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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第五十四話 鍬を持つ者

 朝、笠森城の門前には、鍬が三本並べられていた。


 一本は、昨日、和木原の者に折られた茂作の鍬である。


 仮の柄がつけられている。


 もう一本は、城にあった古い鍬だった。


 刃はまだ使えるが、柄の根元が緩んでいる。


 最後の一本は、南谷の善助が持ってきたものだった。


 こちらは刃が欠けている。


 どれも、立派な道具ではない。


 だが、泥を掻き、溝を通し、崩れた道を直すには、これが要る。


 久住宗介は、三本の鍬を見ていた。


 人に飯を出す。


 家へ返す。


 帰り道を守る。


 そこまでは、どうにか形になり始めた。


 だが、帰った先で溝を掘る鍬がなければ、人は何もできない。


 昨日、弥四郎は言った。


 道具も腹の一つか、と。


 宗介は、その言葉が頭から離れなかった。


 腹は米だけではない。


 水だけでもない。


 火でも、炭でも、道でも、人足でもない。


 鍬。


 縄。


 釘。


 柄。


 刃を締める楔。


 そういうものまで、腹につながる。


 喜兵衛が横で腕を組んだ。


「鍬は、米より増やしにくい」


「はい」


「米は減った分が分かる。鍬は、折れるまで分からん」


「折れてからでは遅いですね」


「昨日、見た通りだ」


 門の向こうから、権太が来た。


 今日は一人ではない。


 茂作と仁助も一緒だった。


 三人とも、笠森へ駆け込むような顔ではなかった。


 家を見てから来たのだろう。


 権太は門前で頭を下げた。


「家の溝は、まだ通っています」


「およしさんは」


 宗介が問うと、権太は少し肩をすくめた。


「今日は来るなと言われました」


「それで来たんですか」


「家の水は見た。裏の土も踏んだ。子どもも熱はない。だから来た」


 嘘ではなさそうだった。


 茂作は仮柄の鍬を抱えている。


 昨日、佐太が急ごしらえでつけたものだ。


「この柄、今日までは使えます。でも、長くは持たない」


 茂作が言うと、佐太が近づいて見た。


「無理をすれば割れるな」


「柄を替えたいんです。けれど、うちにはよい木がない」


 仁助も口を開いた。


「川辺でも、柄に使えそうな木は少ない。勝手に切れば、また揉める」


 宗介は頷いた。


 木を切れば、山の話になる。


 黒谷で残す木を決めたばかりだ。


 鍬柄一本だからといって、適当に切れば、また同じことが起きる。


 片瀬弥四郎が庭へ出てきた。


「今日は、鍬を見る」


 短い言葉だった。


 足軽たちが顔を上げる。


 道普請でも、水場でも、火所でもない。


 鍬そのものを見る。


 弥四郎は続けた。


「笠森は、鍬を配る城にはならぬ。だが、鍬を折られた者をそのままにもせぬ。使う者、直せる者、柄にする木、楔、縄。全部を見ろ」


 宇平次が低く言った。


「鍛冶が要りますな」


 笠森に、本職の鍛冶はいない。


 城内に刃を直す程度の者はいるが、鍬を一から作るような鍛冶場ではない。


 喜兵衛が言った。


「槙尾に、鍛冶師が一人いる。名は新左。槍の穂先や鎌を直す男だ。鍬も見られるはずだ」


 宗介は顔を上げた。


「槙尾ですか」


「槙尾西沢の向こうだ。遠くはない。ただ、今は道が悪い」


 弥四郎はすぐに判断した。


「使いを出す。鍬三本を見せる。直すには何が要るか聞け」


 宇平次が頷く。


「俺が行きます」


「佐太も連れていけ。宗介は残れ」


 宗介は少し驚いた。


「俺は行かなくていいのですか」


「今日は門前を見る者が要る」


 弥四郎は鍬の列へ目を落とした。


「鍛冶へ持っていく鍬もあれば、今ここで使う鍬もある。人が来る。道具を借りたい者も来る。そこを見るのは、お前だ」


「承知しました」


 宗介は頷いた。


 自分が全部の現場へ行く必要はない。


 それも、ここ数日でようやく身に染みてきた。


 現場を動かす者。


 戻ってくる者。


 門前に残る者。


 それぞれがいなければ回らない。


 宇平次と佐太は、古い鍬と欠けた鍬を持って槙尾へ向かった。


 茂作の仮柄鍬は、今日も使うために残した。


 権太と仁助は門前の枝束作りへ回る。


 茂作は下河原と川辺の間の溝を見に行くことになった。


 だが、宗介は彼を呼び止めた。


「今日は一人で行かないでください」


「なぜです」


「また和木原の者がいるかもしれません。鍬を持っているから狙われるかもしれない」


 茂作は、仮柄の鍬を見た。


 少し悔しそうな顔になる。


「鍬一本で、こんなに気を使うとは」


「鍬一本だからです」


 宗介は言った。


「それが折れたら、家の溝が掘れません」


 茂作は黙って頷いた。


 権太が一緒に行くことになった。


 仁助は門前に残り、枝束を分ける。


 昨日まで飯目当てで来ていた男たちの中にも、今日は道具を持ってきた者がいた。


 鎌。


 古い縄。


 欠けた鉈。


 半分割れた木槌。


 どれも上等ではない。


 だが、道具を持ってきたというだけで、空気が少し違った。


 宗介は門前でそれらを並べた。


「今日は、道具を勝手に使いません」


 人々が静かになる。


「誰の道具か。何に使うか。いつ返すか。壊れた時どうするか。先に決めます」


 男の一人が眉をひそめた。


「細かいな」


「細かくしないと、道具は消えます」


 宗介は茂作の仮柄鍬を示した。


「昨日、鍬が折られました。鍬がなければ、溝を掘れない。溝を掘れなければ、家に水が入る。だから、道具も飯と同じに扱います」


 仁助が頷いた。


「飯と同じ?」


「腹を満たすもの、という意味です」


 門前の者たちは、納得したような、しないような顔をした。


 それでも、市松が小札を持つと、それぞれ名を言い始めた。


「仁助、古縄一本」


「権太、鍬。今日は下河原へ」


「小屋場の平吉、鎌。草を払う」


「川辺の太郎兵衛、鉈。ただし刃が欠けてる」


 市松が顔をしかめる。


「また名が増える」


「今日は道具も一緒に」


「手が足りない」


 宗介が言いかけた時、門の脇から声がした。


「私が手伝うよ」


 およしだった。


 権太の妻である。


 今日は子どもを背負っていない。


 おそらく近所に預けてきたのだろう。


 手には、細い紐の束を持っている。


 権太がぎょっとした。


「およし、何で」


「うちの溝を見るなら、道具を見るのも家のことだろう」


「でも」


「でもじゃないよ。あんたは昨日、鍬を持って帰った。今日は私が紐を持ってきた。それだけ」


 およしは宗介へ向いた。


「これ、役に立ちますか」


 宗介は紐を受け取った。


 細いが、乾いている。


 道具に名札を結ぶには使える。


「使えます。とても助かります」


 およしは少しだけ頷いた。


「飯はいりません。昼には帰ります。子が待ってるので」


 宗介は、その言葉をありがたく思った。


 飯を求めて来る者だけではない。


 飯はいらない、でも手は貸す。


 そういう者がいると、門前の空気が変わる。


 権太も、少し背筋を伸ばした。


 午前中、門前は道具改めの場になった。


 鎌は草払いへ。


 鉈は倒れ枝を切る者へ。


 古縄は荷を束ねるのではなく、道具の目印へ。


 木槌は楔を打つために使うが、柄が割れているので強く打たない。


 道具ごとに、使い道と返す相手を決める。


 働く者の名だけでなく、道具の名も残す。


 市松は途中でぼやいた。


「人の次は道具か」


 およしが横から言う。


「人だけ書いても、鍬がなくなったら喧嘩になるよ」


「分かってる」


「なら書きな」


 市松はおよしを見て、少し目を丸くした。


 それから素直に書いた。


 宗介は、思わず笑いそうになった。


 およしは強い。


 昨日、和木原の男を言い返した時も思ったが、この女は水と家の現場を知っている。


 その言葉は、門前の男たちにも効いた。


 昼前、柏屋惣右衛門が来た。


 門前に並んだ道具を見て、すぐに事情を察したようだった。


「今度は道具ですか」


「はい」


 宗介は答えた。


「鍬を折られたので」


「道具を折るのは、手を折るのと似ていますな」


「俺もそう思いました」


 惣右衛門は道具の小札を見た。


「これは商人にも効きます。荷持ちの背負子、縄、油壺の蓋、針箱。道具が壊れれば、荷は動きませぬ」


「商人の道具もですか」


「当然です。人足の鍬と、商人の背負子は、形が違うだけで同じものです」


 宗介は、その言葉に頷いた。


 商人の荷もまた、道具で動く。


 背負子が壊れれば荷は背負えない。


 縄が切れれば小荷は崩れる。


 油壺の蓋が緩ければ、布も干物も駄目になる。


 また、つながった。


 つながりすぎて、時々怖くなる。


 惣右衛門は小さな包みを出した。


「尾張筋の荷持ちから預かったものです。背負子の肩紐に使う古布。捨てるには惜しいが、荷には使いにくい。道具札の紐や、仮の補修に使えるかもしれませぬ」


 宗介は包みを受け取った。


 古布だが、乾いていて丈夫そうだ。


「いただいていいのですか」


「返しです。先日、笠森で荷を分けた時、無理荷を止められた者がおりましたな。あの者が、礼とは言いませぬが、これなら出せると」


 昨日の嘉平か、それとも別の者か。


 宗介は名を聞こうとして、思い直した。


「名は」


「残しますか」


「残します。ただし、望まないなら印でも」


 惣右衛門は笑った。


「では、柏屋預かり、尾張荷持ち衆より、で」


 市松がさらに顔をしかめた。


「長い」


「短くします。尾張荷持ち、古布」


「それなら書ける」


 およしが横で言った。


「字が書けるだけ大したもんだよ」


 市松は照れたのか、むっとした顔で板へ向かった。


 昼過ぎ、槙尾へ行った宇平次と佐太が戻った。


 二人の後ろには、槙尾の鍛冶師、新左がいた。


 背は低く、肩幅は広い。


 手は分厚く、爪の間に黒いものが染み込んでいる。


 腰には小さな槌が下がっていた。


「片瀬の城で、鍬を見ると聞いて来た」


 新左は無愛想に言った。


 弥四郎が庭へ出る。


「よく来た」


「鍬はどこだ」


 挨拶より道具が先。


 その態度に、足軽の一人が眉をひそめかけたが、宇平次が目で止めた。


 新左は古い鍬を見た。


 欠けた鍬を見た。


 茂作の仮柄鍬も見た。


 ひと目見て、鼻を鳴らす。


「柄が急ごしらえだな」


 佐太が言う。


「昨日、急いでつけた」


「悪くはない。だが、持たぬ」


 新左は鍬刃を叩いた。


 乾いた音がする。


「刃は使える。柄を替えろ。楔もいる。こっちの欠けた刃は、少し打てば使える。だが、炭が要る。火も要る」


 宗介はすぐに反応した。


「火所の炭で足りますか」


「鍛冶の火には弱い。火力が要る。黒谷の炭なら、悪くないが、鍛冶向きに分ける必要がある」


 太助が門の奥から顔を出した。


「黒く締まったやつか」


「そうだ。割れすぎた炭は駄目だ。粉も混ぜすぎるな」


 太助と新左は、互いを見る。


 短い沈黙の後、太助が頷いた。


「見る」


「炭を知ってるのか」


「少しは」


「なら、後で選べ」


 宗介は、また新しい線が伸びるのを感じた。


 鍬を直すには、柄だけでは足りない。


 刃を打つ火がいる。


 火には炭がいる。


 炭にも向き不向きがある。


 道具を見ると、鍛冶の火まで見える。


 新左は、次におよしの持ってきた紐や惣右衛門の古布を見た。


「紐は役に立つ。柄を握るところに巻ける。古布も使える。ただし、油を吸った布は駄目だ」


 宗介は頷いた。


「油のものは分けます」


「分けるのが好きな城だな」


 新左がぼそりと言う。


 喜兵衛が苦笑した。


「最近、何でも分けます」


「分けないと壊れる」


 新左は短く答えた。


 その言葉に、宗介は思わず顔を上げた。


 分けないと壊れる。


 米も、水も、火も、灰も、荷も、道も、人足も、道具も。


 全部そうだった。


 弥四郎が問う。


「直せるか」


「直せる。ただし、ここで全部は無理だ。柄は笠森で替えられる。刃は槙尾へ持ち帰って打つ。鍛冶賃は要る」


「何を払えばよい」


「銭がよい。なければ炭と塩。あと、古い鉄片があれば引き取る」


 鉄片。


 宗介は喜兵衛を見る。


 喜兵衛は少し考えた。


「折れた釘、使えぬ刃、古い金具なら少しある」


「それを見せろ」


 新左の目が鋭くなった。


 鍛冶にとって、鉄片は米に近いのだろう。


 捨てるものではない。


 宗介は、また胸の奥で何かがつながるのを感じた。


 折れた鍬。


 古い釘。


 欠けた刃。


 鉄片。


 鍛冶の火。


 黒谷炭。


 塩。


 全部が、道具を戻すために必要になる。


 和木原が鍬を折っただけで、ここまで動く。


 それを面倒と思うか、強さと思うか。


 笠森は後者にしなければならない。


 夕方近く、和木原の使者が門へ来た。


 宮部源八郎だった。


 先日、濡れ荷の件で来た男である。


 整った衣に、冷えた目。


 門前の道具と鍛冶師を見て、わずかに口元を歪めた。


「今度は鍬を集めておられるのですか」


 弥四郎は庭の中央に立った。


「折られた鍬を直している」


「和木原の道で拾った道具について、何やら笠森が騒いでいると聞きました」


 茂作が顔を赤くする。


 権太も一歩出かけた。


 宇平次が視線で止める。


 宮部は続けた。


「笠森飯を食った人足が、和木原の道へ紛れ、道具を持って通ろうとした。道を乱す者を止めるのは当然でしょう」


 弥四郎は、茂作の仮柄鍬を取らせた。


 庭の中央に置く。


「これを見ろ」


 宮部は眉を動かす。


「鍬ですな」


「柄を折られた鍬だ。持ち主は茂作。昨日、川辺へ帰る途中で和木原札の者に止められた。額にも傷を負った」


「その者が勝手に転んだとも聞いております」


 宮部の声は平らだった。


 宗介は、胃の奥が熱くなるのを感じた。


 勝手に転んだ。


 そう言えば、全部が薄まる。


 鍬を折ったことも、道を塞いだことも、飯を食った者を笠森の人足扱いしたことも。


 弥四郎は怒鳴らなかった。


 ただ、市松へ頷いた。


 市松が小札を持ってくる。


 茂作。


 仁助。


 権太。


 善助。


 柏屋。


 笠森。


 見届けた名が並んでいる。


 弥四郎は言った。


「見た者の名だ」


「笠森側の名ばかりでは」


 宮部が言うと、惣右衛門が静かに前へ出た。


「柏屋も見ました」


 宮部の目が少し細くなる。


「商人が、道具の争いに口を出すのですか」


「荷持ちの道具も同じです。飯を食った者の帰り道で道具を折るなら、荷持ちも怖がります」


 新左も鍬を見て言った。


「これは、自然に折れた柄じゃない。力をかけて折っている」


 宮部は新左を見る。


「槙尾の鍛冶ですか」


「槙尾の新左だ。鍬を見るために来た」


「槙尾まで巻き込むとは」


「鍬が折れたから、鍛冶を呼んだだけだ」


 新左は無愛想に返した。


 その言い方があまりに素っ気なく、宮部は一瞬言葉を失った。


 弥四郎は静かに続ける。


「笠森は、和木原の者を斬れとは言っていない。だが、折られた鍬は直す。怪我は記す。道具を折って帰り道を塞ぐ者は、普請を乱す者と見る」


「その普請が、和木原の道を乱しているのでは」


「道を乱したのは、鍬を折った者だ」


 弥四郎の声が硬くなった。


「水を通す鍬を折れば、溝が詰まる。溝が詰まれば家が沈む。家が沈めば人は帰れぬ。人が帰れねば、笠森飯が人を縛ったと言われる。和木原は、それを望むのか」


 宮部は黙った。


 言い返しにくい。


 道具という具体物が、庭の中央にあるからだ。


 傷も、名も、鍛冶の目も、商人の目もある。


 言葉だけでは押しにくい。


 宗介は、その光景を見ていた。


 板だけではない。


 鍬が証になる。


 道具そのものが、話を支えている。


 宮部は最後に言った。


「主膳様へ伝えます」


「伝えよ」


 弥四郎は頷いた。


「そして、折った者へも伝えろ。次に鍬を折るなら、柄一本では済まぬ。折った分、道具の値と人の足を問う」


 宮部は頭を下げ、去った。


 門が閉まると、庭に息が戻った。


 茂作が、仮柄の鍬へそっと触れる。


「これ、直るんですか」


 新左が答えた。


「柄は替えれば直る。刃はまだ死んでいない」


 茂作は深く頭を下げた。


「お願いします」


「鍛冶賃は要る」


 新左が言う。


 茂作の顔が少し曇る。


 弥四郎が口を開く前に、宗介が言った。


「鍛冶賃は分けましょう」


 全員が宗介を見る。


「折った者へ求める分は別として、今日すぐ直す分は、笠森が一部、茂作さんが一部、普請返しから一部。全部を笠森が持つと、鍬を配る城になります。全部を茂作さんが持つと、折られた者だけが苦しむ。普請で使う鍬なら、普請の側も少し持つ」


 喜兵衛が頷いた。


「悪くない」


 惣右衛門も言った。


「商人の荷縄でも、同じ考えができますな。個人の道具であり、道の道具でもある」


 弥四郎は少し考え、頷いた。


「そうする。茂作の鍬は、本人、笠森、普請返しで直す。和木原へは、折った分を別に問う」


 茂作は戸惑った顔をした。


「俺が払う分は」


「働ける日に、普請へ来い。無理に米を出すな」


 弥四郎が言った。


「家を見てからだ」


 茂作は、今度は力強く頷いた。


「はい」


 その夜、笠森城の火所には、鍛冶用に分けられた黒谷炭が少しだけ置かれた。


 太助と新左が、炭を見ながら短く言葉を交わしている。


「これは使える」


「こっちは火が弱い」


「粉は?」


「混ぜすぎるな」


 おきぬは竈からそれを見て、呆れたように言った。


「男どもは、炭だ鍬だと楽しそうだね」


 宗介は苦笑した。


「楽しんではいないと思います」


「どうだかね」


 だが、火所の周りには、確かに昨日までと違う空気があった。


 鍬を直す火。


 荷を乾かす火。


 飯を炊く火。


 同じ火でも、使い方が違う。


 そのために炭を分ける。


 灰も分ける。


 道具も分ける。


 宗介は椀を手に、板の前へ立った。


 市松が描いた折れた鍬の絵。


 仮柄の鍬。


 鍛冶へ出す刃。


 尾張荷持ちの古布。


 およしの紐。


 新左の名。


 茂作の名。


 そして、弥四郎の言葉。


 道具を折れば、人の足が止まる。


 今日は、それを見た日だった。


 弥四郎が隣へ来る。


「宗介」


「はい」


「鍬一本で、ずいぶん広がったな」


「はい」


「だが、鍬がなければ溝は掘れぬ。溝が掘れねば家へ帰れぬ。家へ帰れねば飯で人を縛ることになる」


「はい」


「道具も、帰る足の一部だな」


 宗介は頷いた。


 働く手。


 食う口。


 帰る足。


 そこに、道具が加わる。


 手があっても、鍬がなければ泥は掻けない。


 足があっても、帰り道で道具を折られれば、家の溝は守れない。


 飯だけでは足りない。


 本当に、どこまでも足りないものばかりだ。


 それでも、今日は一本の鍬を直す道が見えた。


 笠森だけではなく、茂作も、普請返しも、槙尾の鍛冶も、黒谷の炭も、尾張荷持ちの古布も関わる。


 ひとつの道具に、いくつもの手がつながる。


 宗介は薄い粥を啜った。


 米は少ない。


 味も薄い。


 だが、火は静かで、鍬は直る。


 明日、茂作は家の溝を掘れるかもしれない。


 それだけで、今日の仕事には意味があった。


 門の外は暗い。


 和木原は、また違うところを折りに来るだろう。


 水か、火か、道か、人か、道具か。


 それは分からない。


 だが、笠森もまた、折られたものを見つけ、つなぎ直す。


 米俵を担げない五十一歳の男ができることは、相変わらず少ない。


 それでも、折れた鍬の柄を見れば、そこから腹までたどることはできる。


 宗介は、板に描かれた小さな鍬を見た。


 下手な絵だった。


 だが、鍬に見えた。第五十四話 鍬を持つ者


 朝、笠森城の門前には、鍬が三本並べられていた。


 一本は、昨日、和木原の者に折られた茂作の鍬である。


 仮の柄がつけられている。


 もう一本は、城にあった古い鍬だった。


 刃はまだ使えるが、柄の根元が緩んでいる。


 最後の一本は、南谷の善助が持ってきたものだった。


 こちらは刃が欠けている。


 どれも、立派な道具ではない。


 だが、泥を掻き、溝を通し、崩れた道を直すには、これが要る。


 久住宗介は、三本の鍬を見ていた。


 人に飯を出す。


 家へ返す。


 帰り道を守る。


 そこまでは、どうにか形になり始めた。


 だが、帰った先で溝を掘る鍬がなければ、人は何もできない。


 昨日、弥四郎は言った。


 道具も腹の一つか、と。


 宗介は、その言葉が頭から離れなかった。


 腹は米だけではない。


 水だけでもない。


 火でも、炭でも、道でも、人足でもない。


 鍬。


 縄。


 釘。


 柄。


 刃を締める楔。


 そういうものまで、腹につながる。


 喜兵衛が横で腕を組んだ。


「鍬は、米より増やしにくい」


「はい」


「米は減った分が分かる。鍬は、折れるまで分からん」


「折れてからでは遅いですね」


「昨日、見た通りだ」


 門の向こうから、権太が来た。


 今日は一人ではない。


 茂作と仁助も一緒だった。


 三人とも、笠森へ駆け込むような顔ではなかった。


 家を見てから来たのだろう。


 権太は門前で頭を下げた。


「家の溝は、まだ通っています」


「およしさんは」


 宗介が問うと、権太は少し肩をすくめた。


「今日は来るなと言われました」


「それで来たんですか」


「家の水は見た。裏の土も踏んだ。子どもも熱はない。だから来た」


 嘘ではなさそうだった。


 茂作は仮柄の鍬を抱えている。


 昨日、佐太が急ごしらえでつけたものだ。


「この柄、今日までは使えます。でも、長くは持たない」


 茂作が言うと、佐太が近づいて見た。


「無理をすれば割れるな」


「柄を替えたいんです。けれど、うちにはよい木がない」


 仁助も口を開いた。


「川辺でも、柄に使えそうな木は少ない。勝手に切れば、また揉める」


 宗介は頷いた。


 木を切れば、山の話になる。


 黒谷で残す木を決めたばかりだ。


 鍬柄一本だからといって、適当に切れば、また同じことが起きる。


 片瀬弥四郎が庭へ出てきた。


「今日は、鍬を見る」


 短い言葉だった。


 足軽たちが顔を上げる。


 道普請でも、水場でも、火所でもない。


 鍬そのものを見る。


 弥四郎は続けた。


「笠森は、鍬を配る城にはならぬ。だが、鍬を折られた者をそのままにもせぬ。使う者、直せる者、柄にする木、楔、縄。全部を見ろ」


 宇平次が低く言った。


「鍛冶が要りますな」


 笠森に、本職の鍛冶はいない。


 城内に刃を直す程度の者はいるが、鍬を一から作るような鍛冶場ではない。


 喜兵衛が言った。


「槙尾に、鍛冶師が一人いる。名は新左。槍の穂先や鎌を直す男だ。鍬も見られるはずだ」


 宗介は顔を上げた。


「槙尾ですか」


「槙尾西沢の向こうだ。遠くはない。ただ、今は道が悪い」


 弥四郎はすぐに判断した。


「使いを出す。鍬三本を見せる。直すには何が要るか聞け」


 宇平次が頷く。


「俺が行きます」


「佐太も連れていけ。宗介は残れ」


 宗介は少し驚いた。


「俺は行かなくていいのですか」


「今日は門前を見る者が要る」


 弥四郎は鍬の列へ目を落とした。


「鍛冶へ持っていく鍬もあれば、今ここで使う鍬もある。人が来る。道具を借りたい者も来る。そこを見るのは、お前だ」


「承知しました」


 宗介は頷いた。


 自分が全部の現場へ行く必要はない。


 それも、ここ数日でようやく身に染みてきた。


 現場を動かす者。


 戻ってくる者。


 門前に残る者。


 それぞれがいなければ回らない。


 宇平次と佐太は、古い鍬と欠けた鍬を持って槙尾へ向かった。


 茂作の仮柄鍬は、今日も使うために残した。


 権太と仁助は門前の枝束作りへ回る。


 茂作は下河原と川辺の間の溝を見に行くことになった。


 だが、宗介は彼を呼び止めた。


「今日は一人で行かないでください」


「なぜです」


「また和木原の者がいるかもしれません。鍬を持っているから狙われるかもしれない」


 茂作は、仮柄の鍬を見た。


 少し悔しそうな顔になる。


「鍬一本で、こんなに気を使うとは」


「鍬一本だからです」


 宗介は言った。


「それが折れたら、家の溝が掘れません」


 茂作は黙って頷いた。


 権太が一緒に行くことになった。


 仁助は門前に残り、枝束を分ける。


 昨日まで飯目当てで来ていた男たちの中にも、今日は道具を持ってきた者がいた。


 鎌。


 古い縄。


 欠けた鉈。


 半分割れた木槌。


 どれも上等ではない。


 だが、道具を持ってきたというだけで、空気が少し違った。


 宗介は門前でそれらを並べた。


「今日は、道具を勝手に使いません」


 人々が静かになる。


「誰の道具か。何に使うか。いつ返すか。壊れた時どうするか。先に決めます」


 男の一人が眉をひそめた。


「細かいな」


「細かくしないと、道具は消えます」


 宗介は茂作の仮柄鍬を示した。


「昨日、鍬が折られました。鍬がなければ、溝を掘れない。溝を掘れなければ、家に水が入る。だから、道具も飯と同じに扱います」


 仁助が頷いた。


「飯と同じ?」


「腹を満たすもの、という意味です」


 門前の者たちは、納得したような、しないような顔をした。


 それでも、市松が小札を持つと、それぞれ名を言い始めた。


「仁助、古縄一本」


「権太、鍬。今日は下河原へ」


「小屋場の平吉、鎌。草を払う」


「川辺の太郎兵衛、鉈。ただし刃が欠けてる」


 市松が顔をしかめる。


「また名が増える」


「今日は道具も一緒に」


「手が足りない」


 宗介が言いかけた時、門の脇から声がした。


「私が手伝うよ」


 およしだった。


 権太の妻である。


 今日は子どもを背負っていない。


 おそらく近所に預けてきたのだろう。


 手には、細い紐の束を持っている。


 権太がぎょっとした。


「およし、何で」


「うちの溝を見るなら、道具を見るのも家のことだろう」


「でも」


「でもじゃないよ。あんたは昨日、鍬を持って帰った。今日は私が紐を持ってきた。それだけ」


 およしは宗介へ向いた。


「これ、役に立ちますか」


 宗介は紐を受け取った。


 細いが、乾いている。


 道具に名札を結ぶには使える。


「使えます。とても助かります」


 およしは少しだけ頷いた。


「飯はいりません。昼には帰ります。子が待ってるので」


 宗介は、その言葉をありがたく思った。


 飯を求めて来る者だけではない。


 飯はいらない、でも手は貸す。


 そういう者がいると、門前の空気が変わる。


 権太も、少し背筋を伸ばした。


 午前中、門前は道具改めの場になった。


 鎌は草払いへ。


 鉈は倒れ枝を切る者へ。


 古縄は荷を束ねるのではなく、道具の目印へ。


 木槌は楔を打つために使うが、柄が割れているので強く打たない。


 道具ごとに、使い道と返す相手を決める。


 働く者の名だけでなく、道具の名も残す。


 市松は途中でぼやいた。


「人の次は道具か」


 およしが横から言う。


「人だけ書いても、鍬がなくなったら喧嘩になるよ」


「分かってる」


「なら書きな」


 市松はおよしを見て、少し目を丸くした。


 それから素直に書いた。


 宗介は、思わず笑いそうになった。


 およしは強い。


 昨日、和木原の男を言い返した時も思ったが、この女は水と家の現場を知っている。


 その言葉は、門前の男たちにも効いた。


 昼前、柏屋惣右衛門が来た。


 門前に並んだ道具を見て、すぐに事情を察したようだった。


「今度は道具ですか」


「はい」


 宗介は答えた。


「鍬を折られたので」


「道具を折るのは、手を折るのと似ていますな」


「俺もそう思いました」


 惣右衛門は道具の小札を見た。


「これは商人にも効きます。荷持ちの背負子、縄、油壺の蓋、針箱。道具が壊れれば、荷は動きませぬ」


「商人の道具もですか」


「当然です。人足の鍬と、商人の背負子は、形が違うだけで同じものです」


 宗介は、その言葉に頷いた。


 商人の荷もまた、道具で動く。


 背負子が壊れれば荷は背負えない。


 縄が切れれば小荷は崩れる。


 油壺の蓋が緩ければ、布も干物も駄目になる。


 また、つながった。


 つながりすぎて、時々怖くなる。


 惣右衛門は小さな包みを出した。


「尾張筋の荷持ちから預かったものです。背負子の肩紐に使う古布。捨てるには惜しいが、荷には使いにくい。道具札の紐や、仮の補修に使えるかもしれませぬ」


 宗介は包みを受け取った。


 古布だが、乾いていて丈夫そうだ。


「いただいていいのですか」


「返しです。先日、笠森で荷を分けた時、無理荷を止められた者がおりましたな。あの者が、礼とは言いませぬが、これなら出せると」


 昨日の嘉平か、それとも別の者か。


 宗介は名を聞こうとして、思い直した。


「名は」


「残しますか」


「残します。ただし、望まないなら印でも」


 惣右衛門は笑った。


「では、柏屋預かり、尾張荷持ち衆より、で」


 市松がさらに顔をしかめた。


「長い」


「短くします。尾張荷持ち、古布」


「それなら書ける」


 およしが横で言った。


「字が書けるだけ大したもんだよ」


 市松は照れたのか、むっとした顔で板へ向かった。


 昼過ぎ、槙尾へ行った宇平次と佐太が戻った。


 二人の後ろには、槙尾の鍛冶師、新左がいた。


 背は低く、肩幅は広い。


 手は分厚く、爪の間に黒いものが染み込んでいる。


 腰には小さな槌が下がっていた。


「片瀬の城で、鍬を見ると聞いて来た」


 新左は無愛想に言った。


 弥四郎が庭へ出る。


「よく来た」


「鍬はどこだ」


 挨拶より道具が先。


 その態度に、足軽の一人が眉をひそめかけたが、宇平次が目で止めた。


 新左は古い鍬を見た。


 欠けた鍬を見た。


 茂作の仮柄鍬も見た。


 ひと目見て、鼻を鳴らす。


「柄が急ごしらえだな」


 佐太が言う。


「昨日、急いでつけた」


「悪くはない。だが、持たぬ」


 新左は鍬刃を叩いた。


 乾いた音がする。


「刃は使える。柄を替えろ。楔もいる。こっちの欠けた刃は、少し打てば使える。だが、炭が要る。火も要る」


 宗介はすぐに反応した。


「火所の炭で足りますか」


「鍛冶の火には弱い。火力が要る。黒谷の炭なら、悪くないが、鍛冶向きに分ける必要がある」


 太助が門の奥から顔を出した。


「黒く締まったやつか」


「そうだ。割れすぎた炭は駄目だ。粉も混ぜすぎるな」


 太助と新左は、互いを見る。


 短い沈黙の後、太助が頷いた。


「見る」


「炭を知ってるのか」


「少しは」


「なら、後で選べ」


 宗介は、また新しい線が伸びるのを感じた。


 鍬を直すには、柄だけでは足りない。


 刃を打つ火がいる。


 火には炭がいる。


 炭にも向き不向きがある。


 道具を見ると、鍛冶の火まで見える。


 新左は、次におよしの持ってきた紐や惣右衛門の古布を見た。


「紐は役に立つ。柄を握るところに巻ける。古布も使える。ただし、油を吸った布は駄目だ」


 宗介は頷いた。


「油のものは分けます」


「分けるのが好きな城だな」


 新左がぼそりと言う。


 喜兵衛が苦笑した。


「最近、何でも分けます」


「分けないと壊れる」


 新左は短く答えた。


 その言葉に、宗介は思わず顔を上げた。


 分けないと壊れる。


 米も、水も、火も、灰も、荷も、道も、人足も、道具も。


 全部そうだった。


 弥四郎が問う。


「直せるか」


「直せる。ただし、ここで全部は無理だ。柄は笠森で替えられる。刃は槙尾へ持ち帰って打つ。鍛冶賃は要る」


「何を払えばよい」


「銭がよい。なければ炭と塩。あと、古い鉄片があれば引き取る」


 鉄片。


 宗介は喜兵衛を見る。


 喜兵衛は少し考えた。


「折れた釘、使えぬ刃、古い金具なら少しある」


「それを見せろ」


 新左の目が鋭くなった。


 鍛冶にとって、鉄片は米に近いのだろう。


 捨てるものではない。


 宗介は、また胸の奥で何かがつながるのを感じた。


 折れた鍬。


 古い釘。


 欠けた刃。


 鉄片。


 鍛冶の火。


 黒谷炭。


 塩。


 全部が、道具を戻すために必要になる。


 和木原が鍬を折っただけで、ここまで動く。


 それを面倒と思うか、強さと思うか。


 笠森は後者にしなければならない。


 夕方近く、和木原の使者が門へ来た。


 宮部源八郎だった。


 先日、濡れ荷の件で来た男である。


 整った衣に、冷えた目。


 門前の道具と鍛冶師を見て、わずかに口元を歪めた。


「今度は鍬を集めておられるのですか」


 弥四郎は庭の中央に立った。


「折られた鍬を直している」


「和木原の道で拾った道具について、何やら笠森が騒いでいると聞きました」


 茂作が顔を赤くする。


 権太も一歩出かけた。


 宇平次が視線で止める。


 宮部は続けた。


「笠森飯を食った人足が、和木原の道へ紛れ、道具を持って通ろうとした。道を乱す者を止めるのは当然でしょう」


 弥四郎は、茂作の仮柄鍬を取らせた。


 庭の中央に置く。


「これを見ろ」


 宮部は眉を動かす。


「鍬ですな」


「柄を折られた鍬だ。持ち主は茂作。昨日、川辺へ帰る途中で和木原札の者に止められた。額にも傷を負った」


「その者が勝手に転んだとも聞いております」


 宮部の声は平らだった。


 宗介は、胃の奥が熱くなるのを感じた。


 勝手に転んだ。


 そう言えば、全部が薄まる。


 鍬を折ったことも、道を塞いだことも、飯を食った者を笠森の人足扱いしたことも。


 弥四郎は怒鳴らなかった。


 ただ、市松へ頷いた。


 市松が小札を持ってくる。


 茂作。


 仁助。


 権太。


 善助。


 柏屋。


 笠森。


 見届けた名が並んでいる。


 弥四郎は言った。


「見た者の名だ」


「笠森側の名ばかりでは」


 宮部が言うと、惣右衛門が静かに前へ出た。


「柏屋も見ました」


 宮部の目が少し細くなる。


「商人が、道具の争いに口を出すのですか」


「荷持ちの道具も同じです。飯を食った者の帰り道で道具を折るなら、荷持ちも怖がります」


 新左も鍬を見て言った。


「これは、自然に折れた柄じゃない。力をかけて折っている」


 宮部は新左を見る。


「槙尾の鍛冶ですか」


「槙尾の新左だ。鍬を見るために来た」


「槙尾まで巻き込むとは」


「鍬が折れたから、鍛冶を呼んだだけだ」


 新左は無愛想に返した。


 その言い方があまりに素っ気なく、宮部は一瞬言葉を失った。


 弥四郎は静かに続ける。


「笠森は、和木原の者を斬れとは言っていない。だが、折られた鍬は直す。怪我は記す。道具を折って帰り道を塞ぐ者は、普請を乱す者と見る」


「その普請が、和木原の道を乱しているのでは」


「道を乱したのは、鍬を折った者だ」


 弥四郎の声が硬くなった。


「水を通す鍬を折れば、溝が詰まる。溝が詰まれば家が沈む。家が沈めば人は帰れぬ。人が帰れねば、笠森飯が人を縛ったと言われる。和木原は、それを望むのか」


 宮部は黙った。


 言い返しにくい。


 道具という具体物が、庭の中央にあるからだ。


 傷も、名も、鍛冶の目も、商人の目もある。


 言葉だけでは押しにくい。


 宗介は、その光景を見ていた。


 板だけではない。


 鍬が証になる。


 道具そのものが、話を支えている。


 宮部は最後に言った。


「主膳様へ伝えます」


「伝えよ」


 弥四郎は頷いた。


「そして、折った者へも伝えろ。次に鍬を折るなら、柄一本では済まぬ。折った分、道具の値と人の足を問う」


 宮部は頭を下げ、去った。


 門が閉まると、庭に息が戻った。


 茂作が、仮柄の鍬へそっと触れる。


「これ、直るんですか」


 新左が答えた。


「柄は替えれば直る。刃はまだ死んでいない」


 茂作は深く頭を下げた。


「お願いします」


「鍛冶賃は要る」


 新左が言う。


 茂作の顔が少し曇る。


 弥四郎が口を開く前に、宗介が言った。


「鍛冶賃は分けましょう」


 全員が宗介を見る。


「折った者へ求める分は別として、今日すぐ直す分は、笠森が一部、茂作さんが一部、普請返しから一部。全部を笠森が持つと、鍬を配る城になります。全部を茂作さんが持つと、折られた者だけが苦しむ。普請で使う鍬なら、普請の側も少し持つ」


 喜兵衛が頷いた。


「悪くない」


 惣右衛門も言った。


「商人の荷縄でも、同じ考えができますな。個人の道具であり、道の道具でもある」


 弥四郎は少し考え、頷いた。


「そうする。茂作の鍬は、本人、笠森、普請返しで直す。和木原へは、折った分を別に問う」


 茂作は戸惑った顔をした。


「俺が払う分は」


「働ける日に、普請へ来い。無理に米を出すな」


 弥四郎が言った。


「家を見てからだ」


 茂作は、今度は力強く頷いた。


「はい」


 その夜、笠森城の火所には、鍛冶用に分けられた黒谷炭が少しだけ置かれた。


 太助と新左が、炭を見ながら短く言葉を交わしている。


「これは使える」


「こっちは火が弱い」


「粉は?」


「混ぜすぎるな」


 おきぬは竈からそれを見て、呆れたように言った。


「男どもは、炭だ鍬だと楽しそうだね」


 宗介は苦笑した。


「楽しんではいないと思います」


「どうだかね」


 だが、火所の周りには、確かに昨日までと違う空気があった。


 鍬を直す火。


 荷を乾かす火。


 飯を炊く火。


 同じ火でも、使い方が違う。


 そのために炭を分ける。


 灰も分ける。


 道具も分ける。


 宗介は椀を手に、板の前へ立った。


 市松が描いた折れた鍬の絵。


 仮柄の鍬。


 鍛冶へ出す刃。


 尾張荷持ちの古布。


 およしの紐。


 新左の名。


 茂作の名。


 そして、弥四郎の言葉。


 道具を折れば、人の足が止まる。


 今日は、それを見た日だった。


 弥四郎が隣へ来る。


「宗介」


「はい」


「鍬一本で、ずいぶん広がったな」


「はい」


「だが、鍬がなければ溝は掘れぬ。溝が掘れねば家へ帰れぬ。家へ帰れねば飯で人を縛ることになる」


「はい」


「道具も、帰る足の一部だな」


 宗介は頷いた。


 働く手。


 食う口。


 帰る足。


 そこに、道具が加わる。


 手があっても、鍬がなければ泥は掻けない。


 足があっても、帰り道で道具を折られれば、家の溝は守れない。


 飯だけでは足りない。


 本当に、どこまでも足りないものばかりだ。


 それでも、今日は一本の鍬を直す道が見えた。


 笠森だけではなく、茂作も、普請返しも、槙尾の鍛冶も、黒谷の炭も、尾張荷持ちの古布も関わる。


 ひとつの道具に、いくつもの手がつながる。


 宗介は薄い粥を啜った。


 米は少ない。


 味も薄い。


 だが、火は静かで、鍬は直る。


 明日、茂作は家の溝を掘れるかもしれない。


 それだけで、今日の仕事には意味があった。


 門の外は暗い。


 和木原は、また違うところを折りに来るだろう。


 水か、火か、道か、人か、道具か。


 それは分からない。


 だが、笠森もまた、折られたものを見つけ、つなぎ直す。


 米俵を担げない五十一歳の男ができることは、相変わらず少ない。


 それでも、折れた鍬の柄を見れば、そこから腹までたどることはできる。


 宗介は、板に描かれた小さな鍬を見た。


 下手な絵だった。


 だが、鍬に見えた。


 そして、その鍬はまだ死んでいない。




 そして、その鍬はまだ死んでいない。


第五十四話─了

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