第六十五話 南谷へ来た槍
南谷の牛渡しに、和木原の槍が現れた。
夜明けから間もない頃だった。
久住宗介が蔵の米を数えていると、城門の方から駆け足の音が響いた。続いて門番が大声を上げ、庭にいた足軽たちが一斉に振り向く。
「小六が戻りました! 和木原の渡しから兵が出たそうです!」
宗介は手にしていた小袋を置いた。
昨夜、和木原の渡しに槍が十本ほど集まっていると聞いたばかりである。
その兵が動いた。
しかも、笠森へ向かう道ではなく、南谷の牛渡しへ。
宗介の背筋を冷たいものが走った。
片瀬弥四郎が広間から出てきた時、小六はすでに庭へ駆け込んでいた。
川の泥が膝まで跳ね、濡れた草鞋から水が滴っている。相当急いできたのだろう。胸を大きく上下させながらも、若者は弥四郎の前で片膝をついた。
「和木原の渡しから、槍を持った者がこちら側へ渡っております。私が見た時には十人ほど。まだ向こう岸にも兵がおりました」
「牛渡しを越えたのか」
弥四郎の問いに、小六は首を振った。
「いいえ。和木原の渡しで川を越え、こちらの岸沿いを南谷へ下ってきました。牛渡しの手前で止まり、道の幅を調べております」
宇平次が顔を険しくした。
「牛渡しを押さえるつもりか」
「それは分かりません。ただ、槍だけではなく、杭と縄を持った者がおります」
宗介は顔を上げた。
杭と縄。
古炭道で見つかった白木の杭を思い出したが、今度は道の目印だけでは済まない気がした。
川を越えた兵が杭を持ってくる。
しかも、牛渡しへ通じる道の幅を調べている。
道を塞ぐつもりではないか。
「荷車はどうなっていますか」
宗介が尋ねると、小六は少し考えて答えた。
「昨日見えた二台のうち、一台は渡しの向こうに残っておりました。もう一台は、川を越えた兵の後ろから来ているようです。まだ遠く、荷の中身までは見えませんでした」
宗介は唇を噛んだ。
兵だけなら、見回りだと言い張ることもできる。
しかし、杭と縄に荷車まで伴うなら、何かを据えるつもりだろう。
仮の関所か。
兵の詰め所か。
いずれにせよ、牛渡しの入口を押さえられれば、笠森が苦労して作った小荷の道が使えなくなる。
弥四郎は宇平次へ向き直った。
「動ける者を選べ。だが、城を空にするな」
「承知しました。槍持ち六人、弓を扱える者二人を連れて参ります」
「敵の数は、まだ分からぬ。無理に押し返そうとするな。牛渡しへ入る前に止め、何をするつもりか確かめろ」
宇平次が頷いた。
弥四郎は宗介を見た。
「お前も行けるか」
宗介は正直に答えた。
「怖いです。ですが、向こうが荷車を持っているなら、何を運んできたのか確かめたいと思います」
「槍の前へ出る必要はない。宇平次の後ろで見ろ」
「承知しました」
弥四郎は小六にも命じた。
「お前は川を見ろ。兵の数に気を取られ、水位を見誤るな。牛渡しを通してよいかどうかは、これまでどおりお前が決める」
小六は深く頭を下げた。
その姿を見ながら、宗介は思った。
和木原がどれほど兵を集めても、川の深さまでは変えられない。
しかし、槍を持った男に渡せと迫られた時、小六が一人で断れるとは思えなかった。
今日は、その判断を守る兵が必要だった。
◇
南谷へ向かう途中、善助が道の脇から合流した。
小六が城へ走った後、南谷の者へ知らせを回していたらしい。
善助の話では、牛渡しの近くにいた女衆と子どもは、すでに谷の奥へ戻したという。
「水場の桶も片づけております。兵が来た時、慌てて取りに戻る者が出ないようにしました」
宇平次が頷いた。
「よくやった。南谷の者は、今日は勝手に渡しへ近づかせるな」
「はい。ですが、向こうの兵が道を塞げば、川辺から帰る者が困ります」
「分かっている。だから今から見に行く」
宇平次の声に迷いはなかった。
宗介は後ろを歩きながら、胸の鼓動を抑えようとしていた。
昨日まで、道を通る荷の重さを考えていた。
今日は、道へ現れた槍の数を考えなければならない。
それだけで、同じ道がまるで違う場所に思えた。
川へ近づくにつれ、人の声が聞こえ始めた。
牛渡しの手前には、細い道がある。
片側は草の生えた低い斜面、もう片側は川へ下る湿った土地だ。荷を背負った者が行き違うには、少し広い場所まで戻らなければならない。
その道の先に、槍が見えた。
宗介は思わず足を止めた。
槍先が朝日に光っている。
男たちは十人ほどいた。
そのうち数人が道の脇に立ち、残る者は杭を下ろしている。
先頭には、具足を着けた男が一人いた。四十前後だろうか。顎に短い髭を生やし、腰には刀を差している。
和木原の家紋らしい印をつけた者も混じっていた。
だが、全員ではない。
中には装備の揃わない男たちもいて、槍の長さもばらばらだった。
周辺の小領主から集めた兵だろうか。
そう思ったが、宗介には見ただけで判断できなかった。
「止まれ」
宇平次が声を張った。
向こうの男たちが振り向く。
具足の男が一歩前へ出た。
「笠森の者か」
「片瀬弥四郎様の家臣、宇平次だ。この先は南谷の牛渡しへ通じる道だ。何のために杭を持ち込んだ」
男は宇平次の後ろに並んだ足軽たちを見た。
槍持ち六人。
弓を持つ者二人。
こちらの方が少ない。
それを確かめてから、男は口を開いた。
「和木原主膳様の命により、川筋の警固を行う。賊荷や無断の渡河を取り締まるため、道に人を置く」
「牛渡しの渡河を決めるのは南谷の渡し役だ。槙尾の左馬助様の前でも、その取り決めは確認されている」
「和木原の兵が警固することまで禁じられたわけではあるまい」
相手の言い分にも、一応の形はあった。
川筋を守る。
商人を守る。
賊を防ぐ。
言葉だけなら、笠森のやってきたことと似ている。
だが、宗介は兵の後ろへ視線を向けた。
杭は五本ほど。
縄は太いものが二巻き。
さらに、川の方から荷車の軋む音が近づいている。
道に兵を置くだけなら、これほどの杭は要らない。
「宇平次さん」
宗介は声を落とした。
「あの杭、道を横切るように打つつもりではないでしょうか」
宇平次は答えず、男へ尋ねた。
「杭をどこへ打つつもりだ」
「道の入口だ。人と荷を改める場所を示す」
「それでは笠森の水札を持つ商人も、和木原の兵に荷を見せなければ通れぬことになる」
「川筋を守るためだ」
宇平次の表情が硬くなった。
「ならば認められん」
男は鼻で笑った。
「笠森が認めぬからといって、川筋の警固をやめる理由にはならん」
空気が張り詰めた。
宗介は唾を飲み込んだ。
ここで相手が杭を打ち始めれば、宇平次は止めようとするだろう。
槍を持つ者同士が狭い道で押し合う。
そうなれば、誰かが怪我をする。
昨日までは空の俵へ矢を受けさせ、どうにか人を失わずに済んだ。
だが、今日は目の前に敵がいる。
言葉を交わしているだけで、腕の震えが止まらなかった。
その時、川の方から荷車が姿を現した。
牛に引かれた小さな車である。
車輪には湿った泥がこびりつき、荷台には粗い筵がかけられていた。
荷車を引いてきた男が、具足の男へ声をかける。
「杭と横木を持って参りました。どこへ下ろせばよろしいでしょう」
宗介の目が荷台へ向いた。
筵の端から、長い木材が見えている。
しかも、縄で束ねられている。
道を塞ぐ横木だ。
杭を立て、その間に木を渡せば、人や荷を止める場所になる。
一度作られてしまえば、取り払う時に揉める。
武装した兵が守っていれば、なおさらだった。
「宇平次さん。あれを据えられたら、商人が通れなくなります」
宗介の声に、宇平次は頷いた。
「見れば分かる」
宇平次は槍を持ち直し、向こうの男へ告げた。
「そこへ木を下ろすな。南谷の道を塞ぐなら、笠森は黙っておらん」
具足の男の顔から笑みが消えた。
「こちらは主膳様の命を受けている。笠森の足軽風情に指図される覚えはない」
その言葉と同時に、向こうの槍持ちが二人、前へ出た。
宇平次も一歩進む。
槍先が近づいた。
宗介は思わず後ずさった。
自分には、あの距離へ入る勇気はない。
だが、宇平次は退かなかった。
「この道は南谷の者が使い、槙尾へ向かう商人も通る。和木原の渡し賃を逃れたからといって、賊にされる道ではない」
「邪魔をするなら、押し通る」
「やってみろ」
宇平次の声が低くなった。
向こうの男が槍を突き出しかけた。
次の瞬間、宇平次の槍が動いた。
鋭い音とともに、相手の槍先が外へ払われる。
押し出された男がよろめき、後ろの者へぶつかった。
「槍を揃えろ!」
宇平次の号令で、笠森の足軽たちが前へ出る。
狭い道に槍先が並んだ。
相手も槍を向ける。
宗介は、体が動かなかった。
目の前で本当に人が刺されるかもしれない。
そう思っただけで、膝が震えた。
宇平次は槍を構えたまま、相手へ叫んだ。
「ここで争えば、南谷の道を血で塞ぐことになる。川筋を守ると言うなら、まず槍を下げろ!」
具足の男は歯を食いしばった。
だが、兵をすぐには進ませなかった。
向こうも分かっているのだろう。
この狭い道で槍を交えれば、数が多くても一度に前へ出られる者は限られる。
しかも笠森の兵は、先に道の幅を使って槍を並べている。
無理に押し込めば、最初の何人かは怪我を免れない。
宗介は、その光景を見ながら必死に頭を働かせた。
向こうには十人ほど。
後ろには荷車。
まだ川向こうにも兵がいる。
仮に今の者たちを退かせても、また来るかもしれない。
ここで力比べを続ければ、笠森の兵も疲れ、飯を食い、水を飲まなければならない。
和木原の方が兵を多く集めているなら、長引くほどこちらが不利になる。
だが、その時、宗介は奇妙なことに気づいた。
向こうの兵のうち、五人ほどが槍を構えていない。
立ち位置も少し離れている。
具足の男へ従ってはいるが、前へ出ようとしないのだ。
宗介は善助へ小声で尋ねた。
「あの後ろの五人、和木原の家臣でしょうか」
善助は目を細めた。
「分かりませぬ。ただ、草鞋も具足も違いますな。川向こうの小領主から来た者かもしれません」
宗介は昨夜の書付を思い出した。
槍持ち五人。
三日分の兵糧を持参。
そう触れが回っていた。
もしあの五人が別の家から来た者なら、和木原の命令へどこまで従うつもりなのだろう。
もちろん、こちらに味方する理由はない。
だが、見知らぬ南谷の道で命を捨てる理由も、ないのではないか。
宗介は宇平次へ呼びかけた。
「宇平次さん。後ろの五人は、別の家の方かもしれません」
宇平次がちらりとこちらを見た。
宗介は続けた。
「昨夜の触れには、川筋の取り締まりとありました。南谷の道へ杭を打つために来たと、全員が聞いているのでしょうか」
宇平次の目が鋭くなった。
そして、槍を構えたまま声を張った。
「和木原の者でない兵にも聞く! お前たちは南谷の道を塞ぎ、笠森の者と槍を交えるために来たのか!」
後ろの五人が、わずかに顔を見合わせた。
具足の男が怒鳴る。
「余計なことを言うな! 川筋の警固に従え!」
しかし、後ろの五人のうち、年長の男が前へ出た。
五十に近いだろうか。頬がこけ、肩の具足にも使い込まれた跡がある。
「我らは主家より、渡しの警固に加われと命じられて参った。笠森の者と戦を始めるとは聞いておらぬ」
具足の男の顔が赤くなった。
「警固を妨げる者がいれば、退けるのが役目だ!」
「それは和木原殿の判断であろう。我らの主へ、南谷の道を奪う許しを求めたとは聞いておらぬ」
年長の男は槍を地面へ立てた。
ほかの四人も前へ出なかった。
宗介は、胸の奥で大きく息を吐いた。
味方になったわけではない。
だが、少なくとも今ここで、和木原のために戦おうとはしていない。
それだけで、向こうの槍先が減った。
宇平次も、その機会を逃さなかった。
「南谷の道で槍を向ける者だけが相手だ。警固に来た者まで敵と見るつもりはない。和木原の者は杭を引き、川の渡しへ戻れ!」
具足の男は周囲を見回した。
前には笠森の槍。
後ろには、動こうとしない五人。
荷車はまだ道の入口にある。
このまま押し通れば、血を見る。
しかも、和木原以外の兵を巻き込める保証はない。
しばらくして、男は歯を食いしばったまま命じた。
「杭を戻せ。ここでは争わん」
向こうの兵が不満そうに槍を下げた。
荷車を引いてきた者も、長い横木を再び縄で締め直す。
宇平次は、相手が完全に下がるまで槍を下ろさなかった。
宗介もその場を動けなかった。
ようやく荷車が向きを変え、槍を持った者たちが川の方へ戻り始めた時、膝から力が抜けそうになった。
戦にはならなかった。
少なくとも、今日は。
しかし、男たちは負けたわけではない。
杭と縄を持ったまま帰っただけだ。
明日、もっと多くの兵を連れて来るかもしれない。
◇
和木原の兵が見えなくなってから、宇平次はようやく槍を下ろした。
善助が川の方を見ている。
小六は少し離れた場所で水位を確かめていた。
宗介は近くの石へ腰を下ろした。
自分でも情けなくなるほど、足が震えていた。
「立てるか」
宇平次が声をかけた。
「もう少し休ませてください」
「怪我をしていないなら、急がんでもよい」
宇平次はそう言い、川へ目を向けた。
宗介はその横顔を見上げた。
「さっきは、本当に戦になると思いました」
「俺もそう思った」
意外な答えだった。
宗介が顔を上げると、宇平次は苦い顔で続けた。
「こちらは八人。向こうは十人ほどで、まだ後ろに兵がいる。狭い道だから押し返せただけだ。広い場所でぶつかれば、同じようにはいかん」
「そうだったんですね」
「お前が後ろの五人に気づいたのは助かった。だが、次も同じ手が通じるとは思うなよ」
「はい」
宗介は素直に頷いた。
相手の事情を突けば、戦わずに済むこともある。
しかし、今日の五人はたまたま、自分たちの主家の命令を重んじる者だった。
最初から和木原へ忠誠を誓った兵なら、あの呼びかけは効かなかっただろう。
宇平次が川へ向かって歩き出す。
宗介も立ち上がり、その後ろへ続いた。
牛渡しの入口には、杭を打たれた跡が残っていた。
地面へ浅く穴が開いている。
あと少し遅れていたら、ここに横木が渡され、通る者を止める場所になっていたのだろう。
善助が、その穴を見て唇を噛んだ。
「南谷の者が普段使う道です。あそこを塞がれたら、川の水が低くても荷を通せなくなります」
小六も頷いた。
「川が渡れる日でも、道を閉じられたらどうにもなりませぬ」
宗介は穴を見つめた。
川の水位だけでは、もう渡れるかどうかを決められない。
川の手前に、槍を持った兵が立つようになったからだ。
「若様へ報告しましょう」
宇平次が言った。
「今日は押し返した。だが、和木原が道を押さえるつもりなのは確かだ。もう口先だけの争いではない」
宗介は頷いた。
牛渡しの向こうでは、和木原の兵が川沿いの道を戻っていく。
そのさらに向こうには、昨日から集められた兵と荷車がいる。
まだ何人いるのか、分からない。
だが、これだけははっきりした。
和木原は、笠森の城を直接攻める前に、荷の通り道を奪おうとしている。
宗介は川面へ視線を落とした。
水は穏やかに流れている。
川だけを見れば、今日も渡れる日だった。
それでも、渡し場にはもう戦の匂いが漂っていた。
城へ戻る頃には、日が高くなっていた。
弥四郎は広間で報告を聞いた。
和木原の兵が川を越え、牛渡しへ近づいたこと。
杭と横木を持ち込み、道に荷改めの場所を設けようとしたこと。
宇平次が止め、双方が槍を向けたこと。
そして、周辺の小領主から来たらしい五人が戦いに加わらず、和木原の兵が引いたこと。
弥四郎は最後まで口を挟まなかった。
報告が終わると、しばらく黙っていたが、やがて宇平次へ言った。
「よく戦を避けた」
「一歩違えば、槍を交えておりました」
「それでも、南谷の道を奪わせなかった。十分だ」
宇平次は深く頭を下げた。
弥四郎は宗介へ向き直った。
「荷車にあったのは、杭と横木だけか」
「見えた範囲では、それが中心でした。筵の下までは確認できていません。ただ、道を塞ぐためのものだった可能性は高いと思います」
「食い物は」
「兵が身につけている小袋は見えましたが、荷車の中身までは分かりません」
弥四郎は頷いた。
「ならば、分からぬことは分からぬままでよい。見てもいないものを、あったことにはするな」
「はい」
宗介は頭を下げた。
弥四郎は、庭の方へ目を向けた。
そこでは喜兵衛が、朝の粥を食い損ねた足軽たちへ飯を用意させていた。
戦いになりかけた者たちが戻った。
槍を構え続けた腕は疲れている。
喉も渇いている。
敵を追わなかったからといって、働いていないわけではない。
むしろ、今日はよく踏みとどまった。
「宇平次。兵を食わせて休ませろ。午後は交代して城を守れ」
「承知しました」
「宗介は、喜兵衛と蔵を見ろ。今日の騒ぎで、どれだけ飯を出したか確かめよ」
「はい」
いつもなら、宗介はすぐに蔵へ向かっただろう。
だが、今日は少し違った。
弥四郎へ向き直り、口を開いた。
「若様。ひとつ、お願いがあります」
「言え」
「南谷の者へ、今日のことを知らせたいんです。笠森が和木原の兵を押し返したことだけではなく、牛渡しは小六さんが水を見て決めるという取り決めが、まだ守られていることを」
弥四郎は宗介を見た。
しばらく考えた後、静かに頷いた。
「それは俺が伝える」
宗介は顔を上げた。
「城主の俺が、南谷の者へ言う。笠森は道を守る。だが、無理に渡らせぬ。和木原の兵が引いたからといって、危うい日に通してよいことにはならぬ」
弥四郎は立ち上がった。
「善助を呼べ。小六にも伝えよ。南谷の者を無理に兵へ取り立てることもしない。今日、槍を向けたのは笠森の足軽だ。村の者に戦を背負わせるつもりはない」
宗介は深く頭を下げた。
若い城主は、自分の言葉で領民を守ろうとしている。
水場の取り決めや橋の順を考え始めた頃とは、少し違う。
宗介はそれを頼もしく思った。
しかし、その日の午後、別の知らせが届いた。
槙尾からの使いだった。
安西新蔵の配下が、息を切らして門へ駆け込んできたのである。
「左馬助様より、若様へ急ぎのお知らせにございます」
弥四郎が使いを広間へ通す。
宗介も呼ばれた。
使いの男は膝をつき、懐から書付を取り出した。
「和木原主膳より、槙尾へ申し入れがございました」
「何を求めてきた」
弥四郎が尋ねる。
「笠森が川筋の警固を妨げ、和木原の兵へ槍を向けた、と。槙尾は笠森へ兵を退かせるよう申し渡せ、と求めております」
宇平次の顔が険しくなった。
「先に槍を向けたのは向こうだ!」
使いの男は頷いた。
「左馬助様も、双方の言い分を確かめる必要があると申されております。ただ、和木原は兵を退かせぬつもりのようです」
宗介は胃の奥が重くなるのを感じた。
やはり、そう来た。
道へ杭を打とうとした。
笠森が止めた。
すると今度は、笠森が警固を妨げたと言う。
槙尾を巻き込み、周辺の小領主にも笠森の非を広めるつもりなのだろう。
弥四郎は怒鳴らなかった。
ただ、使いの男へ尋ねた。
「左馬助殿は、どう裁くと」
「まだ裁定は出しておられませぬ。ただし、和木原の兵が南谷の道へ勝手に杭を打つことは認めぬ、と申されました」
弥四郎は静かに頷いた。
「ならば、笠森は見たままを伝える。宇平次が見た兵、杭、横木、荷車。それに、槍を向けた経緯だ。槙尾へ話を通す」
使いは頭を下げた。
だが、まだ言葉があった。
「それと、もうひとつ」
広間が静まる。
「和木原の兵が、渡しから上流の道へも動き始めております。槙尾西沢へ通じる道を、見に行った者がいるとのことです」
宗介は顔を上げた。
槙尾西沢。
昨日まで、笠森が稗や粟を運ぶために使っていた水場である。
古炭道とつながり、尾張筋の小荷を受け取る際にも頼りになる場所だった。
和木原は牛渡しだけを狙っていたのではない。
南谷の道を押さえられなければ、槙尾西沢へ回るつもりなのかもしれない。
弥四郎は使いの男を見つめた。
「和木原の兵は、まだ槙尾西沢へ入っていないのだな」
「はい。今朝の知らせでは、上流の道を見ているだけとのことでした」
「ならば、まだ間に合う」
弥四郎は宇平次へ向き直った。
「牛渡しの見張りは続けろ。ただし、兵を増やしすぎるな。古炭道と槙尾西沢も見なければならぬ」
「承知しました」
「槙尾には、今日のことを正しく伝えよ。笠森が先に和木原の兵へ攻めかかったなどという話は、そのままにはできぬ」
「御意」
宗介は、胸の奥で不安が膨らむのを感じた。
和木原の兵は、今日いったん退いた。
だが、戦は終わっていない。
むしろ、ようやく始まったばかりなのだろう。
敵が狙うのは城壁だけではない。
水場。
渡し。
荷車。
炭の道。
そして、米や粟を運ぶ道。
そこを奪えば、笠森は剣を交えなくても弱っていく。
宗介は、今日見た杭の穴を思い出した。
道の真ん中に打たれかけた、白木の杭。
あの杭が一本立つだけで、人も荷も止まる。
槍を持たない自分にも、その恐ろしさは分かった。
だが、同時に別のことも見えていた。
和木原は兵を集めた。
その兵には飯が要る。
兵を動かすにも道が要る。
道へ杭を打つにも、人と荷車が要る。
和木原の力にも、限りはあるはずだった。
その限りを見つけなければならない。
宗介は、弥四郎へ頭を下げた。
「若様。和木原が上流へ兵を動かすなら、その兵がどこで飯を食い、どこから荷を運ぶかも見ておきたいです」
弥四郎は宗介を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「そうだな。相手の槍だけを見るな。兵糧も見よ」
その言葉を聞いた時、宗介は初めて、自分の仕事が敵の軍勢を読む手がかりになるのだと感じた。
刀を振れない。
槍も扱えない。
矢が飛べば、恐ろしくて膝が震える。
それでも、荷の動きなら見ることができる。
兵が何日食えるのか。
どの道から米を運ぶのか。
どれだけの人足を使っているのか。
そこには、敵が動ける範囲が表れる。
宗介は広間を出て、蔵へ向かった。
喜兵衛が今日の米の減りを確かめている。
その横へ座り、宗介も小袋を数え始めた。
笠森の飯は、まだ多くない。
粟二俵と稗一俵を買えたところで、安心できる量ではなかった。
だが、今日、牛渡しは奪われなかった。
南谷の道も、笠森の手に残った。
それは、明日も荷を運べる可能性が残ったということだった。
外では、宇平次が足軽たちへ次の警戒場所を伝えている。
遠くから、川の流れる音が聞こえた。
和木原の兵が退いた後も、川は何事もなかったように流れている。
宗介は米袋の口を確かめ、静かに息を吐いた。
明日、敵がどこへ来るかは分からない。
だが、笠森も、ただ待つだけではない。
道を守り、荷を運び、兵を食わせる。
そして、敵の兵糧を見る。
槍を持たぬ兵糧係にも、ようやく戦場で果たすべき役目が見え始めていた。




