第四十八話 崩れた道
朝の粥が配られる前に、南谷から鐘の音が聞こえた。
一つ。
二つ。
三つ。
間を置いて、また一つ。
火事ではない。
敵襲でもない。
だが、急ぎの合図だった。
久住宗介は、椀を手にしたまま顔を上げた。
庭の空気が変わる。
宇平次がすでに門へ走っていた。
片瀬弥四郎も、広間から出てくる。
「何だ」
ほどなく、善助が駆け込んできた。
肩で息をしている。
足元は泥まみれだった。
「南谷奥の坂が崩れました!」
宗介の胸が冷える。
昨日、黒谷の残す木に縄を結んだばかりだった。
山が崩れれば、水が濁る。
道が埋まる。
荷が止まる。
そう話していた。
それが、もう来たのか。
弥四郎が問う。
「人は」
「黒谷から戻る炭荷が一つ、坂下で止まっています。人は生きています。ただ、荷車が傾いて、道を塞いでおります」
「怪我は」
「一人、足を挟まれたかもしれません」
宇平次が顔を険しくした。
「佐太、縄。太助、行くぞ」
「へい」
太助はすでに立っていた。
宗介も動こうとしたが、弥四郎が見た。
「宗介」
「はい」
「お前は行けるか」
山道。
崩れた坂。
足を挟まれた者。
行きたくない。
怖い。
だが、行かなければ、何をどれだけ動かすか分からない。
「行きます」
弥四郎は頷いた。
「おきぬ、布と湯の支度。喜兵衛、粥を遅らせるな。腹を空かせたまま普請はできぬ。市松、今日は板ではなく小札を持て。誰がどこへ行ったかだけ残す」
市松が目を丸くする。
「板じゃないのか」
「庭で書いている暇はない」
弥四郎は短く言った。
「動く」
その一言で、城庭が動いた。
足軽が縄を出す。
南谷の若者が鍬を担ぐ。
太助は炭灰を入れていた袋を放り、代わりに斧と鉈を持った。
宇平次は槍ではなく、太い縄を肩にかけた。
宗介は、一瞬だけその光景に見入った。
いつものように板の前で話しているのではない。
人が動いている。
物が動いている。
笠森の腹と手足が、同時に動いていた。
南谷奥の坂へ向かう道は、途中から泥になった。
昨日見た若木の切り跡のある辺りを過ぎると、水が道を横切っていた。
細い水ではない。
山の斜面から泥を混ぜて流れ出し、道に茶色い筋を作っている。
太助が足を止めた。
「上で土が落ちてる」
「まだ崩れるか」
宇平次が問う。
「分からねえ。でも音がする」
全員が黙った。
確かに、山の上から小さく、ぱらぱらと土の落ちる音が聞こえる。
宗介の背筋に寒気が走った。
見えない上から、土が動いている。
槍を持った敵より、ずっと怖い。
「道の真ん中を行くな」
太助が言った。
「山側へ寄りすぎるな。谷側へも寄るな。足場を見ろ」
「お前が先に見ろ」
宇平次が命じる。
太助は頷き、低い姿勢で進んだ。
坂の曲がりへ出た時、崩れた場所が見えた。
道の山側が大きく削れ、泥と根と石が流れ出している。
倒れた若木が二本、道を横切っていた。
その下で、荷車が片側だけ傾いている。
車輪が泥にはまり、片方の軸が石に乗り上げていた。
黒谷の若者が二人、必死に荷を押さえている。
そのそばで、年配の男が足を抱えてうずくまっていた。
彦蔵ではない。
だが、黒谷の者だろう。
炭小俵がいくつか転がっていた。
濡れてはいない。
だが、このまま雨が来れば駄目になる。
「動くな!」
宇平次が声を張った。
「荷を押すな。先に人だ」
黒谷の若者が振り向く。
「荷車が倒れる!」
「倒れても人を潰すよりましだ!」
宇平次の声で、場が止まった。
宗介は息を切らしながら近づき、荷車を見た。
まずい。
荷を下ろさずに押している。
このまま車を動かせば、荷の重みで傾きが増し、足を挟まれた男へ落ちるかもしれない。
「荷を先に下ろします」
宗介は言った。
黒谷の若者が顔を歪める。
「炭が濡れる!」
「濡らさないように下ろします。荷車ごと倒れたら全部駄目です」
太助がすぐに動いた。
「小俵を三つずつ。谷側へ置くな。道の上、乾いたところへ。下に枝を敷け」
佐太が枝を切る。
南谷の若者が泥の少ない場所へ並べる。
宗介は、声を出し続けた。
「重いものを先に。上の軽いものを急に抜かない。片側だけ軽くしない。左右で分けて」
「左右?」
「片側だけ下ろすと、車がさらに傾きます」
黒谷の若者たちは、最初は戸惑った。
だが、太助が同じことを山の言葉で言い換えた。
「片腹だけ抜くな。車が怒る」
その言い方で、通じた。
少しずつ、炭小俵が下ろされる。
荷車の傾きが落ち着いたところで、宇平次と佐太が縄をかけた。
男の足は、車輪と石の間に挟まれていた。
骨が折れているかもしれない。
男は歯を食いしばり、呻いている。
宗介は膝が震えた。
血は少ない。
だが、痛みはひどそうだった。
「おきぬさんの布が来るまで、動かしすぎない方がいい」
「ここで待てるか」
宇平次が問う。
宗介は上を見た。
土が落ちている。
待てない。
「出します。でも、足を引っ張らない。車を少し浮かせて、石を抜く」
「縄で持ち上げるか」
「持ち上げすぎると倒れます。支えるだけ」
宇平次はすぐに理解した。
「佐太、太助、縄を張れ。南谷の者、丸太を噛ませろ。黒谷の若いの、勝手に押すな。俺の声で動け」
宗介は、口の中が乾いているのを感じた。
怖い。
だが、不思議と頭は動いていた。
荷を分ける。
重さを抜く。
支える。
引かない。
浮かせる。
逃がす。
現代の事故現場を思い出すほど鮮明ではない。
けれど、荷の重みと人の位置を見る感覚は同じだった。
「今だ」
宇平次の声。
縄が張られる。
荷車がわずかに浮く。
佐太が石をずらす。
太助が男の足元に差し込まれた泥を掻き出す。
男が呻いた。
「引くな!」
宗介は叫んだ。
「足を引かないで。車をもう少し」
ほんの少し。
それで足が抜けた。
男はその場に崩れた。
黒谷の若者が泣きそうな顔で駆け寄る。
「親父!」
「動かすな」
宇平次が止める。
すぐに、おきぬの支度を持った南谷の女衆が追いついた。
布。
添え木。
湯を入れた竹筒。
おきぬ本人はいない。
だが、何をするかは伝えられている。
宗介は感心する暇もなく、足を見た。
腫れている。
折れているかもしれない。
添え木で固定し、笠森へ運ぶしかない。
「戸板は」
佐太が問う。
南谷の若者が答える。
「後ろにあります」
「持ってこい」
男を戸板へ移す。
その間にも、上から小石が落ちた。
太助が叫ぶ。
「長居するな。次が来る」
人は助けた。
だが、道は塞がっている。
炭小俵も残っている。
荷車も傾いたまま。
このまま逃げれば、道はしばらく使えない。
黒谷の炭は止まる。
南谷奥の道も塞がる。
和木原が聞けば、必ず言うだろう。
笠森が山に手を出したから、道が崩れた。
黒谷炭は危ない。
笠森火所は続かない。
宗介は、泥の流れを見た。
完全に道を作り直すのは無理だ。
だが、仮に通すなら。
「荷車はここで捨てます」
黒谷の若者が目を剥く。
「捨てる?」
「今は動かせません。人を運ぶ道を先に作ります。炭は背負って分けて運ぶ」
「荷車がないと」
「荷車ごと助けようとすると、次に人が潰れます」
厳しい言葉だった。
だが、言うしかない。
太助が頷いた。
「宗介の言う通りだ。車は後だ。炭は小分けにする」
黒谷の若者は悔しそうに唇を噛んだ。
「車は借り物だ」
その一言で、宗介は胸が痛くなった。
車は財産だ。
捨てると言われて、簡単に頷けるものではない。
宇平次が言った。
「捨てるとは言っていない。今日は置く。道を固めてから引き出す」
宗介も頷いた。
「そうです。今日は人と炭を先に。車は後で出します。そのために、泥の流れを変えます」
「泥の流れ?」
宗介は道の山側を指した。
「水が道の真ん中を流れています。これを横へ逃がします。小さな溝を切って、枝を敷き、石で押さえる。道を直すのではなく、今日通る足場を作る」
太助が目を細める。
「枝を敷くなら、昨日残す木につけた縄のない倒れ枝を使う」
「生きた木は切らない」
「切らねえ」
動きが変わった。
救助から、道作りへ。
南谷の若者が鍬で泥を掻く。
佐太と太助が倒れ枝を切る。
宇平次が人を分ける。
黒谷の若者は、炭小俵を濡らさない場所へ運ぶ。
宗介は、泥の流れる先を見ていた。
水を完全に止めることはできない。
止めれば溜まって、また崩れる。
逃がす。
道の脇へ逃がす。
それだけでいい。
「ここ、深くしすぎない」
「何でだ」
「足を取られます。水が通ればいい」
「こっちの枝は」
「横に。縦に置くと滑ります」
「炭は」
「軽いものから背負わせて。濡れそうなものは真ん中」
声を出し続けるうちに、宗介の喉が痛くなった。
だが、誰も止まらない。
太助は泥だらけになりながら、枝を組んでいる。
宇平次は槍を置き、縄を引いている。
南谷の若者は、顔を泥だらけにして笑っていた。
「城の兵が泥を掻いてるぞ」
別の若者が言う。
宇平次が睨む。
「口を動かすなら手も動かせ」
「へい」
黒谷の若者も加わった。
さっきまで荷車にしがみついていた者たちが、今は炭を小分けにし、枝を運んでいる。
敵ではない。
味方でもない。
だが、同じ泥の上で手を動かせば、少しだけ同じ側になる。
昼近く、仮の足場ができた。
泥はまだ柔らかい。
荷車は通れない。
だが、人が炭小俵を背負って通るには足りる。
戸板で怪我人を運ぶにも、どうにか使える。
最初に怪我人を下ろした。
次に炭。
最後に道具。
荷車は、道脇に縄で固定した。
車輪の下に石を噛ませ、上から倒れ枝で覆う。
盗まれないように、黒谷の印をつける。
太助が言った。
「明日か明後日、道が落ち着いたら出せる」
黒谷の若者が頭を下げた。
「すまない」
「俺に言うな。彦蔵に言え」
太助はそっけなく返した。
だが、その声は冷たくなかった。
笠森へ戻る途中、怪我人は何度か呻いた。
宗介はそのたびに足を止めたくなったが、宇平次が進ませた。
「止まるな。城で手当てする」
門へ着くと、おきぬが待っていた。
「泥だらけだね」
「足を挟まれています」
「見れば分かるよ。湯、布、添え木。こっちへ」
怪我人は竈の近くではなく、別に敷かれた藁の上へ運ばれた。
竈は飯の場所。
手当ては手当ての場所。
それも、すでに分けられていた。
宗介は、そのことに少しだけ安心した。
炭小俵は、火所の脇に置かれた。
濡れていないもの。
湿りかけたもの。
泥のついたもの。
太助が分ける。
市松は小札を集めていた。
「今日は板じゃないって言ったのに、結局板が要るな」
「要ります」
宗介は疲れた声で答えた。
「でも、今日は後で書く」
市松は少し驚いた顔をした。
「後で?」
「今は、人が先です」
弥四郎がその言葉を聞いていた。
若い城主は、泥だらけの宇平次、太助、南谷の者、黒谷の若者たちを見回した。
「粥を出せ」
喜兵衛が眉を上げる。
「商人にもですか」
「怪我人を運んだ者、道を掻いた者には出す。商人ではなく、今日の普請人だ」
宗介は顔を上げた。
普請人。
その言葉で、黒谷の若者たちの顔が変わった。
ただ助けられた者ではない。
荷を運ぶ者でもない。
道を直した者。
今日の仕事に名がついた。
おきぬが粥をよそいながら言った。
「半椀だよ。働いたからって山盛りはないよ」
黒谷の若者が、何度も頭を下げた。
「十分です」
太助も半椀を受け取った。
泥のついた手を洗ってから、黙って啜る。
宇平次が隣に座った。
「道を作るのも、戦か」
太助がぽつりと言った。
「戦の前に、道がなけりゃ兵も荷も動かねえ」
「お前が言うと重いな」
「炭が重かっただけだ」
宇平次が少しだけ笑った。
その夕方、弥四郎は庭に人を集めた。
黒谷の若者も、南谷の者も、足軽もいた。
怪我人はまだ横になっている。
命に別状はなさそうだが、しばらく歩けないだろう。
弥四郎は、崩れた道から持ち帰った泥のついた枝を前に置いた。
「今日は、山の道が崩れた」
誰も口を挟まない。
「人を助けた。炭を分けて運んだ。荷車は残した。道は仮に通した。明日、もう一度見に行く」
弥四郎は、黒谷の若者を見る。
「笠森は、黒谷の荷車を奪わぬ。だが、今日は動かさなかった。人が先だからだ」
若者は深く頭を下げた。
「分かっております」
「太助」
「へい」
「明日、彦蔵とともに道を見る。残す木、切る枝、土を止める枝を分けろ」
「分かった」
「宗介」
「はい」
「今日のことは、札ではなく仕事として残せ。誰がどこを掻き、誰が怪我人を運び、誰が炭を背負ったか。次に同じことが起きた時、すぐ動けるように」
宗介は頷いた。
「はい」
これは、また違う仕事だった。
線を引くのではない。
手を残す仕事。
道が崩れた時、誰が何を持って走るのか。
荷をどう下ろすのか。
人を先に出すのか。
水をどこへ逃がすのか。
それは、札だけでは足りない。
身体で覚えたことを、次に渡すための仕事だった。
夜、笠森城の粥は薄かった。
働いた者が多かった分、米も水も減った。
だが、不思議と不満は少なかった。
泥を掻いた者たちは、半椀の粥を静かに飲んでいた。
黒谷の若者が、太助へ小さく言った。
「親父を助けてくれて、ありがとう」
太助は椀を見たまま答えた。
「俺だけじゃねえ」
「でも、あの時、荷を下ろせと言ってくれなかったら、車ごと倒れてた」
太助は少し黙り、言った。
「昔なら、炭を先に見たかもしれねえ」
黒谷の若者は返事をしなかった。
「今日は、人を先に見た」
太助は、それだけ言った。
宗介はその言葉を聞きながら、粥を啜った。
今日は、札が増えた日ではない。
道が崩れ、人を助け、荷を分け、泥を逃がした日だった。
水場でも、火所でも、炭窯でもない。
泥の坂の上で、笠森は動いた。
明日、和木原は噂を流すだろう。
笠森が山をいじったから道が崩れた。
黒谷炭は危ない。
笠森火所は続かない。
そう言うかもしれない。
だが、今日そこにいた者たちは見ている。
荷車を無理に押さなかったこと。
人を先に出したこと。
炭を小分けにしたこと。
水を止めず、逃がしたこと。
泥の上で手を動かしたこと。
宗介は椀を置いた。
体は重い。
足も痛い。
喉も枯れている。
それでも、今日は少しだけ違う重さだった。
守る線を引くだけではない。
崩れた道を、手でつなぐ。
笠森は、そのやり方も覚え始めていた。
第四十八話─了




