第五十六話 先に打つ釘
槙尾の鍛冶師、新左は、朝まだ薄暗いうちに笠森へ来た。
背には小さな包み。
腰には槌。
顔は相変わらず渋く、挨拶より先に火所の炭を見た。
「黒谷炭は、分けたか」
太助が火所の横を指す。
「こっちだ。細かく割れたのは飯炊きへ回した。締まったのだけ残してある」
新左は膝をつき、炭をひとつ手に取った。
指で叩き、耳元へ近づける。
乾いた音がした。
「使える」
「鍛冶にか」
「小釘を打ち直すくらいならな。大物は無理だ」
久住宗介は、少し離れたところでそのやり取りを聞いていた。
鍬を直す。
橋を直す。
釘を打つ。
そのために炭を分ける。
炭ひとつにも向き不向きがある。
昨日まで鉄片を見ていた目が、今朝は炭へ移る。
見れば見るほど、何かひとつだけで済むものなどない。
新左は包みを開いた。
中から太めの釘が三本出てくる。
曲がりは取られている。
頭は不揃いだが、昨日見た錆び釘よりずっと頼もしく見えた。
「槙尾の古蔵から外した釘を、打ち直した。二本は橋板用。一本は予備だ」
宗介は思わず聞いた。
「三本、全部打たない方がいいんですか」
新左は目だけこちらへ向けた。
「全部打てば強くなると思ったか」
「はい。少し」
「木が割れる」
短い答えだった。
宗介は口を閉じた。
新左は釘を一本持ち上げる。
「釘は、多ければいいものではない。古い板に近く打てば、割れる。抜かれた穴へそのまま打てば、効きが悪い。少しずらす。一本は押さえ、一本は止め。予備は、割れた時のためだ」
宗介は頷いた。
「分かりました」
「本当に分かった顔ではないな」
「分かりかけています」
新左は鼻を鳴らした。
「分かりかけているなら、余計な口を出すな」
太助が横で笑った。
「宗介にはきつい言葉だな」
「きついくらいがちょうどいい」
新左はそう言って、釘を包み直した。
片瀬弥四郎が庭へ出てきた。
「行くぞ。南谷下の小橋を直す」
宇平次と佐太がすぐに動く。
善助も呼ばれた。
市松は絵板と小札を抱えている。橋、家、荷車へ斜め線を引いた板も持った。
宗介は水筒と布を確認する。
橋を直しに行くのに、なぜ布が要るのか。
そう思う者もいたが、ここ数日の笠森では、誰もそれを笑わなくなっていた。
何かが起きれば、布は要る。
泥にも、血にも、道具を包むにも使える。
門を出る時、柏屋惣右衛門が待っていた。
「見届けに参ります」
弥四郎は頷いた。
「来い。ただし、橋の上へは勝手に乗るな」
「承知しております」
嘉平もいた。
背負子は直しかけで、今日は荷を持っていない。
「昨日の金具のこともあります。商人にも関わる橋です」
宗介は少し迷ったが、弥四郎が先に言った。
「見るなら見ろ。だが、手も貸せ」
「はい」
嘉平はすぐ答えた。
泥に手をついた商人は、返事が少し早くなった。
南谷下の小橋へ着くと、朝の水音が足元から上がっていた。
流れは浅い。
だが、冷たい。
昨日、仮に打った木楔は残っている。
橋板はまだ浮いていない。
けれど、人が続けて渡るには心もとない。
善助が橋の端へ屈み込む。
「夜の間に大きくは動いておりません」
新左は何も言わず、橋板を見た。
釘の抜けた穴。
木楔の入り方。
板の割れ目。
橋桁の傷み。
全部を手で触り、槌の柄で軽く叩く。
音を聞いているようだった。
「この板は、まだ生きている」
新左が言った。
「替えなくてよいのか」
宇平次が問う。
「替えの板があるなら替えればいい。ないなら使う。だが、この穴へは打たない。少しずらす」
佐太が木楔を抜こうとした。
新左が止める。
「まだ抜くな」
「なぜだ」
「釘を打つ前に抜けば、板が動く。先に押さえを作る」
佐太は素直に手を引いた。
宗介は、その様子を見ていた。
直すにも順番がある。
抜いて、打てばいいわけではない。
支えながら直す。
飯も、道も、人も、同じだと思った。
支えを外せば崩れる。
先に打つ釘を間違えれば、板が割れる。
新左は、釘の位置へ炭で小さな印をつけた。
「ここへ一本。もう一本はここだ。予備は打たぬ」
市松が小札へ書く。
「予備、打たず」
「そこも書くのか」
新左が顔をしかめる。
「書きます」
宗介が答えた。
「打たなかった釘が消えると、揉めます」
新左は少し黙り、釘を見た。
「なるほどな」
短く言った。
その時、橋の向こうから人影が見えた。
女が一人、布包みを抱えている。
後ろには少年がいた。
女は橋の前で足を止め、困った顔をした。
「渡れますか」
善助がすぐに声を返す。
「まだ駄目です。直している途中です」
「槙尾へ薬を取りに行きたいんです。父が熱を出していて」
宗介は胸が詰まった。
急ぎたい理由がある。
だが、橋はまだ直っていない。
ここで通せば、落ちるかもしれない。
宇平次は厳しい顔で言った。
「待て」
女の顔が曇る。
「どれほど」
新左が橋を見たまま答えた。
「釘を打ち、板を踏み、もう一度確かめてからだ」
「半刻はかからぬ」
佐太が補う。
女は唇を噛んだ。
少年が不安そうに母を見る。
宗介は言った。
「薬を取りに行くなら、急ぐ気持ちは分かります。でも、橋で落ちたら、薬どころではありません。こちらで先に渡れるようにします」
女は何か言い返しかけ、橋板を見て黙った。
浮いた板。
抜けた釘。
流れる水。
見れば、危ないのは分かる。
「……待ちます」
その声は悔しそうだった。
宇平次が佐太へ言う。
「橋のこちらで待たせろ。水を飲ませる」
宗介は水筒を渡した。
布も一枚出す。
少年の足元が冷えていたからだ。
おきぬに持たされた布だった。
やはり、要った。
橋の修理が始まった。
新左が釘を置く。
佐太と善助が板を押さえる。
宇平次が橋へ乗る人数を制限する。
嘉平は、橋の手前で人を止める役についた。
「今は渡れません。一人ずつです。荷は下ろして待ってください」
少し前の嘉平なら、言う側ではなく言われる側だった。
今は違う。
自分が泥に手をつき、橋の危うさを見たからだ。
新左が槌を振る。
一打。
釘が少し沈む。
二打。
板が低く鳴る。
三打。
橋の下の水音と、槌の音が混じった。
宗介は、思わず息を止めていた。
釘一本を打つだけで、こんなに緊張するとは思わなかった。
新左は焦らない。
強く打ちすぎない。
板の音を聞きながら、釘を沈めていく。
一本目が入ると、木楔を少し緩めた。
板は跳ねない。
二本目は、抜けた穴から離れた場所へ打つ。
こちらも、同じように音を聞きながら打った。
最後に、木楔を一部残し、余分を切る。
新左は立ち上がり、槌を佐太へ渡した。
「踏め」
佐太が驚く。
「俺がか」
「重い者が踏め」
周囲に少し笑いが起きた。
佐太はむっとしながらも橋へ乗った。
一歩。
二歩。
橋板は動かない。
戻って、もう一度。
今度は少し強く踏む。
釘は浮かない。
「次は荷を持たずに、一人ずつだ」
新左が言った。
「いきなり荷を担がせるな」
宇平次が頷く。
「まず俺が渡る」
宇平次が槍を佐太へ預け、空身で渡った。
続いて善助。
次に嘉平。
商人が渡るのを見て、待っていた女の目が少し変わった。
嘉平は戻ってくると、女へ言った。
「足元を見て。真ん中を踏む。端へ寄らない」
女は頷いた。
少年の手を引く。
しかし新左が止めた。
「子を先に渡すな。母が先だ。子は後ろで善助が見る」
女は一瞬迷ったが、善助が少年へ手を差し出した。
「大丈夫だ。母御の後ろをゆっくり行こう」
女が橋を渡る。
足が震えている。
だが、橋板は動かなかった。
少年も続く。
橋の向こうへ渡ると、女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
弥四郎は短く答えた。
「礼は、父御の熱が引いてからでよい。帰りも、橋を見て渡れ。急いでも一人ずつだ」
「はい」
女と少年は槙尾の方へ急いだ。
だが、走りはしなかった。
嘉平が言った通り、足元を見ていた。
橋のこちらに残った者たちは、少しだけ息をついた。
その時だった。
「立派なものですな」
橋の上手から、柔らかい声がした。
奥田弥五郎だった。
和木原主膳の使者。
供を二人連れている。
手には細い包みを持っていた。
宇平次と佐太がすぐに前へ出る。
奥田は穏やかに頭を下げた。
「いや、邪魔をするつもりはありません。笠森が橋を直すと聞き、和木原からも釘を持って参りました」
包みが開かれる。
中には、細い釘が数本あった。
見たところ、使えないようには見えない。
宗介は胸の奥が冷えるのを感じた。
ここで釘を差し出すのか。
受ければ、和木原は言うだろう。
橋は和木原の釘で直した。
受けなければ、笠森は和木原の助けを拒み、通る者を待たせたと言うだろう。
弥四郎は釘を見た。
すぐには答えない。
新左が一歩前に出る。
「誰が打った釘だ」
奥田が目を細める。
「和木原の蔵にあったものです」
「鍛冶の名は」
「古いものゆえ、そこまでは」
「なら、橋には打てぬ」
新左は即答した。
奥田の笑みが少し硬くなる。
「槙尾の鍛冶殿は、ずいぶん厳しい」
「橋に打つ釘だ。厳しくて当たり前だ」
新左は釘を一本取ろうともせず、続けた。
「釘は鉄なら何でもいいわけではない。長さ、太さ、頭、粘り。打った者の癖もある。誰が打ったか分からぬ釘を、今直した橋へ混ぜれば、折れた時に誰の責か分からぬ」
宗介は内心で頷いた。
まさにそこだった。
使えるかどうかだけではない。
誰が見て、誰が打つか。
責が残るか。
それが橋の釘には必要だった。
奥田は弥四郎へ向いた。
「若様は、和木原の釘を拒むと」
弥四郎は静かに答えた。
「橋へは打たぬ」
「橋へは?」
「鍛冶の名も、蔵の見届けもない釘だ。橋へは打てぬ。だが、和木原が本当に釘を出すなら、鍛冶の名と見届けを添え、どこに使う釘か先に示せ。受けるかどうかは、それから決める」
奥田は、すぐには言い返さなかった。
ただ拒まれたのではない。
手順を求められた。
それが厄介なのだろう。
惣右衛門が口を開いた。
「商人の荷縄でも同じですな。誰の縄か分からぬものを荷の中心には使いませぬ」
嘉平も続く。
「橋に打つなら、なおさらです」
奥田は二人を見る。
商人が笠森側に立っているわけではない。
ただ、道具の責を語っている。
そこが奥田には攻めにくいのだろう。
新左は短く言った。
「使うなら、仮杭か囲いだ。人の足を預ける場所へは打たぬ」
弥四郎が頷いた。
「そうする。和木原の釘は、橋には打たぬ。受けるなら仮囲い用として別に置き、名と出所を残す。ただし、今日は受けぬ。見届けが足りぬ」
市松が小札を持つ。
「和木原釘、見届けなし。橋へ打たず。今日は受けず」
奥田は小札を見ると、苦笑した。
「笠森は、本当に何でも残しますな」
弥四郎は答えた。
「残さぬものほど、後で人を落とす」
その言葉で、橋の周りが静かになった。
奥田は深く頭を下げた。
「主膳様へ伝えましょう」
「伝えよ」
「和木原が釘を出しても、笠森は橋へ打たなかった、と」
「鍛冶の名も見届けもない釘は、人の足を預ける橋へ打てぬ、と伝えろ」
奥田は返事をせず、笑みだけを残して去った。
追わなかった。
橋は直ったばかりだ。
今は、それを確かめる方が先だった。
午後まで、橋は一人ずつ渡らせた。
荷を担ぐ者は、荷を一度下ろし、背負い直してから渡る。
嘉平は商人へそれを説明した。
善助は南谷の者へ伝えた。
佐太は、ふざけて端を踏もうとした若者を叱った。
「真ん中を踏め。釘を打ったばかりだ」
若者は肩をすくめたが、従った。
夕方前、槙尾へ薬を取りに行った女と少年が戻ってきた。
少年の手には小さな薬包が握られている。
女は橋の前で立ち止まり、言われた通り、一人ずつ渡った。
橋を渡り終えると、もう一度深く頭を下げた。
「父に、薬を飲ませられます」
弥四郎は頷いた。
「それでよい」
宗介は、その言葉を聞いて胸の奥が少し緩んだ。
橋を直した。
それだけではない。
薬が渡った。
家へ戻った。
釘が、人の足だけでなく、家の息までつないだ。
笠森へ戻ると、市松はすぐに板へ向かった。
釘二本。
予備一本、打たず。
槙尾新左、打つ。
南谷善助、見届け。
笠森、見届け。
柏屋、見届け。
和木原釘、見届けなし。橋へ打たず。
橋、人一人ずつ。荷は下ろして渡る。
市松は最後に、小さな橋と釘の絵を描いた。
その釘は、やはり下手だった。
だが、橋を押さえているようには見えた。
宗介はそれを見て言った。
「今日は、うまい」
「今日は?」
「今日も」
市松は不満そうに炭を置いた。
夜の粥は薄かった。
だが、庭には少し落ち着いた空気があった。
南谷下の小橋は直った。
完全ではない。
荷車はまだ無理だ。
多くの人を一度には渡せない。
けれど、薬を取りに行く女と子どもは渡れた。
商人の小荷も渡れる。
南谷の者も、川辺の者も、少しずつ通れる。
弥四郎が椀を手に言った。
「釘は、打てばよいものではないのだな」
宗介は頷いた。
「はい。どこに、誰が、何のために打つかが要ります」
「和木原の釘を断ったこと、向こうは使うぞ」
「使うと思います」
「笠森は和木原の助けを拒んだ、と」
「はい」
「だが、橋に打たなくてよかったと思うか」
宗介は、少し考えた。
奥田が持ってきた釘は、見た目には使えそうだった。
実際、仮囲いには使えるかもしれない。
だが、橋へ打てば、責が混ざる。
釘が折れた時、誰が見たのか分からなくなる。
和木原が直した橋だと言われるかもしれない。
笠森が和木原の釘を盗ったと言われるかもしれない。
何より、新左が責を持てない釘を、人の足の下へ打つべきではなかった。
「よかったと思います」
宗介は答えた。
「橋は、人が信じて踏みます。信じられない釘は、打てません」
弥四郎は静かに頷いた。
「覚えておく」
火所の火が小さく鳴った。
黒谷炭は、鍛冶の火にも、飯の火にも、少しずつ分けられている。
古釘は、使えるものと使えないものに分けられた。
橋から抜かれた釘は、値にせず証として残った。
和木原の釘は、今日は受けなかった。
たかが釘。
そう言う者もいるだろう。
だが、その釘がなければ、女は薬を取りに行けなかった。
少年は橋を渡れなかった。
嘉平の荷も、南谷の者の足も止まったままだった。
宗介は椀を置いた。
米俵を担げない五十一歳の男に、釘は打てない。
鍛冶の火も扱えない。
橋板の音も、新左ほど聞けない。
それでも、どの釘を打たないかを見ることはできる。
どの釘を橋へ預けてよいかを、皆の目で決めることはできる。
笠森は今日、釘を二本打った。
そして一本を打たずに残した。
その残した一本が、打った二本と同じくらい重いことを、宗介はようやく知った。




