第五十八話 待つ場所
南谷下の小橋は、落ちなかった。
それだけなら、よい朝だった。
だが、笠森城の門へ届いた最初の知らせは、橋そのものではなく、橋の手前で起きた揉め事だった。
「橋の前で、人が詰まっております」
善助は、まだ朝露の残る草鞋のまま庭へ駆け込んできた。
息は上がっている。
だが、声は焦りすぎていない。
昨日から、橋の様子を見る役を何度も任されているせいか、言葉の順が少し整ってきていた。
片瀬弥四郎が広間から出てくる。
「橋は」
「落ちておりませぬ。釘も、見えるところは浮いておりませぬ」
「なら、何が詰まった」
「待つ者です」
久住宗介は、手にしていた椀を置いた。
嫌な予感がした。
昨日、一人ずつ渡ると決めた。
大荷は分ける。
薬、怪我人、急ぎの知らせ、橋を見る者は先。
人だけ、小荷、大荷の順。
荷車は不可。
橋の上に二人立たせない。
そこまでは決めた。
だが、考えが足りなかった。
待つ者を、どこに置くか。
善助は続けた。
「橋の手前の道に、商人と人足が並んでおります。向こう側にも三人。道を塞いで、戻る者が通れませぬ。それと、六蔵殿の菜畑を踏んだ者がおります」
「六蔵?」
宗介が聞き返すと、善助が頷く。
「小橋の手前に畑を持つ者です。道が狭いので、待つ者が畑の端へ入ったのでしょう。六蔵殿が怒っております」
弥四郎は短く息を吐いた。
「橋を守ったら、畑を踏んだか」
宗介は胃のあたりが重くなった。
そうなる。
考えれば、そうなる。
橋の上に人を乗せないなら、人は橋の手前で待つ。
待つ場所がなければ、道へ広がる。
道が狭ければ、畑へ踏み込む。
畑を踏まれた者は怒る。
怒った者が橋を恨む。
橋を恨めば、笠森を恨む。
弥四郎が宗介を見る。
「行くぞ」
「はい」
宇平次と佐太がすでに動いていた。
市松も絵板を抱える。
市松は眠そうな顔でぼやいた。
「今日は何だ。橋は昨日描いたぞ」
「今日は、待つ場所かもしれない」
「待つ場所まで描くのか」
「たぶん」
「橋より地味だな」
「地味なものほど揉める」
市松は嫌そうな顔をしたが、絵板を手放さなかった。
南谷下へ向かう道には、昨日よりも明らかに足跡が多かった。
土の柔らかい場所は踏み固められ、草の倒れた跡が線になっている。
小橋へ近づくと、怒鳴り声が聞こえた。
「そこは畑だと言っている!」
「少し足を置いただけだろう!」
「その少しで芽が潰れるんだ!」
橋の手前には、十人ほどがいた。
商人が二人。
荷持ちが三人。
南谷へ向かう女が一人。
川辺の人足が二人。
それから、和木原札を下げた男が一人。
橋の向こう側にも、こちらへ渡りたい者が数人立っている。
橋そのものには誰も乗っていない。
そこだけは守られていた。
だが、橋の手前の道は人と荷で塞がり、その脇の菜畑には草鞋の跡がいくつも残っていた。
畑の主らしい老人が、顔を真っ赤にして立っている。
六蔵だろう。
手には小さな鍬を持っていた。
弥四郎が声をかけた。
「六蔵」
老人は振り向くと、深く頭を下げかけ、すぐに顔を上げた。
「若様。橋を守るのは分かります。けれど、うちの畑を潰されては困ります」
「踏まれたのはどこだ」
「ここです」
六蔵は畑の端を指す。
菜の芽がいくつか潰れていた。
広い範囲ではない。
だが、六蔵にとっては、その少しが腹に関わる。
宗介は膝をついて見た。
踏まれた芽は戻らない。
畝の肩も少し崩れている。
待つ者に悪気がなかったとしても、これは損だ。
「誰が踏んだ」
宇平次が問うと、商人の一人が視線を逸らした。
川辺の人足も口を閉じる。
全員が少しずつ踏んだのだろう。
こういう時、犯人を一人にするのは難しい。
宗介は顔を上げた。
「若様。これは、待つ場所を決めなかったこちらの失敗です」
周囲が静まった。
宇平次が宗介を見る。
弥四郎も、すぐには答えなかった。
宗介は続ける。
「橋の上に立つなとは決めました。でも、橋の手前でどこに立つかを決めていません。道は狭い。人は来る。畑へ入るのは、考えれば分かることでした」
六蔵の表情が、怒りから少しだけ戸惑いへ変わった。
笠森がすぐに誰かを叱ると思っていたのかもしれない。
弥四郎は静かに頷いた。
「その通りだ」
そして六蔵へ向いた。
「踏ませた責の一部は、笠森にある」
六蔵は慌てた。
「若様、そこまでは」
「橋の順を決めたのは笠森だ。待つ場所を決めなかった。なら、知らぬとは言えぬ」
弥四郎は周囲を見回す。
「ただし、踏んだ者にも責はある。畑は道ではない」
商人たちも、人足たちも、顔を伏せた。
和木原札の男だけが、薄く笑っている。
宗介はその顔を見逃さなかった。
男は言うだろう。
笠森が橋を仕切ったせいで畑が踏まれた。
笠森は橋だけでなく畑まで巻き込む。
そう言うだろう。
ならば、先に形を作るしかない。
「待つ場所を作りましょう」
宗介は言った。
「道の上ではなく、畑でもなく、橋から少し離れた場所に。人が立つ場所、荷を置く場所、戻る人が通る場所を分けます」
六蔵が眉を寄せる。
「どこへ」
善助が少し考え、橋の手前から横へ外れた小さな空き地を指した。
「六蔵殿の畑の先に、去年から作付けしていない固い場所があります。石が多くて、畑にしにくいところです」
六蔵は苦い顔をした。
「あそこは、春に石を拾おうと思っていた」
「踏ませるなら、ただでは駄目ですね」
宗介が言うと、六蔵は黙った。
弥四郎が問う。
「六蔵。あの場所を、橋待ちの場所として使わせるなら、何が要る」
六蔵はすぐには答えなかった。
畑の主として、安く見られたくない。
だが、過大に求めれば周囲の目がある。
しばらく考えて、言った。
「石拾いをしてもらいたい。あそこは、踏むなら踏むでよい。だが、石を退けて、端に積んでほしい。畑へ水が入る溝も潰さぬようにしてほしい」
宗介は頷いた。
「飯ではなく、手で返す形ですね」
「米をもらっても、踏まれた芽は戻らん」
六蔵の声は硬い。
「だが、石を拾ってもらえれば、来年使えるかもしれん」
よい答えだった。
踏まれた損を、未来の畑へ少し戻す。
銭でも米でもなく、手で返す。
弥四郎は即決した。
「よい。待ち場にする。使う者は、石を一つでも二つでも端へ運べ。大荷で待つ者は、荷を置く前に石を退けろ。笠森からも人を出す」
和木原札の男が口を開いた。
「待つにも仕事をさせるのですか」
弥四郎が見る。
「畑を踏んだのだ。戻す手を出すのは当然だ」
「橋を待つ者から手間を取るとは」
宗介は言った。
「手間ではなく、場所を荒らさないためです」
「笠森は、待つ場所まで仕切るのか」
男は笑った。
やはり来た。
だが、今度は六蔵が先に言った。
「仕切ってもらわねば困る」
男が六蔵を見る。
六蔵は鍬を握りしめたまま続けた。
「畑を踏まれたのは、私だ。待つ者が勝手に広がれば、また踏まれる。笠森が場所を決め、踏んだ者に石を拾わせるなら、その方がよい」
和木原札の男は、言葉を詰まらせた。
畑の持ち主が望んでいる。
それを押し返すのは難しい。
宇平次が低く言う。
「聞いたな。待つなら待ち場へ行け。畑には入るな」
そこから、橋の手前は小さな普請場になった。
まず、待ち場にする空き地の石を拾う。
大きい石は端へ。
小さい石は足元のぬかるみに敷く。
荷を置く場所には、乾いた枝を下に敷く。
人が立つ場所と、荷を置く場所を分ける。
戻る者が通る道は、橋の正面から少し空ける。
市松が絵板へ描いた。
橋。
待つ人。
荷置き。
戻る道。
畑には斜め線。
石を端へ積む絵。
人の絵は相変わらず棒だったが、荷と畑は分かる。
「畑へ入るな、これは分かるな」
市松が六蔵へ見せると、六蔵は少しだけ笑った。
「分かる。畑はもっと上手く描いてほしいが」
「これで限界だ」
「なら、仕方ない」
そのやり取りで、場の空気が少し柔らかくなった。
嘉平は自分から荷を下ろし、待ち場の石を拾った。
塩の商人も続く。
南谷の若者は、溝を潰さないよう細い枝を置いた。
和木原札の男はしばらく何もしなかったが、周囲の視線に耐えられなくなったのか、小石を二つ拾って端へ置いた。
佐太がそれを見て言った。
「二つだけか」
男は睨んだ。
「待つだけだ」
「待つ場所を使うんだろう」
宇平次が口を挟む。
「石二つでも、何もしないよりはましだ。だが、畑へ入るな」
男は黙って待ち場へ下がった。
橋の順も、少し変わった。
ただ並ぶだけではなく、待ち場で呼ばれるまで待つ。
橋の前に出るのは、次に渡る一人だけ。
向こう側から来る者がいる時は、こちら側は待つ。
荷を置き直す者は、待ち場で分ける。
橋の前で荷ほどきしない。
それだけで、橋の手前はずいぶん落ち着いた。
宗介は、やっと息をついた。
橋を守るには、橋の上だけ見ていても足りない。
橋の前を見る。
待つ場所を見る。
戻る道を見る。
畑を見る。
また広がった。
いったい、どこまで見ればいいのか。
そう思った時、橋の向こうから一人の少年が駆けてきた。
息を切らし、手に小さな包みを持っている。
昨日の薬の女の家の子ではない。
見知らぬ少年だった。
「先に渡してくれ!」
橋の向こうで叫ぶ。
「母ちゃんが、産気づいた!」
場の空気が一変した。
宇平次が即座に橋の前へ出る。
「向こう側の者を下がらせろ。こちらは待て」
待ち場にいた者たちがざわめく。
嘉平が声を上げた。
「荷は全部待ちだ。道を空けろ」
塩の商人も荷を押さえて下がる。
六蔵が畑の端へいた者をどかす。
宗介は少年を見た。
包みは小さい。
薬か、布か。
いずれにせよ、急ぎだ。
「少年一人。荷は小さい。すぐ通します」
誰も反対しなかった。
和木原札の男も、何も言わない。
さすがに言えなかったのか、言っても勝てないと見たのか。
少年は橋を渡ろうとして、足が震えた。
急ぎすぎて、足元が見えていない。
宗介は思わず声を出す。
「走らないで!」
少年がびくりと止まる。
「真ん中を踏んで。ゆっくり。急いでいるなら、落ちない方が早い」
少年は唇を噛み、頷いた。
一歩。
二歩。
橋は鳴ったが、持った。
渡りきると、少年は頭を下げる暇も惜しむように走りかけた。
佐太がその肩をつかみ、包みを確かめる。
「どこへ」
「小屋場の産婆のところ!」
六蔵がすぐに道を指した。
「そっちだ。畑の端を踏むな。道を行け」
少年は頷き、走っていった。
待ち場に残った者たちは、しばらく黙っていた。
誰も文句を言わない。
今、待つ場所がなければ、少年は人と荷の間を縫って走り、畑へ入り、橋の前で転んだかもしれない。
待つ場所があったから、道が空いた。
そのことを、そこにいた全員が見た。
六蔵がぽつりと言った。
「石を拾わせるだけでは、ないのだな」
宗介は頷いた。
「はい。急ぐ人の道も空きます」
六蔵は踏まれた菜の芽を見た。
それから、石を積んだ待ち場を見た。
「なら、しばらく使ってよい。ただし、畑へ入るな」
「守ります」
弥四郎が答えた。
昼過ぎ、奥田弥五郎が来た。
もう、来るだろうと思っていた。
奥田は、橋の手前に作られた待ち場を見て、穏やかに笑った。
「今度は、待つ場所ですか」
弥四郎は答えた。
「橋を守るためだ」
「畑まで巻き込んで」
六蔵が前へ出た。
「私が使わせると言いました」
奥田は少し目を細める。
六蔵は続けた。
「畑を踏まれるよりましです。使う者には石を拾わせる。溝は潰させない。笠森はそう決めた」
「六蔵殿は、笠森に畑を差し出したのですか」
「差し出しておりません。待つ場所として、しばらく使わせるだけです。畑は私のものです」
奥田は笑みを崩さない。
「その線を、誰が守るのです」
弥四郎が言った。
「笠森が守る。六蔵も見る。使う者も石を拾う。商人も見た。南谷も見た」
嘉平が頭を下げた。
「商人も使います。畑へ入らぬ方が助かります」
善助も言う。
「水の溝を潰されると、南谷も困ります」
奥田は、橋、待ち場、畑、溝、絵板を順に見た。
「ずいぶん面倒な道になりましたな」
宗介は思わず言いそうになった。
面倒にしないと壊れるのだ、と。
だが、弥四郎が先に言った。
「面倒だから、橋が落ちぬ」
奥田はわずかに黙った。
弥四郎は続ける。
「急ぐ者ほど、橋を壊す。待つ者が場所を失えば、畑を壊す。畑を壊せば、腹が減る。腹が減れば、人は急ぐ。だから、待つ場所を決める」
宗介は、若い城主の横顔を見た。
弥四郎はもう、宗介の言葉をただ借りているだけではない。
自分の言葉で、笠森の線を語っている。
奥田もそれを感じたのか、少しだけ笑みを薄くした。
「主膳様へ伝えましょう。笠森は橋の前に待ち場を作り、畑の石まで拾わせている、と」
「伝えよ」
弥四郎は静かに返す。
「そして、産婆を呼ぶ少年が通れる道を空けた、とも伝えろ」
奥田は、今度は返事をしなかった。
頭だけ下げて、去っていった。
夕方までに、待ち場の石は思ったより多く積まれた。
六蔵は途中から、どの石をどこへ置くか口を出し始めた。
「それは溝の脇へ置くな。水が詰まる」
「大きい石はこっちだ。畑の端の土留めに使う」
「乾いた枝は荷置きへ。湿ったのは踏み場にするな」
いつの間にか、六蔵自身が待ち場を仕切っていた。
佐太が小声で言った。
「怒っていたわりに、張り切ってるな」
宗介は苦笑した。
「自分の畑の横ですから」
「それもそうか」
橋を使う者たちは、最初ほど文句を言わなくなった。
待つ場所があれば、少なくとも立つ場所を奪い合わずに済む。
荷を置く場所があれば、橋の前で慌てて荷をほどかずに済む。
戻る道が空けば、向こうから来る者とも揉めにくい。
橋は、今日も落ちなかった。
笠森へ戻ると、市松は真っ先に板へ向かった。
待ち場。
畑へ入らず。
石を拾う。
荷置き。
戻る道。
急ぎの者の道を空ける。
六蔵、見届け。
市松は最後に、畑の横に小さな石の山を描いた。
「これは、まあまあ上手い」
自分で言った。
宗介は覗き込む。
「本当だ」
「畑より石の方が簡単だ」
「そうかもしれない」
夜の粥は、いつもより少し遅かった。
橋と待ち場で戻りが遅れたせいだ。
だが、誰も大きな不満は言わなかった。
今日、産婆を呼ぶ少年が橋を渡ったことは、もう城庭にも伝わっていた。
おきぬが粥をよそいながら言った。
「産気づいた家は、大丈夫かね」
「まだ分かりません」
宗介が答えると、おきぬは少しだけ眉を寄せた。
「なら、明日の朝、聞きに行かせな。橋を通しただけで終わりじゃないよ」
「はい」
また、仕事が増える。
けれど、今度は嫌な重さだけではなかった。
誰かが無事に産まれるかもしれない。
そのために橋があり、待ち場があり、石を拾った。
そう思えば、粥の薄さも少し違って感じられた。
弥四郎が椀を持って言った。
「橋を守るには、待つ場所が要る。待つ場所を守るには、畑を見る。畑を見るには、石まで見る」
「はい」
「どこまでも広がるな」
「はい」
「だが、今日の少年は通れた」
「はい」
弥四郎は頷いた。
「なら、今日の石拾いにも意味があった」
宗介は、板に描かれた小さな石の山を見た。
戦ではない。
大きな勝利でもない。
ただ、橋の手前に待つ場所を作っただけだ。
けれど、その場所があったから、急ぐ少年の道が空いた。
畑はそれ以上踏まれなかった。
荷も人も、橋の前で押し合わずに済んだ。
待つことにも、場所が要る。
腹を満たすだけでは足りない。
水を通すだけでも、橋を直すだけでも、順を決めるだけでも足りない。
人は、待つ。
待つ人にも、足の置き場がいる。
宗介は薄い粥を飲み込んだ。
米は少ない。
体は重い。
だが、今日は橋の手前に、小さな余白ができた。
笠森はまた一つ、壊さずに待つ方法を覚えた。




