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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十九話 普請飯

 夜が明けると、笠森城の庭には泥の匂いが残っていた。


 昨日、南谷奥の坂で崩れた土が、まだ人の足にまとわりついているようだった。


 黒谷の怪我人は、城の隅に敷かれた藁の上で寝ている。


 名は久兵衛といった。


 足は腫れていた。


 骨が折れているかまでは分からない。


 だが、おきぬが添え木を当て、布で固く巻いている。昨夜より顔色は落ち着いていた。


「熱は?」


 久住宗介が問うと、おきぬは額に手を当てた。


「少しあるね。でも、昨日よりましだよ。無理に動かさなきゃ、命までは取られない」


 宗介は胸を撫で下ろした。


 人を助けた。


 だが、助けた後がある。


 食わせる。


 寝かせる。


 傷を見続ける。


 家へ返す。


 どれも、口で言うほど簡単ではない。


 久兵衛のそばには、黒谷の若者が二人座っていた。昨日、荷車を押さえていた者たちである。


 彼らは昨夜、半椀の粥を受け取り、そのまま城に泊まった。


 眠れた顔ではなかった。


 心配と疲れが混じっている。


 宗介は、彼らを見て思った。


 今日は、ただ道を直せばよい日ではない。


 人を動かし続ける日だ。


 粥の匂いが庭に広がる頃、片瀬弥四郎が広間から出てきた。


 宇平次、佐太、太助、喜兵衛、市松、南谷の善助も呼ばれている。


 弥四郎は短く言った。


「今日は、南谷奥の崩れた道を見に行く」


 庭が静まった。


「荷車を出す。炭を濡らさぬ。水を逃がす。崩れを広げぬ。できるところまでやる」


 宇平次が頷く。


「人を出します」


 その時、足軽の一人が渋い顔をした。


「若様。城の者が、炭焼きの道まで直すので?」


 声は小さかった。


 だが、皆に聞こえた。


 宗介はその足軽を見た。


 責める気にはなれなかった。


 足軽には足軽の腹がある。


 城を守るためにいる。


 槍を持つためにいる。


 山の泥を掻くために来たのではない。


 そう思うのは当然だった。


 弥四郎は怒らなかった。


「炭焼きの道ではない」


 静かに言った。


「笠森の火所へ炭が来る道だ。火所が止まれば、商人の荷が乾かぬ。荷が止まれば、塩も針も縄も細る。塩が細れば、城の粥も痩せる」


 足軽は黙った。


「泥を掻くのが嫌なら、冷えた粥を食え」


 弥四郎の声は低い。


「温かい粥を食うなら、火を支える道も見ろ」


 それ以上、誰も言わなかった。


 宗介は息を吐いた。


 弥四郎は、戦の言葉ではなく、腹の言葉で押した。


 それが今の笠森には効く。


「宗介」


「はい」


「今日の普請、どう食わせる」


 宗介は一瞬、答えに詰まった。


 人を出す。


 道を掻く。


 荷車を出す。


 ならば飯がいる。


 現場で腹が空けば、手が止まる。


 水が足りなければ、倒れる。


 だが、粥をそのまま山へ運べばこぼれる。


 椀も足りない。


 火を現場で使えば、また火の問題が出る。


「粥ではなく、握り飯にします」


 宗介は言った。


 喜兵衛が眉を上げる。


「米を握るか」


「小さく。味噌を薄く塗ります。多くは出せません。一人二つ。重い仕事の者は三つ。ただし、城へ戻ったら粥は薄め」


 おきぬが竈から言った。


「握るなら、手を洗わせな。泥手で触ったら腹を壊すよ」


「はい」


「味噌は塗りすぎない。喉が渇く」


「水は竹筒で分けます。飲み水と泥洗い水を分ける。現場で火は使わない」


 太助が頷いた。


「火を使ったら煙が上がる。昨日の崩れ場じゃ余計な火はいらねえ」


「普請飯だな」


 喜兵衛が言った。


 宗介はその言葉を繰り返した。


 普請飯。


 道を直すための飯。


 戦の飯ではない。


 商人へ出す飯でもない。


 城と谷と山の者が、同じ泥の上で手を動かすための飯。


「はい。普請飯です」


 市松が小札を持っていた。


「書く?」


「人数だけ」


 宗介は言った。


「今日は、飯を出す相手を間違えないように。足軽、南谷、黒谷、太助たち。誰が働いたかだけ残す。細かいことは帰ってから」


 市松は少し驚いた顔をした。


「本当に板じゃないんだな」


「現場では手を動かします」


「珍しい」


「俺もそう思います」


 市松は小さく笑った。


 それから、城庭は飯を作る場所になった。


 おきぬが炊けた米を広げる。


 女衆が手を洗い、握る。


 味噌を薄く塗る。


 竹の皮に包む。


 水は竹筒へ。


 泥洗い用の水桶には、飲むなと大きく傷をつけた木片を結ぶ。


 喜兵衛は米の減りを見て、顔をしかめていた。


「食わせれば減るな」


「はい」


「だが、食わせねば動かぬ」


「はい」


「嫌な仕事だ」


「本当に」


 宗介は苦笑した。


 南谷奥の崩れ道へ向かう一行は、昨日より多かった。


 宇平次と佐太。


 足軽四人。


 南谷の若者六人。


 黒谷の若者二人。


 太助。


 宗介。


 そして、善助。


 荷は、縄、鍬、斧、鉈、竹筒、普請飯。


 槍より、道具が多い。


 道中、足軽の一人がぼやいた。


「槍より鍬が重い」


 南谷の若者が笑う。


「土は斬れねえからな」


「斬れたら楽だ」


「斬ったら崩れるぞ」


 その会話に、少しだけ空気が緩んだ。


 宗介は後ろで息を切らしながら、それを聞いていた。


 笑えるなら、まだ動ける。


 昨日の崩れ場へ着くと、土の色はさらに悪くなっていた。


 夜の間に、また少し流れたらしい。


 荷車は昨日のまま、道脇に固定されている。


 車輪の片方は泥に埋まり、軸が少し歪んでいた。


 炭小俵はすでに城へ運んだ。


 残っているのは車と、崩れた道そのものだ。


 太助が上を見た。


「今日は、上を先に見る」


 宇平次が頷く。


「下を掻く前にか」


「下だけ掻くと、上からまた来る」


 太助は斜面を指した。


「水がここを走ってる。昨日逃がした水は効いてるけど、上で別の筋ができてる」


 善助が水の流れを見た。


「南谷の田でも、こういう時は上の筋を切ります」


「どう切る」


「深く掘らない。浅く横へ逃がす。深くやると、そこがまた崩れる」


 太助が頷く。


「同じだ」


 宗介は二人を見た。


 山を見る太助。


 水を見る善助。


 言葉は違うが、同じ場所を見ている。


 ここに宇平次が人を分ける。


 佐太が縄を張る。


 足軽が泥を掻く。


 南谷の若者が枝を運ぶ。


 黒谷の若者が荷車の癖を見る。


 昨日は急場だった。


 今日は、少しだけ形になる。


「まず、上の水を逃がします」


 宗介が言った。


「その間、荷車には触らない。次に足場を広げる。それから車輪の下を掘る。最後に縄で引く」


 宇平次が即座に人を分けた。


「太助、善助、上を見る。南谷二人、つけ。足軽二人、泥を掻け。黒谷の二人は車を見るな。まだ触るな。佐太、縄を準備。宗介は下がって見ろ」


「はい」


 宗介は素直に下がった。


 下がって見なければ、全体が見えない。


 自分が泥を掻けば、たぶん邪魔になる。


 それも分かってきた。


 作業は、思ったよりも苦しかった。


 泥は重い。


 鍬を入れるたび、土がまとわりつく。


 枝を敷いても、足が沈む。


 昨日作った仮道は、半分ほど崩れていた。


 太助が倒れ枝を選ぶ。


「生きた木は切るな。昨日残すって決めた木は触るな。倒れた枝から使え」


 足軽が苛立った。


「目の前の木を切れば早いだろ」


「早いだけだ」


 太助は言い返した。


「今切れば、次の雨でまた落ちる」


「また残す木か」


「そうだ」


 足軽は舌打ちしたが、斧を下ろした。


 昨日の話が、少しは届いている。


 善助は水の筋へ鍬を入れた。


「ここを横へ。深くするな。水が通ればいい」


 南谷の若者が続く。


 水が少しずつ道の端へ逃げる。


 泥の流れが弱くなる。


 それを見て、宇平次が言った。


「荷車にかかる」


 黒谷の若者たちが前へ出た。


「車輪はこっちが見ます」


「軸が曲がってる。無理に引くと折れる」


「なら、先に泥を抜く」


「下から石を噛ませる」


 昨日まで遠慮していた声が、今日は出ている。


 自分たちの荷車だからだ。


 自分たちの道だからだ。


 宇平次も口を挟みすぎなかった。


 必要な時だけ、縄の位置を決める。


「押すな。引く。押すと谷側へ落ちる」


 宗介が言うと、佐太が縄を張り直した。


「こっちか」


「はい。山側へ少し寄せながら」


「力がいるな」


「一度で動かさないでください。少しずつ」


 普請飯を食べたのは、昼少し前だった。


 全員が泥だらけになっていた。


 手を洗う水は少ない。


 飲み水とは別にした泥洗い水で、指先だけを洗う。


 おきぬの言いつけ通り、泥手で握り飯に触れないようにする。


 味噌を薄く塗った小さな握り飯。


 それだけだった。


 だが、泥の上で食うと、妙にうまかった。


 足軽も、南谷の若者も、黒谷の若者も、同じように腰を下ろして食べた。


「これ、戦の飯よりうまいな」


 足軽の一人が言った。


 南谷の若者が笑う。


「泥が味を足してるんじゃねえか」


「嫌な味だな」


 黒谷の若者が、握り飯を見てぽつりと言った。


「昨日、親父を運んだ時は、腹が空いてるのも分からなかった」


 太助が横で言う。


「今日は分かるなら、生きてる」


 黒谷の若者は少し笑った。


「そうだな」


 宗介は、その光景を見た。


 同じ飯を食べている。


 それだけで、完全に仲間になるわけではない。


 だが、昨日よりは近い。


 飯は腹に入る。


 腹に入ったものは、嘘をつきにくい。


 休みは短かった。


 午後、荷車を動かす。


 車輪の下の泥を抜き、石を噛ませ、縄を三方向へ張った。


 山側へ倒れないよう一本。


 前へ引く一本。


 谷側へ落ちないよう支える一本。


 宇平次が声を張った。


「俺の声で引け。勝手に力を入れるな」


 皆が縄を持つ。


 宗介は荷車の傾きを見た。


「少しだけ」


 宇平次が叫ぶ。


「引け!」


 縄が張る。


 荷車が軋む。


 動かない。


 もう一度。


 泥が音を立てる。


 車輪がわずかに浮く。


「止め!」


 宇平次の声で止まる。


 佐太が石を差し込む。


 黒谷の若者が軸を見て頷く。


「まだ折れてない」


「次」


 三度目で、車輪が泥から抜けた。


 全員が息を呑む。


 荷車は大きく揺れたが、谷側へ落ちなかった。


 支え縄が効いている。


「よし!」


 南谷の若者が声を上げた。


 足軽が泥のついた手を振る。


「動いたぞ!」


 黒谷の若者たちは、しばらく声も出ないようだった。


 それから、ひとりが深く頭を下げた。


「車が戻った」


 太助が言った。


「まだ走らねえ。軸を直してからだ」


「分かってる」


 だが、顔は明るかった。


 車を捨てずに済んだ。


 それだけで、黒谷にとっては大きい。


 荷車は、坂下の少し広い場所まで下ろされた。


 そこに置き、後で彦蔵が修理することになった。


 道は完全には直っていない。


 だが、人と小荷は通れる。


 荷車はまだ無理。


 宗介は、それをはっきり言った。


「今日はここまでです」


 足軽が不満そうに言う。


「まだ日がある」


「無理に広げると、また崩れます」


 太助も頷く。


「今日は水を逃がして、車を出した。これ以上いじると山が怒る」


 善助も言った。


「水の筋が落ち着くまで待った方がいい」


 宇平次は少し考え、頷いた。


「引き上げる」


 まだやれる。


 そう思う者もいた。


 だが、昨日からの流れで、皆も分かり始めていた。


 止めるのも仕事だ。


 無理に進めない。


 道普請でも同じだった。


 笠森へ戻る途中、和木原の者らしき二人が遠くから見ていた。


 近づいては来ない。


 ただ、崩れ場と荷車を見て、何かを話している。


 佐太が槍に手をかけた。


 宇平次が止める。


「追うな」


「見られてます」


「見せておけ」


 宇平次は泥だらけの手を見せるように掲げた。


「今日は、隠す仕事じゃない」


 宗介はその言葉に頷いた。


 確かにそうだ。


 道を直した。


 人を助けた。


 荷車を出した。


 見られて困ることではない。


 むしろ、そこにいた者が多いほど、和木原の噂は弱くなる。


 城へ戻ると、久兵衛が目を覚ましていた。


 黒谷の若者が荷車を出したことを告げると、久兵衛は目を閉じた。


「車は」


「坂下に置いた。軸は曲がってるけど、直せる」


「炭は」


「濡れてない」


 久兵衛は、長く息を吐いた。


「人は」


 その問いに、若者は一瞬止まった。


 それから答えた。


「みんな戻った」


 久兵衛は小さく頷いた。


「なら、いい」


 宗介はその言葉を聞いて、昨日の太助を思い出した。


 今日は、人を先に見た。


 黒谷の久兵衛も、最後に人を聞いた。


 炭より、車より、人。


 それは当たり前のようで、当たり前ではない。


 弥四郎は、庭に戻った者たちを見た。


 泥だらけの足軽。


 南谷の若者。


 黒谷の若者。


 太助。


 宇平次。


 佐太。


 宗介。


「今日の普請、名を残す」


 市松が小札を広げる。


「足軽四人。南谷六人。黒谷二人。太助、善助、宇平次、佐太、宗介。怪我人、久兵衛。荷車、坂下へ出す。道、人と小荷のみ。荷車はまだ不可」


 弥四郎は頷いた。


「明日、彦蔵へ伝える。笠森は、道が落ち着くまで大荷を通さぬ。炭は小分け。荷車は直してから」


 宗介は答えた。


「はい」


「普請飯はどうだった」


「足りました。ですが、米は減りました。明日も同じ人数なら、城の粥がさらに薄くなります」


 喜兵衛が横から言った。


「普請飯を続けるなら、黒谷から炭だけでなく、山菜や乾いた枝も戻してもらう必要がある」


 黒谷の若者がすぐに顔を上げた。


「持ってきます。山菜は少しなら。乾いた枝も」


 弥四郎は頷いた。


「無理にではない。出せる分でよい。笠森もただ食わせ続けることはできぬ。だが、働く者に飯は出す」


 その線は、誰にも冷たく聞こえなかった。


 むしろ、黒谷の若者たちは安心したようだった。


 ただで世話になるより、返せるものがある方がよい。


 それもまた、腹の道理だった。


 夜、粥は薄かった。


 だが、普請に出た者たちは、黙って飲んだ。


 泥の疲れが体に残っている。


 足軽の一人が、椀を見ながら言った。


「鍬も、慣れれば悪くないな」


 佐太が笑った。


「槍より似合ってたぞ」


「うるせえ」


 南谷の若者が吹き出した。


 黒谷の若者も笑った。


 宗介は、その笑いを聞いていた。


 昨日まで別々だった者たちが、同じ泥を掻いた。


 同じ普請飯を食べた。


 同じ薄い粥を飲んでいる。


 それだけで、道が直るわけではない。


 だが、道を直す手は増える。


 それは大きい。


 弥四郎が庭の隅で、泥のついた鍬を見て言った。


「宗介」


「はい」


「戦で人を動かすには、旗が要る。普請で人を動かすには、飯が要るのだな」


「はい」


「覚えておく」


 宗介は頷いた。


 普請飯。


 それは戦の兵糧とは違う。


 だが、腹を満たして人を動かすという意味では同じだった。


 刀を振れない自分でも、道をつなぐ飯なら考えられる。


 その飯で、足軽も、南谷も、黒谷も、同じ泥の上に立てる。


 笠森は今日、崩れた道を少し直した。


 だが、それ以上に、道を直すための腹を一つ覚えた。


第四十九話─了

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