第六十話 食わぬ豆
赤子の礼として届いた豆は、半分だけ粥に入れた。
残り半分は、小さな布包みにして、蔵の隅へ置かれた。
量は、ほんのひとつかみである。
飢えた者の腹を満たすには足りない。
粥に入れても、椀の底に沈む粒を探すほどの量だ。
それでも久住宗介は、その布包みから目を離せなかった。
食べれば、その場で消える。
残せば、いつか芽を出すかもしれない。
ただし、芽が出るかは分からない。
畑に蒔けるかも分からない。
鳥に食われるかもしれない。
雨に流されるかもしれない。
それでも、食わずに残す。
戦国の腹にとって、それはかなり厳しい決断だった。
おきぬが竈のそばで言う。
「半分残すってのは、簡単そうで難しいよ」
宗介は頷いた。
「はい」
「腹が鳴ってる時に、種だから食べるなって言われたら、腹は納得しない」
「そうですね」
「でも、全部食べたら、次がない」
おきぬは、布包みへ目を向けた。
「赤子の礼だからね。全部腹に入れるより、少しは先に渡した方がいい」
その言葉は、竈の湯気の中で妙に重く聞こえた。
片瀬弥四郎も、広間から出てきていた。
豆の包みを見て、静かに言う。
「宗介。種は、飯か」
宗介は少し考えた。
現代なら、種は種だと言える。
食用と種用を分けるのは当たり前だ、と言える。
だが、ここではそう簡単ではない。
腹が減っている者にとって、種も食えるものなら飯に見える。
「今の腹には、飯に見えます」
宗介は答えた。
「けれど、次の腹には種です」
弥四郎は頷いた。
「今の腹と、次の腹か」
喜兵衛が腕を組む。
「米でも同じですな。食えば終わり。蒔けば、うまくいけば増える。だが、蒔いた年に必ず返るとは限らぬ」
「はい」
「だから揉める」
その時、門番が声を上げた。
「下河原より、およし!」
およしは、今日は権太を連れていなかった。
手に小さな笊を持っている。
中には、豆が入っていた。
赤子の家から届いたものより、少し多い。
だが、それでも笊の底が見えるほどの量である。
およしは門の内側へ入ると、まず弥四郎へ頭を下げた。
「うちの裏の溝、今朝も通っていました」
「よい」
弥四郎が答える。
「権太は」
「家の裏を見ています。あの人は、放っておくとすぐ笠森へ来るので」
庭に小さな笑いが起きた。
およしは笊を差し出した。
「これは、うちに残っていた豆です。全部ではありません。家の分は残しました」
宗介はすぐに聞いた。
「食べる分ですか。それとも種ですか」
およしは待っていたように答えた。
「種にしたい分です」
庭の空気が少し変わった。
「でも、うちだけでは畑が狭い。下河原は水が回りやすい。蒔いても流れるかもしれない。それなら、笠森でどこか少しでも試してもらえないかと」
喜兵衛が眉を寄せる。
「笠森へ預けるということか」
「預けるのか、返すのか、分かりません」
およしは正直に言った。
「ただ、食べてしまうのは惜しい。けれど、家に置いておくと、権太が腹を空かせた時に煮るかもしれない」
門前にいた者たちが、微妙な顔になった。
権太ならやりかねない。
だが、笑いだけでは済まない話だった。
腹が空けば、誰でもそうなる。
宗介は笊の豆を見た。
ここで受ければ、笠森は種を預かることになる。
それは危うい。
預かった種が芽を出さなければ、どう返すのか。
鳥に食われたら誰の責か。
干ばつなら。
水害なら。
誰が畑を出すのか。
誰が見張るのか。
食いたい者からどう守るのか。
豆ひとつかみのはずなのに、また道が広がっていく。
弥四郎が宗介を見る。
「どう見る」
宗介は、すぐには答えなかった。
豆を食う。
豆を蒔く。
豆を預かる。
どれも、腹に関わる。
だが、ここで曖昧に受ければ、あとで必ず揉める。
「預かるなら、飯とは別にしないと駄目です」
宗介は言った。
「食べる豆と、蒔く豆を分ける。蒔く豆は、粥に入れない。竈の近くに置かない。蔵の米とも混ぜない。持ち主の名と、分けた量を残す」
およしが頷く。
「名は残してください。うちのものだと分かるように」
「それと、全部を笠森が背負うのは危ないです」
およしは顔を上げる。
宗介は続けた。
「試しに蒔く場所を決めます。笠森の畑ではなく、下河原に近く、水が少し高い場所。六蔵さんの待ち場の近くに、石を拾った場所があります。あそこを畑にするなら、六蔵さんの許しが要る」
弥四郎が頷いた。
「六蔵を呼べ」
善助がすぐに走った。
およしは笊を抱えたまま、庭の端へ立った。
その顔には緊張があった。
豆を渡せば楽になるわけではない。
自分の家の食い物を、先のために分けようとしている。
それは、権太を叱る時の強さとは違う強さだった。
ほどなく、六蔵が来た。
昨日、橋の待ち場として畑の脇の荒れ地を使わせた男である。
まだ少し警戒した顔をしている。
「今度は何でしょう」
弥四郎が説明する。
赤子の礼の豆を半分残したこと。
およしが下河原の豆を種として預けたいと言っていること。
待ち場の石を拾った荒れ地を、少しだけ試し畑にできないかということ。
六蔵は腕を組んだ。
「待ち場の横ですか」
「お前の土地だ」
弥四郎が言う。
「笠森が勝手に蒔くことはしない」
六蔵はおよしの笊を見る。
それから宗介を見る。
「蒔いて、芽が出なかったら」
宗介は答えた。
「芽が出なかったと残します。誰かのせいにしないために、場所、水、鳥、踏み荒らしを見ます」
「鳥は止められません」
「全部は無理です。でも、枝を立てたり、紐を張ったりはできます」
「誰が見る」
六蔵の問いは鋭かった。
宗介は、ここで「笠森が」と言いかけて止めた。
笠森が全部見ると言えば、また人と飯が要る。
およしの豆なのに、六蔵の土地なのに、笠森だけが見るのは違う。
「六蔵さん、およしさん、下河原の者、笠森から一人。交代で見る形がいいです」
六蔵は唇を曲げた。
「また小札ですか」
「はい」
宗介は素直に答えた。
「ただし、毎日細かくは無理です。雨の後、鳥が多い時、橋待ちの人が増えた時。その時だけ見ます」
六蔵はしばらく考えた。
やがて、小さく息を吐く。
「石を拾った場所なら、少しは使えます。だが、待ち場を狭くしすぎると、また畑を踏まれます」
「待ち場と試し畑を分けます」
「どうやって」
「石で境を作ります。昨日拾った石を使う。待つ人が入らないように、枝を立てる」
市松が横から言った。
「絵、要る?」
宗介は頷いた。
「要る」
市松は諦めた顔で板を持ってきた。
六蔵が言う。
「畑は上手く描けよ」
「無理だ」
「少しは努力しろ」
「石は描ける」
「では、石を多めに描け」
奇妙なやり取りに、庭の空気が少し和らいだ。
しかし、そこで門の外から声がした。
「笠森は、とうとう種まで集めるのか」
和木原札を下げた男が立っていた。
昨日、待ち場で石を二つだけ拾った男である。
後ろには、もう一人いた。
宗介は肩の力を抜くように息を吐いた。
やはり来た。
豆の話が門前に出た瞬間、種を集める城と言う。
男は笑って続けた。
「飯を出し、人を集め、鍬を集め、釘を集め、今度は種まで預かる。笠森は周りの家の腹を、ずいぶんよく抱え込む」
およしの顔が険しくなった。
権太がいれば先に怒鳴ったかもしれない。
だが、およしは怒鳴らなかった。
笊を胸に抱えたまま、一歩前へ出る。
「これは、うちが食べずに残した豆です」
男は鼻で笑う。
「笠森に差し出すのだろう」
「違います。食べる豆と、蒔く豆を分けたいだけです」
「笠森へ預けるのなら同じだ」
「なら、あんたが見てくれるのですか」
およしの声は静かだった。
男は少し眉を動かす。
「何を」
「種を食べないように。鳥に食われないように。水に流れないように。権太が腹を空かせて煮ないように」
庭に小さな笑いが起きそうになったが、誰も声にはしなかった。
およしは続けた。
「見ないなら、口だけ出さないでください」
男は顔を赤くした。
「女が偉そうに」
宇平次が一歩出た。
だが、弥四郎が手で止める。
およしは引かなかった。
「家の豆の話です。女が口を出さずに誰が出すのです」
六蔵も言った。
「場所を出すのは私だ。笠森に取られるなら断る。試しに蒔き、境を決めるなら考える。和木原の者に、とやかく言われる筋ではない」
男はさらに言い返そうとした。
その時、柏屋惣右衛門が門へ入ってきた。
「種を食えば、来年の荷が減りますな」
いつもの落ち着いた声だった。
男が振り向く。
惣右衛門は、和木原札の男を見ずに、豆の笊を見た。
「商人にとっても、種は飯とは違う。食い物でありながら、荷の先でもある」
弥四郎が問う。
「尾張筋では、どう分ける」
「家ごと、村ごと、商いごとに違います。ですが、種に回すものを食ってしまえば、次は買うしかない。買えば高い。高ければ借りる。借りれば縛られる」
惣右衛門はそこで、和木原札の男へ初めて目を向けた。
「種を食わせて、あとで高く売る者もおります」
男の顔が強張った。
宗介は胸の奥で何かが冷たくなるのを感じた。
そうか。
種を奪うより、食わせる方が早い。
腹が減った者に種を食わせる。
次の季節、蒔く種がない。
仕方なく買う。
高く買う。
借りる。
その時、人は縛られる。
和木原が何を狙うか、見えてきた気がした。
弥四郎も同じものを見たのだろう。
声が少し低くなった。
「種を食わせる者は、腹を満たす顔で次の腹を奪うのだな」
惣右衛門は深く頭を下げた。
「そのように見えます」
和木原札の男が言った。
「言いがかりだ」
「今は誰のこととも言っておりませぬ」
惣右衛門は穏やかに返した。
その穏やかさが、かえって効いた。
弥四郎は男へ向いた。
「笠森は、種を奪わぬ。食う豆と蒔く豆を分ける。持ち主の名を残す。土地の者の許しなく蒔かぬ。芽が出るかは、皆で見る。これを和木原へ伝えよ」
男は舌打ちした。
「笠森は、種まで札にする」
「札ではない。先の腹だ」
弥四郎の言葉に、男は返せなかった。
男たちが去った後、庭に残った者たちはしばらく黙っていた。
豆は、ただの豆ではなくなっていた。
食べるか、蒔くか。
その選択は、思ったより危うい。
昼前、笠森から一行が南谷下の待ち場へ向かった。
弥四郎は城に残る。
現場へ行くのは宗介、善助、六蔵、およし、市松、佐太。
宇平次は門を守る。
太助は火所と炭を見ている。
待ち場の横には、昨日拾った石が積まれていた。
そこから少し外れた、石の多い固い場所を六蔵が示す。
「ここなら、畑にしてもよい。ただ、土は痩せています」
宗介はしゃがみ込んで土を触った。
現代の農業知識など、ここで偉そうに語れるほど持っていない。
土の良し悪しを見ただけで分かるわけでもない。
だが、石が多いこと、水が逃げやすいこと、畑にするには手間がかかることくらいは分かる。
「まず、全部は蒔かない方がいいです」
およしが驚く。
「全部ではないのですか」
「はい。ここが駄目だった時に、全部失います。少しだけ試す。残りは、乾いたところで保管します」
六蔵が頷いた。
「それがよい」
善助も言う。
「水が回る場所ではないが、鳥は来ます」
「鳥除けも要りますね」
市松が板を持っている。
「鳥の絵も要る?」
「要るかも」
「鳥は難しい」
「棒に羽でいい」
「雑だな」
市松は文句を言いながら、棒に羽のようなものを描いた。
それは鳥というより、変な草に見えた。
しかし、鳥を避ける印だと言えば、そう見えないこともない。
およしは豆を三つの山に分けた。
家へ戻す分。
笠森で保管する分。
試しに蒔く分。
宗介は、その分け方を見て少し安心した。
全部預けない。
全部蒔かない。
全部食べない。
この「全部しない」が大事なのかもしれない。
佐太が石を運び、境を作る。
六蔵が畑の端を決める。
善助が水の流れを見て、溝を塞がない位置を示す。
およしが豆を手に取り、小さな穴へ落とす。
一粒。
また一粒。
その動きは、とても静かだった。
誰も大声を出さない。
戦でも、普請でもない。
ただ、豆を土へ預けるだけ。
それなのに、宗介は妙に緊張していた。
この一粒が芽を出す保証はない。
だが、土へ入った瞬間、もう飯ではなくなる。
食べようと思えば、掘り返して食べられる。
それでも、掘り返さないと決める。
腹の前で、未来を選ぶ。
それは、とても難しいことだった。
蒔き終えると、六蔵が石を置いた。
「ここから先は踏むな」
市松が小札を立てる。
下河原およし豆。
試し蒔き。
六蔵地。
笠森見届け。
食わず。
鳥を見る。
水を見る。
短くしたつもりでも長かった。
およしが小札を見て、静かに頭を下げた。
「これで、権太も勝手には掘れません」
佐太が小さく笑う。
「権太は掘るのか」
「腹が空けば、分かりません」
およしは真顔で答えた。
誰も笑わなかった。
それが本当の怖さだった。
笠森へ戻ると、門前に別の女が待っていた。
小屋場で赤子を産んだ家の親族だという。
手には、また少しの豆がある。
「うちも、少し残したい」
その後ろには、川辺の男もいた。
「豆ではないが、粟なら少し」
宗介は、頭が痛くなるのを感じた。
広がる。
やはり広がる。
誰かが種を残せば、他の者も持ってくる。
受ければ、管理が増える。
断れば、種を食う者が出るかもしれない。
弥四郎は、宗介の顔を見て少しだけ笑った。
「腹は広がるな」
「はい」
「だが、ここで逃げれば、来年の腹が細る」
「はい」
弥四郎は門前へ向いた。
「全部は受けぬ。家の分を残せ。全部蒔かぬ。試しに分ける。土地の者の許しなく蒔かぬ。食う分と蒔く分を混ぜぬ。名を残す。それでよい者だけ、話を聞く」
女も男も、真剣な顔で頷いた。
市松が、板の前で絶望したような顔をした。
「豆の次は粟か」
「そうみたい」
「鳥の絵、もっと要るな」
「そうだね」
「鳥が嫌いになりそうだ」
宗介は苦笑した。
夕方、蔵の隅には小さな包みが三つ並んだ。
赤子の礼の豆。
およしの豆。
川辺の粟。
どれも少量である。
城の兵を食わせる量ではない。
それでも、そこには来年の腹が少しだけ置かれていた。
おきぬは、それらを竈から離れた乾いた場所へ移した。
「火のそばに置いたら、誰かが煮るよ」
「誰か、ですか」
「腹を空かせた誰かだよ。名前は要らない」
宗介は頷いた。
腹を責めても仕方ない。
だから、場所を分ける。
見えるようにする。
名を残す。
食べるものと蒔くものを混ぜない。
夜の粥は、いつも通り薄かった。
豆は入っていない。
あえて入れなかった。
赤子の礼の残りは、種として分けたからだ。
そのことを知った足軽の一人が、少しだけ不満そうな顔をした。
だが、何も言わなかった。
代わりに喜兵衛が言った。
「今日は、豆なし粥だ」
おきぬが返す。
「豆は土へ行ったよ」
「土は腹を満たすか」
「いつかね」
その「いつか」が遠い。
宗介は椀を持ちながら思った。
今すぐ腹を満たすものと、いつか腹を満たすもの。
その間には、飢えと不安がある。
そこをどう越えるか。
それができなければ、種は守れない。
弥四郎が隣で言った。
「食わぬ豆は、腹を満たさぬ」
「はい」
「だが、食えば次がない」
「はい」
「なら、食わぬ豆を守る飯も要るな」
宗介は顔を上げた。
まさにそれだった。
種を残せと言うだけでは足りない。
種を食わずに済むだけの、今の飯が要る。
種を守るには、今日の粥も必要なのだ。
米と豆。
今と次。
腹は、どちらか一つでは動かない。
弥四郎は薄い粥を啜った。
「覚えておく。種を守るには、今日の飯も守らねばならぬ」
宗介は頷いた。
門の外は暗い。
南谷下の待ち場の横では、およしの豆が土の中にある。
芽が出るかは分からない。
鳥が来るかもしれない。
雨が強ければ流れるかもしれない。
権太が腹を空かせて掘るかもしれない。
それでも、今日は土へ入れた。
食べずに、先へ渡した。
赤子の産声が橋を越えた翌日、笠森は小さな豆を土へ預けた。
それは戦ではない。
目に見える勝利でもない。
けれど、腹を満たすための戦いは、今日の椀の中だけにあるのではない。
まだ芽も出ない土の中にもある。
宗介は、蔵の隅に置かれた小さな包みを思った。
あの包みは軽い。
だが、軽いままでは終わらせてはいけない。
そう思うと、薄い粥がいつもより重く腹へ落ちた。




