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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第六十五話 南谷へ来た槍

 南谷の牛渡しに、和木原の槍が現れた。


 夜明けから間もない頃だった。


 久住宗介が蔵の米を数えていると、城門の方から駆け足の音が響いた。続いて門番が大声を上げ、庭にいた足軽たちが一斉に振り向く。


「小六が戻りました! 和木原の渡しから兵が出たそうです!」


 宗介は手にしていた小袋を置いた。


 昨夜、和木原の渡しに槍が十本ほど集まっていると聞いたばかりである。


 その兵が動いた。


 しかも、笠森へ向かう道ではなく、南谷の牛渡しへ。


 宗介の背筋を冷たいものが走った。


 片瀬弥四郎が広間から出てきた時、小六はすでに庭へ駆け込んでいた。


 川の泥が膝まで跳ね、濡れた草鞋から水が滴っている。相当急いできたのだろう。胸を大きく上下させながらも、若者は弥四郎の前で片膝をついた。


「和木原の渡しから、槍を持った者がこちら側へ渡っております。私が見た時には十人ほど。まだ向こう岸にも兵がおりました」


「牛渡しを越えたのか」


 弥四郎の問いに、小六は首を振った。


「いいえ。和木原の渡しで川を越え、こちらの岸沿いを南谷へ下ってきました。牛渡しの手前で止まり、道の幅を調べております」


 宇平次が顔を険しくした。


「牛渡しを押さえるつもりか」


「それは分かりません。ただ、槍だけではなく、杭と縄を持った者がおります」


 宗介は顔を上げた。


 杭と縄。


 古炭道で見つかった白木の杭を思い出したが、今度は道の目印だけでは済まない気がした。


 川を越えた兵が杭を持ってくる。


 しかも、牛渡しへ通じる道の幅を調べている。


 道を塞ぐつもりではないか。


「荷車はどうなっていますか」


 宗介が尋ねると、小六は少し考えて答えた。


「昨日見えた二台のうち、一台は渡しの向こうに残っておりました。もう一台は、川を越えた兵の後ろから来ているようです。まだ遠く、荷の中身までは見えませんでした」


 宗介は唇を噛んだ。


 兵だけなら、見回りだと言い張ることもできる。


 しかし、杭と縄に荷車まで伴うなら、何かを据えるつもりだろう。


 仮の関所か。


 兵の詰め所か。


 いずれにせよ、牛渡しの入口を押さえられれば、笠森が苦労して作った小荷の道が使えなくなる。


 弥四郎は宇平次へ向き直った。


「動ける者を選べ。だが、城を空にするな」


「承知しました。槍持ち六人、弓を扱える者二人を連れて参ります」


「敵の数は、まだ分からぬ。無理に押し返そうとするな。牛渡しへ入る前に止め、何をするつもりか確かめろ」


 宇平次が頷いた。


 弥四郎は宗介を見た。


「お前も行けるか」


 宗介は正直に答えた。


「怖いです。ですが、向こうが荷車を持っているなら、何を運んできたのか確かめたいと思います」


「槍の前へ出る必要はない。宇平次の後ろで見ろ」


「承知しました」


 弥四郎は小六にも命じた。


「お前は川を見ろ。兵の数に気を取られ、水位を見誤るな。牛渡しを通してよいかどうかは、これまでどおりお前が決める」


 小六は深く頭を下げた。


 その姿を見ながら、宗介は思った。


 和木原がどれほど兵を集めても、川の深さまでは変えられない。


 しかし、槍を持った男に渡せと迫られた時、小六が一人で断れるとは思えなかった。


 今日は、その判断を守る兵が必要だった。


     ◇


 南谷へ向かう途中、善助が道の脇から合流した。


 小六が城へ走った後、南谷の者へ知らせを回していたらしい。


 善助の話では、牛渡しの近くにいた女衆と子どもは、すでに谷の奥へ戻したという。


「水場の桶も片づけております。兵が来た時、慌てて取りに戻る者が出ないようにしました」


 宇平次が頷いた。


「よくやった。南谷の者は、今日は勝手に渡しへ近づかせるな」


「はい。ですが、向こうの兵が道を塞げば、川辺から帰る者が困ります」


「分かっている。だから今から見に行く」


 宇平次の声に迷いはなかった。


 宗介は後ろを歩きながら、胸の鼓動を抑えようとしていた。


 昨日まで、道を通る荷の重さを考えていた。


 今日は、道へ現れた槍の数を考えなければならない。


 それだけで、同じ道がまるで違う場所に思えた。


 川へ近づくにつれ、人の声が聞こえ始めた。


 牛渡しの手前には、細い道がある。


 片側は草の生えた低い斜面、もう片側は川へ下る湿った土地だ。荷を背負った者が行き違うには、少し広い場所まで戻らなければならない。


 その道の先に、槍が見えた。


 宗介は思わず足を止めた。


 槍先が朝日に光っている。


 男たちは十人ほどいた。


 そのうち数人が道の脇に立ち、残る者は杭を下ろしている。


 先頭には、具足を着けた男が一人いた。四十前後だろうか。顎に短い髭を生やし、腰には刀を差している。


 和木原の家紋らしい印をつけた者も混じっていた。


 だが、全員ではない。


 中には装備の揃わない男たちもいて、槍の長さもばらばらだった。


 周辺の小領主から集めた兵だろうか。


 そう思ったが、宗介には見ただけで判断できなかった。


「止まれ」


 宇平次が声を張った。


 向こうの男たちが振り向く。


 具足の男が一歩前へ出た。


「笠森の者か」


「片瀬弥四郎様の家臣、宇平次だ。この先は南谷の牛渡しへ通じる道だ。何のために杭を持ち込んだ」


 男は宇平次の後ろに並んだ足軽たちを見た。


 槍持ち六人。


 弓を持つ者二人。


 こちらの方が少ない。


 それを確かめてから、男は口を開いた。


「和木原主膳様の命により、川筋の警固を行う。賊荷や無断の渡河を取り締まるため、道に人を置く」


「牛渡しの渡河を決めるのは南谷の渡し役だ。槙尾の左馬助様の前でも、その取り決めは確認されている」


「和木原の兵が警固することまで禁じられたわけではあるまい」


 相手の言い分にも、一応の形はあった。


 川筋を守る。


 商人を守る。


 賊を防ぐ。


 言葉だけなら、笠森のやってきたことと似ている。


 だが、宗介は兵の後ろへ視線を向けた。


 杭は五本ほど。


 縄は太いものが二巻き。


 さらに、川の方から荷車の軋む音が近づいている。


 道に兵を置くだけなら、これほどの杭は要らない。


「宇平次さん」


 宗介は声を落とした。


「あの杭、道を横切るように打つつもりではないでしょうか」


 宇平次は答えず、男へ尋ねた。


「杭をどこへ打つつもりだ」


「道の入口だ。人と荷を改める場所を示す」


「それでは笠森の水札を持つ商人も、和木原の兵に荷を見せなければ通れぬことになる」


「川筋を守るためだ」


 宇平次の表情が硬くなった。


「ならば認められん」


 男は鼻で笑った。


「笠森が認めぬからといって、川筋の警固をやめる理由にはならん」


 空気が張り詰めた。


 宗介は唾を飲み込んだ。


 ここで相手が杭を打ち始めれば、宇平次は止めようとするだろう。


 槍を持つ者同士が狭い道で押し合う。


 そうなれば、誰かが怪我をする。


 昨日までは空の俵へ矢を受けさせ、どうにか人を失わずに済んだ。


 だが、今日は目の前に敵がいる。


 言葉を交わしているだけで、腕の震えが止まらなかった。


 その時、川の方から荷車が姿を現した。


 牛に引かれた小さな車である。


 車輪には湿った泥がこびりつき、荷台には粗い筵がかけられていた。


 荷車を引いてきた男が、具足の男へ声をかける。


「杭と横木を持って参りました。どこへ下ろせばよろしいでしょう」


 宗介の目が荷台へ向いた。


 筵の端から、長い木材が見えている。


 しかも、縄で束ねられている。


 道を塞ぐ横木だ。


 杭を立て、その間に木を渡せば、人や荷を止める場所になる。


 一度作られてしまえば、取り払う時に揉める。


 武装した兵が守っていれば、なおさらだった。


「宇平次さん。あれを据えられたら、商人が通れなくなります」


 宗介の声に、宇平次は頷いた。


「見れば分かる」


 宇平次は槍を持ち直し、向こうの男へ告げた。


「そこへ木を下ろすな。南谷の道を塞ぐなら、笠森は黙っておらん」


 具足の男の顔から笑みが消えた。


「こちらは主膳様の命を受けている。笠森の足軽風情に指図される覚えはない」


 その言葉と同時に、向こうの槍持ちが二人、前へ出た。


 宇平次も一歩進む。


 槍先が近づいた。


 宗介は思わず後ずさった。


 自分には、あの距離へ入る勇気はない。


 だが、宇平次は退かなかった。


「この道は南谷の者が使い、槙尾へ向かう商人も通る。和木原の渡し賃を逃れたからといって、賊にされる道ではない」


「邪魔をするなら、押し通る」


「やってみろ」


 宇平次の声が低くなった。


 向こうの男が槍を突き出しかけた。


 次の瞬間、宇平次の槍が動いた。


 鋭い音とともに、相手の槍先が外へ払われる。


 押し出された男がよろめき、後ろの者へぶつかった。


「槍を揃えろ!」


 宇平次の号令で、笠森の足軽たちが前へ出る。


 狭い道に槍先が並んだ。


 相手も槍を向ける。


 宗介は、体が動かなかった。


 目の前で本当に人が刺されるかもしれない。


 そう思っただけで、膝が震えた。


 宇平次は槍を構えたまま、相手へ叫んだ。


「ここで争えば、南谷の道を血で塞ぐことになる。川筋を守ると言うなら、まず槍を下げろ!」


 具足の男は歯を食いしばった。


 だが、兵をすぐには進ませなかった。


 向こうも分かっているのだろう。


 この狭い道で槍を交えれば、数が多くても一度に前へ出られる者は限られる。


 しかも笠森の兵は、先に道の幅を使って槍を並べている。


 無理に押し込めば、最初の何人かは怪我を免れない。


 宗介は、その光景を見ながら必死に頭を働かせた。


 向こうには十人ほど。


 後ろには荷車。


 まだ川向こうにも兵がいる。


 仮に今の者たちを退かせても、また来るかもしれない。


 ここで力比べを続ければ、笠森の兵も疲れ、飯を食い、水を飲まなければならない。


 和木原の方が兵を多く集めているなら、長引くほどこちらが不利になる。


 だが、その時、宗介は奇妙なことに気づいた。


 向こうの兵のうち、五人ほどが槍を構えていない。


 立ち位置も少し離れている。


 具足の男へ従ってはいるが、前へ出ようとしないのだ。


 宗介は善助へ小声で尋ねた。


「あの後ろの五人、和木原の家臣でしょうか」


 善助は目を細めた。


「分かりませぬ。ただ、草鞋も具足も違いますな。川向こうの小領主から来た者かもしれません」


 宗介は昨夜の書付を思い出した。


 槍持ち五人。


 三日分の兵糧を持参。


 そう触れが回っていた。


 もしあの五人が別の家から来た者なら、和木原の命令へどこまで従うつもりなのだろう。


 もちろん、こちらに味方する理由はない。


 だが、見知らぬ南谷の道で命を捨てる理由も、ないのではないか。


 宗介は宇平次へ呼びかけた。


「宇平次さん。後ろの五人は、別の家の方かもしれません」


 宇平次がちらりとこちらを見た。


 宗介は続けた。


「昨夜の触れには、川筋の取り締まりとありました。南谷の道へ杭を打つために来たと、全員が聞いているのでしょうか」


 宇平次の目が鋭くなった。


 そして、槍を構えたまま声を張った。


「和木原の者でない兵にも聞く! お前たちは南谷の道を塞ぎ、笠森の者と槍を交えるために来たのか!」


 後ろの五人が、わずかに顔を見合わせた。


 具足の男が怒鳴る。


「余計なことを言うな! 川筋の警固に従え!」


 しかし、後ろの五人のうち、年長の男が前へ出た。


 五十に近いだろうか。頬がこけ、肩の具足にも使い込まれた跡がある。


「我らは主家より、渡しの警固に加われと命じられて参った。笠森の者と戦を始めるとは聞いておらぬ」


 具足の男の顔が赤くなった。


「警固を妨げる者がいれば、退けるのが役目だ!」


「それは和木原殿の判断であろう。我らの主へ、南谷の道を奪う許しを求めたとは聞いておらぬ」


 年長の男は槍を地面へ立てた。


 ほかの四人も前へ出なかった。


 宗介は、胸の奥で大きく息を吐いた。


 味方になったわけではない。


 だが、少なくとも今ここで、和木原のために戦おうとはしていない。


 それだけで、向こうの槍先が減った。


 宇平次も、その機会を逃さなかった。


「南谷の道で槍を向ける者だけが相手だ。警固に来た者まで敵と見るつもりはない。和木原の者は杭を引き、川の渡しへ戻れ!」


 具足の男は周囲を見回した。


 前には笠森の槍。


 後ろには、動こうとしない五人。


 荷車はまだ道の入口にある。


 このまま押し通れば、血を見る。


 しかも、和木原以外の兵を巻き込める保証はない。


 しばらくして、男は歯を食いしばったまま命じた。


「杭を戻せ。ここでは争わん」


 向こうの兵が不満そうに槍を下げた。


 荷車を引いてきた者も、長い横木を再び縄で締め直す。


 宇平次は、相手が完全に下がるまで槍を下ろさなかった。


 宗介もその場を動けなかった。


 ようやく荷車が向きを変え、槍を持った者たちが川の方へ戻り始めた時、膝から力が抜けそうになった。


 戦にはならなかった。


 少なくとも、今日は。


 しかし、男たちは負けたわけではない。


 杭と縄を持ったまま帰っただけだ。


 明日、もっと多くの兵を連れて来るかもしれない。


     ◇


 和木原の兵が見えなくなってから、宇平次はようやく槍を下ろした。


 善助が川の方を見ている。


 小六は少し離れた場所で水位を確かめていた。


 宗介は近くの石へ腰を下ろした。


 自分でも情けなくなるほど、足が震えていた。


「立てるか」


 宇平次が声をかけた。


「もう少し休ませてください」


「怪我をしていないなら、急がんでもよい」


 宇平次はそう言い、川へ目を向けた。


 宗介はその横顔を見上げた。


「さっきは、本当に戦になると思いました」


「俺もそう思った」


 意外な答えだった。


 宗介が顔を上げると、宇平次は苦い顔で続けた。


「こちらは八人。向こうは十人ほどで、まだ後ろに兵がいる。狭い道だから押し返せただけだ。広い場所でぶつかれば、同じようにはいかん」


「そうだったんですね」


「お前が後ろの五人に気づいたのは助かった。だが、次も同じ手が通じるとは思うなよ」


「はい」


 宗介は素直に頷いた。


 相手の事情を突けば、戦わずに済むこともある。


 しかし、今日の五人はたまたま、自分たちの主家の命令を重んじる者だった。


 最初から和木原へ忠誠を誓った兵なら、あの呼びかけは効かなかっただろう。


 宇平次が川へ向かって歩き出す。


 宗介も立ち上がり、その後ろへ続いた。


 牛渡しの入口には、杭を打たれた跡が残っていた。


 地面へ浅く穴が開いている。


 あと少し遅れていたら、ここに横木が渡され、通る者を止める場所になっていたのだろう。


 善助が、その穴を見て唇を噛んだ。


「南谷の者が普段使う道です。あそこを塞がれたら、川の水が低くても荷を通せなくなります」


 小六も頷いた。


「川が渡れる日でも、道を閉じられたらどうにもなりませぬ」


 宗介は穴を見つめた。


 川の水位だけでは、もう渡れるかどうかを決められない。


 川の手前に、槍を持った兵が立つようになったからだ。


「若様へ報告しましょう」


 宇平次が言った。


「今日は押し返した。だが、和木原が道を押さえるつもりなのは確かだ。もう口先だけの争いではない」


 宗介は頷いた。


 牛渡しの向こうでは、和木原の兵が川沿いの道を戻っていく。


 そのさらに向こうには、昨日から集められた兵と荷車がいる。


 まだ何人いるのか、分からない。


 だが、これだけははっきりした。


 和木原は、笠森の城を直接攻める前に、荷の通り道を奪おうとしている。


 宗介は川面へ視線を落とした。


 水は穏やかに流れている。


 川だけを見れば、今日も渡れる日だった。


 それでも、渡し場にはもう戦の匂いが漂っていた。


 城へ戻る頃には、日が高くなっていた。


 弥四郎は広間で報告を聞いた。


 和木原の兵が川を越え、牛渡しへ近づいたこと。


 杭と横木を持ち込み、道に荷改めの場所を設けようとしたこと。


 宇平次が止め、双方が槍を向けたこと。


 そして、周辺の小領主から来たらしい五人が戦いに加わらず、和木原の兵が引いたこと。


 弥四郎は最後まで口を挟まなかった。


 報告が終わると、しばらく黙っていたが、やがて宇平次へ言った。


「よく戦を避けた」


「一歩違えば、槍を交えておりました」


「それでも、南谷の道を奪わせなかった。十分だ」


 宇平次は深く頭を下げた。


 弥四郎は宗介へ向き直った。


「荷車にあったのは、杭と横木だけか」


「見えた範囲では、それが中心でした。筵の下までは確認できていません。ただ、道を塞ぐためのものだった可能性は高いと思います」


「食い物は」


「兵が身につけている小袋は見えましたが、荷車の中身までは分かりません」


 弥四郎は頷いた。


「ならば、分からぬことは分からぬままでよい。見てもいないものを、あったことにはするな」


「はい」


 宗介は頭を下げた。


 弥四郎は、庭の方へ目を向けた。


 そこでは喜兵衛が、朝の粥を食い損ねた足軽たちへ飯を用意させていた。


 戦いになりかけた者たちが戻った。


 槍を構え続けた腕は疲れている。


 喉も渇いている。


 敵を追わなかったからといって、働いていないわけではない。


 むしろ、今日はよく踏みとどまった。


「宇平次。兵を食わせて休ませろ。午後は交代して城を守れ」


「承知しました」


「宗介は、喜兵衛と蔵を見ろ。今日の騒ぎで、どれだけ飯を出したか確かめよ」


「はい」


 いつもなら、宗介はすぐに蔵へ向かっただろう。


 だが、今日は少し違った。


 弥四郎へ向き直り、口を開いた。


「若様。ひとつ、お願いがあります」


「言え」


「南谷の者へ、今日のことを知らせたいんです。笠森が和木原の兵を押し返したことだけではなく、牛渡しは小六さんが水を見て決めるという取り決めが、まだ守られていることを」


 弥四郎は宗介を見た。


 しばらく考えた後、静かに頷いた。


「それは俺が伝える」


 宗介は顔を上げた。


「城主の俺が、南谷の者へ言う。笠森は道を守る。だが、無理に渡らせぬ。和木原の兵が引いたからといって、危うい日に通してよいことにはならぬ」


 弥四郎は立ち上がった。


「善助を呼べ。小六にも伝えよ。南谷の者を無理に兵へ取り立てることもしない。今日、槍を向けたのは笠森の足軽だ。村の者に戦を背負わせるつもりはない」


 宗介は深く頭を下げた。


 若い城主は、自分の言葉で領民を守ろうとしている。


 水場の取り決めや橋の順を考え始めた頃とは、少し違う。


 宗介はそれを頼もしく思った。


 しかし、その日の午後、別の知らせが届いた。


 槙尾からの使いだった。


 安西新蔵の配下が、息を切らして門へ駆け込んできたのである。


「左馬助様より、若様へ急ぎのお知らせにございます」


 弥四郎が使いを広間へ通す。


 宗介も呼ばれた。


 使いの男は膝をつき、懐から書付を取り出した。


「和木原主膳より、槙尾へ申し入れがございました」


「何を求めてきた」


 弥四郎が尋ねる。


「笠森が川筋の警固を妨げ、和木原の兵へ槍を向けた、と。槙尾は笠森へ兵を退かせるよう申し渡せ、と求めております」


 宇平次の顔が険しくなった。


「先に槍を向けたのは向こうだ!」


 使いの男は頷いた。


「左馬助様も、双方の言い分を確かめる必要があると申されております。ただ、和木原は兵を退かせぬつもりのようです」


 宗介は胃の奥が重くなるのを感じた。


 やはり、そう来た。


 道へ杭を打とうとした。


 笠森が止めた。


 すると今度は、笠森が警固を妨げたと言う。


 槙尾を巻き込み、周辺の小領主にも笠森の非を広めるつもりなのだろう。


 弥四郎は怒鳴らなかった。


 ただ、使いの男へ尋ねた。


「左馬助殿は、どう裁くと」


「まだ裁定は出しておられませぬ。ただし、和木原の兵が南谷の道へ勝手に杭を打つことは認めぬ、と申されました」


 弥四郎は静かに頷いた。


「ならば、笠森は見たままを伝える。宇平次が見た兵、杭、横木、荷車。それに、槍を向けた経緯だ。槙尾へ話を通す」


 使いは頭を下げた。


 だが、まだ言葉があった。


「それと、もうひとつ」


 広間が静まる。


「和木原の兵が、渡しから上流の道へも動き始めております。槙尾西沢へ通じる道を、見に行った者がいるとのことです」


 宗介は顔を上げた。


 槙尾西沢。


 昨日まで、笠森が稗や粟を運ぶために使っていた水場である。


 古炭道とつながり、尾張筋の小荷を受け取る際にも頼りになる場所だった。


 和木原は牛渡しだけを狙っていたのではない。


 南谷の道を押さえられなければ、槙尾西沢へ回るつもりなのかもしれない。


 弥四郎は使いの男を見つめた。


「和木原の兵は、まだ槙尾西沢へ入っていないのだな」


「はい。今朝の知らせでは、上流の道を見ているだけとのことでした」


「ならば、まだ間に合う」


 弥四郎は宇平次へ向き直った。


「牛渡しの見張りは続けろ。ただし、兵を増やしすぎるな。古炭道と槙尾西沢も見なければならぬ」


「承知しました」


「槙尾には、今日のことを正しく伝えよ。笠森が先に和木原の兵へ攻めかかったなどという話は、そのままにはできぬ」


「御意」


 宗介は、胸の奥で不安が膨らむのを感じた。


 和木原の兵は、今日いったん退いた。


 だが、戦は終わっていない。


 むしろ、ようやく始まったばかりなのだろう。


 敵が狙うのは城壁だけではない。


 水場。


 渡し。


 荷車。


 炭の道。


 そして、米や粟を運ぶ道。


 そこを奪えば、笠森は剣を交えなくても弱っていく。


 宗介は、今日見た杭の穴を思い出した。


 道の真ん中に打たれかけた、白木の杭。


 あの杭が一本立つだけで、人も荷も止まる。


 槍を持たない自分にも、その恐ろしさは分かった。


 だが、同時に別のことも見えていた。


 和木原は兵を集めた。


 その兵には飯が要る。


 兵を動かすにも道が要る。


 道へ杭を打つにも、人と荷車が要る。


 和木原の力にも、限りはあるはずだった。


 その限りを見つけなければならない。


 宗介は、弥四郎へ頭を下げた。


「若様。和木原が上流へ兵を動かすなら、その兵がどこで飯を食い、どこから荷を運ぶかも見ておきたいです」


 弥四郎は宗介を見た。


 そして、ゆっくり頷いた。


「そうだな。相手の槍だけを見るな。兵糧も見よ」


 その言葉を聞いた時、宗介は初めて、自分の仕事が敵の軍勢を読む手がかりになるのだと感じた。


 刀を振れない。


 槍も扱えない。


 矢が飛べば、恐ろしくて膝が震える。


 それでも、荷の動きなら見ることができる。


 兵が何日食えるのか。


 どの道から米を運ぶのか。


 どれだけの人足を使っているのか。


 そこには、敵が動ける範囲が表れる。


 宗介は広間を出て、蔵へ向かった。


 喜兵衛が今日の米の減りを確かめている。


 その横へ座り、宗介も小袋を数え始めた。


 笠森の飯は、まだ多くない。


 粟二俵と稗一俵を買えたところで、安心できる量ではなかった。


 だが、今日、牛渡しは奪われなかった。


 南谷の道も、笠森の手に残った。


 それは、明日も荷を運べる可能性が残ったということだった。


 外では、宇平次が足軽たちへ次の警戒場所を伝えている。


 遠くから、川の流れる音が聞こえた。


 和木原の兵が退いた後も、川は何事もなかったように流れている。


 宗介は米袋の口を確かめ、静かに息を吐いた。


 明日、敵がどこへ来るかは分からない。


 だが、笠森も、ただ待つだけではない。


 道を守り、荷を運び、兵を食わせる。


 そして、敵の兵糧を見る。


 槍を持たぬ兵糧係にも、ようやく戦場で果たすべき役目が見え始めていた。



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