第六十七話 奪った釜
川沿いの旧道に着いた時、敵の荷車はすでに止まっていた。
久住宗介は、低い土手の陰からその様子を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
荷車は一台。牛が一頭つながれ、筵をかけた荷台の脇には槍を持った男が立っている。少し離れた場所では、別の男たちが草を刈り払い、川に近い平地を踏み固めていた。
その数、見えるだけで九人。
荷車を引く男と、荷を下ろす人足らしい者が二人いるため、武装した者は七人ほどだろう。
川向こうから運んできた釜と麦を、ここへ据えるつもりなのか。
笠森城へ続く旧道の曲がりまで、もう遠くない場所だった。
「宇平次さん。あそこで飯を炊くつもりでしょうか」
「そのようだな。まだ火は見えんが、兵を置く支度をしている」
宇平次は身を低くしたまま答えた。
その後ろには、槍を持つ足軽が六人、弓を扱う者が二人控えている。片瀬弥四郎は城に残り、城門と蔵の守りを整えていた。
宗介がここへ来たのは、敵の荷を見るためである。
戦うためではない。
もっとも、昨日から矢を射られ、槍を向けられている身としては、そんな区別が気休めにしかならないことも分かっていた。
土手の向こうから、牛の低い鳴き声が聞こえた。
荷車の脇にいた男が筵をめくる。
中から現れたのは、大きな鉄の釜だった。
その下には麦俵が積まれ、木桶と薪束も見える。
宗介は息を詰めた。
槙尾西沢へ運び込まれたものと、よく似た荷である。
あの時、和木原の兵は十五人ほどだった。飯を炊く人足まで連れ、西沢の入口へ陣を据えようとしていた。
槙尾の安西新蔵が退去を求めたため、飯を食わせた後に引いたが、諦めたわけではなかったらしい。
今度は笠森の城下へ近づいてきたのだ。
「麦俵が三つ見えます。ただ、下にも荷がありそうです」
宗介が小声で告げると、宇平次は頷いた。
「兵を置くつもりなら、あれだけで足りるとは思えん。後から荷を足すつもりかもしれんな」
「はい。今のうちに釜を下ろして飯を炊けるようにすれば、後から来る兵も食わせられます」
宗介は平地を見た。
川が近い。
水は汲める。
薪は周囲の木から集められるだろう。
荷車が入るだけの道幅もある。
飯場としては、悪くない場所だった。
ただし、ひとつ問題がある。
そこは笠森へ通じる道の入口でもあった。
あそこで和木原の兵が飯を炊き始めれば、商人も南谷の者も近づけなくなる。
兵がただ座っているだけで、道は止まる。
さらに兵が増えれば、笠森の城下を見張る拠点にされるかもしれなかった。
宗介は、荷車の車輪を見つめた。
車輪はまだ道の上にある。
牛もつながれたままだ。
釜は荷台から降ろされていない。
「宇平次さん。今なら、まだ荷車ごと引き返せます」
「分かっている」
「ですが、釜を下ろして火を起こされたら、ここへ居座る理由ができます。飯を食い終えるまで待てと言われれば、その間に別の兵が来るかもしれません」
宇平次は宗介を見た。
その目は厳しい。
「つまり、据えられる前に止めろということだな」
「はい。ただ、俺には戦い方までは分かりません。相手の槍が何本あるかも、見えない場所に誰かいるかも分からない」
「そこは俺が見る」
宇平次は短く答え、足軽たちへ手を振った。
弓を持つ二人が、土手の高い場所へ移る。
槍を持つ六人は、道の幅が狭くなるところへ回った。
宇平次自身はその先頭に立つ。
宗介は後ろへ下がるよう命じられ、倒木の陰へ身を移した。
心臓がうるさいほど鳴っていた。
昨日の牛渡しでは、槍を向け合いながらも、どうにか双方が引いた。
今日もそうなるとは限らない。
むしろ、敵は笠森城の近くへ来ている。
昨日より、ずっと危険だった。
宇平次が道へ姿を現した。
「そこで荷を下ろすな!」
鋭い声が夕暮れの川辺に響いた。
敵の男たちが一斉に振り向く。
具足を着けた武士が一人、槍を持ち直して前へ出た。
「笠森の者か」
「片瀬弥四郎様の家臣、宇平次だ。この先は笠森へ通じる道だ。和木原の兵が勝手に飯場を据えることは認められん」
男は宇平次の後ろに並んだ槍を見た。
次に、道の脇へ視線を向ける。
弓兵の姿が見えたのだろう。
わずかに表情が変わった。
「こちらは川筋の警固を命じられている。飯を炊く場所を整えているだけだ」
「警固を名目に、他領へ陣を据えるつもりなら引き返せ。槙尾西沢でも同じことをしたと聞いている」
「兵が飯を食うのに、いちいち笠森の許しが要るのか」
「兵が飯を食うのは勝手だ。だが、槍を持って笠森の道を押さえるなら、こちらも黙ってはおらん」
宇平次の声は揺れなかった。
男は不機嫌そうに口を結ぶと、後ろの兵へ目配せした。
その動きを見た瞬間、宗介の背中に汗が滲んだ。
嫌な予感がした。
男が返事をする前に、敵の一人が弓を構えたのである。
「弓だ!」
宗介が叫ぶより早く、宇平次が声を張った。
「伏せろ! 槍を揃えろ!」
弦の鳴る音がした。
矢が一本、道脇の木へ突き立つ。
続いてもう一本。
笠森の足軽が盾代わりに構えた槍の柄をかすめ、背後の土へ落ちた。
宇平次が怒鳴った。
「笠森へ矢を射たな! 前へ出ろ!」
六本の槍が揃った。
道幅は狭い。
敵も七人ほどいるが、横に並べるのは三人が精一杯だった。
宇平次はそこへ槍先を集中させた。
先頭の敵兵が突き込んでくる。
笠森の足軽が受け、別の槍がその横から伸びた。
鉄の触れ合う音が響いた。
宗介は倒木の陰で体を縮めた。
怖い。
喉が乾く。
手足が思うように動かない。
目の前で槍が突き出されるたび、誰かの腹を貫くのではないかと息が止まった。
敵の一人が踏み込み、笠森の足軽へ槍を突きつけた。
その槍先が肩をかすめる。
衣が裂け、血が散った。
「ぐっ!」
足軽がよろめいた。
宇平次がすぐに前へ出る。
敵の槍を外へ払い、相手の胸元へ穂先を向けた。
「下がれ!」
男は慌てて後ずさった。
その足が、湿った土へ滑った。
宇平次は追い込まず、槍を構えたまま味方の傷ついた足軽を下がらせた。
敵の方でも声が上がった。
「後ろへ回れ! 荷車を盾にしろ!」
宗介は顔を上げた。
荷車。
敵の男たちが、牛を引いて道を横切らせようとしている。
車を横向きにすれば、道を塞げる。
その後ろへ兵が隠れれば、笠森の槍も届きにくくなる。
しかも車には麦と釜が積まれている。
重い荷だ。
一度据えられれば、動かすのも容易ではない。
「宇平次さん! 荷車で道を塞ごうとしています!」
宗介が叫んだ。
宇平次が振り返る。
その一瞬、敵の弓兵が再び矢を放った。
矢は宇平次のすぐ脇を抜け、土手へ突き立った。
笠森側の弓兵も、そこで矢を返した。
一本が敵の足元へ刺さる。
続く矢が、荷車の脇へ突き立った。
牛が驚いて暴れた。
鼻息を荒くし、首を振る。
牛引きの男が慌てて綱を押さえたが、荷台が大きく揺れた。
宗介は、さらに嫌なものを見た。
車輪の片方が、道の端の柔らかい土へ沈みかけている。
荷車が傾けば、積んだ釜が落ちる。
牛が暴れ続ければ、人が踏まれるかもしれない。
それは敵兵だけの問題ではなかった。
荷車を引いている男は、武装していない。
ただの牛引きである。
「牛を引いている人を離してください! 車が倒れます!」
宗介の声は、槍のぶつかる音にかき消されそうになった。
だが、牛引きの男には届いたらしい。
男は必死に綱を引き、牛の頭を道の外へ向けた。
その直後、荷車の車輪が深く沈んだ。
木が軋む。
荷台が傾き、筵がずり落ちる。
積んでいた薪束が崩れ、麦俵のひとつが地面へ転がった。
敵の兵が怒鳴った。
「車を起こせ!」
しかし、牛引きの男は動かなかった。
「このまま引けば、牛の脚が折れます!」
「構わん、引け!」
「無理です! 車輪が土へ沈んでおります!」
そのやり取りを聞いた宇平次が、機を逃さなかった。
「槍を前へ! 車には近づくな、敵兵を道から退けろ!」
笠森の足軽たちが一斉に進んだ。
敵の先頭にいた男が槍を振るう。
宇平次がそれを払い、石突きで相手の胸を突いた。
男が後ろへ倒れる。
続いて別の兵が突き込んだが、笠森の槍先が二本揃って迫ると、踏み込めずに下がった。
敵の指揮を執っていた武士が声を張った。
「荷を捨てろ! 引け!」
その命令で、敵兵たちは後退を始めた。
負傷した者を一人、仲間が肩を貸して運んでいる。
別の男が弓を持ち直したが、笠森の弓兵が狙いを定めると、それ以上射かけてこなかった。
宇平次は追わない。
「道を越えるな! 逃げる者を追うな!」
槍を持つ足軽たちは、敵との距離を保った。
和木原の兵が川の方へ退いていく。
その姿が木々の向こうへ消えるまで、宇平次は槍を下ろさなかった。
宗介も動けずにいた。
夕暮れの川辺には、兵の荒い息遣いと、牛の鼻息だけが残っている。
つい先ほどまで、目の前で人が刺されそうになっていた。
それが急に静かになると、かえって恐ろしかった。
宇平次が振り返った。
「宗介、生きているか」
「……はい。怪我はありません」
「なら、そこから出てこい。ただし、道の先へは行くな。まだ敵が戻るかもしれん」
宗介は震える膝を押さえながら立ち上がった。
足元の泥が、妙に柔らかく感じられた。
笠森の足軽が一人、肩を負傷している。
深く刺されたわけではないようだが、血が止まっていない。
別の足軽が布を当てていた。
宗介は急いで持参した布を取り出す。
「きれいな布を使ってください。まず傷を押さえて、城へ戻ってからおきぬさんに見てもらいましょう」
負傷した足軽は、痛みに顔を歪めながらも頷いた。
「槍は持てます」
宇平次が即座に言った。
「今日はもう持たんでよい。お前は後ろへ下がれ。残る者で守る」
その声を聞いて、宗介は少しだけ息を吐いた。
怪我人はいる。
だが、今のところ死者はいない。
それだけでもありがたかった。
しかし、宇平次はすぐに荷車へ向かった。
「太い縄を持ってこい。車が動かせるか確かめる」
宗介も後ろからついていった。
荷車は大きく傾いている。
車輪の片方が泥へ深く入り込み、もう片方は浮きかけていた。
牛は荷車から少し離れた場所で、牛引きの男に押さえられている。
男は怯えた顔をしていた。
「お前は和木原の家臣か」
宇平次が尋ねると、男は首を横に振った。
「違います。川向こうで牛車を出している者です。荷を運べと言われて参りました」
「この車は、お前のものか」
「はい。牛も私のものです」
宇平次は男の顔を見た。
「ならば、勝手に逃げるな。車と牛は傷めんようにする。ただし、積んだ兵糧と釜は、笠森の道へ持ち込まれた和木原の軍荷として改める」
男は深く頭を下げた。
「牛さえ無事なら……」
宗介は、その言葉に胸を突かれた。
この男にとっては、和木原の兵糧より牛の方が大事なのだ。
牛が一頭いなくなれば、明日から荷を運ぶ仕事ができなくなる。
宗介は牛車を見た。
車輪が沈んだまま無理に引けば、牛の脚を傷める。
かといって、ここへ置いたままにすれば、和木原の兵が戻ってくるかもしれない。
「先に荷を下ろしましょう」
宗介は言った。
「釜と麦を下ろせば軽くなります。牛には無理に引かせないで、車輪の下の泥を掻いてから木を噛ませます」
宇平次が頷いた。
「手を出せる者を二人回せ。残りは道を見張れ」
笠森の足軽が荷台へ上がり、まず薪束を下ろした。
続いて麦俵。
最後に大きな釜を運び出す。
鉄の釜は、見た目以上に重かった。
二人で持ち上げても、容易には動かない。
宗介は横で見ながら、釜を地面へ直接落とさないよう声をかけた。
「下に枝を敷いてください。縁を割ったら、使えなくなります」
宇平次が少し笑った。
「敵の釜まで大事にするのか」
「釜に敵も味方もありません。壊れていなければ、笠森で飯を炊けます」
その答えに、宇平次はしばらく宗介を見た。
やがて、低く笑った。
「そうだったな。お前にとっては、敵の釜も飯を炊く道具か」
「はい。今の笠森には、ありがたい道具です」
宇平次は足軽たちへ命じた。
「釜を傷めるな。麦俵もこぼすな。城へ運ぶ」
荷を下ろすと、車は幾分軽くなった。
車輪の下の泥を掻き、乾いた枝と平たい石を差し込む。
牛引きの男が縄を確かめ、牛を落ち着かせる。
笠森の足軽たちも車を支えた。
無理に一度で引き上げない。
少し動かし、石を噛ませる。
また少し動かす。
やがて、沈んでいた車輪が泥から抜けた。
牛引きの男は、ようやく長い息を吐いた。
「助かりました」
宇平次は男へ言った。
「この車は返す。ただし、暗くなってから一人で川向こうへ戻すのは危ない。今夜は笠森の者が見張る場所で休ませる。明るくなってから、牛と車を連れて帰れ」
男は何度も頭を下げた。
宗介は、宇平次の判断に感心した。
敵の軍荷は押さえる。
だが、雇われた牛引きの仕事道具まで奪う必要はない。
ここで牛と車を取り上げれば、次から商人も荷持ちも笠森を恐れるようになるだろう。
そんなことをすれば、せっかく作ってきた商いの道が細ってしまう。
宇平次は、それを分かっているようだった。
◇
笠森城へ戻った時には、すっかり日が暮れていた。
城門の前には、片瀬弥四郎が立っていた。
宇平次から先に知らせを受けていたのだろう。
その後ろには喜兵衛とおきぬがいる。
宗介たちが持ち帰ったものを見ると、弥四郎の目が大きくなった。
「釜を奪ったのか」
宇平次が頭を下げた。
「はい。川沿いの旧道へ兵を置こうとしていた和木原の者と交戦いたしました。敵は退き、荷車を置いて逃げました。こちらの負傷者は一人。命に関わる傷ではなさそうですが、手当てが必要です」
弥四郎の顔が引き締まった。
「まず怪我人を休ませろ」
おきぬがすぐに動いた。
「こっちへおいで。泥のついた布のままにしておくんじゃないよ」
足軽はおとなしく従った。
弥四郎は、その背中を見送ってから宇平次へ向き直った。
「敵の損は」
「ひとりを槍の石突きで突き倒しました。別の者も負傷したようですが、詳しくは分かりませぬ。追っておりませんので、死者が出たかも確かめられておりません」
「分かった。こちらが先に道を奪いに出たのではないことも、槙尾へ伝えねばならんな」
「承知しております」
弥四郎は宗介を見る。
「敵の荷は、何があった」
宗介は一歩前へ出た。
「大きな鉄釜が一つ。麦俵が三つ。薪束と木桶、それから釜を置くための道具がありました。荷車そのものは雇われた牛引きのものと確認できましたので、軍荷とは分けています」
喜兵衛の目が鋭くなった。
「麦が三俵か」
「はい。まず蔵で改めてもらいたいです。途中で俵が転がりましたが、大きく破れたものはありません」
喜兵衛は、すぐに人を呼んだ。
「俵を運べ。開けるのは蔵で俺が見る。泥がついたものは、きれいな俵と混ぜるな」
宗介は頷いた。
敵の麦であっても、濡れていれば傷む。
汚れたものを混ぜれば、使える穀物まで駄目になる。
そこは変わらない。
しかし、弥四郎がもう一度釜へ視線を向けた時、宗介はその表情に気づいた。
若い城主は、驚いているだけではなかった。
考えている。
この釜を、どう使うか。
宇平次が言った。
「敵の飯場を作らせず、釜と麦を持ち帰りました。川沿いの旧道は、今のところ笠森の手にございます」
弥四郎はゆっくり頷いた。
「よくやった。和木原は、笠森の城下で兵を食わせるつもりだったのだろう。その釜をこちらが持ち帰ったなら、少なくとも今日は飯場を作れなかったわけだ」
「はい」
宇平次の声には、少しだけ誇らしさがあった。
宗介はその横顔を見た。
古炭道で矢を射られた時、宇平次は追わなかった。
牛渡しで槍を向け合った時も、戦を避けた。
槙尾西沢では、相手の飯場を退かせることを優先した。
だが、今日は違った。
敵が笠森の城下へ釜を据えようとしたところで、宇平次は槍を進めた。
その結果、敵は退き、兵糧を失った。
笠森は、初めて和木原の軍荷を奪ったのである。
弥四郎は庭へ集まった者たちを見回した。
「聞け。今日、宇平次たちは和木原の兵を退け、釜と麦を持ち帰った。負傷した者もいるが、皆帰ってきた」
足軽たちの顔が上がる。
「これは笠森の戦果だ。だが、ここで気を緩めるな。和木原は兵を集めている。今日退いた者が、明日もっと多くの兵を連れて来ることもある」
誰も口を挟まなかった。
弥四郎は続けた。
「城門の守りを固めろ。川沿いの旧道は、今夜も見張る。ただし、敵を追って川向こうへ攻め込むな。こちらは笠森を守る」
宇平次が深く頭を下げた。
「御意」
その時、庭の隅から声がした。
「若様。その釜、火所へ置くんですか」
おきぬだった。
負傷した足軽の手当てを終え、戻ってきたらしい。
彼女は大きな釜を見て、眉を寄せている。
宗介が答えた。
「まず洗って、傷みがないか確かめます。使えるなら、飯を炊くのに使いたいです」
「大きいね。今の竈には合わないよ」
「そうなんですか」
「見れば分かるだろう。あんな釜をそのまま載せたら、竈が壊れる」
宗介は、釜と竈を見比べた。
確かに大きい。
敵は野で飯を炊くために、釜を据える道具も一緒に運んでいた。
笠森の竈へそのまま入れるのは無理がある。
「では、火所で使えるように考えます」
おきぬは釜を軽く叩いた。
澄んだ音が響く。
「割れてはいないみたいだね。ただ、何を煮た釜か分からないから、よく洗うんだよ。油や変なものを入れていたなら、飯には使えない」
「はい」
宗介は頷いた。
戦果を持ち帰っても、すぐには使えない。
釜には釜の扱いがある。
兵糧方の仕事は、戦場から持ち帰った後も続くのだ。
喜兵衛が蔵から戻ってきたのは、その少し後だった。
「若様。麦を改めました」
弥四郎が顔を向ける。
「使えるか」
「一俵は外側に泥がついておりますが、俵を開けて確かめたところ、中身の多くは無事です。残る二俵も乾いております。いずれも、食べられるものと見てよろしいかと」
宗介は胸を撫で下ろした。
三俵。
先日、槙尾で粟二俵を買うために何人もの人足を動かしたことを思えば、決して小さな量ではない。
しかも今回は、和木原が笠森を押さえるために持ち込んだ麦である。
その麦が、今は笠森の蔵へ入った。
弥四郎は静かに頷いた。
「明日から城の飯へ回せ。ただし、敵から取った麦だ。最初は少しだけ炊き、傷みがないことを確かめよ」
「承知しました」
おきぬが横から言った。
「炊き方はこっちで見るよ。麦は、ちゃんと水を吸わせないと硬いまま残るからね」
宗介は頷いた。
米が減る。
粟が減る。
稗が減る。
そこへ麦が入る。
笠森の飯は、少しずつ変わっていた。
だが、今日は今までと大きく違う。
買ったのではない。
敵の軍荷を奪ったのだ。
それが、宗介には重く感じられた。
戦になれば、相手のものを奪う。
奪わなければ、こちらが奪われる。
それが戦国なのだろう。
けれど、そこには必ず人がいる。
今日、荷車を引いていた男も、金で雇われただけだった。
牛を失えば、明日から生きていけなくなる。
宇平次が車を返すと決めたのは、正しかったと思う。
だが、麦を奪われた和木原の兵にも、明日は腹が減る。
その腹を満たすために、また別の麦を集めるのだろう。
そう考えると、戦は一度勝っただけでは終わらないことが分かった。
◇
夜、笠森城の広間では、弥四郎と宇平次が今後の備えを話し合っていた。
宗介も呼ばれている。
庭には、洗われた大釜が置かれていた。
まだ使えるかは確かめていないが、鉄の厚みは十分で、縁にも大きな傷はない。
太助が釜の据え方を見ていた。
「火所の石を組み直せば、使えそうだ。ただ、炭を食うぞ。大きな釜は、火も多く要る」
「それでも、今ある釜より一度に多く炊けますね」
宗介が言うと、太助は頷いた。
「ああ。大勢を食わせるなら役に立つ。だが、普段から使うには大きすぎるかもしれねえ」
宗介はその言葉を胸に留めた。
大きな釜を手に入れたからといって、毎日使えばよいわけではない。
飯を炊く量に合わせて釜を選ぶ必要がある。
炭を無駄にすれば、黒谷から買う炭が早く減る。
だが、もし笠森が兵を集める日が来れば、この釜は役に立つ。
今日、和木原が使おうとしていたように。
宇平次が、弥四郎へ報告していた。
「敵は川沿いの旧道から退きました。ただし、道そのものを守り続けるには兵が要ります。今夜は交代で見張らせますが、いつまでも同じ人数を置くことはできませぬ」
弥四郎が頷いた。
「分かっている。城の守りを削りすぎるな。川沿いの旧道へ兵を集めさせ、別の道から来られては困る」
「御意」
「槙尾には、今日の戦いを知らせる。和木原が笠森の城下へ飯場を作ろうとし、こちらが退かせたことだ。奪った麦と釜についても隠すな」
宗介は顔を上げた。
弥四郎は続ける。
「和木原は、笠森が荷を奪ったと訴えるだろう。ならば、先に何があったか伝えておく。笠森へ通じる道に武装した兵を入れ、矢を射たのは向こうだ」
宇平次は深く頭を下げた。
宗介も頷いた。
今日のことを隠せば、あとで必ず問題になる。
だが、見たままを伝えれば、槙尾も判断しやすい。
それは、これまで何度も学んできたことだった。
弥四郎は、宗介へ向き直った。
「兵糧方として、今日の戦果をどう見る」
宗介は少し考えた。
釜一つ。
麦三俵。
敵の飯場を作らせなかったこと。
そして、こちらの負傷者一人。
単純に得したとは言い切れない。
「麦三俵は大きいです。釜も使えるなら助かります。ただ、それ以上に、和木原が今日あの場所へ兵を置けなかったことが大きいと思います」
「そうだな」
「もしあそこへ釜を据えられたら、明日から兵が増えるかもしれませんでした。敵が城の近くで飯を食えるようになれば、こちらもずっと兵を置かなければならなくなります」
宇平次が頷いた。
「見張るために、こちらの兵糧が減る」
「はい。だから、敵の飯場を作らせなかったことが一番大きいです」
弥四郎はしばらく黙っていた。
それから静かに言った。
「ならば、次に和木原がどこへ釜を運ぶかを見ろ。今日の釜は奪ったが、向こうにはまだ別の釜があるだろう」
「そう思います」
宗介は頷いた。
和木原が買い集めた麦は、今日奪った三俵だけではない。
槙尾の荷宿で十俵を超える買い入れがあったと惣右衛門は言っていた。
それらの一部は、まだ和木原の渡し近くの土蔵にあるはずだ。
兵も、今日の七人ほどで全部ではない。
渡しへ集められた槍は、もっと多かった。
今日の勝利は、和木原の力を削ったにすぎない。
しかも、相手にとっては小さな損かもしれなかった。
「若様」
宗介は口を開いた。
「俺は、和木原が次にどの道へ兵を出すかより、どこから飯を運ぶかを先に見たいです」
弥四郎が目を向ける。
「理由を聞こう」
「今日、敵は釜と麦を運んできました。ですが、途中で荷車を失いました。あの場所へもう一度兵を置くなら、また麦を運び、釜を運ばなければなりません」
宗介は地面へ簡単な道筋を描いた。
和木原の渡し。
川沿いの旧道。
笠森城。
その途中に、今日の戦場がある。
「敵の兵がどこへ向かうかは、槍を見れば分かるかもしれません。ですが、長く留まる場所を探すなら、荷車を見た方が早いと思います」
「兵が食う場所か」
「はい。兵は飯を食わなければ動けません。和木原が多くの兵を集めれば集めるほど、運ぶ麦も増えます。釜も薪も、水も必要です」
宇平次が地面の道筋を見た。
「こちらは、道を守るだけでは足りんということか」
「道を守りながら、相手がどこへ飯を運ぶかを見る必要があります。そうすれば、次にどこへ兵を置こうとしているか、少しは分かるかもしれません」
弥四郎はゆっくり頷いた。
「分かった。宇平次は兵を見ろ。宗介は兵糧を見ろ。敵が何を運び、どこへ置くか。そこを確かめる」
「承知しました」
宗介は頭を下げた。
少し前まで、自分の仕事は笠森の米を減らさないことだった。
今は違う。
敵の米を見る。
敵の釜を見る。
敵の荷車を見る。
その動きから、相手がどこへ兵を置こうとしているかを考える。
それもまた、兵糧方の仕事になり始めていた。
その時、城門の方から声が響いた。
「若様! 南谷より急ぎの知らせにございます!」
弥四郎が顔を上げた。
宇平次も立ち上がる。
宗介は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
今日、川沿いの旧道では勝った。
だが、和木原はまだ兵を集めている。
次の動きが早すぎる。
門番に連れられてきたのは、南谷の善助だった。
顔が青ざめている。
「和木原の渡しから、また荷車が出ました」
宇平次が低く言った。
「川沿いの旧道か」
善助は首を横に振った。
「違います。今度は、もっと上流です」
宗介は息を呑んだ。
善助は続けた。
「黒谷へ向かう古い炭道の入口へ、兵が集まっております。しかも、荷車ではなく、人足が麦を背負っているようです」
弥四郎の目が細くなった。
荷車ではない。
人足が背負う麦。
それなら、荷車が通れない道でも進める。
古炭道は、笠森が苦労して取り戻した道だった。
黒谷の炭も、槙尾から買う穀物も、あそこを通る。
和木原は、今日の敗北で荷車に頼る危うさを知ったのかもしれない。
宗介は、地面に描いた道筋を見た。
川沿いの旧道。
南谷。
槙尾西沢。
古炭道。
敵が選ぶ道は、ひとつではない。
だが、今度は少し違うことが分かっている。
荷車がなくても、兵糧を運ぶことはできる。
しかし、人が背負えば、その分だけ運べる量は減る。
何度も往復すれば、人足は疲れる。
飯を運ぶために、運び手自身も飯を食わなければならない。
つまり、和木原の兵糧にも限りがある。
宗介は顔を上げた。
「若様。今度は、人足を見たいです」
弥四郎が宗介を見る。
「敵の兵糧を背負う者か」
「はい。荷車を使わないなら、何人で、どれだけの麦を運んでいるのか。それが分かれば、和木原が古炭道へどれほど兵を置けるのか、見当がつくかもしれません」
弥四郎は、しばらく黙っていた。
やがて、宇平次へ向き直る。
「明朝、古炭道を確かめよ。ただし、今夜は兵を休ませる。敵が動いたからといって、こちらが休まず追い続ければ、先に倒れる」
宇平次は深く頭を下げた。
「御意」
宗介も頷いた。
今夜は休む。
明日、また動く。
それも兵糧と同じくらい大事なことだった。
城の外では、夜風が木々を揺らしている。
笠森の蔵には、今日奪った麦三俵がある。
庭には、敵から奪った大釜が置かれている。
それは確かな戦果だった。
だが、和木原の兵はまだ動いている。
宗介は、洗われた釜を見た。
明日、この釜で笠森の兵へ飯を炊く日が来るかもしれない。
その時、今日釜を運んだ足軽たちが、無事にその飯を食えるようにしたい。
それが、今の自分にできる仕事だった。




