第六十一話 蔵の底
喜兵衛が米俵をどかした時、蔵の奥に床板が見えた。
久住宗介は、その光景をしばらく眺めていた。
少し前まで、そこには俵が積まれていた。城の者が食う米、万一の籠城に備える米、傷病人や人足へ出す米。それぞれ置き場所を分け、喜兵衛が減り具合を見ていたものだ。
それが今は、俵を動かさなくても奥の壁が見える。
朝の光が戸口から差し込み、舞い上がった糠埃を白く照らしていた。
「六日だな」
喜兵衛が言った。
「何がですか」
「このまま普請飯を出し続けた場合だ。城の者だけに限れば、もう少し持つ。だが、普請に人を出して、朝夕に粥を炊き、傷んだ者へ別に飯を出せば、六日も怪しい」
宗介は思わず俵を数え直した。
何度見ても同じだった。
米は増えない。
濡れ荷から助けた塩や干物はある。黒谷から届く炭も、細々ながら途切れていない。槙尾との水場の取り決めもでき、南谷下の小橋も人と小荷なら通れるようになった。
ところが、その道を使って肝心の米を運ぶ算段が、十分ではなかった。
水を守り、火を守り、道を直す。そのために働く者へ飯を出しているうちに、城の蔵が痩せていたのである。
「種の豆を残したところで、蒔いた翌日に腹は膨れませんね」
「当たり前だ。芽が出るかどうかも、まだ分からん」
喜兵衛は空いた床へ腰を下ろし、膝をさすった。
「宗介。俺はお前のやり方を悪いとは思わん。南谷も黒谷も、前より城を頼るようになった。商人も戻ってきた。だがな、人が集まれば食う口も増える。良いことをした分だけ米が減るというのは、何とも皮肉な話だ」
宗介は返す言葉がなかった。
人が働けば飯が要る。
そんなことは五十一年も生きていれば分かる。
しかし、分かっていることと、足りるように運ぶことは違う。
現代の配送の仕事でも、荷物の行き先が増えたからといって、車や人員が勝手に増えることはなかった。限られた車と人手で何とか回し、無理が続けば、最後にはどこかが破綻する。
今の笠森も、それに近かった。
しかも、こちらには代わりの車もなければ、電話一本で呼べる応援もいない。
「若様へ話しましょう」
「ああ。今日は米の減りをごまかすな」
「ごまかせる量でもありません」
喜兵衛は笑わなかった。
宗介も笑えなかった。
広間では、片瀬弥四郎が宇平次と話していた。
南谷下の小橋は昨夜も異状なし。ただし荷車は依然として通せず、六蔵の待ち場には朝から小荷を抱えた者が集まっているという。
報告を聞いた弥四郎は、いつものように次の仕事を命じようとした。
その前に、宗介が口を開いた。
「若様。蔵の米が足りません」
宇平次が振り向いた。
弥四郎は宗介の顔を見ると、手にしていた紙を置いた。
「どれほどだ」
「今のまま普請飯を続ければ、六日も怪しいと喜兵衛さんが見ています。城の者だけに絞れば少し延ばせますが、それでは道を直す手が止まります」
宇平次の眉間に皺が寄った。
「城の米を人足に出しすぎたか」
「それはあります。ただ、普請を止めれば済む話でもありません。道が荒れれば商人が来なくなる。炭も塩も細ります」
「だが、城兵の腹まで空かせるわけにはいかんぞ」
「承知しています」
宗介は頭を下げた。
宇平次の言い分は正しい。
城を守る兵が空腹で槍を持てなくなれば、どれほど立派な道を作っても意味がない。
弥四郎はしばらく黙っていたが、やがて喜兵衛へ尋ねた。
「米を買う銭は」
「あります。ですが、城の備えから出すことになります。余裕のある銭ではございません」
「買う相手は」
「そこが問題ですな。近場の村は、笠森と似たようなものです。米を出せと言えば、今度は村の腹が減ります」
宗介は頷いた。
周囲の村から無理に集めるわけにはいかない。
それをやれば、和木原がやっていることと大差なくなる。
「尾張筋です」
宗介が言うと、弥四郎が目を上げた。
「柏屋か」
「はい。商いの荷に、米か雑穀を混ぜてもらえないか相談します。ただし、大荷は運べません。南谷下の小橋も、牛渡しも、今のところ米俵を積んだ荷車を通す道には使えません」
「古炭道はどうだ」
「人が背負うなら通せます。ですが、荷車には狭い。米俵をそのまま運ぶのではなく、小分けにする必要があります」
宇平次が腕を組んだ。
「人足が要る。また飯が減るぞ」
「だから、運んだ米より多く食わせるような仕事にはできません。運ぶ人数と往復の回数を先に決めます」
宗介は床に指を置き、道筋を示した。
笠森。
古炭道。
槙尾西沢。
そこから槙尾の荷宿。
水場はすでに取り決めがあり、槙尾の立ち会いも得られる。大荷を通せない代わりに、少人数が小荷を背負って往復することはできるはずだった。
無論、道が通れることと、買う米があることは別である。
弥四郎は立ち上がった。
「柏屋へ使いを出せ。米でなくともよい。食える雑穀があれば買う。ただし、村の種籾や種豆まで買い上げるな」
「はい」
「宇平次。古炭道を見た者を集めろ。護衛は最小限でよいが、荷を背負った者を無防備にはするな」
「承知」
「喜兵衛。米を出す仕事も絞れ。すぐに要らぬ普請は延ばす。ただし、城兵と、今日実際に働く者の飯は削りすぎるな」
喜兵衛は深く頷いた。
弥四郎は最後に宗介へ向き直った。
「買えるだけ買う、という話にはするな。いくら出し、どれだけ運べるかを見て決めろ」
「分かりました」
「蔵が空く前に気づいたのだ。まだ手は打てる」
そう言った弥四郎の表情に、楽観はなかった。
若い城主も、笠森の置かれた苦しさを理解している。
宗介は、そのことに少し救われた。
昼前、柏屋惣右衛門が訪れた。
使いを出すまでもなかった。
南谷下の小橋を渡ってきた商人の話で、笠森の普請が一段落したことを知り、荷の流れを確かめに来たのだという。
宗介が米の話を切り出すと、惣右衛門はすぐには返事をしなかった。
懐から扇子を出し、閉じたまま膝の上へ置く。
「笠森が米を買うとなれば、値は安くありませんぞ」
「承知しています」
「しかも、大荷を運べぬ」
「人で運びます」
「その人を食わせる飯も要りますな」
惣右衛門は、こちらの弱いところを遠慮なく突いてきた。
だが、責めているわけではない。
商人として、払うものと得るものを見ているのだ。
「槙尾の荷宿に、搗いた粟が二俵ございます。もとは尾張筋へ回すつもりの荷ですが、まだ買い手を決めておりません」
宗介は身を乗り出した。
「売っていただけますか」
「値が合えば。ただし、笠森まで届ける値ではありませぬ。槙尾で引き渡します」
喜兵衛が険しい顔になった。
「つまり、運ぶ手間はこちら持ちか」
「その通りです。柏屋が人を雇って笠森まで運べば、値は上がります。古炭道を知る者も、こちらで集めねばならん」
宗介は考えた。
高い運賃を払うか。
自分たちで運ぶか。
城には人足がいるが、ただ働きはさせられない。飯も出す。道中の怪我や荷の損も考えなければならない。
しかし、笠森の者なら古炭道を知っている。南谷の善助も、黒谷の太助も、道の危うい場所を見てきた。
「槙尾の荷宿で現物を改めてから買わせてください。乾きと中身を見たい。代金は城から出します」
「結構です」
「ただし、二俵すべてを一度に運ぶのは避けたい。小荷に分けて、人の背へ載せます」
惣右衛門が目を細めた。
「俵を解けば、途中で減った時に揉めますぞ」
「荷宿で分ける前と後を改めます。柏屋さんの手代にも見てもらう。袋を閉じたら、笠森までむやみに開けない」
「それなら、商いになりますな」
惣右衛門はようやく扇子を開いた。
「ただ、ひとつ申し上げておきます。粟は米ではありません。城の者が食い慣れておらぬなら、炊き方も変わります」
「そこは、おきぬさんに見てもらいます」
「よろしい。飯を炊く者に聞かずに穀物を買う城は、長持ちしませんからな」
宗介は苦笑した。
まったく、その通りだった。
話が決まると、弥四郎は自ら喜兵衛と銭を数えた。
蔵の備えから出す銭である。
米が減ったから買えばよい、と軽く出せるものではない。
宇平次は足軽を二人つけると言ったが、宗介は一人で足りないかと尋ねた。
「山道では、前と後ろを見なければならん。護衛が一人では、どちらかを捨てることになる」
そう返され、宗介は口を閉じた。
武辺の仕事には、武辺の勘定がある。
そこまで節約して荷を失えば、元も子もない。
運び手には南谷と笠森から道を知る者を選び、太助が先導する。宇平次は城に残り、佐太が護衛を率いることになった。
宗介も同行する。
喜兵衛には止められた。
「お前が一袋背負うわけではあるまい」
「荷宿で現物を見ます。それに、運ぶ手順を現場で一度確かめておきたいんです」
「足を引っ張るなよ」
「それは気をつけます」
出発前、おきぬが小さな握り飯を用意していた。
宗介はそれを見て、思わず喜兵衛を振り返った。
喜兵衛は苦い顔で頷く。
「道中で倒れられても困る。持っていけ」
おきぬは宗介へ包みを渡した。
「帰ったら粟を少し見せな。今の竈でどう炊くか、試さなきゃならないからね」
「分かりました」
「それと、黴の臭いがするものは買うんじゃないよ。安いからって腹を壊す飯を持ってこられたら、こっちが困る」
宗介は深く頷いた。
城の飯を守る者は、蔵の中にも、竈の前にもいる。
片方だけ見ていては駄目なのだ。
古炭道には、まだ伐られた若木の跡が残っていた。
道の端では、湿った土が黒く固まり始めている。雨で流れた小石が草の根に引っかかり、狭い箇所には人一人がようやく通れる幅しかなかった。
太助は先頭を歩き、ときどき振り返って足元を確かめた。
「帰りは荷が増える。ここの曲がりでは、前の者に近づきすぎるな」
宗介は息を切らしながら頷いた。
荷を背負った者が転べば、後ろも巻き込む。
だから、帰りは人の間を空ける。
当たり前のことだが、荷がない今のうちに言っておかなければ、帰りには余裕がなくなる。
槙尾西沢の水場では、安西新蔵の配下が立ち会い、通る人数と用向きを確かめた。
笠森が何をするのか、すでに柏屋から話が通っているらしい。
「城の米が足りぬか」
男は気の毒そうに尋ねた。
宗介は曖昧に笑うこともできた。
だが、隠しても荷を見れば分かる。
「普請で思った以上に減りました。買えるうちに補います」
「そうか。古炭道へ戻るなら、夕暮れ前に西沢を越えろ。荷を背負ったまま暗くなれば、足を取られる」
男はそれだけ言い、水を使わせてくれた。
槙尾の荷宿に着いた時、宗介の脚はすでに重かった。
建物の軒先には俵や木箱が積まれ、荷持ちたちが縄を締め直している。濡れた草鞋の臭い、干物の塩気、馬の汗、土壁に染みついた穀物の匂いが混ざり合っていた。
柏屋の手代が、奥から二俵を出してきた。
俵の表面は乾いている。
縄も傷んでいない。
しかし宗介は、その場で買うとは言わなかった。
「中を見せてください」
手代は頷き、俵を開く。
中から出てきた粟は、きれいに搗かれたものだった。
宗介は掌に少し受け、匂いを嗅いだ。
おきぬほど穀物を見る目はない。
それでも、湿りや異臭がないことは確かめられる。
同行した南谷の者にも見てもらった。
「悪くないです。古い臭いもしません」
宗介は頷いた。
ここまで来て、ようやく買える。
だが、手代が告げた値を聞いて、同行した人足たちが顔を見合わせた。
安くはなかった。
宗介も胸の奥で顔をしかめる。
それでも、今ここで値切り倒せば、柏屋は次から笠森の荷を嫌がるだろう。
商人にも商人の都合がある。
弥四郎から預かった銭の範囲に収まることを確認し、宗介は買い入れを決めた。
「二俵、いただきます」
手代が頭を下げる。
「毎度ありがとうございます」
そこからが、宗介たちの仕事だった。
俵を解き、持参した丈夫な小袋へ分ける。
分けた袋の重さを揃え、口を縄で締める。
ひとつだけ重すぎれば、その荷を背負った者が遅れる。遅れた者へ周囲が合わせれば、全体が遅れる。無理をして歩けば、山道で転ぶ。
宗介は、手代とともに分ける前後の量を確かめた。
途中で穀物がこぼれぬよう、袋の口を折り返してから縛る。
最後に、背負う者へ荷を当ててみた。
「これは少し重いな」
佐太が言った。
若い人足が無理に笑う。
「持てます」
「持てることと、山道を歩ききれることは違う」
太助が横から口を挟み、袋の中身を少し別の荷へ移した。
「帰りは坂がある。見栄を張って転ぶくらいなら、軽くして歩け」
その男は黙って頷いた。
宗介は太助に目を向けた。
かつて甚内の下で炭を運ばせていた男は、今は他人の背負い荷を軽くしている。
その変化をわざわざ口にするつもりはなかった。
太助自身も、褒められたがってはいないだろう。
それでも、宗介には少し嬉しかった。
荷を分け終えると、手代が余った縄をまとめて差し出した。
「これは返しますか」
「柏屋さんへ返してください。まだ使える縄です」
宗介が答えると、手代は意外そうな顔をした。
俵を解いたあとの縄は、荷主によって扱いが違う。勝手に持ち去れば、あとで揉める。
今回は、持参した縄と袋で運ぶことにしていた。
細かな取り決めだが、そこで曖昧にしない方が、次の商いは早くなる。
その時、荷宿の奥で、別の商人が声を荒らげた。
「その麦も、もう買い手がついたというのか」
宗介は振り返った。
男が、荷宿の主人らしい者へ詰め寄っている。
「昨日まで売れると言っていただろう」
「先に銭を置く相手が出たのだ。こちらも商いだ」
「どこの者だ」
主人は答えなかった。
だが、男の口から次に出た名で、宗介の足が止まった。
「和木原か」
荷宿の主人は、困ったように周囲を見回した。
宗介はそれ以上、近づかなかった。
ここで聞き耳を立てても、話がこじれるだけだ。
ただ、その言葉は胸に残った。
和木原。
米や麦を買う者が増えるのは不思議ではない。
だが、和木原が今この時期に、槙尾の穀物まで押さえようとしているなら、話は別だった。
宗介は二俵の粟を分けた小袋へ目を戻した。
今日は買えた。
だが、次も買えるとは限らない。
帰り道、誰も余計な話をしなかった。
人足たちは小袋を背負い、佐太が前後の歩く間隔を見ている。太助は危うい曲がりで先に立ち、荷を背負った者を一人ずつ通した。
宗介は最後に近い位置を歩いていた。
荷は背負っていない。
それでも息が苦しい。
五十一歳の体に、山道は遠慮してくれない。
だが、荷を持たぬ自分だからこそ見えるものもあった。
人足の歩幅。
肩の傾き。
荷の揺れ。
水を飲む回数。
重い荷を背負った者ほど、休むと言い出すのが遅い。
宗介は途中で休みを入れた。
佐太が振り返る。
「まだ歩けるぞ」
「歩けます。でも、ここで休まないと、次の坂で止まります」
太助が周囲を見て頷いた。
「この先は休める場所が少ねえ。今のうちだ」
道脇の乾いた場所へ小袋を下ろす。
人足たちは肩を回し、竹筒の水を飲んだ。
ひとりが笑いながら言った。
「米より軽いと思っていたが、粟も重いな」
宗介は石に腰を下ろし、息を整えた。
「腹へ入る前は、何でも重いですよ」
「兵糧方殿は、軽そうですな」
「俺の荷は、皆さんに背負ってもらっていますから」
その答えに、何人かが笑った。
けれど宗介自身は、笑いながらも落ち着かなかった。
運ぶ者の疲れが見える。
その疲れに出す飯も、運んでいる穀物から差し引かれる。
荷を動かすには、人が要る。
人を動かすには飯が要る。
飯を運ぶためにも、飯が減る。
何度も見てきた道理だったが、今日ほど重く感じたことはなかった。
古炭道を抜け、笠森の城門が見えた時には、空の色が少し傾いていた。
門番がこちらを見つける。
佐太が先に声をかけた。
「粟だ。槙尾で買った分を持ち帰った!」
門の内側が騒がしくなった。
喜兵衛が出てくる。
市松も小札を抱えて走ってきた。
おきぬは竈の前から顔を出し、背負われた小袋を見るなり言った。
「まず、ひと袋こっちへ。炊いてみるよ」
宗介は頷いた。
「残りは喜兵衛さんにお願いします。槙尾で分けた数と同じか、もう一度確かめます」
喜兵衛は袋を受け取り、ひとつずつ蔵へ運ばせた。
誰も勝手に開かなかった。
それが、宗介には少し頼もしかった。
笠森の者たちは、荷を取り合わずに扱うことを覚えてきている。
すべての者が従順になったわけではない。荷を見つめる足軽の目には、隠しきれない空腹があった。
だが、今ここで袋を開けて食べれば、明日の飯が減る。
そのことも、もう分かっているのだろう。
弥四郎が庭へ出てきた。
「無事に戻ったか」
「はい。粟二俵分、槙尾で小荷に分けて運びました」
「怪我は」
「ありません。ただ、古炭道は荷を背負うと時間がかかります。今日のやり方なら通せますが、人数を増やすだけでは早くなりません」
弥四郎は頷いた。
「まずは、よく運んだ」
その言葉は宗介だけでなく、人足たちへ向けられていた。
荷を下ろした若者が、照れくさそうに頭を下げる。
宇平次が近づき、小袋のひとつを持ち上げてみた。
「重いな」
「山道では、なおさらでした」
宗介が答えると、宇平次は人足たちへ向き直った。
「今日は飯を食って休め。明日は同じ人数をすぐには出さん。足を傷めては次が続かん」
人足たちの顔が緩んだ。
弥四郎も異を唱えなかった。
城を守る足軽にも、道を歩く人足にも、休みは要る。
倒れるまで使えば、次に動く者がいなくなる。
夕方、おきぬが試しに炊いた粟を持ってきた。
米だけの粥とは違い、少し粗い匂いがした。
おきぬは木匙で混ぜ、指先へ少し取って確かめる。
「悪くないね。粥にすれば食べられる。ただ、米と同じつもりで火にかけると、底へつきやすい。水加減も見なきゃならない」
宗介も少し口にした。
素朴な味だった。
腹が膨れるのなら、今の笠森には十分ありがたい。
喜兵衛は蔵から戻り、報告した。
「運んだ分は揃っております。途中の損もありませぬ」
弥四郎はようやく腰を下ろした。
「では、明日から粥に混ぜよ。ただし、今日買った分を当てにして、普請飯を元どおり増やすな」
「承知しております」
喜兵衛が答える。
宗介も頷いた。
二俵の粟を買えたからといって、兵糧の問題が解決したわけではない。
減る速さを少し緩めただけだ。
だが、今日の笠森にはそれが必要だった。
蔵の底を見て、米が足りないと分かった。
そこで粥をさらに薄めるだけなら、いずれ働く者が倒れる。
人足飯をすべて止めれば、道が荒れる。
道が荒れれば、次の穀物は来ない。
だから、先に運んだ。
城の銭を使い、商人から買い、道を選び、人を選び、荷を分け、休みを入れた。
その結果が、蔵へ入った二俵の粟だった。
宗介は粥の湯気を見ながら、ようやく少し肩の力を抜いた。
しかし、そこで惣右衛門が口を開いた。
「若様。今日の買い入れについて、ひとつ申し上げておきたいことがございます」
弥四郎が顔を向ける。
「何だ」
「槙尾の荷宿に残る麦ですが、先ほど手代から知らせが入りました。和木原の者が、まとめて買いたいと申し出ているそうです」
宗介は顔を上げた。
荷宿で聞いた騒ぎとつながった。
惣右衛門は続ける。
「まだ売買が決まったわけではありませぬ。ですが、和木原が値を上げて買うなら、周囲の商人もそちらへ流れるでしょう」
「笠森を干上がらせるつもりか」
宇平次が低く言った。
「そこまでは分かりませぬ」
惣右衛門は慎重に答えた。
「和木原にも米は要ります。ただ、あの方が笠森の普請と人足飯を知らぬはずはない。穀物の値を押し上げれば、笠森が困ることも分かっているでしょう」
弥四郎は黙っていた。
庭には、今日運んだ粟の小袋を片づける音が響いている。
先ほどまでの安堵が、少しずつ薄れていった。
「柏屋」
弥四郎が言った。
「笠森が高値を出せば、和木原より先に買えるか」
「買えるかもしれませぬ。しかし、それを始めれば、次は和木原がさらに値を上げます。銭の多い方が勝つ商いになりましょう」
「笠森には向かぬな」
「はい」
宗介も同じことを考えていた。
ただ穀物を買い集めるなら、和木原の方が有利だ。
渡しを持ち、商人への圧力もかけられる。銭を積む力でも、笠森は大きく劣る。
同じやり方で争えば、負ける。
ならば、何を変えるか。
宗介は蔵の方を見た。
今日、穀物は運べた。
荷車は使えなかった。
人が背負った。
それでも、確かに届いた。
銭だけでなく、運ぶ道と手を持っていること。
それが笠森に残された強みだった。
「若様」
宗介は口を開いた。
「次に買うものは、米や麦だけに限らなくてもよいと思います」
弥四郎が目を向ける。
「何を買う」
「村や商人が余らせている、食べられるものです。粟でも稗でも、保存の利くものなら。無理に一度で大荷を買わず、小荷で少しずつ集める。ただし、家の食い分と種にする分は買わない」
惣右衛門が扇子を閉じた。
「小荷の商いですな」
「はい。大きな俵をまとめて買えないなら、買える荷を探す。笠森まで届けてもらうのが高いなら、自分たちで取りに行く。その代わり、運べる量と道を先に決めます」
惣右衛門はしばらく宗介を見ていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「それなら、探せる荷があるかもしれませぬ。尾張筋の商人には、米俵を扱わずとも、雑穀を小さく売る者がおりますからな」
「頼めるか」
弥四郎が尋ねる。
「探すことはできます。ただし、約束はできませぬ」
「それでよい」
弥四郎は即答した。
「笠森も、買うと言った以上は銭を用意する。だが、無理な値では買わぬ。村の種も奪わぬ」
惣右衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
話が終わると、宗介はもう一度蔵へ向かった。
喜兵衛が、買ったばかりの粟を置く場所を整えていた。
米俵の減った床に、粟の小袋が並んでいる。
量は多くない。
あの空いた床を埋め尽くすには、まだ遠い。
それでも、朝にはなかったものが夕方には置かれていた。
喜兵衛は宗介に気づき、口の端をわずかに上げた。
「今日は、蔵の底ばかり見ずに済むな」
「明日になれば、また見ますよ」
「そうだろうな」
老人は苦笑し、小袋のひとつを軽く叩いた。
「だが、悪くない。減るばかりだった蔵へ、久しぶりに外から穀物が入った」
宗介は頷いた。
それが何より大きかった。
守るだけでは、蔵は満ちない。
節約するだけでも、限界がある。
どこかから買い、運び、受け取り、食える形にする。
兵糧方の仕事は、そこまでやって初めて形になる。
宗介は空いた床と、新しく並んだ粟の小袋を見比べた。
まだ足りない。
だが、運ぶ手は見つかった。
次は、その手をどう増やさずに、運ぶ量を増やすか。
五十一歳の頭には、考えるべきことが山ほど残っていた。
その夜、笠森城の粥には、少しだけ粟が混じった。
いつもより粗い舌触りに、足軽の一人が首を傾げた。
「米が変わったか」
おきぬが答える。
「粟だよ。槙尾から運んできたんだ」
「粟か」
「嫌なら、明日は米を買ってきな」
足軽は慌てて椀を抱え直した。
「嫌とは言っておりません」
周囲に笑いが起きた。
宗介もつられて笑ったが、椀の中身を見ているうちに、笑いは静かなものに変わった。
粟は二俵。
城の腹を永遠に満たす量ではない。
明日も食えば減る。
その先も減る。
だが、明日まで何もできないわけではなくなった。
今日、古炭道を通って粟を背負った人足たちは、もう休んでいる。
疲れた足を休め、また動けるようにするためだ。
彼らが運んだ穀物を食い尽くす前に、次の荷を探さなければならない。
和木原は、銭で道を塞ぐつもりかもしれない。
ならば笠森は、道を知る者と、荷を運ぶ者と、売ってくれる商人をつなぐしかない。
宗介は最後の粥を啜り、空になった椀を置いた。
腹は十分に膨れていない。
けれど、今朝見た蔵の底を思えば、今日の一椀は軽くなかった。
少なくとも明日、同じ道を通って別の荷を運ぶ算段ができる。
兵糧係にとって、それは何より確かな前進だった。




