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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第六十八話 黒谷の煙が消える日

 夜明けの黒谷から、煙が上がっていなかった。


 久住宗介がその異変を知ったのは、宇平次たちが山道の見張りから戻ってきた時だった。


 昨日、和木原の兵を川沿いの旧道から追い払い、麦三俵と大釜を持ち帰った。笠森にとっては、初めて敵の軍荷を奪った戦いである。


 だが、その夜のうちに和木原は動いていた。


 荷車を使わず、人足に麦を背負わせ、今度は黒谷へ向かう古炭道の入口に兵を集めたという。


 片瀬弥四郎は夜のうちに城の備えを確かめ、宇平次には明朝、道の様子を見に行くよう命じていた。


 そして朝になり、太助が黒谷の方角を見て顔色を変えたのである。


「煙が見えねえ」


 その言葉に、宗介は首を傾げた。


「窯の火を落としたということでしょうか」


「彦蔵は、昨日まで炭を焼いていた。まだ窯を締めるには早い。煙が消えたなら、何かあったと見るべきだ」


 太助の声には、普段の荒っぽさがなかった。


 黒谷の彦蔵は、かつて太助が灰原甚内の下で炭を安く取り上げていた相手である。


 笠森へ降った後、太助は黒谷へ足を運び、過去のことを詫びた。その後は、炭を奪うのではなく買うようになり、火所で使った灰を山へ戻す約束まで交わしている。


 ようやく関係が戻り始めたところだった。


 そこへ和木原の兵が来た。


 宗介は、嫌な予感を抑えられなかった。


「宇平次さん。黒谷へ向かった兵は、何人ほどでしょう」


「古炭道の入口で見えた槍は十本余りだ。ほかに麦を背負う人足が七、八人ほどいた。まだ奥にも兵がいるかもしれん」


 宗介は思わず黙った。


 昨日、笠森が川沿いの旧道で戦った相手は、武装した者だけなら七人ほどだった。


 今回は、それより多い。


 しかも荷車を捨て、人の背に麦を載せている。


 道が狭くても進めるよう、運び方を変えたのだろう。


 宇平次が続けた。


「こちらは城の守りを残さねばならん。昨日の負傷者もいる。黒谷へ兵を集めすぎれば、城門が薄くなる」


 宗介は頷いた。


 和木原が狙っているのは、黒谷だけとは限らない。


 兵を上流へ動かして笠森の足軽を引きつけ、その隙に川沿いの旧道から別の兵を出すことも考えられる。


 敵はすでに何度も道を変えている。


 こちらが追い回されれば、先に疲れるのは笠森だった。


 弥四郎は報告を聞き終えると、宇平次へ向き直った。


「黒谷へは、お前が行け。太助を連れ、山の道を確かめよ。ただし、敵が大勢なら戦を仕掛けるな」


「承知しました」


「彦蔵たちが危うければ、まず人を逃がせ。炭窯を守るために城の兵を失うことはできぬ」


 太助が顔を上げた。


 何か言いたそうだったが、口を閉じた。


 弥四郎は、その顔を見て静かに続けた。


「窯を見捨てろと言っているのではない。だが、窯は直せても死んだ者は戻らぬ。そこを間違えるな」


 太助は深く頭を下げた。


「分かりました」


 宗介も同行することになった。


 ただし、宇平次からは厳しく釘を刺された。


「お前は荷と人足を見る。槍が出たら後ろへ下がれ。昨日のように敵と向き合う場所へ出てくるな」


「はい。昨日だけでも、十分怖い思いをしました」


「なら、今度は忘れるな」


 宇平次はそれだけ言い、足軽たちへ支度を命じた。


     ◇


 古炭道の入口には、踏み荒らされた草が残っていた。


 昨日までなら、炭を背負う者が通る細い道である。


 ところが今朝は、草の上に新しい足跡が重なり、枝の何本かが荒く折られていた。


 太助がしゃがみ込み、泥の跡を確かめる。


「大勢通ってやがる。しかも荷を背負ってるな」


 宗介は少し離れた場所から覗き込んだ。


 足跡の深さまでは分かる。


 だが、何を背負っていたかなど、見ただけでは判断できない。


「昨日見えた人足でしょうか」


「おそらくな。足跡が深いのに、歩幅が短い。坂を登るのに難儀したんだろう」


 太助は立ち上がり、山の方を見た。


「彦蔵の窯へ行くなら、もうひとつ道がある。荷を背負った者にはきついが、身軽なら先回りできるかもしれねえ」


 宇平次が周囲を見回した。


「敵の見張りがいないと確かめてから進む。昨日も曲がりに伏せていた。急いで飛び込めば、今度はこちらが射られる」


 その判断に従い、先に足軽二人が高みへ上がった。


 宗介たちは木陰で待つ。


 少しすると、一人が戻ってきた。


「宇平次殿。道の先に兵がおります。麦らしい小袋を背負った者も見えました」


「どこまで進んでいる」


「黒谷への分かれ道です。人足が荷を下ろし、休んでおります」


 太助の顔が険しくなった。


「あそこを取られたら、黒谷へ荷が通らねえ」


 宇平次はすぐには動かなかった。


 まず高みへ上がり、自分の目で敵を確かめた。


 宗介も後ろから続いたが、途中で息が上がり、太助に腕を引かれる始末だった。


 ようやく見下ろせる場所へ出ると、敵の姿が見えた。


 槍を持つ男が十人ほど。


 その後ろで、七人の人足が荷を下ろしている。


 小袋が地面へ並べられ、何人かは腰を落として肩を揉んでいた。


 若い男ばかりではない。


 白髪の混じった者もいる。


 兵の一人が何かを怒鳴り、休んでいた人足を立たせようとした。


 宗介は眉を寄せた。


 あの者たちは、和木原の家臣なのだろうか。


 それとも、銭で雇われた荷持ちか。


 昨日の牛引きと同じように、仕事を断れず連れてこられた者かもしれない。


 しかし、遠目には分からなかった。


「麦の袋は、七つ見えます」


 宗介は小声で言った。


「それだけで十人の兵を何日食わせられるかは分かりませんが、あの荷を運び終えた後、人足をどうするつもりなのかが気になります」


 宇平次が視線を動かす。


「また渡しへ戻して、次の麦を背負わせるのか」


「そのつもりなら、ここは荷を受け取る場所になります。兵を置いて、何度も小荷を運び込めば、黒谷への道を押さえ続けられます」


 太助が低く言った。


「彦蔵の炭も出せなくなる。あそこを押さえられたら、窯で炭を焼いても笠森へ運べねえ」


 宇平次は頷いた。


 それから、太助を見た。


「お前は彦蔵へ知らせろ。道は慎重に選べ。敵に見つかっても、無理に戦うな」


「承知しました」


「宗介も一緒に行け。山の道は太助の方が知っている。俺はここで敵の動きを見る」


 宗介は頷いた。


 正直なところ、槍が見える場所から離れられることに安堵していた。


 しかし、それも束の間だった。


 太助が選んだ道は、宗介にとって十分に恐ろしいものだったのである。


 細い山道。


 片側は急な斜面。


 濡れた落ち葉の下には、滑りやすい土がある。


 木の根につかまりながら進むたび、足元の小石が転がり落ちた。


「太助さん、もう少しゆっくりお願いします」


 宗介が息を切らして訴えると、太助は振り返った。


「悪い。けど、あいつらが黒谷へ入る前に知らせてえ」


「分かっています。俺のことは、足元が悪くなったら置いて先へ行ってください」


「馬鹿言うな。こんなところに一人置いたら、城へ帰れねえだろうが」


 太助は宗介の腕をつかみ、危ない場所を越えさせた。


 何とも情けない話だった。


 米俵どころか、自分の体を山道へ運ぶのが精一杯なのである。


 それでも、黒谷へ着くまでは止まるわけにいかなかった。


     ◇


 彦蔵は、窯の前に立っていた。


 顔も手も煤で黒く汚れている。


 太助の姿を見ると、驚いたように顔を上げた。


「お前がこんな時刻に来るとは、穏やかじゃねえな」


「和木原の兵が古炭道の分かれ口まで来てる。麦を背負わせた人足もいる。黒谷へ入ってくるつもりだ」


 彦蔵の表情が変わった。


「やはりな」


 宗介は顔を上げた。


「何かあったんですか」


「夜のうちに、知らねえ男が谷口を見ていた。炭を買うでもなく、窯の数と人の数を聞いてきやがった」


 彦蔵は窯の方を振り返った。


「今朝、煙を落としたのは俺だ。人が来る前に火を弱めた。まだ炭になりきってねえ木もあるが、兵に窯を使わせるよりましだと思ってな」


 宗介は、窯から上がる煙がほとんど消えていることに気づいた。


 昨日まで焼いていた炭は、まだ仕上がっていないのだろう。


 ここで窯を止めれば、時間も木も無駄になる。


 炭焼きにとって、簡単にできることではないはずだった。


「彦蔵さん。黒谷から出られる道はありますか」


 宗介が尋ねると、彦蔵は首を縦に振った。


「人だけなら、山の裏へ抜ける道がある。ただ、炭をたくさん背負っては通れねえ」


 太助が言った。


「全部持ち出す必要はねえ。人を先に逃がせ。乾いた炭も、持てるだけでいい」


 彦蔵は唇を噛んだ。


「窯はどうする」


 太助は即座に答えなかった。


 彦蔵にとって、窯は仕事そのものだった。


 親の代から使ってきたものもある。


 火を落とし、人が逃げれば、和木原の兵が勝手に使うかもしれない。


 壊されるかもしれない。


 戻った時に何も残っていないかもしれない。


 宗介にも、その怖さは分かった。


 だが、今ここで敵の槍と争えば、彦蔵たちは命を失う。


「彦蔵さん。窯はここから動かせません。でも、炭を焼く人がいなくなったら、窯だけ残っても意味がありません」


 彦蔵は宗介を見た。


 宗介は続けた。


「今日、窯を守ろうとして死んだら、次に炭を焼く人がいなくなります。和木原の兵がここへ入るなら、まず人を逃がしてください。窯をどうするかは、その後で考えましょう」


 彦蔵は黙った。


 太助が横から言った。


「俺は昔、お前の炭を安く取った。あの時は、炭さえ持ち帰れば仕事をしたと思ってた」


 彦蔵の目が細くなる。


「今さら何を言う」


「今度は違う。炭より先に、お前を連れて帰る」


 太助の声は低かった。


「窯を守ろうとして刺されるくらいなら、俺が荷を背負う。笠森で炭が足りなくなったら、そこから考える」


 彦蔵は長く息を吐いた。


 やがて、窯へ歩み寄った。


「……分かった。今日は人を出す」


 その言葉で、黒谷の者たちが動き始めた。


 彦蔵のほかに、炭焼きの男が二人いる。


 三人で窯口を確かめ、火が余計に広がらないようにした。仕上がっていない炭は諦め、使える道具だけをまとめる。


 乾いた炭の小俵も、持てる分だけ選んだ。


 残すものの方が、ずっと多かった。


 宗介は、その光景を見て胸が痛んだ。


 苦労して焼いた炭を置いていく。


 薪も、木も、窯も。


 これまで守ってきたものを、敵が来るからという理由で置いていかなければならない。


 それは、ただ道を塞がれるよりも重いことだった。


 彦蔵は最後に窯の前へしゃがみ込み、煤のついた手で土を撫でた。


「戻ってくる」


 誰へ言ったのか分からない。


 太助も、宗介も、何も答えなかった。


 その時、谷口の方から男の声が響いた。


「黒谷の者はいるか!」


 全員が顔を上げた。


 和木原の兵だった。


 槍を持った男が二人、谷の入口へ現れている。


 その後ろにも人影が見えた。


 太助が宗介の腕をつかんだ。


「下がれ。お前は炭を持って裏へ回れ」


「太助さんは」


「彦蔵を連れていく。ここで争うつもりはねえ」


 宗介は頷いた。


 背負えるほどの小さな炭袋をひとつ受け取った。


 それでも、ずしりと重かった。


 こんなものを背負って、先ほどの山道を戻れるのか。


 不安になったが、今は弱音を吐いている場合ではなかった。


 黒谷の者の一人が先へ立ち、宗介を裏道へ案内した。


 その背後で、彦蔵が和木原の兵へ声を返した。


「黒谷の彦蔵だ。何の用だ」


 槍を持った男が答える。


「和木原主膳様の命により、炭道を改める。しばらくこの谷へ兵を置く。炭窯も調べさせてもらう」


「ここは俺たちが炭を焼く場所だ。勝手に入り込まれちゃ困る」


「川筋の警固だ。従わぬなら、和木原の渡しも使えなくなるぞ」


 彦蔵の声が荒くなった。


「渡しを使わせねえと脅して、今度は窯まで取るのか!」


 男が何か言い返した。


 だが、その言葉は宗介には聞こえなかった。


 山の裏道を登るうちに、谷口の声が遠くなっていく。


 太助が彦蔵を連れて来られるのか。


 宇平次は敵の兵を止められるのか。


 宗介には、何ひとつ分からなかった。


 ただ、背負った炭袋だけが重かった。


     ◇


 山の上で合流した時、太助は彦蔵を連れていた。


 宗介は思わず腰を下ろした。


 安堵した途端、膝が震え始めたのである。


 彦蔵の顔は険しかった。


 後ろにいる二人の炭焼きも、何も話さない。


 太助は宗介の隣へしゃがみ込み、低い声で言った。


「和木原の兵が谷口へ入った。宇平次殿も来ていたが、向こうの方が多い。今あそこで戦えば、こちらの兵も黒谷の者も危ない」


「宇平次さんは、無事ですか」


「ああ。敵が谷口へ入るところまでは見届けた。笠森の兵は高みから下がって、こちらの退く道を守ってくれてる」


 宗介は、ようやく息を吐いた。


 誰も死んでいない。


 それはありがたい。


 だが、黒谷の入口は和木原に押さえられた。


 炭窯も、今は誰の手にあるか分からない。


「窯へ入られましたか」


 宗介が尋ねると、彦蔵が答えた。


「俺たちが出た後なら、勝手に見るだろうな。ただ、火は落としてきた。炭を焼くには、窯を見られる者が要る。あいつらが槍を持って入ったからって、明日から炭が焼けるわけじゃねえ」


 その声には、悔しさが滲んでいた。


 宗介は、背負ってきた炭袋を下ろした。


 中身はほんの少しだ。


 黒谷で焼かれていた炭の、ごく一部にすぎない。


 それでも、今の笠森には貴重だった。


「彦蔵さん。笠森へ行きましょう。若様へ、黒谷で起きたことを直接伝えてください」


 彦蔵は山の方を振り返った。


 長い沈黙の後、頷いた。


「分かった。だが、俺は戻るぞ。あの窯を、和木原へ渡したつもりはねえ」


「はい」


 宗介は答えた。


 戻れる日が来るかは分からない。


 だが、今ここで否定する言葉もなかった。


 宇平次たちと合流した頃には、昼を過ぎていた。


 敵は古炭道の分かれ口へ兵を置き、麦の小袋を運び込んでいるらしい。


 見える範囲では、槍を持った者が十人余り。


 さらに、荷を背負った人足が何度か道を往復していたという。


 宇平次は険しい顔で報告した。


「黒谷の入口を押さえられた。今、あそこを奪い返そうとすれば、こちらの兵を相当に失うかもしれん」


 太助が頷く。


「道の上手を取られてる。無理に押し込めば、昨日の古炭道みてえに矢を射られる」


 宗介は黙って聞いていた。


 昨日は、笠森が勝った。


 敵の釜と麦を奪い、川沿いの旧道を守った。


 だが今日は、黒谷の入口を失った。


 敵が強いからというだけではない。


 守る場所が多すぎるのだ。


 城門。


 蔵。


 牛渡し。


 南谷の水場。


 槙尾西沢。


 川沿いの旧道。


 そして古炭道。


 そのすべてへ兵を置くことなど、今の笠森にはできない。


 宗介は、自分の非力さを思い知らされていた。


 兵糧を運ぶ道を増やせば、それだけ守る場所も増える。


 そのことを、今まで十分に考えていなかったのかもしれない。


     ◇


 笠森城へ戻ると、片瀬弥四郎は広間で報告を聞いた。


 彦蔵も、その場へ通された。


 炭焼きの男が城主の前へ出るのは、居心地が悪いのだろう。煤のついた手を何度も擦りながら、膝をついている。


 弥四郎は、最後まで話を聞いてから口を開いた。


「黒谷の者は、皆戻ったのだな」


「はい。窯にいた者は、三人ともこちらへ参りました」


 太助が答えた。


「窯は残しました。炭も、全部は持ち出せておりません」


 弥四郎は頷いた。


「人が戻ったなら、それでよい」


 彦蔵が顔を上げた。


「若様。窯を捨てるつもりはございません。あれがなければ、俺たちは炭を焼けませぬ」


「分かっている」


 弥四郎の声は落ち着いていた。


「だが、今は戻るな。黒谷の入口に和木原の兵がいる。窯を取り返すために、お前たちを死なせるわけにはいかぬ」


 彦蔵は唇を噛んだ。


 しばらくして、深く頭を下げた。


「……承知しました」


 弥四郎は喜兵衛を呼んだ。


「黒谷の者三人には、当座の寝る場所を用意せよ。飯も出す。ただし、いつまでも城で食わせるだけにはできぬ。働けることがあれば、本人たちへ相談して決めろ」


「承知しております」


 喜兵衛は頷いた。


 宗介も、ようやく少し安心した。


 黒谷の者たちは、城に住みつくために来たわけではない。


 炭を焼く場所を奪われ、逃げてきたのだ。


 それを忘れてはいけない。


 ただし、城の米が少ないことも変わらない。


 三人を食わせれば、その分だけ減る。


 しかも黒谷から炭が来なくなれば、火所にも影響が出る。


 宗介は、おきぬと太助へ相談した。


「黒谷からの炭が止まるなら、火所の使い方を変えなければなりません」


 おきぬは頷いた。


「飯を炊く火は止められないよ。商人の布を乾かす火と、傷病人に湯を使う火を一緒にはできないね」


「はい。まず飯と湯を優先します。商人の荷を乾かす仕事は、当分減らすしかありません」


 太助も口を開いた。


「今ある炭を見てくる。湿った炭を無理に燃やしても、煙ばかり出る。薪で済む仕事は薪に回せばいい」


 宗介は頷いた。


 昨日手に入れた大釜も、今すぐ毎日使うわけにはいかない。


 多く炊けることと、少ない燃料で済むことは別だ。


 炭が足りない時に、ただ大きな釜を使えば、かえって火を無駄にする。


 今あるものを、どう使うか。


 そこを考えなければならなかった。


 弥四郎は皆の話を聞き終えると、宇平次へ向き直った。


「黒谷を奪い返すために、今すぐ兵を出すことはしない」


「承知しました」


「だが、和木原があそこへ兵を置いた以上、笠森も放ってはおけぬ。古炭道の入口と、黒谷へ通じる山道の様子を見続けろ」


「御意」


「無理に戦を仕掛けるな。敵の数と、運び込まれる麦の量を見ろ。彦蔵たちが戻れるようにするには、まず相手がどれだけ居座れるかを知らねばならん」


 宗介は顔を上げた。


 敵がどれだけ居座れるか。


 昨日までは、敵の釜と麦を奪えば勝てると思っていた。


 だが今日は、釜を使わず、人の背に麦を載せて兵を動かしてきた。


 和木原も、こちらの戦い方を見ている。


 同じ手を繰り返せば、通じなくなる。


 ならば、敵が今どれほどの兵糧を運び、どれだけの人足を使っているかを見なければならない。


 宗介は、太助へ尋ねた。


「黒谷の分かれ口から窯まで、麦を背負って何度も往復するのは大変でしょうか」


 太助は頷いた。


「平らな道じゃねえ。坂もある。人足が一度運んだだけで、次もすぐ背負えるとは思えねえな」


「なら、和木原が兵を長く置くには、運び手を休ませる場所も要りますね」


「そうだ。麦を背負う者にも飯が要る」


 宗介は、今朝見た人足たちを思い出した。


 荷を下ろし、肩を揉んでいた男たち。


 白髪の混じった者もいた。


 槍を持つ兵だけが、和木原の軍勢を動かしているわけではない。


 あの人足たちが麦を運ばなければ、黒谷に兵を置き続けることはできない。


 ただし、彼らを襲えばよいとは思わなかった。


 荷を背負わされているだけの者もいるはずだ。


 その男たちへ槍を向ければ、笠森は和木原と同じことをすることになる。


 宗介は、別の方法を考え始めた。


 荷を運ぶ道を調べる。


 水を使う場所を見る。


 敵が何人を何日食わせるつもりなのか、運び込む量から確かめる。


 その上で、笠森が守るべき場所を選ぶ。


 全部の道を守ろうとして、全部を失うわけにはいかない。


     ◇


 夕方、彦蔵が宗介のところへ来た。


 小さな布包みを抱えている。


 中には、黒い炭の欠片がいくつか入っていた。


「宗介殿。これを預かってくれ」


 宗介は包みを見た。


「黒谷の炭ですか」


「ああ。今日、窯を締める前に拾ったものだ。たいした量じゃねえが、乾いてる。火を起こすには使える」


 宗介は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


 彦蔵は、しばらく黙っていた。


 やがて、低い声で言った。


「俺はな、和木原の兵が来た時、窯を守ろうと思った。逃げるくらいなら、あそこで死んでもいいと」


 宗介は顔を上げた。


「ですが、彦蔵さんが死んだら、黒谷の炭を焼く人がいなくなります」


「太助にも似たようなことを言われた」


 彦蔵は苦く笑った。


「昔、あいつに炭を安く取られた時は、二度と顔を見たくねえと思った。それが今日は、俺を連れて山を越えやがった」


 宗介は黙って聞いた。


 彦蔵は続けた。


「妙なもんだな。炭を取った男が、今度は炭を置いていけと言う。しかも、俺を先に逃がすためにだ」


 宗介は、少しだけ笑った。


「太助さんも、変わったんだと思います」


「そうかもしれねえ」


 彦蔵は包みを見た。


「だが、俺は戻るぞ。あの窯を、和木原に渡したわけじゃねえ」


「はい。戻れるように考えます」


 宗介は、軽々しく約束したくなかった。


 黒谷へ戻れる保証など、どこにもない。


 和木原は兵を置いている。


 こちらは城を守るだけでも手いっぱいだ。


 だが、それでも彦蔵を安心させる言葉が欲しかった。


 宗介は少し考え、言い直した。


「戻るために、何が必要かを考えます。今すぐとは言えませんが、黒谷のことを諦めるつもりはありません」


 彦蔵はゆっくり頷いた。


「それで十分だ」


 宗介は、炭の包みを両手で持った。


 軽い。


 だが、今日失ったものの重さを考えれば、決して軽くはなかった。


 夜、笠森城の粥には、昨日奪った麦が少し混じっていた。


 おきぬが炊き方を確かめ、食べられると判断したものだ。


 黒谷から逃げてきた彦蔵たちにも、同じ粥が出された。


 誰も、特別扱いはしなかった。


 ただ、彦蔵は椀を受け取る時、少しだけ手を止めた。


 黒谷では自分の窯の火で飯を炊いていたのだろう。


 今は、笠森の竈で炊いた粥を食べている。


 その違いが、宗介には痛いほど分かった。


 弥四郎は広間で粥を食べ終えると、宇平次を呼んだ。


「明日は、黒谷の入口を見に行く。ただし、奪い返すためではない」


「敵の兵糧を確かめるためですな」


「そうだ。槍の数だけを見ていては、相手が何日居座れるか分からぬ。麦を運ぶ人足と、その道を見ろ」


 宇平次は頷いた。


「承知しました」


 弥四郎は宗介へ向き直った。


「お前も考えておけ。黒谷へ通じる道が塞がれたなら、笠森は何を失い、何を守らねばならぬか」


 宗介は頭を下げた。


「はい」


 それだけ答えた。


 失ったものは、もう分かっている。


 黒谷の炭。


 炭を焼く窯。


 山の道。


 そして、彦蔵たちの暮らし。


 だが、守らなければならないものも見えていた。


 城の飯。


 火所の火。


 負傷した足軽の手当て。


 南谷の水。


 槙尾から届く小荷。


 黒谷へ戻るための人の手。


 全部を一度に守ることはできない。


 それでも、どれかを捨てれば、残るものまで弱っていく。


 宗介は、蔵の脇へ置かれた小さな炭袋を見た。


 黒谷の煙は、今朝から上がっていない。


 明日も上がらないかもしれない。


 けれど、炭を焼く者は生きている。


 窯の火は止まっても、人の手までは失わなかった。


 宗介は、そのことを胸に刻んだ。


 和木原は、今日、黒谷への入口を押さえた。


 笠森は、炭窯を守りきれなかった。


 それは明らかな負けだった。


 だが、まだ終わりではない。


 兵糧を運ぶ者にも腹があり、兵を置く者にも飯が要る。


 和木原がどれほどの麦を運び込もうと、無限に兵を食わせ続けられるわけではない。


 宗介は、今日見た七人の人足を思い出した。


 荷を下ろし、肩を揉んでいた男たち。


 その背中を見れば、和木原がどれだけの兵を養えるか、少しは見えてくるはずだった。


 黒谷を取り戻すために、まず敵の腹を見る。


 宗介はそう決め、薄い粥を飲み干した。


 門の外は、すでに暗い。


 黒谷の窯から煙が上がる日は、まだ遠いかもしれない。


 それでも、火を起こす炭の欠片は、今も宗介の手元に残っていた。



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