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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十八話 崩れた道

 朝の粥が配られる前に、南谷から鐘の音が聞こえた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 間を置いて、また一つ。


 火事ではない。


 敵襲でもない。


 だが、急ぎの合図だった。


 久住宗介は、椀を手にしたまま顔を上げた。


 庭の空気が変わる。


 宇平次がすでに門へ走っていた。


 片瀬弥四郎も、広間から出てくる。


「何だ」


 ほどなく、善助が駆け込んできた。


 肩で息をしている。


 足元は泥まみれだった。


「南谷奥の坂が崩れました!」


 宗介の胸が冷える。


 昨日、黒谷の残す木に縄を結んだばかりだった。


 山が崩れれば、水が濁る。


 道が埋まる。


 荷が止まる。


 そう話していた。


 それが、もう来たのか。


 弥四郎が問う。


「人は」


「黒谷から戻る炭荷が一つ、坂下で止まっています。人は生きています。ただ、荷車が傾いて、道を塞いでおります」


「怪我は」


「一人、足を挟まれたかもしれません」


 宇平次が顔を険しくした。


「佐太、縄。太助、行くぞ」


「へい」


 太助はすでに立っていた。


 宗介も動こうとしたが、弥四郎が見た。


「宗介」


「はい」


「お前は行けるか」


 山道。


 崩れた坂。


 足を挟まれた者。


 行きたくない。


 怖い。


 だが、行かなければ、何をどれだけ動かすか分からない。


「行きます」


 弥四郎は頷いた。


「おきぬ、布と湯の支度。喜兵衛、粥を遅らせるな。腹を空かせたまま普請はできぬ。市松、今日は板ではなく小札を持て。誰がどこへ行ったかだけ残す」


 市松が目を丸くする。


「板じゃないのか」


「庭で書いている暇はない」


 弥四郎は短く言った。


「動く」


 その一言で、城庭が動いた。


 足軽が縄を出す。


 南谷の若者が鍬を担ぐ。


 太助は炭灰を入れていた袋を放り、代わりに斧と鉈を持った。


 宇平次は槍ではなく、太い縄を肩にかけた。


 宗介は、一瞬だけその光景に見入った。


 いつものように板の前で話しているのではない。


 人が動いている。


 物が動いている。


 笠森の腹と手足が、同時に動いていた。


 南谷奥の坂へ向かう道は、途中から泥になった。


 昨日見た若木の切り跡のある辺りを過ぎると、水が道を横切っていた。


 細い水ではない。


 山の斜面から泥を混ぜて流れ出し、道に茶色い筋を作っている。


 太助が足を止めた。


「上で土が落ちてる」


「まだ崩れるか」


 宇平次が問う。


「分からねえ。でも音がする」


 全員が黙った。


 確かに、山の上から小さく、ぱらぱらと土の落ちる音が聞こえる。


 宗介の背筋に寒気が走った。


 見えない上から、土が動いている。


 槍を持った敵より、ずっと怖い。


「道の真ん中を行くな」


 太助が言った。


「山側へ寄りすぎるな。谷側へも寄るな。足場を見ろ」


「お前が先に見ろ」


 宇平次が命じる。


 太助は頷き、低い姿勢で進んだ。


 坂の曲がりへ出た時、崩れた場所が見えた。


 道の山側が大きく削れ、泥と根と石が流れ出している。


 倒れた若木が二本、道を横切っていた。


 その下で、荷車が片側だけ傾いている。


 車輪が泥にはまり、片方の軸が石に乗り上げていた。


 黒谷の若者が二人、必死に荷を押さえている。


 そのそばで、年配の男が足を抱えてうずくまっていた。


 彦蔵ではない。


 だが、黒谷の者だろう。


 炭小俵がいくつか転がっていた。


 濡れてはいない。


 だが、このまま雨が来れば駄目になる。


「動くな!」


 宇平次が声を張った。


「荷を押すな。先に人だ」


 黒谷の若者が振り向く。


「荷車が倒れる!」


「倒れても人を潰すよりましだ!」


 宇平次の声で、場が止まった。


 宗介は息を切らしながら近づき、荷車を見た。


 まずい。


 荷を下ろさずに押している。


 このまま車を動かせば、荷の重みで傾きが増し、足を挟まれた男へ落ちるかもしれない。


「荷を先に下ろします」


 宗介は言った。


 黒谷の若者が顔を歪める。


「炭が濡れる!」


「濡らさないように下ろします。荷車ごと倒れたら全部駄目です」


 太助がすぐに動いた。


「小俵を三つずつ。谷側へ置くな。道の上、乾いたところへ。下に枝を敷け」


 佐太が枝を切る。


 南谷の若者が泥の少ない場所へ並べる。


 宗介は、声を出し続けた。


「重いものを先に。上の軽いものを急に抜かない。片側だけ軽くしない。左右で分けて」


「左右?」


「片側だけ下ろすと、車がさらに傾きます」


 黒谷の若者たちは、最初は戸惑った。


 だが、太助が同じことを山の言葉で言い換えた。


「片腹だけ抜くな。車が怒る」


 その言い方で、通じた。


 少しずつ、炭小俵が下ろされる。


 荷車の傾きが落ち着いたところで、宇平次と佐太が縄をかけた。


 男の足は、車輪と石の間に挟まれていた。


 骨が折れているかもしれない。


 男は歯を食いしばり、呻いている。


 宗介は膝が震えた。


 血は少ない。


 だが、痛みはひどそうだった。


「おきぬさんの布が来るまで、動かしすぎない方がいい」


「ここで待てるか」


 宇平次が問う。


 宗介は上を見た。


 土が落ちている。


 待てない。


「出します。でも、足を引っ張らない。車を少し浮かせて、石を抜く」


「縄で持ち上げるか」


「持ち上げすぎると倒れます。支えるだけ」


 宇平次はすぐに理解した。


「佐太、太助、縄を張れ。南谷の者、丸太を噛ませろ。黒谷の若いの、勝手に押すな。俺の声で動け」


 宗介は、口の中が乾いているのを感じた。


 怖い。


 だが、不思議と頭は動いていた。


 荷を分ける。


 重さを抜く。


 支える。


 引かない。


 浮かせる。


 逃がす。


 現代の事故現場を思い出すほど鮮明ではない。


 けれど、荷の重みと人の位置を見る感覚は同じだった。


「今だ」


 宇平次の声。


 縄が張られる。


 荷車がわずかに浮く。


 佐太が石をずらす。


 太助が男の足元に差し込まれた泥を掻き出す。


 男が呻いた。


「引くな!」


 宗介は叫んだ。


「足を引かないで。車をもう少し」


 ほんの少し。


 それで足が抜けた。


 男はその場に崩れた。


 黒谷の若者が泣きそうな顔で駆け寄る。


「親父!」


「動かすな」


 宇平次が止める。


 すぐに、おきぬの支度を持った南谷の女衆が追いついた。


 布。


 添え木。


 湯を入れた竹筒。


 おきぬ本人はいない。


 だが、何をするかは伝えられている。


 宗介は感心する暇もなく、足を見た。


 腫れている。


 折れているかもしれない。


 添え木で固定し、笠森へ運ぶしかない。


「戸板は」


 佐太が問う。


 南谷の若者が答える。


「後ろにあります」


「持ってこい」


 男を戸板へ移す。


 その間にも、上から小石が落ちた。


 太助が叫ぶ。


「長居するな。次が来る」


 人は助けた。


 だが、道は塞がっている。


 炭小俵も残っている。


 荷車も傾いたまま。


 このまま逃げれば、道はしばらく使えない。


 黒谷の炭は止まる。


 南谷奥の道も塞がる。


 和木原が聞けば、必ず言うだろう。


 笠森が山に手を出したから、道が崩れた。


 黒谷炭は危ない。


 笠森火所は続かない。


 宗介は、泥の流れを見た。


 完全に道を作り直すのは無理だ。


 だが、仮に通すなら。


「荷車はここで捨てます」


 黒谷の若者が目を剥く。


「捨てる?」


「今は動かせません。人を運ぶ道を先に作ります。炭は背負って分けて運ぶ」


「荷車がないと」


「荷車ごと助けようとすると、次に人が潰れます」


 厳しい言葉だった。


 だが、言うしかない。


 太助が頷いた。


「宗介の言う通りだ。車は後だ。炭は小分けにする」


 黒谷の若者は悔しそうに唇を噛んだ。


「車は借り物だ」


 その一言で、宗介は胸が痛くなった。


 車は財産だ。


 捨てると言われて、簡単に頷けるものではない。


 宇平次が言った。


「捨てるとは言っていない。今日は置く。道を固めてから引き出す」


 宗介も頷いた。


「そうです。今日は人と炭を先に。車は後で出します。そのために、泥の流れを変えます」


「泥の流れ?」


 宗介は道の山側を指した。


「水が道の真ん中を流れています。これを横へ逃がします。小さな溝を切って、枝を敷き、石で押さえる。道を直すのではなく、今日通る足場を作る」


 太助が目を細める。


「枝を敷くなら、昨日残す木につけた縄のない倒れ枝を使う」


「生きた木は切らない」


「切らねえ」


 動きが変わった。


 救助から、道作りへ。


 南谷の若者が鍬で泥を掻く。


 佐太と太助が倒れ枝を切る。


 宇平次が人を分ける。


 黒谷の若者は、炭小俵を濡らさない場所へ運ぶ。


 宗介は、泥の流れる先を見ていた。


 水を完全に止めることはできない。


 止めれば溜まって、また崩れる。


 逃がす。


 道の脇へ逃がす。


 それだけでいい。


「ここ、深くしすぎない」


「何でだ」


「足を取られます。水が通ればいい」


「こっちの枝は」


「横に。縦に置くと滑ります」


「炭は」


「軽いものから背負わせて。濡れそうなものは真ん中」


 声を出し続けるうちに、宗介の喉が痛くなった。


 だが、誰も止まらない。


 太助は泥だらけになりながら、枝を組んでいる。


 宇平次は槍を置き、縄を引いている。


 南谷の若者は、顔を泥だらけにして笑っていた。


「城の兵が泥を掻いてるぞ」


 別の若者が言う。


 宇平次が睨む。


「口を動かすなら手も動かせ」


「へい」


 黒谷の若者も加わった。


 さっきまで荷車にしがみついていた者たちが、今は炭を小分けにし、枝を運んでいる。


 敵ではない。


 味方でもない。


 だが、同じ泥の上で手を動かせば、少しだけ同じ側になる。


 昼近く、仮の足場ができた。


 泥はまだ柔らかい。


 荷車は通れない。


 だが、人が炭小俵を背負って通るには足りる。


 戸板で怪我人を運ぶにも、どうにか使える。


 最初に怪我人を下ろした。


 次に炭。


 最後に道具。


 荷車は、道脇に縄で固定した。


 車輪の下に石を噛ませ、上から倒れ枝で覆う。


 盗まれないように、黒谷の印をつける。


 太助が言った。


「明日か明後日、道が落ち着いたら出せる」


 黒谷の若者が頭を下げた。


「すまない」


「俺に言うな。彦蔵に言え」


 太助はそっけなく返した。


 だが、その声は冷たくなかった。


 笠森へ戻る途中、怪我人は何度か呻いた。


 宗介はそのたびに足を止めたくなったが、宇平次が進ませた。


「止まるな。城で手当てする」


 門へ着くと、おきぬが待っていた。


「泥だらけだね」


「足を挟まれています」


「見れば分かるよ。湯、布、添え木。こっちへ」


 怪我人は竈の近くではなく、別に敷かれた藁の上へ運ばれた。


 竈は飯の場所。


 手当ては手当ての場所。


 それも、すでに分けられていた。


 宗介は、そのことに少しだけ安心した。


 炭小俵は、火所の脇に置かれた。


 濡れていないもの。


 湿りかけたもの。


 泥のついたもの。


 太助が分ける。


 市松は小札を集めていた。


「今日は板じゃないって言ったのに、結局板が要るな」


「要ります」


 宗介は疲れた声で答えた。


「でも、今日は後で書く」


 市松は少し驚いた顔をした。


「後で?」


「今は、人が先です」


 弥四郎がその言葉を聞いていた。


 若い城主は、泥だらけの宇平次、太助、南谷の者、黒谷の若者たちを見回した。


「粥を出せ」


 喜兵衛が眉を上げる。


「商人にもですか」


「怪我人を運んだ者、道を掻いた者には出す。商人ではなく、今日の普請人だ」


 宗介は顔を上げた。


 普請人。


 その言葉で、黒谷の若者たちの顔が変わった。


 ただ助けられた者ではない。


 荷を運ぶ者でもない。


 道を直した者。


 今日の仕事に名がついた。


 おきぬが粥をよそいながら言った。


「半椀だよ。働いたからって山盛りはないよ」


 黒谷の若者が、何度も頭を下げた。


「十分です」


 太助も半椀を受け取った。


 泥のついた手を洗ってから、黙って啜る。


 宇平次が隣に座った。


「道を作るのも、戦か」


 太助がぽつりと言った。


「戦の前に、道がなけりゃ兵も荷も動かねえ」


「お前が言うと重いな」


「炭が重かっただけだ」


 宇平次が少しだけ笑った。


 その夕方、弥四郎は庭に人を集めた。


 黒谷の若者も、南谷の者も、足軽もいた。


 怪我人はまだ横になっている。


 命に別状はなさそうだが、しばらく歩けないだろう。


 弥四郎は、崩れた道から持ち帰った泥のついた枝を前に置いた。


「今日は、山の道が崩れた」


 誰も口を挟まない。


「人を助けた。炭を分けて運んだ。荷車は残した。道は仮に通した。明日、もう一度見に行く」


 弥四郎は、黒谷の若者を見る。


「笠森は、黒谷の荷車を奪わぬ。だが、今日は動かさなかった。人が先だからだ」


 若者は深く頭を下げた。


「分かっております」


「太助」


「へい」


「明日、彦蔵とともに道を見る。残す木、切る枝、土を止める枝を分けろ」


「分かった」


「宗介」


「はい」


「今日のことは、札ではなく仕事として残せ。誰がどこを掻き、誰が怪我人を運び、誰が炭を背負ったか。次に同じことが起きた時、すぐ動けるように」


 宗介は頷いた。


「はい」


 これは、また違う仕事だった。


 線を引くのではない。


 手を残す仕事。


 道が崩れた時、誰が何を持って走るのか。


 荷をどう下ろすのか。


 人を先に出すのか。


 水をどこへ逃がすのか。


 それは、札だけでは足りない。


 身体で覚えたことを、次に渡すための仕事だった。


 夜、笠森城の粥は薄かった。


 働いた者が多かった分、米も水も減った。


 だが、不思議と不満は少なかった。


 泥を掻いた者たちは、半椀の粥を静かに飲んでいた。


 黒谷の若者が、太助へ小さく言った。


「親父を助けてくれて、ありがとう」


 太助は椀を見たまま答えた。


「俺だけじゃねえ」


「でも、あの時、荷を下ろせと言ってくれなかったら、車ごと倒れてた」


 太助は少し黙り、言った。


「昔なら、炭を先に見たかもしれねえ」


 黒谷の若者は返事をしなかった。


「今日は、人を先に見た」


 太助は、それだけ言った。


 宗介はその言葉を聞きながら、粥を啜った。


 今日は、札が増えた日ではない。


 道が崩れ、人を助け、荷を分け、泥を逃がした日だった。


 水場でも、火所でも、炭窯でもない。


 泥の坂の上で、笠森は動いた。


 明日、和木原は噂を流すだろう。


 笠森が山をいじったから道が崩れた。


 黒谷炭は危ない。


 笠森火所は続かない。


 そう言うかもしれない。


 だが、今日そこにいた者たちは見ている。


 荷車を無理に押さなかったこと。


 人を先に出したこと。


 炭を小分けにしたこと。


 水を止めず、逃がしたこと。


 泥の上で手を動かしたこと。


 宗介は椀を置いた。


 体は重い。


 足も痛い。


 喉も枯れている。


 それでも、今日は少しだけ違う重さだった。


 守る線を引くだけではない。


 崩れた道を、手でつなぐ。


 笠森は、そのやり方も覚え始めていた。


第四十八話─了

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