ、荷を運ばせる。それを南谷の者にも広げるだけだ」
「……簡単にはいかないと思います」
「簡単なら、俺がこんなに困っておらん」
弥四郎の声には、大人びた落ち着きがあった。
「無理なことまで引き受けるな。足りぬものは足りぬと言え。その上で、どう動かすか考えろ」
宗介は深く頭を下げた。
「承知しました」
その時、城門の方から声が響いた。
「南谷より知らせ!」
全員が振り向いた。
駆け込んできたのは、善助の使いだった。
顔が青ざめている。
「和木原の兵が、南谷外れの家へ入っております。米を探していたようですが、思ったほど残っていなかったらしく……」
男は息を整えた。
「兵庫助が、明朝までに食い物を集めろと人足へ命じておりました!」
宗介は顔を上げた。
やはり、来た。
和木原の兵は南谷へ入った。
だが、米を十分には手に入れられなかった。
村の者たちが小袋へ分け、持てるだけ運び出したからだ。
和木原は兵を集め、道を奪った。
しかし、兵を食わせる飯までは奪えなかった。
弥四郎が静かに言った。
「宗介。お前の仕事が、早速始まったな」
宗介は頷いた。
敵は明朝までに食い物を集めなければならない。
こちらも、明日から南谷の者を食わせなければならない。
どちらの腹が先に尽きるか。
その勝負が、今度こそ始まろうとしていた。
宗介は、城の奥にある蔵へ目を向けた。
米は多くない。
麦も粟も稗も、食べれば減る。
だが、南谷から運び出した小袋がある。
黒谷では彦蔵たちが窯を直している。
槙尾には、まだ商いの荷がある。
道はすべて塞がれたわけではない。
宗介は大きく息を吸った。
和木原の兵に勝つため、槍を振ることはできない。
だが、笠森の兵と村の者を、明日も食わせることなら考えられる。
そのために必要なものを集め、運び、減らさずに使う。
五十一歳の兵糧係が、ようやく本当の意味で戦の中へ踏み込んだ日だった。




