第六十四話 空の俵
笠森城の庭に、藁を詰めた俵が二つ置かれていた。
夜が明けたばかりだというのに、宇平次はすでに具足を着け、足軽たちへ支度を命じている。
久住宗介は、その俵を見て眉を寄せた。
「稗を買いに行くんですよね」
「お前たちはな」
宇平次はそう答えると、俵のひとつを片手で持ち上げた。
見た目ほど重くない。
中身が藁なのだから当然だった。
「こちらは古炭道を通る。昨日、矢を射かけてきた連中が、まだあの道を見張っているかもしれん」
「それで、俵を?」
「荷が通ると思わせる」
宗介は思わず宇平次の顔を見た。
昨日、古炭道の曲がりで矢を射られたばかりである。佐太は肩を負傷し、今もおきぬから重いものを持つなと叱られていた。
そこへ、わざわざ荷を背負って出ていく。
相手が本当に道を押さえているなら、再び矢が飛んでくる可能性は高かった。
「人足を囮にするんですか」
思わず声が強くなった。
宇平次の表情は変わらない。
「荷を背負うのは足軽だ。しかも、ただ歩かせるわけではない。太助に山側の道を見させ、こちらは槍を持って進む」
「ですが……」
「危ないことは承知している」
宇平次は俵を下ろした。
「昨日、あの場所で何人いるか分からぬ相手に矢を射られた。放っておけば、次に通る人足も同じ目に遭う。城へ米を運ぶ道を、賊に好き勝手使わせるわけにはいかん」
宗介は口を閉じた。
言っていることは分かる。
だが、昨日の矢が木へ突き立つ音を思い出すと、簡単に頷けなかった。
宇平次は武士である。
危険な道へ兵を出すのも仕事だろう。
しかし、昨日まで宗介と一緒に泥を掻いていた足軽が、今日は矢を受けるかもしれない。
それは、どうしても割り切れなかった。
片瀬弥四郎が広間から出てきたのは、その時だった。
「宇平次。支度は整ったか」
「はい。太助も道を確かめております」
「追いすぎるな」
弥四郎は厳しい顔で言った。
「古炭道を通せるようにするのが目的だ。逃げた者を追って山奥へ入り、こちらが兵を失っては意味がない」
「承知しております」
「それと、笠森の領外へ踏み込んで争いを広げるな。相手が誰の者かも、まだ分からぬのだからな」
宇平次は深く頷いた。
弥四郎は今度は宗介を見る。
「お前は南谷の道を使え」
「南谷下の小橋ですか」
「そうだ。あそこなら、槙尾から小荷を運んで戻れる。遠回りにはなるが、古炭道より開けた場所が多い。橋の前後には南谷の者もいる」
宗介は、修理したばかりの小橋を思い浮かべた。
新左が釘を打ち直し、善助たちが橋板を確かめた橋である。
人は一人ずつ。
荷車は通せない。
大荷は分ける。
待つ場所まで作り、六蔵の畑を踏まないようにした。
もともと大量の兵糧を通すには向かない道だったが、稗一俵なら話は違う。
「小袋へ分ければ、運べると思います」
「ならば、その道で運べ」
弥四郎は即決した。
「宇平次は古炭道を確かめる。宗介は稗を買って戻す。役目を混ぜるな」
宗介は頭を下げた。
「承知しました」
若い城主は、最後に宇平次へ向き直った。
「藁俵を背負う者には、危うくなればすぐ捨てろと伝えよ。荷は惜しくない。人を失うな」
「御意」
宇平次は俵を持ち上げ、足軽たちの方へ歩いていった。
宗介は、その背中を見送った。
胸の奥が落ち着かない。
昨日まで、兵糧を運ぶ人数ばかり考えていた。
今日は、兵糧を運ばない兵まで動かさなければならない。
戦国で荷を運ぶというのは、そういうことなのだろう。
喜兵衛が横へ来た。
「宗介。お前は自分の仕事をしろ」
「はい」
「宇平次には宇平次の仕事がある。あの男に任せた方がよいことまで、お前が背負うな」
宗介は頷いた。
正しい言葉だった。
だが、正しいからといって、不安が消えるわけではなかった。
城を出る頃、佐太が門の脇に立っていた。
肩にはまだ布が巻かれている。
槍を持っていないせいか、いつもより少し所在なさげだった。
「俺も行けるんですがね」
佐太がぼやく。
宗介は苦笑した。
「おきぬさんに怒られますよ」
「もう怒られた」
「なら、休んでください」
「若様にも同じことを言われた。まったく、腕一本擦ったくらいで」
佐太はそう言いながらも、無理に同行しようとはしなかった。
その代わり、宗介へ声を落として言った。
「南谷の道でも油断するな。古炭道を押さえられたと知れば、向こうが別の道へ回るかもしれん」
「分かっています」
「橋の前で妙な者を見たら、荷を捨ててでも下がれ」
宗介は顔を上げた。
佐太は真面目な表情だった。
「昨日、俺も矢を受けて分かった。命があれば、荷はまた運べる」
宗介は深く頷いた。
南谷へ向かう一行は、宗介と善助、それに荷を背負う若者四人、護衛の足軽二人だった。
太助は宇平次とともに古炭道へ向かったため、こちらには来ていない。
荷を買う銭は、宗介が預かっている。
喜兵衛が何度も数えた銭だった。
これを失えば、稗一俵どころではない。
宗介は懐の重みを確かめながら、足元の湿った道を歩いた。
南谷下の小橋へ着くと、六蔵が待ち場の石を積み直していた。
以前は橋を待つ者が畑へ踏み込み、ひどく怒っていた老人である。
今では待ち場の具合を、誰よりもよく見ているらしい。
「今日は、やけに早いな」
六蔵が善助へ声をかけた。
「槙尾へ穀物を取りに行きます」
「大荷か」
「帰りは小荷に分けます」
宗介が答えると、六蔵は橋へ目を向けた。
「昨日も橋板を見たが、釘は浮いていない。ただし、あそこは荷車を通す橋じゃない。重い袋を背負ったまま、二人続けて乗るなよ」
「はい。一人ずつ渡ります」
「分かっているならいい」
六蔵はそう言って鍬を肩へ担いだ。
以前なら、通る者が畑を踏まないか見張るだけだった男が、今では橋を使う者へ注意するようになっている。
宗介は、それを少し頼もしく感じた。
小橋を渡り、槙尾の道へ入る。
古炭道と比べれば遠回りだが、道の脇には畑や小屋が点在していた。時折、人の姿が見えることがありがたい。
もっとも、安心できるわけではない。
昨日の襲撃者も、姿を見せるまではただの人影だった。
宗介は、何度も周囲を見回してしまった。
護衛の足軽がそれに気づき、声をかける。
「久住殿。前だけ見て歩いてくだされ。こちらが周りを見ております」
「すみません」
「謝ることはありませぬ。昨日のことがあれば、誰でも怖くなります」
宗介は、その言葉に救われた。
五十一歳の男が、若い足軽に気遣われている。
格好のよい話ではない。
だが、格好をつけて転ぶよりはましだった。
槙尾の荷宿へ着いた時には、すでに朝の商いが始まっていた。
軒先では荷持ちが縄を締め、馬の鼻息が湿った土の匂いに混じっている。
柏屋惣右衛門の手代が、宗介たちを見つけて迎えた。
「笠森からお越しとは聞いておりましたが、昨日の騒ぎがあったので、見合わせるかと思っておりました」
「道を変えました」
宗介が答える。
「稗は、まだありますか」
「ございます」
手代は奥から一俵を運ばせた。
俵の縄は締まっている。
中身も乾いていた。
宗介は荷主の前で穀物を改め、喜兵衛から預かった銭を支払った。
昨日の粟より少ない量である。
しかし、今日の笠森には十分ありがたかった。
手代は、宗介たちが持参した小袋を見て眉を上げた。
「その袋へ分けてお持ち帰りに?」
「はい。南谷下の小橋を通ります。俵のままでは重すぎます」
「それでは手間がかかりましょう」
「かかります。でも、通れない道へ持っていくよりはましです」
手代は少し考え、頷いた。
穀物を小袋へ移す作業には、荷宿の者も立ち会った。
大きな俵から、ひとつずつ小袋へ。
口を折り返して縄で締める。
四人の人足が背負える重さを確かめ、残りは護衛の足軽と分担することにした。
宗介自身は、荷を背負わなかった。
無理をして途中で倒れれば、かえって足を引っ張る。
それが悔しくないと言えば嘘になる。
だが、自分が持てる重さに合わせて荷を減らすくらいなら、運べる者へ任せた方がいい。
「久住殿」
手代が声をかけた。
「古炭道へは、今日は行かれないのですね」
「はい」
「今朝、こちらへも妙な話が届いております。あの道で矢を射られたと」
宗介は頷いた。
「昨日、こちらの者が負傷しました」
手代の表情が曇る。
「荷を運ぶ商人が、怖がっております」
「そうでしょうね」
「それでも、笠森は買いに来る」
「食べなければ、城の者も働けませんから」
手代は、しばらく宗介を見ていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「柏屋の旦那が申しておりました。笠森は荷が傷んだ時も、道が危ない時も、隠して売り買いをしない、と」
宗介は少し驚いた。
惣右衛門が、そんなことを言っていたのか。
「ありがたいことです」
「こちらも商いを続けたいのです。危ない道へ黙って荷を出されるより、通れる道を教えてもらえる方が助かります」
宗介は深く頷いた。
敵が道を脅かしても、売り手まで敵になるわけではない。
それが分かっただけでも、今日は来た意味があった。
同じ頃、古炭道では宇平次たちが山の曲がりへ近づいていた。
藁を詰めた俵を背負う足軽は二人。
俵は軽いが、外から見れば中身までは分からない。
宇平次はその後ろで槍を持ち、道の両脇へ目を配っていた。
太助は少し離れた山側の道を、別の足軽とともに進んでいる。
黒谷へ炭を運んでいた頃に使った細い道だ。
荷を背負っては通れないが、身軽な者なら斜面を回り込める。
昨夕、太助が宇平次へ教えた道だった。
ただし、敵より先に着ける保証はない。
宇平次は、曲がりの手前で一度足を止めた。
昨日、新しい杭が打たれていた場所である。
杭は抜いてある。
だが、折られた枝はそのまま残っていた。
風が木々を揺らしている。
鳥の声は聞こえない。
足軽の一人が、背負い俵の縄を握り直した。
宇平次は小声で言った。
「急ぐな。荷を持つふりをして歩け。危うければ、俵は捨ててよい」
足軽は頷いた。
さらに数歩進んだ時、山側で小石が落ちた。
宇平次の視線が動く。
太助の方角だった。
合図か。
それとも、ただ石が転がっただけか。
判断するより先に、矢が飛んだ。
一本目は、先頭の足軽が背負った俵へ突き立った。
藁が飛び散る。
足軽が反射的に身を屈め、背負い紐を外した。
二本目の矢が木の幹を打つ。
「荷を捨てろ! 木へ寄れ!」
宇平次の声が響いた。
足軽たちが俵を落とし、槍を構える。
山側の藪から男が二人、姿を現した。
さらに奥で弓を引く者が見える。
昨日と同じ連中かどうかは分からない。
だが、荷を狙っていたことだけは確かだった。
宇平次は足軽をむやみに前へ出さなかった。
弓を持つ者がいる以上、正面から追えば射られる。
ところが、男たちの後ろで突然、太助の声が響いた。
「そこを退け!」
山側の細道から、太助と足軽が現れたのである。
敵の男たちが振り向く。
その一瞬に、宇平次が前へ出た。
「槍を揃えろ! 道から追い払え!」
足軽たちが槍先を並べて進む。
男たちは挟まれる形になり、慌てて藪へ逃げ込もうとした。
ひとりが弓を取り落とす。
別の男は短い槍を振り回したが、宇平次の槍に押し返され、足を滑らせて斜面を転がった。
追おうとした足軽を、宇平次が怒鳴って止める。
「深追いするな! そこから先は道が見えん!」
藪の奥で枝の折れる音が続いた。
男たちは逃げた。
宇平次はしばらく槍を構えたまま周囲を確かめ、敵の姿が見えなくなってから息を吐いた。
道には、藁の飛び出した俵が二つ転がっている。
矢が三本。
そして、落とされた弓が一本。
太助がそれを拾い上げた。
「また同じ場所にいたな」
「ああ」
宇平次は周囲を見回した。
「荷が通ると思えば、姿を見せる。やはり、この道を通さぬつもりらしい」
「和木原の者か」
「分からん。だが、弓まで捨てて逃げた。少なくとも、今日は好きに射かける気にはならんだろう」
太助は、地面へ落ちた藁を拾って俵へ戻した。
「これが米だったら、今頃は拾い集めるだけで日が暮れてる」
「そうならぬための空荷だ」
宇平次は落ちた弓を足軽へ預けた。
「若様へ持ち帰る。敵の名は分からぬが、荷を狙っていたことは確かだ」
足軽は深く頷いた。
宇平次は最後に、道の曲がりを見た。
ここを守る兵を置き続ける余裕は、笠森にはない。
しかし、敵が出れば撃退する。
荷を運ぶ時には先に道を確かめる。
当面は、それを続けるしかなかった。
一方、宗介たちは稗を背負い、南谷下の小橋へ戻っていた。
空は明るい。
風も強くない。
だが、小橋の手前には朝より人が増えていた。
六蔵が待ち場に立ち、商人たちへ声をかけている。
「荷を置くなら、畑の端へ寄せるな。道が空いてから渡れ」
宗介たちが近づくと、六蔵は小袋を見て目を細めた。
「稗か」
「はい。槙尾で買いました」
「全部で一俵分か」
「そうです」
六蔵は、荷を背負った若者たちを順に見た。
「橋の上で押し合うなよ」
「分かっています」
善助が答えた。
まず、橋の板を確かめる。
釘は浮いていない。
木楔も動いていない。
昨日までと同じ状態だった。
それでも、最初の一人を通すまで、宗介の胸は落ち着かなかった。
稗の小袋を背負った若者が、橋へ足をかける。
橋板が小さく鳴った。
若者は足元を確かめながら進む。
向こう岸へ渡りきると、荷を背負い直し、少し離れた場所で待った。
次の一人。
また一人。
橋を渡る人数は増やさない。
向こう岸に荷が溜まりすぎないよう、渡った者を先へ進ませる。
その間、宗介は待ち場で周囲を見ていた。
以前なら、こうして荷を一人ずつ渡すのは、面倒な仕事にしか思えなかっただろう。
だが今は違う。
古炭道で矢を射られたことを思えば、時間をかけても確実に渡せるだけありがたい。
四人目が橋へ足をかけた時だった。
向こう岸の藪が揺れた。
宗介の背筋が冷たくなった。
足軽も気づき、槍を持ち直す。
橋の上にいる若者が、振り返りかけた。
「前を見て!」
宗介は思わず叫んだ。
若者が足を止める。
「そのまま、ゆっくり渡ってください!」
善助も声をかけた。
「足元を見ろ! 急ぐな!」
若者は唇を噛み、橋の真ん中を踏んで向こう岸へ渡った。
そこでようやく、藪の中から出てきたものの姿が見えた。
小さな鹿だった。
人を見て驚いたのか、すぐに草むらの奥へ駆け込んでいく。
六蔵が長く息を吐いた。
「鹿か」
宗介も膝の力が抜けそうになった。
護衛の足軽が苦笑する。
「昨日のことがあれば、藪が揺れただけでも気になりますな」
「本当に……」
宗介は額の汗を拭った。
鹿でよかった。
だが、次も鹿とは限らない。
だからといって、藪が揺れるたびに荷を捨てて逃げるわけにもいかない。
何とも厄介な話だった。
橋を渡り終えた若者たちの表情も、どこか硬い。
宗介は声をかけた。
「少し休みましょう。ここから城までは、まだ歩きます」
善助が頷いた。
若者たちは小袋を下ろし、肩を回した。
六蔵は待ち場の端へ水を置いてくれた。
「飲んでいけ。だが、荷を地べたへ置くな。下に枝を敷け」
宗介は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。稗を濡らされたら、こっちまで嫌な気分になる」
六蔵はそっけなく答えた。
しかし、水を持ってきてくれたことは確かだった。
以前は笠森の者が待ち場を使うことさえ嫌がっていた男である。
今では、荷が無事に通ることを気にしてくれている。
宗介は、その変化を嬉しく思った。
それ以上に、笠森が何日もかけて直してきた橋や道が、ようやく兵糧を運ぶ役に立っていることがありがたかった。
帰城した時、空はまだ明るかった。
喜兵衛が門へ出てきて、稗の小袋を数える。
「揃っているか」
「はい。途中でこぼしたものもありません」
宗介が答えると、喜兵衛は顔を緩めた。
「よし。すぐ蔵へ入れろ。今日の飯には使わん。まず、米と粟の残りを見てからだ」
宗介は頷いた。
何でもすぐ粥に入れるわけにはいかない。
買った穀物が城へ着いたからといって、その日のうちに使い切る理由はなかった。
蔵へ運び込まれる稗の小袋を見ていると、庭の向こうが騒がしくなった。
宇平次たちが戻ってきたのである。
足軽の背には、藁の飛び出した俵。
別の者は弓を一本持っていた。
宗介は思わず駆け寄ろうとしたが、足元がもつれ、危うく転びかけた。
宇平次がそれを見て顔をしかめる。
「何をしている」
「いや、その……皆さんは」
「無事だ。怪我人もない」
その言葉を聞いて、宗介はようやく息を吐いた。
宇平次は肩から藁俵を下ろした。
俵には矢が突き立っている。
新しい矢だった。
宗介は思わず手を伸ばしかけ、止めた。
昨日の木へ突き立った矢と、よく似ている。
だが、似ているからといって、同じ男が射たとは限らない。
「敵が出たんですか」
「ああ。昨日と同じ曲がりだ。三人ほど姿を見せたが、ほかにもいたかもしれん。こちらが槍を揃えると逃げた」
「追わなかったんですね」
「若様に命じられている。荷を通すための道だ。賊を追って山で迷うための道ではない」
宇平次は落とされた弓を見せた。
「相手が誰かは分からん。だが、荷を狙っていたことは確かだ」
宗介は俵を見つめた。
中身が藁だから、矢が刺さっても失うものは少ない。
だが、これが稗だったら。
人足の背に刺さっていたら。
考えるだけで胃が縮む。
太助が横から言った。
「これで終わりじゃねえ。道の曲がりは押さえ返したが、あいつらがほかへ回れば同じことだ」
「そうですね」
宗介は頷いた。
弥四郎も、その話を聞いていた。
若い城主は、藁俵と稗の小袋を交互に見た。
「今日は、二つの道を使ったわけだな」
「はい」
宗介が答える。
「古炭道には空の俵。南谷下の小橋には本物の稗を通しました」
「それで、人を失わずに済んだ」
「はい」
弥四郎は宇平次へ向いた。
「よくやった。だが、明日は同じ手を使うな」
「承知しております」
「相手も馬鹿ではない。空荷だと知れば、次は別の道を見張る。こちらが同じことを繰り返せば、いずれ裏をかかれる」
宇平次は深く頭を下げた。
宗介も、胸の奥が引き締まるのを感じた。
今日のやり方が、明日も通用するとは限らない。
敵は、こちらの動きを見ている。
笠森も、敵の動きを見なければならない。
しかも和木原の渡しには、明日の朝までに槍持ちを集める触れが出ている。
今はまだ、少人数の襲撃者で済んでいる。
だが、兵が集まれば話は変わる。
弥四郎は喜兵衛へ尋ねた。
「稗が一俵入った。城の飯は、どれだけ持ち直す」
「数日のうちに尽きる心配は、幾分和らぎます。ただ、十分とは申せませぬ」
「そうか」
弥四郎は頷いた。
期待していたほど増えたわけではない。
それでも、朝にはなかった穀物が蔵へ入っている。
そのことに意味があった。
「宗介。今後の買い入れは、柏屋とよく相談せよ。道を変え、人を変え、運べる日に運ぶ。だが、無理をして人を失うな」
「承知しました」
「宇平次。道の見張りを続けろ。ただし、城の守りを薄くしすぎるな。明日は和木原に兵が集まる日だ」
「御意」
弥四郎は庭を見回した。
喜兵衛が稗を蔵へ運ばせている。
太助は空の俵をほどき、刺さった矢を確かめていた。
宇平次の足軽たちは、ようやく具足を緩めている。
皆、疲れていた。
だが、誰も空手で戻ってきたわけではない。
稗一俵。
敵が落とした弓一本。
そして、古炭道を押さえようとする者が実際にいるという、確かな知らせ。
笠森は今日、それを持ち帰った。
夕方、宗介はおきぬの竈へ顔を出した。
おきぬは粥を混ぜながら、こちらを見た。
「稗、買えたんだってね」
「はい。一俵だけですが」
「一俵もあれば、しばらくは粥に混ぜられる。米だけで炊くより、減りは遅くなるよ」
「助かります」
「助かったのは、運んだ者たちだろう。あんたも歩いたんだろうけど、荷は背負ってないんだからね」
「その通りです」
宗介は苦笑した。
おきぬは、余計な慰めを言わない。
それがありがたかった。
「それと、佐太がまた槍を持とうとしていたよ」
「えっ」
「肩の布を替えた時に、もう治ったと言い張ってね。宇平次が戻ったら聞いてみろって言っておいた」
宗介は思わず笑った。
佐太らしい。
怪我をして休んでいるのが、よほど性に合わないのだろう。
だが、笑いながらも胸が温かくなった。
皆、生きて戻ってきた。
今日、それが何よりありがたかった。
日が暮れかけた頃、城門へ小六がやってきた。
南谷の牛渡しを見ている若者である。
いつものように川の泥を草鞋につけていたが、表情は硬かった。
「若様にお知らせがあります」
宗介は、その声で笑みを消した。
弥四郎もすぐに庭へ出てくる。
「何だ」
小六は一度息を整えてから答えた。
「和木原の渡しへ、槍を持った者たちが集まり始めています」
宇平次が近づいた。
「何人見た」
「川向こうなので、はっきりとは数えられません。ただ、槍が十本ほど見えました。荷車も二台、渡しの上手へ入っています」
広間へ向かいかけていた喜兵衛が足を止めた。
十本ほどの槍。
荷車二台。
まだ軍勢と呼べるほどの数ではない。
だが、明日の朝までに兵を集める触れが出ている。
集まり始めているのは確かだった。
「こちらへ渡ってきた者は」
弥四郎が尋ねた。
「私が見ている間には、おりません」
「牛渡しの水は」
「今日は渡れます。ただし、見知らぬ者を勝手に通すつもりはありません」
弥四郎は頷いた。
「それでよい。お前は川を見ることだけ忘れるな。敵の槍ばかり見て、水を見誤るなよ」
「承知しました」
小六は深く頭を下げた。
弥四郎は宇平次へ向いた。
「今夜は城門と蔵を守れ。南谷へは見張りを出す。ただし、こちらから川を越えて争うな」
「御意」
「そして明朝、和木原に何人集まったか確かめる。槍を持つ者だけでなく、荷車がどこへ動くかも見よ」
宗介は顔を上げた。
荷車。
和木原が買い集めた麦。
渡し近くの土蔵。
草鞋。
干物。
それらが、明日から実際に動き始めるかもしれない。
宇平次は兵を見る。
宗介は荷を見る。
その役割が、ようやくはっきりしてきた気がした。
夜、蔵では喜兵衛が買い入れた稗を奥へ収めていた。
宗介も手伝おうとしたが、重い袋を持ち上げることはできなかった。
結局、空になった縄を片づけるくらいしか役に立たない。
五十一歳の男が、情けない話である。
だが、今日ほど自分の仕事を間違えてはいけないと思ったこともなかった。
槍を持つ者には槍を。
山を知る者には道を。
穀物を背負える者には荷を。
そして自分は、どうすれば必要なものが必要な場所へ届くのかを考える。
そこから逃げてはいけない。
蔵の戸を閉めると、外では夜番の足音が聞こえた。
宇平次が戻ってきたらしい。
遠くで佐太の声もした。
また槍を持とうとして、叱られているのかもしれない。
宗介は小さく笑った。
だが、門の外へ目を向けた途端、その笑みは消えた。
和木原の渡しには、もう槍が集まり始めている。
明日の朝には、さらに増えるだろう。
今日、笠森は稗一俵を運び込んだ。
空の俵に矢を受けさせ、本物の荷を別の道から通した。
それは、確かな成果だった。
しかし、その一俵を食べ終えるより先に、和木原の兵が動き出す可能性がある。
宗介は蔵の戸に手を置いた。
冷えた木の感触が掌へ伝わる。
戦が始まれば、ここにある穀物を何日で食い尽くすのか。
誰へ先に飯を出すのか。
どの道から次の荷を運ぶのか。
考えるべきことはいくらでもある。
けれど、今日ひとつだけ分かった。
兵糧を守るには、兵糧だけを見ていても足りない。
それを運ぶ道を守り、道を守る兵を食わせ、食わせた兵を無事に戻さなければならない。
宗介は戸の掛け金を確かめ、庭へ戻った。
そこでは弥四郎が、明日の見張りに出る足軽たちへ声をかけていた。
まだ若い城主の背中は、昨夜よりも頼もしく見えた。
宗介はその後ろに立ち、黙って頭を下げた。
明日、何が起きるかは分からない。
だが、笠森の蔵には今日も穀物が入った。
少なくとも、空腹のまま槍を持たせる日は、一日先へ延ばせたのである。




