第五十一話 人足の値
干し茸の匂いは、朝の竈に少しだけ残っていた。
黒谷から返しとして届いたものを、昨夜の粥にほんの少し入れただけである。
それでも、城の者たちは気づいた。
味が濃くなったわけではない。
腹が膨れたわけでもない。
だが、黒谷の手が粥の中に混じった。
それだけで、泥を掻いた昨日の疲れが、少し違うものに変わった気がした。
久住宗介は、空になった小袋を見ながら考えていた。
道には腹がある。
昨日、そう言った。
道を使う者は、道へ何かを返す。
枝、縄、石運び、人足。
銭だけでは足りない。
それは間違っていない。
だが、返しが増えれば、次の問題が出る。
人足をどう動かすか。
飯をどう出すか。
働いた者と、ただ食いに来た者をどう分けるか。
それを間違えれば、普請飯は道を支える飯ではなく、城の米を減らす穴になる。
「宗介」
喜兵衛が板の前から声をかけた。
「米の減りだ」
板には、ここ数日の米の減りが刻まれている。
降り人への粥。
商人への水。
濡れ荷改めの手間。
火所。
普請飯。
それぞれは小さい。
だが、積もると重い。
「昨日の普請飯で、思ったより減っていますね」
「働いた者には出した。そこはよい。だが、今日も同じなら苦しい」
「はい」
「それに、門前に人が来ている」
宗介は顔を上げた。
門の外から、人の声が聞こえる。
商人の声だけではない。
南谷の若者。
黒谷の者。
見知らぬ荷持ち。
さらに、どこの者とも分からない男たち。
普請返しの話が広がったのだ。
片瀬弥四郎も門へ出た。
宇平次、佐太、太助が続く。
門前には、十数人が集まっていた。
鍬を持つ者もいる。
枝束を背負う者もいる。
何も持たずに立っている者もいる。
その中に、昨日の商人、嘉平もいた。
布と針の荷は半分に分けてある。
彼は泥のついた草鞋を履き替えず、そのまま来ていた。
「今日は、道を見に行くのか」
嘉平が聞く。
「昨日の続きなら、俺も行く」
宗介は少し驚いた。
昨日までなら、嘉平は泥を嫌がっていた。
その男が、自分から普請場へ行くと言っている。
だが、喜んでばかりはいられない。
門前の人数は多すぎた。
全員を連れていけば、飯が足りない。
道も混む。
道具も足りない。
そして、働き方を知らない者が多いほど、現場は危なくなる。
弥四郎は人々を見回した。
「今日は、全員は連れて行かぬ」
ざわめきが起きた。
南谷の若者が不満そうに言う。
「人手は多い方がよいのでは」
別の男がすぐに口を挟んだ。
「働けば飯が出ると聞いた。俺も行く」
その言い方に、宇平次の目が細くなった。
「どこの者だ」
「川辺の方から来た」
「名は」
男は一瞬詰まった。
「……権太」
宇平次がさらに問う。
「何を持ってきた」
「手だ」
男は両手を広げて見せた。
「働く手ならある」
間違いではない。
だが、宗介は違和感を覚えた。
働く手があるならありがたい。
ただ、その手が何をできるか分からないまま現場へ入れれば、逆に危ない。
道普請は、人数だけで進むものではない。
崩れ場に人を詰め込みすぎれば、足場が崩れる。
荷を知らない者が荷車を押せば、人を潰す。
水を知らない者が深く掘れば、道をさらに壊す。
「若様」
宗介は弥四郎へ低く言った。
「今日は、人を選ぶ必要があります」
「選ぶ?」
「はい。普請飯を出すなら、仕事も分けます。誰でも崩れ場へ行かせるのは危ない」
弥四郎は頷いた。
「言え」
宗介は門前へ向いた。
喉が少し乾く。
人を断るのは、水や火を止めるより難しい。
だが、言わなければならない。
「今日、崩れ場へ行く者を分けます」
門前が静まる。
「崩れ場へ行くのは、道を見た者、昨日作業した者、道具を持つ者を中心にします。初めての者は、城の近くで枝を束ねる、石を運ぶ、縄を撚る、火所の灰を分ける。仕事はあります。でも、全員を同じ場所へは入れません」
権太と名乗った男が顔をしかめた。
「飯は」
その一言で、周りの空気が変わった。
太助が小さく舌打ちする。
宇平次が一歩出ようとしたが、弥四郎が止めた。
宗介は男を見た。
「働いた場所で出します」
「崩れ場へ行かなくてもか」
「城近くで枝を束ねた者にも出します。石を運んだ者にも出します。縄を撚った者にも出します。ただし、名を残します。働かずに飯だけは出ません」
権太は不満そうだった。
「名を残すのか」
「残します」
「信用していないのか」
「信用するために残します」
惣右衛門が門の脇から静かに言った。
いつの間にか来ていた。
柏屋惣右衛門は、商人たちの間に立ち、権太を見る。
「名を残さぬ飯は、奪い合いになります。商いでも同じですな」
権太は黙った。
惣右衛門が続ける。
「働いた者に飯が出る。それは悪くない。だが、働きも名も残さず飯だけ欲しがれば、次から誰も飯を出さぬ」
門前の空気が少し落ち着いた。
弥四郎が言った。
「今日の人足を分ける。宇平次、崩れ場へ行く者を選べ。宗介、城近くの仕事を決めろ。喜兵衛、普請飯の数を先に切る。余分は出さぬ」
「承知」
そこから、門前は小さな普請場に変わった。
崩れ場へ行く者。
城近くで枝を束ねる者。
火所の灰を分ける者。
石を運ぶ者。
縄を撚る者。
水筒を洗う者。
仕事を分けると、不満は減った。
何も持たずに来た者にも、できる仕事はある。
だが、ただ立っているだけでは飯は出ない。
それが見えたからだ。
市松は小札を持って、走り回っていた。
「名前。仕事。飯、半椀か握りか。誰だ、字が読めねえ名前を言うな」
「俺の名前が悪いのか」
「俺の耳が悪い」
「どっちだ」
「両方だ」
緊張していた門前に、少し笑いが出た。
宗介はそれを聞きながら、握り飯の数を見た。
今日は、昨日より少なく作る。
その代わり、城近くで働く者には粥を薄くして出す。
崩れ場へ行く者には、小さな握り飯を二つ。
重い縄を担ぐ者には三つ。
商人であっても、働けば出す。
足軽であっても、働かなければ出さない。
その線を、弥四郎は認めた。
難しい線だった。
だが、必要だった。
昼前、宗介は崩れ場ではなく、城近くの作業を見ることになった。
今回は宇平次が崩れ場へ行き、太助と善助も同行する。
嘉平も行った。
一方、宗介は門前に残る。
最初は不安だった。
現場を見なければ、また何か見落とすのではないか。
だが、弥四郎が言った。
「今日は、人足の腹を見る日だ。崩れ場だけが現場ではない」
その通りだった。
門前もまた、現場だった。
枝束を作る者たちは、最初、ただ枝を集めていた。
だが、太さも長さもばらばらだ。
これでは運びにくい。
火所にも使いにくい。
「長さを揃えます」
宗介は言った。
「火所用は短く。道に敷く枝は少し長く。湿った枝と乾いた枝を混ぜない」
権太が枝を持っていた。
飯目当てに来た男だ。
だが、手つきは悪くない。
力はある。
宗介は声をかけた。
「その枝は道用です。火所に入れると煙が出ます」
「そんなに違うのか」
「違います。持ってみてください」
乾いた枝と湿った枝を持たせる。
権太は少し考えた。
「こっちが軽い」
「軽い方は火所へ。重い方は乾かすか、道へ」
「面倒だな」
「面倒です。でも、煙が減ります」
権太は渋い顔をしながらも、枝を分け始めた。
ただ飯を求めた男でも、仕事が見えれば手は動く。
宗介は少し安心した。
縄を撚る場所では、黒谷の若者が南谷の年寄りに教わっていた。
「そこを緩くするな。荷を引く縄は、見た目より中が大事だ」
「黒谷では、細縄ばかりで」
「山の荷車を引くなら、太い縄も要る」
「はい」
水筒を洗う場所では、おきぬが厳しい顔で立っていた。
「飲み水の竹筒と泥洗いの竹筒を混ぜるんじゃないよ。腹を壊したら、道どころじゃない」
商人の若い供が、慌てて竹筒を置き直した。
こうして見ると、城に残る仕事も多い。
崩れ場へ行く者だけが普請人ではない。
道を支える物を整える者も、普請人だった。
昼過ぎ、崩れ場から使いが戻った。
南谷の若者だった。
息を切らしながら言う。
「水の逃げは保っています。荷車はまだ通せませぬ。嘉平殿が、枝を選ぶのが少し上手くなりました」
門前に笑いが起きた。
宗介も少し笑った。
「怪我人は?」
「なし。足を滑らせた者はおりますが、泥だけです」
「飯は足りた?」
「足りました。余りはなしです」
喜兵衛がほっとした顔をした。
「余りなしはよい」
「足りないよりは」
「余れば、次から飯目当てが増える。足りなければ、働く手が怒る。ちょうどが一番難しい」
宗介は頷いた。
兵糧方の仕事は、足りないものを埋めるだけではない。
余らせないことも仕事だった。
午後、和木原の者が門前に現れた。
奥田弥五郎だった。
いつもの柔らかい笑みを浮かべている。
門前の枝束、縄、水筒、灰袋、人足たちを見て、少し目を細めた。
「笠森は、ずいぶん人を集めておりますな」
弥四郎が庭へ出る。
「普請だ」
「人足を集め、飯を出し、名を残す。これはもう、笠森が周辺の者を使役しているようにも見えます」
やはり、そう来た。
宗介は奥歯を噛んだ。
水を守れば、水を押さえると言う。
火の場所を決めれば、火まで値をつけたと言う。
道を直せば、道を支配すると言う。
人足を分ければ、使役していると言う。
奥田は続けた。
「和木原にも、南谷や黒谷の者から話が届いております。笠森で働けば飯が出る、と。これは、他領の人足を飯で引くことになりませぬか」
門前が静かになった。
これは危ない言葉だった。
人足を飯で引く。
確かに、そう見える。
宗介自身、飯で人を動かしている。
だが、それを悪く言われれば、笠森は周辺の人を勝手に抱え込む城になる。
弥四郎はすぐには答えなかった。
宗介へ目を向ける。
答えろ、という目だった。
宗介は一歩前へ出た。
「飯だけでは出していません」
奥田がこちらを見る。
「ほう」
「普請飯は、仕事に対して出しています。崩れ場へ行く者、枝を束ねる者、縄を撚る者、灰を分ける者、水筒を洗う者。名と仕事を残しています」
「それが使役では」
「嫌なら帰れます」
宗介は言った。
声は震えたが、続けた。
「普請飯を食べた者を、笠森の者にするわけではありません。南谷の者は南谷へ帰る。黒谷の者は黒谷へ帰る。商人は荷へ戻る。笠森は、働いた日の飯を出すだけです」
奥田は笑みを崩さない。
「飯で人を集めることに変わりはない」
その時、権太が口を開いた。
「俺は帰れるのか」
皆が彼を見た。
権太は、まだ枝を持っている。
汗をかいていた。
宗介は答えた。
「帰れます。今日の分は働いたところまで残します。飯はその分だけです」
「なら、使役じゃねえな」
権太は枝を置いた。
「俺は飯目当てで来た。けど、枝を分けた。半椀もらえるなら、それで帰る。明日来るかは俺が決める」
奥田の笑みがわずかに薄くなった。
さらに嘉平の荷を預かっていた若い商人の供が言った。
「うちも同じです。嘉平殿は崩れ場へ行きましたが、明日も行くかは荷次第です」
黒谷の若者も続く。
「黒谷は、久兵衛の返しで来た。笠森の者になったわけではありません」
南谷の年寄りが縄を持ったまま言った。
「南谷の道が崩れれば、南谷が困る。だから手を出している」
門前の空気が変わった。
奥田が狙った「笠森が人を飯で集めている」という言葉は、完全には刺さらなかった。
働いた者たちが、自分の理由を口にしたからだ。
弥四郎が静かに言った。
「聞いたな」
奥田は頭を下げた。
「よく分かりました。笠森は、実に細かく人を分けておられる」
「分けねば、飯が足りぬ」
「その飯が、周辺の者を引いている」
「働かぬ者には出さぬ」
弥四郎の声は低かった。
「働いた者には出す。これを咎めるなら、和木原は崩れた道を見捨てろと言うのか」
奥田はすぐには答えなかった。
弥四郎は続ける。
「人足を奪う気はない。だが、道を直す手を飢えさせる気もない」
その言葉で、門前の者たちが静かに頷いた。
奥田は、笑みを戻した。
「主膳様へ、そう伝えましょう」
「伝えよ」
「ただし、笠森で飯が出ると知れば、さらに人は集まりますぞ」
「だから名と仕事を残す」
弥四郎は即答した。
「飯だけの者は帰す。働く者は食わせる」
奥田は深く頭を下げ、去った。
門が閉まると、宗介は息を吐いた。
背中に汗が滲んでいる。
人足を飯で動かす。
その強さと危うさを、改めて思い知った。
夕方、崩れ場の組が戻った。
嘉平は泥だらけだった。
肩には乾いた枝の束を背負っている。
「これで普請返しになるか」
宗介は枝を見た。
長さが揃っている。
乾きも悪くない。
「なります」
嘉平は疲れた顔で笑った。
「枝の違いが、少し分かるようになった」
太助が横から言った。
「まだ半分だな」
「半分でも昨日よりましだ」
嘉平はそう返した。
門前で作業していた権太にも、半椀の粥が出された。
彼は椀を受け取り、少し戸惑った顔をした。
「本当に出るのか」
「働いた分です」
「明日も来たら」
「仕事があれば」
「なければ」
「出ません」
権太は粥を見て、苦笑した。
「厳しい城だ」
「米が余っていません」
「だろうな」
権太は半椀の粥を大事そうに啜った。
その夜、板には多くの名が残った。
崩れ場組。
門前組。
枝束。
縄。
灰。
水筒。
普請飯。
半椀。
握り二つ。
握り三つ。
市松はへとへとになっていた。
「人の名前、多すぎる」
「明日、整理します」
「絶対だな」
「たぶん」
「信用できない」
宗介は苦笑した。
だが、板の前に立つと、笑いは消えた。
飯で人は動く。
だが、飯だけで人を縛ってはいけない。
働いた日の飯。
帰れる自由。
名と仕事。
出せる分だけ。
それがなければ、普請飯はいつか人を縛る鎖になる。
それは、宗介が一番避けたいものだった。
弥四郎が隣に立った。
「今日は、人足の値を見たな」
「はい」
「銭ではないのだな」
「銭も必要です。でも、今の笠森では、飯と仕事と帰れることが値になると思います」
弥四郎は頷いた。
「働いた者には飯。働かぬ者には出さぬ。働いた者を縛らぬ」
「はい」
「覚えておく」
竈では、薄い粥が炊かれていた。
米は減った。
だが、枝束は増えた。
縄も少し増えた。
水筒は洗われ、灰は分けられ、崩れ道には人が入った。
出した飯は、ただ消えたわけではない。
少し形を変えて、道へ戻った。
宗介は椀を受け取り、湯気を見た。
普請飯は、人を集める。
人を動かす。
だからこそ、怖い。
けれど、怖いからこそ、線を引く。
働く手。
食う口。
帰る足。
その三つを間違えなければ、人足は城に縛られるのではなく、道につながる。
笠森は今日、飯で人を縛らないやり方を、少しだけ覚えた。




