第五十七話 一人ずつ渡る
南谷下の小橋を直した翌朝、笠森城の門前には人が増えていた。
荷を背負った商人。
南谷へ戻る者。
川辺から来た人足。
槙尾へ向かう女衆。
それぞれの荷は大きくない。
だが、顔はどれも急いでいた。
昨日、橋は直った。
ただし、完全ではない。
人は一人ずつ。
荷は下ろして、持ち直して渡る。
荷車はまだ通せない。
それを聞いた者たちが、朝から門前で順を待っていた。
久住宗介は、門の内側でその顔ぶれを見ていた。
橋が直れば、人が動く。
人が動けば、順が要る。
順が乱れれば、橋へ人が詰まる。
橋へ人が詰まれば、せっかく打った釘も板も、人の重みで傷む。
釘二本が、道を開いた。
だが、釘二本だけでは人の欲までは止められない。
片瀬弥四郎も同じことを見ていた。
「今日は橋を見る」
宇平次が頷く。
「人が増えますな」
「増える。急ぐ者ほど、橋の上で急ぐ」
弥四郎は宗介へ目を向けた。
「宗介。昨日の橋は、何人までだ」
「一人ずつです」
「荷は」
「背負ったままでは危ないです。重い荷は下ろして、片手で持つか、向こうへ渡してから背負い直す方がいい」
「なら、順が要る」
「はい」
答えながら、宗介は嫌な予感を覚えていた。
順を決めれば、必ず揉める。
誰を先に渡すのか。
薬か、食べ物か、商人の荷か、人足か。
誰もが理由を持っている。
そして理由があるからこそ、揉める。
門前で、嘉平が声を上げた。
「俺の布は槙尾で待たれている。昨日から半日遅れている」
別の商人がすぐに言い返した。
「こちらは塩だ。布より先だろう」
南谷の若者が眉を吊り上げる。
「俺たちは橋の下の水を見に行くんだ。商人の荷より先に通してくれ」
女が小さな声で言った。
「父の薬を、もう一度取りに行かないと……」
昨日、薬を取りに渡った女だった。
父の熱はまだ引ききっていないのだろう。
その声を聞いた瞬間、商人たちが少し口を閉じた。
だが、黙っただけだ。
急ぐ理由が消えたわけではない。
弥四郎は、声を荒らげなかった。
「橋へ行く。順は現場で決める。門前で押し合うな」
宇平次が足軽二人を選ぶ。
佐太も同行する。
善助、嘉平、薬を取りに行く女、塩を背負った商人、南谷の若者二人。
それから、市松。
市松は小札と絵板を抱え、もう諦めた顔をしていた。
「今日は何を描くんだ」
「橋と人」
「人は難しい」
「棒でいい」
「棒でいいなら楽だ」
宗介は苦笑した。
南谷下の小橋へ向かう道は、昨日より足跡が多かった。
まだ朝なのに、すでに何人かが橋へ向かったらしい。
橋が見える手前で、声が聞こえた。
「先に渡せと言っているだろう!」
「橋番がまだ来ていない!」
「橋番など待っていられるか!」
宇平次が足を速めた。
橋の前には、五人ほどが詰まっていた。
ひとりは大きな背負い荷を背負ったまま、橋へ足をかけようとしている。
その向こう側にも、こちらへ渡りたい者が二人いる。
狭い橋の両側で、人が向かい合っていた。
宗介の背筋が冷えた。
最悪だ。
両側から同時に渡ろうとしている。
しかも、重い荷を背負ったまま。
「止まれ!」
宇平次の声が橋の上へ飛んだ。
背負い荷の男が振り返る。
「急ぎだ!」
「止まれと言った!」
佐太が駆け寄り、男の肩をつかむ。
男は抵抗しかけたが、橋板が小さく鳴った。
その音で、全員が固まる。
昨日打ったばかりの釘が、わずかに軋んだように聞こえた。
新左ほど耳がよくなくても、嫌な音だと分かった。
宗介は喉が乾いた。
「橋から下りてください。まず荷を下ろす」
背負い荷の男が顔を歪める。
「俺の荷は米だ。濡らせない」
「橋が傷めば、米どころではありません」
「こっちは急いでいるんだ」
男の腰には和木原札が下がっていた。
宇平次の目が鋭くなる。
「和木原の荷か」
「そうだ。和木原で改めた米だ。南谷へ売りに行く」
嘉平が低く言った。
「昨日までは見なかった顔ですな」
男は鼻で笑った。
「橋が直ったと聞いたのでな。通れる道は使う」
宗介は男の荷を見た。
大きすぎる。
米を売りに行くなら、小分けにできるはずだ。
それをわざわざ大きな背負い荷にして、直ったばかりの橋へ乗せようとしている。
橋を傷める気か。
それとも、橋で止められて「笠森が和木原の米を通さない」と言うつもりか。
弥四郎は静かに言った。
「荷を下ろせ」
「和木原の米を地に置けと?」
「橋を渡るなら、下ろせ」
「笠森は米を止めるのか」
「米ではなく、重すぎる荷を止めている」
弥四郎の声は低く、揺れなかった。
宗介は、橋を見た。
橋の前に、いま立っている人。
向こう側から来たい人。
薬を取りに行く女。
南谷の水を見る若者。
商人の塩。
嘉平の布。
和木原札の米。
全部を同じように扱えば、橋は詰まる。
だが、特別扱いを間違えれば、不公平になる。
「若様」
宗介は言った。
「橋の前で、荷を三つに分けたいです」
「言え」
「すぐ渡すもの。待たせるもの。今日は通さないもの」
周りが静まった。
宗介は続けた。
「すぐ渡すものは、薬、怪我人、知らせ、橋を直す道具。次に、人だけ、軽い小荷。待たせるものは、商いの荷。重いものは分ける。今日は通さないものは、荷車と、大きすぎる荷です」
和木原札の男がすぐに噛みついた。
「笠森が勝手に順を決めるのか」
善助が言った。
「橋を落とさないためだ」
「米を止めるのか」
弥四郎が答える。
「米を止めぬ。荷を分けろ。小さくして、人が一人ずつ持つなら通す。背負ったままは通さぬ」
男は黙った。
米そのものを止められたわけではない。
分ければ通せる。
だが、分けるのは手間だ。
その手間を嫌がれば、男の方が橋を守る気がないことになる。
嘉平が、自分の布荷を下ろした。
「俺の荷も分けます。半分ずつでよい」
塩を背負った商人も渋い顔をしたが、荷を下ろした。
「塩は濡らせない。下に敷くものを貸してくれ」
南谷の若者が、乾いた枝を出した。
「これを敷け。袋を直接置くな」
橋の前に、即席の荷分け場ができた。
宗介はすぐに指示した。
「荷を置く場所を分けます。薬と知らせは橋の近く。商い荷は少し後ろ。米は袋を小さく。塩は下に枝。濡れたものは橋へ近づけない」
市松が絵板へ描く。
橋。
人ひとり。
小さな荷。
大きな荷には斜め線。
薬らしき小袋を先に描こうとして、途中で首を傾げた。
「薬ってどう描くんだ」
「小袋でいい」
「全部小袋だ」
「じゃあ、丸をつけて」
「雑だな」
言いながら、市松は薬袋に丸を描いた。
その絵板を橋の手前に立てる。
字が読めない者にも、何となく伝わる。
一人ずつ。
大荷は駄目。
小分け。
薬は先。
最初に渡ったのは、薬を取りに行く女だった。
善助が付き添い、少年はいない。
今日は一人で来ていた。
女は橋の前で頭を下げた。
「先に、すみません」
嘉平が言った。
「薬は先でいい。布は逃げません」
塩の商人も、仕方なさそうに頷いた。
「熱は待たんからな」
女は橋を渡った。
昨日より足取りは落ち着いている。
真ん中を踏み、端へ寄らない。
橋の向こうで振り返り、もう一度頭を下げて槙尾へ向かった。
次に、橋を見に行く南谷の若者。
これは橋を守るための者だから先に通す。
その次に、向こう側からこちらへ来たい者を一人ずつ渡した。
片側ばかり進めない。
それも大事だった。
向こうから来た老人が、息を切らしながら言った。
「待たされるのは腹が立つが、橋の上で押し合うよりましだ」
その言葉に、場の空気が少し緩んだ。
問題は、和木原札の米だった。
男は渋々荷を下ろしたが、小分けにしようとしない。
「袋を分けると、目方が狂う」
嘉平が言った。
「なら、ここで見届けを置けばいい。米袋を分ける前と後で、笠森、商人、南谷の者が見ればよい」
「お前は黙っていろ」
「荷を分ける話なら、商人の方が分かる」
嘉平は引かなかった。
以前なら、ここまで言わなかったかもしれない。
泥を掻き、枝を選び、橋を渡った商人の言葉には、少し重みが出ていた。
宗介は米袋を見た。
「袋を開ける必要はありません。外袋ごと二つに分けるなら、縄でくくり直す。重さは完全には半分になりませんが、背負ったまま橋へ乗るよりはましです」
男は鼻を鳴らす。
「縄が要る」
善助が古縄を出した。
「使える。ただし返せ」
男は嫌そうに受け取った。
佐太が近づく。
「くくり方を間違えると落ちる」
「分かっている」
「分かってねえ顔だ」
佐太は、ほとんど昨日の嘉平へ言ったような口調で言った。
嘉平が少し笑った。
男は不満を飲み込み、結局、米袋を二つに分けた。
それでも重い。
橋を渡る時は、背負わず、腕で抱える。
ひとつずつ。
渡るたびに、橋板が小さく鳴る。
新左がいれば、きっと音を聞いただろう。
宗介も耳を澄ませた。
釘は浮かない。
橋板も大きく動かない。
だが、軽い荷とは違う。
橋は確かに重みを受けている。
「今日はこれ以上、米は通さない方がいいです」
宗介が言うと、弥四郎は頷いた。
「聞いたな。大荷は一荷まで。次は明日、橋を見てからだ」
和木原札の男が顔を歪める。
「一荷だけとは」
「橋を守るためだ」
「和木原の米を止めたと伝える」
「大荷を小分けにすれば一荷は通した。次は明日、橋を見てから。そう伝えろ」
弥四郎は淡々と言った。
男は言い返せなかった。
完全に止められたわけではない。
だが、好きには通せない。
それが一番悔しい顔だった。
昼近くまで、橋の順を見た。
薬。
知らせ。
橋を見る者。
人だけ。
小荷。
分けた商い荷。
大荷は一荷まで。
荷車は不可。
向こう側から来る者も、同じように一人ずつ。
市松の絵板は、何度か描き足された。
最後には、人が橋の両側で待つ絵まで加わっていた。
橋の上に人が二人乗る絵には、斜め線。
宗介はそれを見て頷いた。
「分かりやすい」
「人が棒だからな」
「棒でいい」
「棒で足りるなら、最初から人は棒でよかった」
市松はよく分からないことを言ったが、疲れているのだろう。
宗介は聞き流した。
午後になって、奥田弥五郎が現れた。
やはり来た。
宗介はそう思った。
奥田は、橋の手前に立てられた絵板を見て、穏やかに笑った。
「今度は橋の順までお決めになるのですか」
弥四郎は答えた。
「橋が弱い。順が要る」
「和木原の米が止められたと聞きました」
「一荷は通した。大荷のままは止めた。小分けにさせた。次は明日、橋を見てからだ」
「米は民の腹に入るものです」
「橋が落ちれば、腹へ届かぬ」
弥四郎の答えは短い。
奥田は笑みを崩さない。
「しかし、笠森は薬を先に通し、和木原の米を後にした」
宗介は、その言葉に嫌なものを感じた。
やはり、そこを突く。
薬を優先すれば、米を軽んじたと言う。
米を優先すれば、病人を見捨てたと言う。
どちらにしても、笠森を悪く言える。
だが、今回は宗介より先に、塩の商人が口を開いた。
「薬は先でよい」
奥田がそちらを見る。
商人は少し緊張しながらも続けた。
「熱は待ちません。米も塩も大事ですが、橋で落ちたら荷も人も失います。今日はそういう順でした」
嘉平も言った。
「布も待ちました。和木原の米だけが待たされたわけではありません」
善助が続ける。
「橋を見る者も先に通した。橋を守るためです」
奥田の笑みが少し薄くなった。
笠森だけが言うなら押せる。
だが、商人、南谷、荷を待った者たちが同じことを言えば、押しにくい。
弥四郎は静かに言った。
「順は、笠森の得で決めていない。橋を落とさぬために決めた」
「その順を、誰が決めるのです」
「橋を見た者、荷を持つ者、道を知る者が、その場で決める。最後に笠森が責を持つ」
奥田は宗介を見た。
「では、久住殿が決めるのですか」
宗介は心臓が跳ねた。
ここで自分の名を出してくる。
兵糧方の男が順を支配している、という形にしたいのだろう。
だが、弥四郎が先に答えた。
「笠森の責は俺が持つ」
声は静かだった。
「宗介は見る。宇平次は止める。善助は水を見る。商人は荷を見る。市松は残す。だが、責は城主の俺が持つ」
宗介は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
弥四郎は宗介に押しつけなかった。
若い城主が、前に立った。
奥田もそれ以上は踏み込めなかった。
「主膳様へ、そう伝えましょう」
「伝えよ。橋は一人ずつ。大荷は分ける。薬と怪我人と知らせは先。荷車はまだ不可。笠森が責を持つ」
奥田は頭を下げた。
去り際に、橋を一度見た。
釘二本で押さえられた小さな橋。
絵板。
待つ商人。
荷を分ける人足。
その全部を、何かに使うために記憶している顔だった。
夕方まで、橋は落ちなかった。
釘も浮かなかった。
だが、橋板には人の足跡が増えた。
宗介はそれを見て、明日も確認が要ると思った。
直した橋は、直した日に終わりではない。
使えば減る。
渡れば傷む。
順が乱れれば、一日で駄目になる。
笠森へ戻ると、市松が板に新しい絵を描いた。
一人橋。
薬、先。
怪我人、先。
知らせ、先。
橋を見る者、先。
人だけ、次。
小荷、次。
大荷は分ける。
大荷は一荷まで。
荷車、不可。
両側から同時に渡らず。
橋の上、二人立たず。
市松は描き終えると、へたり込んだ。
「橋だけで、こんなにあるのか」
「ある」
宗介は言った。
「橋は短いのに」
「短いから、揉める」
市松は納得したような、していないような顔をした。
夜の粥は、いつもより少し冷めていた。
橋で一日立っていたせいで、戻りが遅れたからだ。
それでも、誰も文句を言わなかった。
嘉平は自分の布を半分だけ通し、残りを明日にした。
塩の商人も同じだった。
和木原の米も、一荷だけ通った。
薬の女は、昼過ぎに戻り、父へ飲ませると言って帰った。
それぞれが、少しずつ待った。
その待った分だけ、橋は落ちなかった。
弥四郎が椀を手に言った。
「釘を打つだけでは、橋は守れぬのだな」
「はい」
宗介は頷いた。
「渡り方まで決めないと、すぐ傷みます」
「人は急ぐ」
「はい」
「急ぐ人を止めるのは、難しい」
「はい」
「だが、止めねば落ちる」
弥四郎は粥を啜った。
「覚えておく」
宗介も椀を持った。
橋を落とさないために、誰かを待たせる。
その待たせ方を間違えれば、恨まれる。
だが、待たせなければ、橋も人も落ちる。
兵糧とは、ただ早く届けることではない。
通れる順に、壊れない速さで、確かに届けることだ。
今日、宗介はそれを橋の上で見た。
薬が渡り、塩が待ち、布が半分になり、米が小分けになった。
誰も満足はしていない。
だが、誰も橋から落ちなかった。
それで十分な日もある。
門の外は暗い。
明日になれば、また誰かが急ぐ。
和木原も、きっと別の荷を送ってくる。
もっと重い荷かもしれない。
もっと急ぐ理由をつけるかもしれない。
それでも、橋は一人ずつだ。
宗介は、板に描かれた棒のような人を見た。
下手な絵だった。
だが、橋の上に二人立ってはいけないことだけは、よく分かった。
今の笠森には、それでよかった。




