第五十二話 帰る足
朝の門前に、女の声が立った。
「うちの男を、返してもらいます」
久住宗介は、竈のそばで粥の湯気を見ていた顔を上げた。
門番が困ったように振り返っている。
門の外には、痩せた女が一人立っていた。年は三十を少し越えたくらいか。肩には古びた布を掛け、片手には幼い子の手を引いている。子は眠そうな顔で母の後ろに隠れていた。
女の目は、赤かった。
泣いた後なのか、怒っているのか、どちらにも見えた。
宇平次が門へ向かう。
「誰のことだ」
「権太です」
女は即座に答えた。
「昨日、ここで粥をもらった男です。今朝も笠森へ行くと言って、家の溝を放ったまま来ようとした。うちは田も家も水が回っているんです。笠森の道を直す前に、うちが沈みます」
庭の空気が変わった。
権太。
飯目当てで門前に来て、枝を分け、半椀の粥を受け取った男である。
働けば飯が出る。
その言葉は、もう外へ広がり始めていた。
広がれば、人は来る。
だが、人には家がある。
家の溝が詰まり、田に水が回り、子が腹を空かせているのに、男だけが笠森の普請飯へ来る。
それは、道を直すどころか、別の場所を壊す。
片瀬弥四郎が広間から出てきた。
「権太はいるか」
門の脇で、ひとりの男が身を縮めた。
昨日、枝を分けていた権太だった。
今日は、鍬を肩にかけている。
働く気はあるのだろう。
だが、その顔は女を見るなり、ばつが悪そうに歪んだ。
「およし……」
「およしではないよ。あんた、家の裏の溝を見たのかい」
「見た」
「見て、ここへ来たのかい」
「笠森で働けば飯が出る。昨日も出た。今日も、少しでも米を……」
「水が家へ入ったら、米どころじゃない」
およしの声は震えていた。
子どもが、母の裾を握りしめる。
門前にいた者たちは黙った。
権太を笑う者はいない。
彼の考えが浅いのは確かだった。
だが、飯を求める気持ちは誰にも分かる。
宗介は、胸の奥が重くなるのを感じた。
働いた者には飯。
働かぬ者には出さぬ。
働いた者を縛らぬ。
昨夜、そう確認したばかりだった。
だが、帰れる足を守るとは、ただ「帰ってよい」と言うだけでは足りなかった。
帰った先が沈んでいれば、人はまた戻ってくる。
飯を求めて戻る。
家を捨てて戻る。
それは、縛っていないようで、別の形の縛りになる。
弥四郎はおよしへ向いた。
「お前の家はどこだ」
「下河原です」
善助が顔を上げた。
「南谷へ下る途中の、小屋場の方ですな。雨の後、溝がよく詰まる」
「はい。うちの裏は、山からの水が集まります。昨日の雨と、上の道普請で流れが変わったのか、夜から水が引きません」
宗介は眉を寄せた。
上の道普請で流れが変わった。
可能性はある。
南谷奥の崩れ道で水を逃がした。
その水がすぐ下河原へ来るとは限らないが、山の水は思わぬところを通る。
こちらが道を救ったことで、別の溝に水が寄ったなら、無関係とは言えない。
弥四郎が宗介を見る。
「行くか」
「行きます」
答えは、すぐ出た。
怖いとか、面倒だとか、言っている場合ではなかった。
弥四郎は頷く。
「宇平次、佐太。善助も行け。太助は火所を見ろ。権太、お前も来い。自分の家だ」
権太は顔を上げた。
「俺も?」
「当たり前だ」
宇平次が低く言う。
「お前の家の溝だろう」
権太は鍬を握り直し、深く頭を下げた。
「行きます」
およしはまだ警戒した顔をしていた。
笠森が夫を連れていくのか、家へ戻すのか、見極めているのだろう。
宗介は彼女へ言った。
「飯は、後です。まず水を見ます」
およしは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
下河原へ向かう道は、南谷へ降りる途中で細く分かれていた。
昨日まで何度も通った道とは少し違う。
人の足跡はあるが、荷車が通るには狭い。
雨の後で土は湿り、草の根元には水が光っていた。
およしの子は善助が抱えた。
およしは歩きながら、何度も家の方を気にしている。
権太は黙っていた。
いつもの粗い口はない。
鍬を担ぐ肩が、少し沈んでいる。
下河原の小屋場へ着くと、すぐに水音が聞こえた。
家の裏で、細い溝が詰まっている。
落ち葉、泥、折れ枝。
そこに、昨日の普請で切ったものとは違う、荒く折られた枝が混じっていた。
水は溝を越え、家の裏へ薄く広がっている。
壁際の土が濡れ、戸口の近くまで染みていた。
およしが顔を歪める。
「ほら、言っただろう」
権太は何も返せなかった。
宗介は膝をつき、溝を見た。
深くはない。
だが、詰まり方が悪い。
一箇所で水が止まり、横へ逃げている。
このまま放っておけば、家の土台が湿る。子どもも冷える。保存している少しの米や干し物も傷むかもしれない。
善助が溝を見て言った。
「これは、上からの泥だけではありませんな。誰かが枝を突っ込んだようにも見える」
宇平次の目が細くなる。
「和木原か」
佐太がすぐに周囲を見た。
宗介は枝を一本取った。
新しい。
わざと折ったような跡がある。
だが、証は弱い。
和木原がやったと決めつければ、また言葉を取られる。
「今は、まず水を通しましょう」
宗介は言った。
「犯人探しより、家が先です」
宇平次は頷いた。
「権太。鍬を入れろ」
「はい」
権太が溝へ入る。
およしも袖をまくった。
「私もやります」
「足元が悪い」
宇平次が止めかけたが、およしは首を振った。
「ここは、うちの溝です」
その声に、誰も止めなかった。
作業はすぐ始まった。
権太が泥を掻く。
およしが落ち葉を除ける。
善助が水の逃げる先を見て、掘りすぎないよう声をかける。
佐太は枝を切って、溝の縁を押さえた。
宗介は、水の流れを見ながら指示した。
「深くしすぎないでください。家の方へ水を引き込みます。横へ。こっちへ逃がす」
「こっちか」
権太が鍬を動かす。
「はい。少しずつ。泥を一気に抜くと、水が走りすぎます」
およしが、泥に埋まった細い布切れを拾った。
「これは」
宇平次が受け取り、眉をひそめた。
和木原札に使われる粗い染め布と似ていた。
だが、やはり証にはならない。
宗介は言った。
「残しておきましょう。捨てないで」
「板に書くのですか」
およしが問うた。
「帰ってから。今は水です」
およしは、少しだけ表情を緩めた。
その時、道の方から声がした。
「笠森の者が、今度は他人の家の溝まで掘るのか」
和木原の男が二人、立っていた。
昨日も遠くから普請場を見ていた者たちのうちの一人だ。
今日は、もう一人を連れている。
腰に札が下がっている。
宇平次が前へ出た。
「何を見に来た」
「下河原で、笠森が人足を使っていると聞いてな。今度は家の溝まで笠森のものにするつもりか」
同じ言い方だ。
水場を押さえる。
火を押さえる。
道を押さえる。
人足を使う。
今度は家の溝まで押さえる。
宗介は、うんざりしそうになるのをこらえた。
だが、答えたのは宗介ではなかった。
およしだった。
「うちの溝です」
男たちは、少し驚いた顔をした。
およしは泥のついた手を腰に当てる。
「うちの溝が詰まって、うちの家に水が回った。うちの男が掘っている。笠森は水の逃げ方を見ているだけです」
和木原の男は笑った。
「女房まで笠森の肩を持つか」
「肩じゃありません。水です」
およしの声は強かった。
「水が家へ入れば、子が冷えます。飯も傷みます。あんた方が掘ってくれるのですか」
男は黙った。
およしは続けた。
「掘らないなら、邪魔をしないでください」
権太が鍬を持つ手を止めた。
妻の横顔を見ている。
その顔に、恥と、少しの驚きが混じっていた。
宇平次が低く言った。
「聞いたな。帰れ」
和木原の男は舌打ちした。
「笠森は、人の家の女まで口を利かせる」
佐太が槍の石突きを地面に打った。
「帰れと言われている」
男たちは、それ以上踏み込まなかった。
去り際に、一人が言った。
「主膳様へ伝える。笠森は下河原にも手を伸ばしたとな」
宇平次は答えた。
「伝えろ。下河原の女房に掘るか帰るか問われ、帰ったともな」
男たちは顔を歪め、道の向こうへ消えた。
作業に戻ると、権太の鍬の入り方が変わった。
先ほどより、力任せではない。
善助の声を聞き、水の流れを見ながら掘る。
およしも、落ち葉を取り除きながら、時折子どもの方へ目を向ける。
子は善助のそばで、小さな枝を拾っていた。
遊びのようで、手伝いのようでもあった。
詰まりが抜けると、水が動いた。
最初は濁ったまま、少しずつ流れる。
やがて家の裏へ広がっていた水が、溝へ戻り始めた。
およしが長く息を吐く。
「通った」
権太は鍬を支えにして、水を見ていた。
その肩から力が抜けていく。
宗介も息をついた。
大きな普請ではない。
道を直したわけでも、荷車を出したわけでもない。
ただ、一軒の家の溝を通しただけだ。
だが、これを放っておけば、権太はまた笠森へ飯を求めて来ただろう。
およしは笠森を恨んだだろう。
子は冷えただろう。
そして、和木原は言ったに違いない。
笠森の飯は家を壊す、と。
小さな溝も、道につながっている。
宗介は、それを痛いほど感じた。
作業が終わると、およしは家の奥から小さな包みを持ってきた。
中身は、干した菜だった。
多くはない。
「礼です」
宗介は首を横に振りかけた。
だが、途中で止めた。
受け取らないことが、必ずしも優しさではない。
黒谷も返しを出した。
下河原も出す。
それで対等に近づくなら、受けるべきだ。
「少しだけ、受けます」
宗介は言った。
「全部は受けません。家の分を残してください」
およしは包みを開き、半分だけ渡した。
「これなら」
「ありがとうございます」
権太がぼそりと言った。
「俺は、今日、笠森で飯をもらえるのか」
およしが睨む。
権太は慌てて首を振った。
「いや、違う。飯だけじゃなくてだな」
宗介は少し考えた。
「今日は、笠森の普請飯ではありません」
権太の顔が少し落ちた。
「そうか」
「ここは、あなたの家の普請です。まず家で食べてください。笠森からは、味噌を少し出します。今日ここで一緒に働いた分です」
およしが驚いた顔をした。
「味噌を?」
「多くは出せません。でも、泥仕事の後です。湯に溶けば、体が温まります」
宇平次が少し眉を上げたが、反対はしなかった。
権太は黙って頭を下げた。
「……すまない」
「謝るなら、奥さんへ」
宗介が言うと、権太はおよしの方を向いた。
しばらく口を動かせず、やがて小さく言った。
「悪かった」
およしは腕を組んだまま、そっぽを向く。
「溝を見てから物を言いな」
「ああ」
その短いやり取りに、宗介は少しだけ救われた気がした。
笠森へ戻ると、弥四郎は報告を聞いた。
宗介は、溝の詰まり、水の流れ、拾った布切れ、和木原の男たちの言葉、およしの返しを順に伝えた。
弥四郎は黙って聞き終えると、干した菜の半包みを見た。
「受けたか」
「はい。全部は受けませんでした」
「よい」
弥四郎は頷いた。
「家の普請は、家が先だ。だが、笠森の道にも関わるなら、手を貸す。飯で縛らず、帰った先を沈ませぬ」
喜兵衛が腕を組む。
「味噌を出すのは、少し痛いですがな」
「どれだけだ」
「ほんの少しです」
宗介が答える。
「湯に溶く分だけ。飯ではなく、泥仕事の後の体を戻すために」
おきぬが言った。
「冷えた体には効くよ。出しすぎなければね」
弥四郎は頷いた。
「では、そうしろ。権太の家へ味噌を少し。だが、米は出さぬ。家の飯を先に食えと伝えよ」
「はい」
市松が板を持っていた。
「書く?」
宗介は少し迷った。
また板が増える。
だが、今日のことは残す必要がある。
人を縛らないために、帰った先を見る。
これは大事だ。
「書いて」
市松が炭を構える。
「下河原。権太家裏の溝詰まり。家の者、先。笠森、見分と手伝い。干した菜、半分受ける。味噌少し返す。米は出さず。帰る足を守る」
市松は最後の言葉で手を止めた。
「帰る足?」
「働いた人が、家へ帰れるようにすること」
「足を守るのか」
「家が沈むと、足は帰る場所をなくす」
市松は少し考え、板に小さな足跡を二つ描いた。
「これで分かるか?」
「分かる」
「本当か?」
「本当」
市松は満足そうに頷いた。
夕方、権太は一度笠森へ戻ってきた。
泥を落とし、頭を下げるためだった。
およしと子は来ていない。
家の片づけがあるのだろう。
権太は門の前で弥四郎へ頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
弥四郎は短く答える。
「礼は水が引いてからでよい」
「はい」
「明日、笠森へ来るか」
権太は一瞬迷った。
昨日までなら、すぐ来ると言ったかもしれない。
だが、今日は違った。
「家の裏をもう一度見ます。そのあと、来られるなら来ます」
弥四郎は頷いた。
「それでよい」
権太はほっとしたように息を吐いた。
宗介は、その答えに胸を撫で下ろした。
来るな、ではない。
来い、でもない。
家を見てから来る。
それが、帰れる足だった。
その夜の粥には、下河原から受け取った干した菜が、ほんの少しだけ入った。
黒谷の干し茸とは違う匂いがする。
青く、かすかに土の匂いが残る。
量は少ない。
けれど、城の者たちは気づいた。
南谷。
黒谷。
下河原。
少しずつ、違う場所の手が粥へ混じっている。
それは、笠森が奪っている味ではない。
返ってきた味だった。
宇平次が椀を見て言った。
「今日は、道ではなく家の溝か」
宗介は頷く。
「はい」
「次は何を見ることになる」
「分かりません」
本当に分からなかった。
水場を見れば縄が見えた。
渡しを見れば荷が見えた。
荷を見れば火が見えた。
火を見れば炭が見えた。
炭を見れば山が見えた。
道を見れば人足が見えた。
人足を見れば家の溝が見えた。
どこまで広がるのか、もう想像もつかない。
だが、ひとつだけ分かる。
腹は城の中だけにあるのではない。
人の腹は、家に戻る。
家の水が引かなければ、腹は落ち着かない。
帰る足がなければ、普請飯は人を縛る。
弥四郎が静かに言った。
「飯で人を動かすなら、帰る先も見ねばならぬのだな」
「はい」
「面倒だ」
「はい」
「だが、見ねば笠森が人を奪う城になる」
「はい」
弥四郎は粥を啜った。
「なら、見るしかない」
宗介も椀を口へ運んだ。
薄い粥に、干した菜の匂いが混じる。
下河原の溝を通した泥の匂いを、少しだけ思い出した。
笠森は今日、人を引き留めなかった。
家へ返した。
そして、家に戻るための溝を通した。
それは大きな勝利ではない。
和木原を退けたわけでもない。
商人の道を広げたわけでもない。
だが、権太は明日、家を見てから来ると言った。
その一言だけで、今日の泥には意味があった。
働く手。
食う口。
帰る足。
その三つが揃わなければ、人は道につながらない。
宗介は椀を置き、板に描かれた小さな足跡を見た。
下手な足跡だった。
けれど、笠森が進むべき道に見えた。




