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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第五十九話 産声の橋

 夜明け前、笠森城の門を叩く音がした。


 強くはない。


 だが、何度も続く。


 門番が声をかける前に、宇平次が起きていた。佐太も槍を手にしている。


 久住宗介は、薄い寝息の残る城内で身を起こした。


 冷えた空気が、喉に刺さる。


 火所の火は落とされ、灰の奥にわずかな赤さだけが残っていた。


「誰だ」


 宇平次の声が門へ飛ぶ。


 外から返った声は、少年のものだった。


「小屋場の者です! 昨日、橋を渡してもらった者です!」


 宗介はすぐに思い出した。


 産婆を呼ぶために、南谷下の小橋を渡った少年。


 待ち場を作ったばかりの橋を、急ぎながらも走らず渡った子だ。


 門が開くと、少年は肩で息をしていた。


 髪は乱れ、足元は泥だらけである。


 けれど、顔には泣き顔ではないものが浮かんでいた。


「産まれました!」


 その一言で、門の内側の空気が変わった。


 宇平次も、佐太も、一瞬だけ顔を緩めた。


 宗介も胸を撫で下ろす。


「母子は」


「母ちゃんも赤子も生きています。産婆様が、朝まで様子を見ると言って、まだ小屋場にいます。ただ……」


 少年の顔が曇った。


「帰りの橋が、怖いって」


 宗介は息を呑んだ。


 夜明け前の橋。


 足元は暗い。


 朝露で板は湿る。


 待ち場も、石も、荷置き場も、昼なら見えるが、暗がりでは分からない。


 産婆は小屋場へ渡れた。


 だが、帰る時に橋から落ちては意味がない。


 弥四郎も広間から出てきた。


 髪は結いきれていないが、目は起きている。


「産まれたか」


「はい!」


 少年は深く頭を下げた。


「母が、笠森に礼を、と」


「礼はよい。産婆はいつ戻る」


「夜明けを待つと言っています。でも、母ちゃんが冷えて、布が足りない。産婆様が、清い布と湯があれば助かると」


 おきぬが竈の奥から顔を出した。


 すでに起きていたらしい。


「清い布ね。赤子と産婦には要るよ。湯も要る」


 宗介は反射的に動きかけた。


 しかし、足を止める。


 布と湯を持っていく。


 簡単に聞こえるが、橋がある。


 まだ暗い。


 湯を運べば重い。


 急げばこぼれる。


 橋の上で足を滑らせれば、人も湯も落ちる。


 弥四郎が宗介を見る。


「どうする」


 宗介は考えた。


 夜道。


 橋。


 湯。


 布。


 産婆。


 赤子。


 急ぐ理由はある。


 だが、急ぎすぎて橋で落ちれば、すべて駄目になる。


「火を持って行きたいです」


 宗介が言うと、太助が眉を上げた。


「松明か」


「いいえ。松明は危ないです。橋の上で火が揺れます。待ち場に荷があれば燃える。油の匂いがあれば危ない」


 おきぬが頷く。


「赤子の家へ火事を持っていったら、何をしているか分からないね」


「灯りを分けます。橋の手前と向こう側に一つずつ。歩く者は手に火を持たない。灯りのある場所から、橋の真ん中を見る」


 宇平次が腕を組んだ。


「暗い中を、灯りなしで渡るのか」


「完全な暗がりではなく、両側から照らします。橋の上で火を持たない方がいい」


 太助が言った。


「火を置くなら、火所の小さな火鉢を使える。灰を敷いて、炭を少し。風除けに土器を半分かぶせる」


「持てるか」


 佐太が聞くと、太助は頷いた。


「持てる。だが、走れねえ」


「走らない方がいいです」


 宗介は言った。


「湯も同じです。竹筒では少ない。小さな土瓶にして、布で包む。熱すぎる湯を満たしすぎない。こぼれます」


 おきぬはすぐに女衆へ指示を出した。


「布はこれ。赤子用と産婦用を分ける。古い布でも洗って干したものを使うんだよ。泥手で触るんじゃない。湯は多すぎない。持って転ぶくらいなら、少なくても確実に運びな」


 城内が動き始めた。


 朝粥の前である。


 腹は空いている。


 だが、誰も文句を言わなかった。


 赤子が産まれた。


 その言葉には、不思議な力があった。


 弥四郎が短く命じる。


「宇平次、佐太。太助。宗介。善助を呼べ。市松は絵板はいらぬ。小札だけ持て」


 市松が眠そうな顔で出てきた。


「絵はいらないのか」


「暗い」


「暗いと絵は見えないな」


 自分で納得して、小札だけを抱える。


 少年は、湯と布を見て涙ぐみそうな顔をした。


「ありがとうございます」


 おきぬがぴしゃりと言う。


「礼は赤子が乳を飲んでからでいいよ。あんたは道を見て歩きな。転んだら、赤子に笑われるよ」


 少年は大きく頷いた。


 南谷下の小橋へ向かう道は、まだ夜の色を残していた。


 空の端だけが白み始めている。


 草には露がつき、足元が冷たい。


 太助が小さな火鉢を抱えている。


 灰の下で炭が赤く息をしていた。


 佐太は湯を包んだ土瓶を持つ。


 宇平次は先を歩き、宗介は少年の足元を気にしながら続いた。


 息が白い。


 宗介の膝は、坂道で早くも重くなっていた。


 情けない。


 だが、ここで遅れるわけにはいかない。


 橋の手前へ着くと、昨日作った待ち場は薄暗がりの中で石の影になっていた。


 畑との境も見えにくい。


 六蔵の菜畑には朝露が光っている。


 誰も踏んではいない。


 そこだけは、少し安心した。


 善助は先に来ていた。


 橋の板へ手を触れ、釘の位置を確かめている。


「夜の間に、大きくは動いておりませぬ」


「板は濡れているか」


 宇平次が問う。


「露があります。滑ります」


 宗介は橋を見た。


 昨日までの昼の橋とは違う。


 同じ板、同じ釘なのに、暗いだけでまるで別の場所に見える。


 太助が火鉢を橋の手前の石の上へ置いた。


 風が当たらないよう、石を三つ置いて囲う。


 灰を整え、炭を少し出す。


 赤い火が、橋の入口をぼんやり照らした。


「向こうにも要る」


 太助が言った。


「誰が持って渡る」


 全員が一瞬黙った。


 火鉢を持って橋を渡る。


 それ自体が危ない。


 宗介は考えた。


「火は渡さない方がいいです」


「では、向こうは暗いままだ」


 佐太が言う。


 善助が橋の向こうを見た。


「小屋場側にも、昨日の待ち場で使った石があります。向こうの家から火をもらえれば」


 少年が顔を上げた。


「うちに火があります。産婆様が湯を沸かすのに残しています」


 それなら、向こう側へ火を持っていかなくてよい。


 向こうの火を使う。


 宗介は頷いた。


「少年だけを先に渡すのは危ない。善助さん、付き添えますか」


「行きます」


「手に火は持たない。向こうへ渡って、家から小さな火をもらい、橋の向こう側にも置く。こちらは、その間待ちます」


 宇平次が頷く。


「よし。少年、走るな。善助の後ろを歩け」


 少年は唇を噛んで頷いた。


 橋を渡る。


 まだ暗い。


 善助が先に立ち、少年が続く。


 橋板が小さく鳴った。


 宗介は息を止める。


 一歩。


 二歩。


 善助は真ん中を踏む。


 少年も真似る。


 端へ寄らない。


 橋の向こうへ着くと、少年は走り出しそうになったが、善助が肩を押さえた。


 落ち着け。


 そんな声が、暗がりの向こうから聞こえた。


 しばらくして、小屋場側に小さな灯りがともった。


 家から持ってきた火を、石で囲ったのだろう。


 橋の両側に、弱い灯りができた。


 板の真ん中が、かすかに見える。


 宇平次が言った。


「次は湯だ」


 佐太が土瓶を持ち直す。


 宗介は止めた。


「一人で持たない方がいい。佐太さんが渡り、向こう側で善助さんへ渡す。土瓶を振らないように」


「俺は子どもじゃない」


「湯は子どもではないですが、こぼれます」


 佐太は少しむっとしたが、何も言わず頷いた。


 橋を渡る時、湯を持つ手がわずかに揺れた。


 佐太ほどの男でも、暗い橋で荷を持てば慎重になる。


 それを見て、宗介は改めて思った。


 昨日の少年を走らせなくてよかった。


 人は急ぐと、足元を見なくなる。


 湯が渡る。


 布が渡る。


 おきぬが分けた布は、宗介が持って渡った。


 自分の足元が怖い。


 橋の板が濡れている。


 息が浅くなる。


 だが、両側の灯りが真ん中を示していた。


 宗介は足を置く場所だけを見た。


 端へ寄らない。


 急がない。


 布を濡らさない。


 向こう側へ着いた時、膝が少し震えていた。


 宇平次がそれを見て、何も言わずに目を逸らした。


 ありがたかった。


 小屋場の家は、低い藁屋根だった。


 戸口から湯気と、血と、灰と、湿った藁の匂いが混じって流れてくる。


 中から赤子の泣き声が聞こえた。


 細い。


 しかし、確かに生きている声だった。


 宗介は、その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 戦国の世だ。


 いつ死ぬか分からない。


 米も足りない。


 道も弱い。


 橋も釘二本でどうにか持っている。


 それでも、赤子は泣く。


 産婆が戸口へ出てきた。


 年配の女で、髪は乱れ、目の下に疲れが濃い。


 だが、声はしっかりしていた。


「布は」


 宗介は包みを差し出した。


「洗って干したものです。赤子用と産婦用で分けています」


「上等だ」


 産婆はすぐに受け取った。


「湯は」


 佐太が土瓶を渡す。


「熱すぎないようにしてあります」


 産婆がちらりと宗介を見る。


「気が利く。熱すぎる湯は、こぼした時が怖いからね」


 おきぬと同じことを言った。


 現場を知る女たちは、火と湯の怖さを知っている。


 産婆は奥へ戻りかけ、ふと振り返った。


「橋は、朝まで待てば渡れるかい」


 宇平次が答える。


「明るくなれば、今よりはよい」


 宗介は付け加えた。


「橋の両側に灯りを置きました。戻る時も、手に火は持たず、足元を見て渡ってください」


 産婆は頷いた。


「赤子を抱えて渡るわけじゃない。私だけなら大丈夫だよ」


「それでも一人ずつです」


 宗介が言うと、産婆は少し笑った。


「橋の上で産婆まで落ちたら、笑えないからね」


 その笑いに、周囲の力が少し抜けた。


 家の中から、母親らしい弱い声がした。


 産婆が戻る。


 しばらくして、少年が戸口に立った。


「母ちゃんが、ありがとうって」


 弥四郎は来ていない。


 この場にいるのは宇平次、佐太、太助、善助、宗介、市松、少年だけだ。


 誰が答えるべきか、一瞬迷った。


 宇平次が宗介を見る。


 宗介は少し困ったが、頭を下げた。


「こちらこそ、赤子が無事でよかった」


 少年はにっと笑った。


 その笑顔は、昨日までの切羽詰まった顔とは違った。


 帰り道、橋の向こう側が明るくなり始めていた。


 空が白むと、橋の板の濡れ具合が見える。


 夜には見えなかったものが見える。


 露。


 釘の頭。


 板の端。


 小さな泥。


 宗介は、それを見てぞっとした。


 暗い中で渡ったのが、どれほど危うかったか。


 両側に灯りを置いても、完全ではなかった。


 産声に気を取られて忘れそうになるが、橋はまだ弱い。


 善助が橋の手前で言った。


「夜渡りは、毎度できるものではありませんな」


「はい」


 宗介は頷いた。


「今日は産婆と赤子でした。でも、商い荷で夜に渡るのは危ない」


 太助が火鉢の灰を見ながら言う。


「夜に火を置くなら、炭も減る。火番も要る」


 宇平次が腕を組む。


「夜渡りを認めれば、必ず荷を通したい者が出る」


「認めない方がいいです」


 宗介は即答した。


「ただし、例外は必要です。産婆、怪我人、急ぎの知らせ。あとは、弥四郎様の許しがある時だけ」


「商人は文句を言うぞ」


「言います。でも、夜の橋で荷を落としたら、もっと揉めます」


 市松が小札を抱えたまま欠伸をした。


「夜は絵が見えない」


「そこも問題だね」


「板を立てても見えないぞ」


「だから、火のそばに置くしかない」


「火のそばに板?」


「燃えないように離して」


 市松は眠そうな目で宗介を見た。


「面倒だな」


「うん」


 否定できなかった。


 笠森へ戻る頃には、朝の粥の匂いがしていた。


 おきぬが竈の前で待っている。


「どうだった」


「産まれていました。母子ともに生きています」


 宗介が答えると、おきぬの顔が少しだけ柔らかくなった。


「そうかい」


「布と湯は渡しました」


「足りたかい」


「産婆さんは、上等だと」


「ならいい」


 おきぬはそれだけ言って、椀を差し出した。


 宗介は受け取ろうとして、手が少し震えていることに気づいた。


 夜明けの橋が、思ったより体に響いていた。


 弥四郎は広間で報告を聞いた。


 赤子が産まれたこと。


 産婆が朝まで様子を見ること。


 橋の両側に灯りを置いたこと。


 手に火を持って渡らなかったこと。


 湯と布を分けて運んだこと。


 夜渡りは危ういこと。


 宗介は順に話した。


 弥四郎は黙って聞き、最後に言った。


「夜の橋は、昼の橋とは別物だな」


「はい」


「なら、昼の決まりだけでは足りぬ」


「はい」


 弥四郎は少し考えた。


「夜渡りは、原則として禁ずる。例外は、産婆、怪我人、急ぎの知らせ。橋の両側に灯り。火を手に持って渡らず。荷は持たず。湯や布など、必要なものだけ。火番を置く」


 宇平次が頷いた。


「橋番も要ります」


「置く。だが毎晩は無理だ。夜渡りが出る時だけだ」


 太助が言った。


「火鉢の灰を分けておく。橋用の炭は少しだけ。飯炊きの炭と混ぜるな」


 喜兵衛が渋い顔をする。


「また炭が分かれるか」


「混ぜると、いざという時に探す」


 太助が返す。


 喜兵衛は反論しなかった。


 宗介は、市松へ向いた。


「小札に書いて」


 市松は半分寝た顔で炭を持つ。


「夜渡り。原則なし。産婆、怪我人、急ぎの知らせのみ。橋両側に灯り。火を持って渡らず。荷なし。火番、橋番」


「そう」


「長い」


「大事」


「赤子も書くか」


 宗介は少し迷った。


「書こう。小屋場、男児か女児か分かる?」


 少年から聞いていなかった。


 宇平次が言った。


「そこは後で聞け。今は、無事に産まれた、とだけでよい」


 市松は板の端に、小さな丸を描いた。


「赤子」


 丸だけだった。


 だが、不思議とそれで伝わった。


 昼前、産婆が笠森へ寄った。


 疲れた顔だったが、歩けている。


 橋は明るくなってから渡ったという。


「母子ともに、ひとまず大丈夫だよ」


 おきぬがほっと息を吐く。


 産婆は弥四郎へ頭を下げた。


「湯と布、助かりました。夜の橋は怖かったけれど、灯りがなければ私は朝まで動けなかった」


 弥四郎は頷く。


「夜渡りは、今後も簡単には認めぬ」


「その方がいい。産婆の私でも、あれは怖い」


 産婆ははっきり言った。


「荷持ちなんぞ、夜に渡したら落ちるよ」


 嘉平が門前でそれを聞いていた。


 苦笑しながら言う。


「商人には厳しい言葉ですな」


「荷は朝まで待てる。産気は待てない」


 産婆が返すと、嘉平は頭を下げた。


「覚えておきます」


 産婆は帰り際、宗介へ言った。


「湯を熱くしすぎなかったのは、誰だい」


「おきぬさんです」


「そうかい。あの人は分かってるね」


 宗介は頷いた。


 自分が考えたような顔をしてはいけない。


 湯の熱さ、布の清さ、赤子の冷え。


 それは、おきぬや産婆の現場だった。


 兵糧方が見えるものだけではない。


 女衆の目がなければ、今回は危なかった。


 夕方、赤子の家から礼の品が届いた。


 多くはなかった。


 小さな藁包みに入った、乾いた豆がひとつかみ。


 少年が持ってきた。


「母ちゃんが、今はこれだけだって」


 宗介は受け取る前に聞いた。


「家の分は残っていますか」


「産婆様にも言われた。残してる」


 少年は少し誇らしげだった。


 弥四郎は頷いた。


「受けろ」


 宗介は豆を受け取った。


 市松が小札に書く。


 小屋場。赤子無事。豆ひとつかみ。家の分、残し。


 おきぬが豆を見て言った。


「粥に入れるには少ないね」


「どうしますか」


「赤子の礼なら、全部食べるんじゃなく、少し種に残した方がいいかもしれないね」


 宗介は顔を上げた。


 種。


 食べるだけではない。


 残す。


 また新しい腹が見えた。


 だが、今日はそこまで広げる気力がなかった。


 弥四郎も同じだったのか、静かに言った。


「半分は粥へ。半分は残せ」


 おきぬは頷いた。


「そうします」


 その夜の粥には、豆がほんの少しだけ入った。


 誰の椀にも行き渡るほどではない。


 だが、竈のそばにいた者たちは、それが赤子の礼だと知っていた。


 粥を啜る音が、いつもより少し静かだった。


 弥四郎が椀を手に言った。


「橋は、人や荷だけを渡すのではないのだな」


 宗介は頷いた。


「はい」


「産婆も、湯も、布も、礼の豆も渡った」


「はい」


「夜は、昼と違う」


「はい」


「火も、持てばよいものではない」


「はい」


 弥四郎は小さく息を吐いた。


「また覚えることが増えた」


「はい」


 宗介も同じ気持ちだった。


 橋を直す。


 一人ずつ渡る。


 待つ場所を作る。


 夜は灯りを置く。


 手に火を持たない。


 熱すぎる湯を運ばない。


 荷は待てるが、産気は待てない。


 どれも、言われれば当たり前のようで、見なければ分からない。


 門の外は暗い。


 南谷下の小橋も、今は闇の中だ。


 昼の橋なら、板も釘も見える。


 夜の橋では、足元も心も狭くなる。


 それでも今日は、赤子の声が橋を越えてきた。


 宗介は、板の端に描かれた小さな丸を見た。


 市松の描いた、赤子の印。


 下手な丸だった。


 だが、その丸があるだけで、今日の灯りには意味があった。


 笠森は夜の橋を、誰にでも開くわけにはいかない。


 けれど、閉じきることもできない。


 生まれる命は、夜を選ばない。


 だから、灯りを置く。


 走らせず、燃やさず、落とさず、必要なものだけを渡す。


 米俵を担げない五十一歳の男に、赤子を取り上げることはできない。


 だが、布と湯を落とさず渡す道を考えることなら、少しはできる。


 宗介は薄い粥を飲み干した。


 豆の味は、ほとんど分からなかった。


 それでも、腹の奥に小さな温かさが残った。



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