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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第五十三話 帰り道を塞ぐ者

 下河原の干した菜は、翌朝の粥にも少しだけ残っていた。


 多くはない。


 椀に入れば、すぐ見失うほどの量である。


 それでも、青い匂いが湯気に混じると、久住宗介は昨日の溝を思い出した。


 権太の家の裏。


 詰まった落ち葉。


 泥に濡れたおよしの手。


 母の裾を握っていた子ども。


 水が通った時の、あの長い息。


 帰る足を守る。


 そう考えた。


 だが、朝になってすぐ、宗介はその言葉の甘さを思い知らされた。


 門番が声を上げた。


「下河原より権太!」


 権太は、昨日と同じ鍬を肩にかけていた。


 ただし、顔つきが違う。


 怒っている。


 いや、怒りだけではない。


 悔しさと、不安と、どこへ向けていいか分からない苛立ちが混じっている。


 片瀬弥四郎が庭へ出る。


「家の溝はどうだ」


「水は引きました。おかげで家は無事です」


 権太は頭を下げた。


 だが、すぐに顔を上げる。


「けど、帰り道を止められました」


 庭の空気が変わった。


 宇平次が前へ出る。


「誰に」


「和木原の札を下げた者です。笠森で飯を食った者は、笠森の人足だろう。なら笠森へ戻れ、と」


 権太は鍬の柄を握りしめた。


「俺だけではありません。昨日、門前で枝を分けていた男が二人、下河原へ戻る途中で止められました。一人は鍬を取り上げられ、もう一人は『笠森飯を食った手で和木原の道を通るな』と言われたそうです」


 宗介の胃が沈んだ。


 来た。


 やはり、そこを突かれた。


 働いた者には飯。


 働いた者を縛らぬ。


 帰れる足を守る。


 そう決めたところで、帰り道を塞がれれば、人は帰れない。


 笠森が人を縛らなくても、和木原が道で縛る。


 弥四郎の顔が険しくなった。


「怪我は」


「殴られてはいません。ただ、道具を取られた」


「名は分かるか」


「一人は川辺の茂作。もう一人は小屋場の仁助です。どちらも昨日、枝を束ねていました」


 市松が小札を探り始める。


「ある。茂作、枝束。仁助、水筒洗いと枝束」


 昨日、名と仕事を残していた。


 こういう時に効く。


 宗介は、改めてその重さを感じた。


 弥四郎は短く言った。


「宇平次」


「はい」


「行くぞ。宗介も来い。市松は小札を持て。権太、案内できるか」


「できます」


 権太は即答した。


「およしは」


「家にいます。子どもと溝を見ています」


「よい」


 弥四郎は頷いた。


「家を見てから来たな」


 権太は少しだけ顔を歪めた。


「はい。昨日、そう言われたので」


「なら、それでよい」


 その一言で、権太の肩から少し力が抜けた。


 宗介は、水筒と小さな味噌包みを用意しようとして、喜兵衛に止められた。


「また出すのか」


「途中で怪我人がいるかもしれません」


「分かる。だが、持ちすぎるな。味噌はほんの少しだ」


「はい」


 おきぬが布を一巻き投げてよこした。


「泥と血、どっちでも使えるように。無駄にはするんじゃないよ」


「ありがとうございます」


「礼は戻ってからでいいよ」


 門を出る時、柏屋惣右衛門も来ていた。


 朝の商人たちに混じり、騒ぎを聞きつけたのだろう。


「若様。これは、尾張筋にも関わります」


 弥四郎が振り返る。


「来るか」


「商人として、見ておきたい。飯を食った者の帰り道を塞ぐとなれば、荷持ちも怖がります」


 弥四郎は少し考え、頷いた。


「ただし、前へ出るな」


「承知しております」


 下河原へ向かう道は、昨日より湿り気が少なかった。


 権太の家の裏を遠くに見ると、水は確かに引いている。


 およしが戸口からこちらを見たが、手は振らなかった。


 ただ、権太が通る時、短く言った。


「余計なことはするんじゃないよ」


「分かってる」


「分かってない顔だね」


「分かってる」


 権太の返事は弱かった。


 それでも、彼は振り返らず進んだ。


 道が細くなる場所で、善助が足を止めた。


「ここです」


 下河原から川辺へ抜ける小道だった。


 道の片側には浅い溝があり、もう片側は背の低い藪になっている。


 荷車は通れない。


 だが、人が鍬や枝束を持って歩くには十分な道である。


 その道の真ん中に、折れた鍬の柄が落ちていた。


 権太が駆け寄る。


「茂作の鍬だ」


 宇平次が周囲を見る。


 草が踏まれている。


 人が数人、ここで立ち止まった跡がある。


 藪の方には、足跡が二つ。


 佐太が低く言った。


「隠れて待っていたな」


 宗介は折れた鍬を見た。


 壊されている。


 奪っただけではない。


 使えないように折った。


 道具を折る。


 それは、人の手を折るのに近い。


 胸の奥が冷えた。


 道具を持って帰れなければ、家の溝も掘れない。


 普請返しにも来られない。


 働く手を、道具ごと止めるつもりだ。


「茂作と仁助は」


 弥四郎が問う。


「たぶん、川辺の方へ戻ったはずです」


 権太が答える。


「怪我はないと言っていました。でも、鍬を取られて……」


 その時、藪の向こうから声がした。


「笠森の者か」


 男が三人、道へ出てきた。


 和木原札を腰に下げている。


 ひとりは、茂作のものらしい鍬の刃を持っていた。


 柄は折られている。


 残りの二人は、細い棒を手にしていた。


 宇平次が前へ出る。


「その鍬は誰のものだ」


 男は笑った。


「道に落ちていた」


「嘘をつくな」


「笠森飯を食って、笠森で名を書かれた者が、和木原の道を勝手に通ろうとした。だから止めただけだ」


 宗介は一歩前へ出た。


 怖い。


 棒を持った男も、刃だけになった鍬も怖い。


 だが、黙っていれば、相手の言葉だけが残る。


「その人たちは、笠森の者ではありません」


 男が宗介を見た。


「飯を食わせておいて、都合が悪くなれば違うと言うのか」


「働いた日の飯を出しました。名と仕事を残しています。帰る先は、それぞれの家です」


「なら、和木原の道を通るなら和木原へ断れ」


 宗介は周囲を見た。


 狭い小道。


 下河原から川辺へ抜ける生活道。


 和木原の渡しへつながる広い道ではない。


 ここを和木原の道と言い切るのか。


 弥四郎が口を開いた。


「この道は、誰が普請している」


 男は少し詰まった。


「和木原が見ている」


「見ているだけか」


「道を乱す者を止めている」


「なら、昨日この道の溝を誰が見た」


 男は答えない。


 弥四郎は続けた。


「下河原の家の水を誰が通した。枝を誰が除けた。泥を誰が掻いた」


「それは笠森が勝手に」


「家の者が掘った。笠森は見分けをした。南谷の善助が水を見た。権太が鍬を入れた。およしが落ち葉を除けた」


 弥四郎の声は低く、よく通った。


「その帰りの足を、和木原は塞いだのか」


 男の顔が歪む。


「笠森が人を集めたからだ」


「働いた者を帰した。お前たちは帰る道を塞いだ」


 宇平次が一歩出た。


「鍬を返せ」


 男は鍬の刃を持ち上げた。


「折れているぞ」


「折った者が弁じろ」


 宇平次の声が低くなった。


 男たちは身構えた。


 場が一気に危うくなる。


 佐太も槍を構える。


 権太が鍬を握りしめた。


 宗介は、息が詰まりそうになった。


 ここでぶつかれば、話が変わる。


 帰り道の問題が、笠森と和木原の小競り合いになる。


 それは和木原の狙いかもしれない。


 宗介は必死に考えた。


 鍬は折れている。


 返させても、すぐには使えない。


 弁償を求めるのは当然だが、今ここで奪い返せば、刃傷になる。


 それより先に、必要なのは茂作と仁助が家へ帰れることだ。


「若様」


 宗介は弥四郎へ低く言った。


「鍬より先に、人を確認したいです」


 弥四郎は宗介を一瞥し、すぐに頷いた。


「そうだな」


 そして和木原の男へ言う。


「茂作と仁助はどこだ」


「知らぬ」


「では、探す。お前たちも来い」


 男たちが警戒する。


「なぜだ」


「お前たちが止めた後、二人が帰ったかどうか確かめる。帰っていればよし。いなければ、お前たちの責を問う」


 男は返事に詰まった。


 ここで逃げれば、怪しまれる。


 来れば、二人がどうなったか見られる。


 惣右衛門が静かに口を開いた。


「柏屋も見ましょう。人を止め、道具を折り、その後を知らぬでは、商人の荷持ちも安心して通れませぬ」


 和木原の男たちの顔が変わった。


 商人が見ている。


 それが効いた。


 結局、彼らはついてきた。


 川辺の小屋場へ向かうと、すぐに茂作は見つかった。


 家の前で、折れた鍬の柄を抱えて座っていた。


 額に小さな傷がある。


 殴られたというより、突き飛ばされて転んだのだろう。


 仁助も隣にいた。


 こちらは怪我はないが、顔色が悪い。


 権太が駆け寄る。


「茂作!」


「権太……」


 茂作は笠森の一行を見ると、慌てて立とうとした。


 宇平次が止める。


「そのままでいい。怪我を見せろ」


 おきぬから預かった布が役に立った。


 宗介は傷を見た。


 浅い。


 だが、血が乾いている。


「洗った方がいいです」


「水を使うのが惜しくて」


 茂作が苦笑する。


 その言葉が、また胸に刺さった。


 水を惜しんで、傷を洗わない。


 当たり前のことが、ここでは当たり前ではない。


 善助が近くの井戸を見た。


「この水は使えます。ただ、汲み縄が傷んでいる」


「また縄か」


 佐太がぼそりと言う。


 宗介も同じことを思った。


 水があるだけでは足りない。


 縄がいる。


 何度も見た話だ。


 だが今は、茂作の傷が先だ。


 井戸水を少し汲み、傷を洗う。


 布で押さえる。


 茂作は顔をしかめたが、声は上げなかった。


 弥四郎は和木原の男たちへ振り向いた。


「怪我をしている」


 男は顔を逸らした。


「勝手に転んだ」


 仁助が声を上げた。


「違う! 棒で押されたんだ!」


 和木原の男が睨む。


 仁助は一瞬怯えたが、権太が隣に立った。


 茂作も顔を上げる。


「鍬を取られた。返せと言ったら、笠森飯を食った手は和木原の道を通るなと言われた」


 惣右衛門が静かに言った。


「聞きました」


 弥四郎も頷く。


「笠森も聞いた」


 宇平次が折れた鍬の刃を受け取った。


 和木原の男は渋ったが、佐太が前に立つと、手放した。


 柄は折れている。


 刃だけ戻っても、すぐには使えない。


 宗介は茂作へ聞いた。


「替えの柄はありますか」


「ない。家の裏を掘るにも、田の水を見るにも困る」


 宗介は考えた。


 笠森が新しい鍬を出す。


 それは簡単ではない。


 鍬は貴重だ。


 だが、折られた道具をそのままにすれば、茂作の家が困る。


 かといって、和木原に今ここで弁償を迫っても、おそらく揉める。


 必要なのは、今日使える手段だ。


「柄だけなら、仮に作れますか」


 宗介が佐太へ聞くと、佐太は刃を見た。


「しっかりした柄なら時間がいる。仮でよければ、乾いた枝を削ればいける」


 太助がいればもっと早い。


 だが、今日は火所に残っている。


 善助が言った。


「川辺の端に、折れた柄に使えそうな枝があります。乾いているはずです」


 弥四郎は即決した。


「作れ。茂作の今日の仕事に必要だ。後で和木原へ鍬柄分を求める」


 和木原の男が口を開きかけた。


 弥四郎は先に言った。


「今ここで争う気はない。だが、折った事実は残す。茂作、仁助、権太、善助、柏屋、笠森が見た。逃げるな」


 男は黙った。


 宗介は、市松に小札を書かせた。


 茂作。鍬折られる。額傷。仁助、見届け。和木原札の男三人。柏屋、同席。仮柄を笠森でつける。


 市松は嫌そうな顔をした。


「長い」


「大事です」


「分かってる」


 仮の柄は、思ったより早くついた。


 佐太が枝を削り、宇平次が縄で締め、善助が握りを確かめる。


 完全ではない。


 だが、今日の溝を掘るには足りる。


 茂作は鍬を受け取り、黙って頭を下げた。


「これは、借りですか」


 宗介は一瞬迷った。


 借りにすれば、茂作はまた笠森に縛られる。


 ただで渡せば、笠森が道具を配る城になる。


 どうするか。


 弥四郎が答えた。


「今日の仮柄は、帰る足を守るためだ。借りではない。ただし、明日以降、茂作が道普請に来られるなら、その手で返せ」


 茂作は深く頭を下げた。


「行きます」


「家を見てから来い」


 弥四郎は付け加えた。


「家を放って来るな」


 茂作は少し驚いた顔をした後、頷いた。


「分かりました」


 宗介は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 ただ助けるのではない。


 ただ貸すのでもない。


 家を見てから来る。


 それが、ここでも線になる。


 帰り道、和木原の男たちは途中で去ろうとした。


 宇平次が止める。


「どこへ行く」


「用は済んだ」


「済んでいない。お前たちは、折れた鍬と怪我人を見た。和木原へ、見たまま伝えろ」


「伝える」


「笠森も伝える」


 男たちは不機嫌な顔で去った。


 追わなかった。


 追えば、また話が変わる。


 今日は、帰り道を通す日だ。


 笠森へ戻る頃には、昼を過ぎていた。


 門前では、太助が火所の炭を見ていた。


 権太、茂作、仁助も一緒に入る。


 およしの姿はない。


 家を見ているのだろう。


 それでいい。


 弥四郎は庭に人を集めた。


「今日、帰り道を塞がれた者がいた」


 足軽、南谷、黒谷、商人、門前の人足たちが静かに聞いた。


「笠森で働いた者は、笠森の者になるわけではない。飯を食った者は、飯で縛られぬ。働いた日の飯を受け、家へ帰る。その帰り道を塞ぐ者は、笠森の普請を乱す者と見る」


 宇平次が頷く。


 惣右衛門も深く頭を下げた。


 弥四郎は続けた。


「ただし、笠森は人を囲わぬ。家を見てから来い。田を見てから来い。溝を見てから来い。来られぬ日は、無理に来るな」


 門前の空気が、少し変わった。


 飯が出るから来る。


 その言葉だけではなくなっていく。


 家を見てから来る。


 帰れるから来る。


 それは、笠森にとっても危ういが、必要なことだった。


 喜兵衛が宗介へ低く言った。


「また飯の線が増えたな」


「はい」


「米が足りるか」


「足りません」


「正直だな」


「嘘をついても増えません」


 喜兵衛は苦笑した。


「なら、また考えねばならん」


「はい」


 市松は板へ書いていた。


 帰り道。


 鍬折られる。


 怪我、浅し。


 仮柄。


 家を見てから来る。


 飯で縛らず。


 帰る道を塞ぐ者、普請を乱す者。


「字が多い」


 市松がぼやいた。


 宗介は板を見た。


「でも、今日は残した方がいい」


「分かってる」


 市松は、最後に小さな鍬の絵を描いた。


 折れた鍬と、仮の柄をつけた鍬。


「分かるか?」


「分かる」


「本当か?」


「本当」


 市松は少し満足げだった。


 夕方、権太は笠森の粥を食べずに帰ると言った。


「家で食う」


 短い言葉だった。


 およしと子どもが待っている。


 溝も、まだ完全に落ち着いたわけではない。


 茂作と仁助も、家へ戻った。


 仮柄の鍬を持って。


 宗介は、三人の背を見送った。


 飯を出さないことが、今日は冷たさではなかった。


 帰るための空腹もある。


 家で食べる飯があるなら、それを食べた方がよい。


 笠森の粥は、城に残って働く者へ回せる。


 そして彼らは、明日来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 それでいい。


 その夜の粥は、いつも通り薄かった。


 下河原の干した菜も、黒谷の干し茸も、もうほとんどない。


 だが、火所の火は静かに燃えている。


 水筒は洗われている。


 枝束も少し残っている。


 道具を折られても、仮の柄をつければ、その日の溝は掘れる。


 宗介は椀を手に、門の方を見た。


 門は閉じている。


 だが、人を閉じ込めるためではない。


 夜の獣と敵を防ぐためだ。


 明日になれば、また開く。


 来る者もいる。


 帰る者もいる。


 その両方を守れなければ、普請飯はただの餌になる。


 弥四郎が隣で言った。


「飯で人を動かすのは、思ったより怖いな」


「はい」


「来る道だけでは足りぬ。帰る道も要る」


「はい」


「道具もだな」


 宗介は頷いた。


「鍬がなければ、帰っても溝は掘れません」


「なら、道具も腹の一つか」


「たぶん」


 弥四郎は少しだけ笑った。


「どこまでも腹だな」


「はい」


 宗介も苦笑した。


 だが、その通りだった。


 人の腹。


 家の腹。


 道の腹。


 火の腹。


 道具の腹。


 どれか一つが空けば、動きは止まる。


 笠森は今日、帰り道を塞がれた。


 だが、鍬の仮柄をつけ、人を家へ返した。


 小さなことだ。


 和木原主膳が見れば、笑うかもしれない。


 だが、茂作は今日、家の溝を掘れる。


 権太は家で飯を食う。


 仁助は明日、来るかどうかを自分で決められる。


 それが、飯で縛らないということだった。


 宗介は粥を飲み込んだ。


 薄い。


 それでも、腹へ落ちる。


 明日もまた、誰かの腹を見ることになるのだろう。


 そう思うと、体は重かった。


 だが、門の向こうへ帰っていく足音を思い出すと、その重さは少しだけ耐えられるものになった。



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