第五十話 道にも腹がある
翌朝、黒谷から二人の若者が来た。
背負っていたのは、炭ではなかった。
乾いた枝の束。
細い縄。
それから、干した茸の小袋。
久住宗介は門の内側で、それを見て少し驚いた。
「これは」
黒谷の若者の一人が、ぎこちなく頭を下げた。
「昨日の普請飯の返しです。久兵衛が、ただ食うなと言いまして」
足を挟まれた久兵衛は、まだ笠森城の隅で横になっている。
動ける状態ではない。
それでも、黒谷へ伝言を送ったのだろう。
働いた者に飯が出た。
ならば、黒谷も返せるものを出す。
それが山の者の意地なのかもしれない。
喜兵衛が品を見た。
「干し茸か」
「多くはありません」
「十分だ。粥に少し入れれば匂いが変わる」
おきぬも竈のそばから顔を出した。
「乾いた枝も助かるよ。湿った枝ばかりじゃ、煙で目が痛くなるからね」
若者たちの顔が少しだけ緩んだ。
宗介は板の前へ向かおうとして、足を止めた。
すぐ書く癖がついている。
だが、昨日はそうではなかった。
現場では、まず手を動かす。
今も同じだ。
「まず枝を火所の横へ。濡れない場所に積みます。干し茸はおきぬさんへ。縄は喜兵衛さんに」
「はい」
黒谷の若者たちは、素直に動いた。
そこへ片瀬弥四郎が庭へ出てきた。
黒谷の返しを聞くと、静かに頷く。
「受け取れ。だが、取りすぎるな」
喜兵衛が答える。
「承知しております」
「久兵衛には、礼を伝えよ。返しは受けた。だが足が治るまでは、寝ていろとな」
黒谷の若者が深く頭を下げた。
その時、門番が声を上げた。
「尾張筋、柏屋惣右衛門!」
宗介は顔を上げた。
惣右衛門は、いつもの落ち着いた足取りで門をくぐった。
供は二人。
その後ろには、昨日まで見なかった商人もいる。
荷は小さい。
だが、足元を見る目が違った。
道の様子を確かめながら歩いてきた者の目だった。
「若様」
惣右衛門は弥四郎へ頭を下げた。
「南谷奥の道、崩れたとか」
「昨日、仮に通した」
「荷車は」
「まだ通さぬ。人と小荷だけだ」
惣右衛門は頷いた。
「その話を聞いて、参りました。尾張筋でも、笠森の道が使えるなら通したいという者が増えております」
喜兵衛の顔が渋くなる。
宗介も同じ気持ちだった。
使える道だと知られれば、人が増える。
人が増えれば、道は傷む。
道が傷めば、また普請が要る。
普請には飯がいる。
飯には米がいる。
どこかで線を引かなければ、笠森の腹が痩せる。
惣右衛門は、それを分かっている顔で続けた。
「今日は、道の値を確かめに来ました」
庭が静かになった。
道の値。
渡し賃ではない。
水札の賃でもない。
道そのものの値だった。
弥四郎が問う。
「笠森に関を立てろという話か」
「いいえ」
惣右衛門は即座に首を振った。
「笠森が関を立てれば、和木原が喜びます。笠森は道を押さえ、荷から取る城だと吹くでしょう」
「では、何を求める」
「商人が通るなら、道を食わせる決まりが要ります」
宗介は、その言葉に反応した。
道を食わせる。
道にも腹がある。
昨日から、宗介の頭に引っかかっていたものが、形を持った気がした。
道は勝手に通れるものではない。
人が歩けば削れる。
荷が通れば沈む。
雨が降れば流れる。
直す手がいる。
手を動かすには飯がいる。
つまり、道にも腹がある。
弥四郎は宗介を見た。
「宗介。どう見る」
宗介は少し考えた。
すぐに答えるのは危ない。
荷から取れば早い。
通る者から少しずつ取れば、普請飯の足しになる。
だが、それは関銭に近くなる。
和木原に攻め口を与える。
それに、金や品を払えば道を傷めてもよい、という顔をする者が出る。
それは違う。
「荷から先に取るのは危ないです」
宗介は言った。
「なぜだ」
弥四郎が問う。
「払ったのだから通せ、となります。重い荷でも、雨の後でも、止めにくくなります」
惣右衛門が小さく頷いた。
「商人は、払った分を取り返そうとしますな」
「はい。だから、通る前に取るより、道を使った者が後で返す形がいいと思います」
「後で?」
「普請返しです」
市松が小札を持ったまま顔を上げた。
「普請返し?」
宗介は頷いた。
「道を使った商人は、次に来る時、乾いた枝、縄、石運びの手、半日の人足、どれかを返す。銭でもいいですが、銭だけにしない。道を傷めた者が、道へ何かを戻す」
宇平次が腕を組む。
「払って終わりではなく、手を戻すのか」
「はい」
太助が言った。
「いいな。道は銭を食わねえ。枝と石と手を食う」
善助も頷いた。
「南谷の道も、銭を置かれても直りませぬ。人が来ねば」
惣右衛門はしばらく黙っていた。
商人として、銭で片づく方が楽なはずだ。
だが、彼は反対しなかった。
「分かりやすいようで、商人には少し厄介ですな」
「厄介です」
宗介は正直に答えた。
「でも、厄介だから道を乱しにくい」
惣右衛門は笑った。
「笠森の手順は、いつも面倒ですな」
「すみません」
「褒めています」
その時、門の外から別の商人が声を上げた。
「なら、今日は通れるのか!」
昨日から待っていた商人だった。
名は嘉平。
布と針の小荷を持っている。
急ぎたい顔をしていた。
「荷車は無理でも、人なら通れるんだろう。小荷だ。通してくれ」
宗介は嘉平の荷を見た。
確かに小さい。
だが、問題は荷の大きさだけではない。
「どこまで」
「槙尾へ抜ける」
「南谷奥の崩れ道を通るなら、泥の場所があります。そこで足を取られるかもしれません」
「分かっている」
「水がまだ逃げきっていません。今日、もう一度普請を入れます」
「では、普請が終わるまで待てと?」
嘉平の声に苛立ちが混じる。
宗介が答える前に、惣右衛門が言った。
「待つか、手を貸すかですな」
嘉平が振り向く。
「柏屋殿」
「通りたいなら、鍬を持ちなされ。小荷なら、その方が早い」
「商人に泥を掻けと?」
「荷を守りたいなら、道を見ることです」
嘉平は顔をしかめた。
宗介は、ここが大事だと思った。
商人が道をただの通り道と思えば、いつまでも笠森が直すことになる。
だが、自分の荷の下に泥があると知れば、無理をしにくくなる。
弥四郎が言った。
「今日は、南谷奥の道へもう一度行く。嘉平、通りたいなら同行せよ。鍬を持てとは言わぬ。だが、枝一本、石一つは運べ」
嘉平はしばらく黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました。荷を置く場所は」
「城で預かる。荷札をつける。市松、名を残せ」
市松が小札へ書く。
嘉平、布、針。南谷奥普請へ同行。
嘉平はその文字を見て、嫌そうな顔をしながらも、荷を下ろした。
昼前、南谷奥の崩れ道へ向かった一行は、昨日とは少し顔ぶれが違っていた。
足軽二人。
南谷の若者四人。
黒谷の若者二人。
太助。
善助。
宇平次。
佐太。
宗介。
そして商人の嘉平と、柏屋惣右衛門の供が一人。
惣右衛門本人は、城へ残った。
荷の預かりと、門前の商人への説明を見るためだった。
これは弥四郎の判断だった。
全員が現場へ出れば、門前が荒れる。
現場と門前を分ける。
それも必要だった。
崩れ道へ着くと、昨日より泥は落ち着いていた。
だが、上から細い水がまだ走っている。
放っておけば、また道の真ん中へ流れる。
太助が斜面を見た。
「今日は、道を広げねえ。水の逃げを太くする」
善助が頷く。
「深くせず、広く」
「そうだ」
嘉平は、最初は離れて立っていた。
草履が泥に入るのを嫌がっている。
佐太が小さく笑った。
「商人殿、そこは滑るぞ」
「分かっている」
「分かってねえ立ち方だ」
嘉平がむっとしたが、その直後、足元がずるりと滑った。
慌てて手をつく。
泥が袖についた。
南谷の若者が笑いかけて、宇平次に睨まれ、すぐ顔を戻した。
宗介は近づいて言った。
「荷を背負っていたら転んでいました」
嘉平は泥のついた手を見て、黙った。
「ここを通るなら、足場を見る必要があります」
「……分かった」
その声から、少しだけ棘が抜けていた。
作業は地味だった。
水の筋を横へ逃がす。
泥を掻く。
枝を敷く。
石を置く。
倒れ枝を運ぶ。
大きな音も、派手な場面もない。
ただ、同じ動きを何度も繰り返す。
嘉平は最初、枝一本を持つのにも戸惑っていた。
どれが使える枝か分からない。
太助が見かねて言う。
「濡れて重いのは下に敷くな。滑る。乾いた枝を先に持ってこい」
「どれが乾いている」
「持てば分かる」
嘉平は枝を持ち比べた。
分からない顔をした。
黒谷の若者が横から言った。
「軽い方です。あと、折った時の音」
一本を折る。
乾いた音。
もう一本は湿った音。
嘉平は目を瞬かせた。
「違うものだな」
「違います」
黒谷の若者が少し笑った。
「荷の布も、湿れば違うでしょう」
「それは分かる」
「山の枝も同じです」
嘉平は黙った。
それから、何も言わずに乾いた枝を選び始めた。
宗介はその様子を見て、少し胸が軽くなった。
説教より、手で触った方が早いことがある。
昼前、道の上から声がした。
「笠森の者か」
和木原の男が二人、立っていた。
昨日、遠くから見ていた者たちだろう。
腰に札がある。
今日は鉈も持っていない。
ただ見に来た、という顔をしている。
宇平次が前へ出る。
「何用だ」
「道普請とは熱心なことだ。笠森が黒谷の道を自分の道にするつもりかと思ってな」
また同じ言い方だった。
だが、今日は宗介より先に嘉平が反応した。
「違う」
全員が嘉平を見た。
泥のついた袖のまま、商人は少し気まずそうにしながらも続けた。
「これは、荷を通す者も手を貸している。笠森だけの道ではない」
和木原の男が鼻で笑う。
「商人に泥を掻かせるとはな。笠森札も落ちたものだ」
嘉平の顔が赤くなる。
だが、今度は惣右衛門の供が口を開いた。
「泥を知らぬ荷は、泥に食われます。柏屋はそう見ます」
和木原の男の笑みが消えた。
柏屋の名は、無視しにくい。
さらに黒谷の若者が言った。
「この道は、黒谷の炭も通る。南谷の者も使う。笠森の火所にもつながる。誰か一人の道じゃない」
善助も続けた。
「水を逃がさねば、南谷の水場にも泥が来ます」
太助が枝を肩に担いだまま言った。
「文句があるなら、一本運んでから言え」
和木原の男たちは、返事をしなかった。
普請の場は、口だけの者に冷たい。
泥を掻いている者の前で、道の理屈だけを言っても軽くなる。
宇平次が一歩近づいた。
「見るなら見ろ。邪魔をするなら下りろ」
男たちは舌打ちして、しばらく見ていたが、やがて去った。
追わなかった。
今日は追う日ではない。
道を通す日だった。
午後には、水の逃げ道が少し太くなった。
道の真ん中を流れていた泥水が、脇へ逸れていく。
足場も昨日より締まった。
荷車はまだ無理だ。
だが、小荷を持つ者なら、慎重に歩ける。
嘉平が自分の足で何度も確かめた。
「これなら、布を背負って通れる」
「今日の分だけです」
宗介は言った。
「明日も同じとは限りません」
嘉平は素直に頷いた。
「分かる。昨日なら、分からなかった」
その言葉だけで、今日来た意味はあった。
笠森へ戻る時、嘉平は自分から枝の束を背負った。
城の火所へ持ち帰るための乾いた枝だ。
「それも普請返しに入ります」
宗介が言うと、嘉平は苦笑した。
「勘定が細かい」
「細かくしないと揉めます」
「だが、今日は分かる」
嘉平は泥だらけの草鞋を見た。
「道にも腹があるというのは、こういうことか」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
「だが、面倒でなければ、道は残らんか」
宗介は頷いた。
門へ戻ると、惣右衛門が待っていた。
嘉平の泥だらけの姿を見ると、少しだけ目を細める。
「よい顔になりましたな」
「泥だらけなだけです」
「商人には、たまに必要です」
嘉平は反論しなかった。
弥四郎も庭へ出てきた。
宗介たちの報告を聞き終えると、門前に集まった商人たちへ向いた。
「南谷奥の道は、人と小荷のみ。荷車はまだ通さぬ。使う者は、道を傷めぬ荷に分けよ。通った者は、次に普請返しをせよ。枝、縄、石運び、人足。銭だけでは足りぬ」
商人たちがざわめく。
その中で、惣右衛門が静かに頭を下げた。
「柏屋は、その筋で尾張へ伝えましょう」
嘉平も続いた。
「今日通る荷は、半分に分けます。残りは明日、道を見てから」
別の商人が驚く。
「急ぎではなかったのか」
「急ぎだ。だから、流したくない」
その答えに、宗介は少しだけ笑いそうになった。
泥は、商人の言葉も変えるらしい。
夕方、城庭の板には新しい言葉が書かれた。
道の腹。
普請返し。
枝、縄、石、人足。
銭だけでは足りず。
人と小荷のみ。
荷車はまだ不可。
市松が炭を置いて言った。
「また増えたけど、今日は少し分かる」
「何が?」
「道も食うってこと」
宗介は頷いた。
「うん。道も食う」
市松は板を見て、少し考えた。
「じゃあ、食わせすぎたら太るのか?」
「太るというより、強くなるかな」
「強い道か」
「そう」
「悪くないな」
その夜の粥には、黒谷から届いた干し茸が少しだけ入った。
多くはない。
だが、匂いが違った。
泥を掻いた者も、門を守った者も、火所を見た者も、その香りに気づいた。
黒谷の返し。
普請飯の返し。
道を食わせた返し。
宗介は椀を両手で持った。
米は少ない。
粥は薄い。
それでも、昨日より少しだけ腹に落ちる味がした。
弥四郎が隣で言った。
「関を立てずに、道の値を取ったな」
「値というより、返しです」
「その違いを、和木原は嫌がるだろう」
「はい」
「なら、効いている」
弥四郎は干し茸の入った粥を啜った。
「道にも腹がある。覚えておく」
宗介は門の外を見た。
南谷奥の道は、まだ弱い。
荷車は通れない。
次の雨でまた崩れるかもしれない。
和木原も黙ってはいないだろう。
だが今日、商人が泥に手をついた。
黒谷が枝を返した。
南谷が水を逃がした。
足軽が鍬を持った。
道は、誰か一人のものではなくなり始めている。
それはまだ細い。
けれど、確かに通り始めた道だった。




