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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十七話 残す木

 翌朝、笠森城の火所には、三つの灰が並べられていた。


 黒谷炭の灰。


 湿った藁の灰。


 油を含んだ灰。


 見た目は、どれも似ている。


 だが、久住宗介はそれを混ぜさせなかった。


「これは黒谷へ戻す灰です」


 宗介は、黒谷炭だけを燃やした灰を指した。


「こっちは戻しません。油と藁が混じっています。畑に入れるには危ない」


 太助が灰を指でつまみ、匂いを嗅いだ。


「そうだな。油を食った灰は戻しちゃ駄目だ。畑に入れたら嫌がられる」


 おきぬが竈のそばから言った。


「灰まで分けるようになるとはねえ」


「混ぜたら返せません」


「分かってるよ。けど、飯炊き場より細かいね」


 おきぬは呆れたように笑った。


 片瀬弥四郎は、庭でその灰を見ていた。


 若い城主の顔は険しい。


 昨日、黒谷で炭を買った。


 今日、その灰を返す。


 ただそれだけなら、穏やかな話で済むはずだった。


 だが、和木原は黒谷の炭を押さえようとしていた。


 炭を押さえるということは、山を押さえるということだ。


 弥四郎は宗介へ言った。


「灰を返してこい」


「はい」


「ただ返すだけではない。黒谷の山を見ろ。和木原が次に何を押さえるかも見る」


「承知しました」


「太助」


「へい」


「炭にする木と、残す木を見分けろ。山の者が嫌がることを、笠森がするな」


 太助は深く頷いた。


「分かってる」


 宇平次と佐太がついた。


 弥四郎は行かない。


 昨日、最初の取引には自ら出た。


 だが、毎度若い城主が山へ出れば、城が空く。


 それに、黒谷と笠森の付き合いは、弥四郎一人の顔だけで続くものではない。


 宗介は灰を包んだ小袋を持った。


 軽い。


 だが、これも約束の重さだった。


 黒谷への道は、昨日より少し乾いていた。


 それでも、宗介の足にはきつい。


 太助は前を歩きながら、あちこちに目をやっている。


 山へ入ると、彼の顔つきはやはり変わった。


 枝の折れ方。


 土の崩れ方。


 風の抜け方。


 そういうものを、言葉にしないまま拾っていく。


「ここ、昨日より荒れてる」


 太助が足を止めた。


 道脇の若木が、何本か切られていた。


 切り口は新しい。


 だが、切り方が雑だった。


 斜めに裂け、根元の皮が剥がれている。


 佐太が眉をひそめた。


「薪か」


「薪にも炭にも半端だ」


 太助は切り口を見た。


「乾かさなきゃ煙だらけになる。炭にするにも細すぎる。嫌がらせか、木を知らねえ奴の仕事だな」


 宗介は胸が重くなった。


 水場を荒らす。


 火を乱す。


 炭を押さえる。


 今度は木そのものか。


「証になりますか」


「なる。だが、これだけじゃ弱い」


 太助は一本の切れ端を拾った。


「持っていく。彦蔵に見せる」


 黒谷へ着くと、彦蔵は炭窯の前にいた。


 昨日より少しだけ、表情が柔らかい。


 だが、宗介たちが近づくと、すぐに目が灰の包みに向いた。


「本当に持ってきたのか」


「返すと言いましたから」


 宗介は包みを差し出した。


「黒谷炭だけの灰です。油や藁が混じったものは戻しません」


 彦蔵は包みを開け、灰を指で触った。


 匂いを嗅ぐ。


 しばらく黙っていた。


「城が灰を分けるとはな」


「混ぜたら、約束を返せません」


「面倒な城だ」


「よく言われます」


 彦蔵は小さく笑った。


 その笑いは、昨日より自然だった。


 太助が、持ってきた若木の切れ端を出した。


「道の途中で見つけた。黒谷の木か」


 彦蔵の顔がすぐに変わった。


 切れ端を手に取り、断面を見る。


「これは谷口の若木だ」


「やっぱりか」


「誰が切った」


「分からねえ。ただ、切り方がひどい」


 彦蔵は奥歯を噛んだ。


「和木原の者が、昨日の夕方に来た。黒谷の炭を押さえると言ってな。断れば、山の木を勝手に改めると」


「改める?」


 宇平次が低く問う。


「炭に使える木を、和木原が決めると言っていた」


 彦蔵は谷の奥を指した。


「今朝見たら、何本かに印がついていた」


 宗介たちは、彦蔵について谷の奥へ進んだ。


 そこには、幹に浅く傷をつけられた木が何本もあった。


 一本や二本ではない。


 若い木。


 曲がった木。


 根元が谷の土を抱えている木。


 太助の顔が険しくなる。


「これは駄目だ」


「炭にできないのか」


 宗介が聞くと、太助は首を振った。


「炭にはなる木もある。けど、今切る木じゃねえ」


「どう違う」


「この根元を見ろ」


 太助は一本の木の根元を指した。


 根が土を掴むように張っている。


 その下は、細い水の流れだった。


「これを切ると、雨の時に土が落ちる。土が落ちれば、水が濁る。下の道も荒れる」


 次に、細い若木を叩く。


「これはまだ早い。今切れば、一度の炭にはなるかもしれねえが、次が続かない」


 さらに、倒れかけた古い木を示した。


「こっちは使える。倒れかけてるし、乾きも入ってる。枝も落とせる。こういうのを選ぶ」


 彦蔵が頷いた。


「太助の目は合っている」


 宗介は木々を見た。


 山にも、残すものと使うものがある。


 当たり前の話だった。


 だが、山を知らない者がただ炭だけを欲しがれば、切りやすい木から切る。


 運びやすい木から切る。


 根が土を抱えているか、若すぎるか、次が残るか。


 そんなことは見ない。


 それでは、炭は一時増えても、山が痩せる。


 山が痩せれば、水が濁る。


 水が濁れば、水札も火所も崩れる。


 宗介は息を吐いた。


 また、つながってしまった。


 火のために炭を見る。


 炭のために山を見る。


 山を見ると、水へ戻る。


「印を分けましょう」


 宗介は言った。


 太助と彦蔵が振り向く。


「和木原がつけた傷と、黒谷が残す印を分けます」


「また札か」


 佐太がぼそりと言った。


 宗介は首を振った。


「札ではなく、縄で」


 彦蔵が目を細める。


「縄?」


「切ってよい木に印をつけると、誰かが勝手に増やせます。だから、残す木に縄を結ぶ。切ってはいけない木を先に決めるんです」


 太助が少し考え、頷いた。


「いいな。残す木に縄。切る木は、彦蔵がその場で見て決める」


「はい。残す木は、根が土を抱える木。水のそばの木。若すぎる木。山の風を止めている木」


「風を止める木まで見るのか」


 彦蔵が問う。


 太助が答えた。


「見る。風が抜けすぎると、火も乾きも荒れる」


 彦蔵は太助を見た。


「お前、昔より口が立つな」


「笠森にいると、板に書かれるからな」


 太助は少しだけ笑った。


 彦蔵も笑いかけたが、すぐ真顔に戻った。


「縄はあるのか」


 宗介は持ってきた細縄を出した。


 昨日、炭代として渡したものとは別に、弥四郎が持たせたものだった。


 多くはない。


 だが、最初の印には足りる。


「まず、水のそばだけでも」


 彦蔵は頷いた。


「やる」


 作業はすぐ始まった。


 太助が木を見る。


 彦蔵が確かめる。


 宗介が理由を聞き、板片に残す。


 宇平次と佐太は周囲を警戒する。


 残す木には、細縄を低く結ぶ。


 遠くから目立ちすぎず、近づけば分かる高さ。


 切るための印ではない。


 残すための印。


 宗介はその意味を、何度も頭の中で繰り返した。


 しばらくして、谷口から声が飛んだ。


「何をしている!」


 和木原の男が三人、現れた。


 昨日の者とは違う。


 だが、腰には和木原札がある。


 ひとりは鉈を持っていた。


「その木は、和木原が改める木だ。勝手に縄をつけるな」


 宇平次が前に出る。


「ここは黒谷だ。彦蔵が残す木を決めている」


「山の木は、黒谷だけのものではない。道を使う者にも関わる」


 男は声を張った。


「笠森は、山まで押さえるつもりか」


 昨日と同じだ。


 水を押さえる。


 火を押さえる。


 炭を押さえる。


 今度は山を押さえると言う。


 言い方を変えながら、笠森を支配者に見せる。


 宗介は一歩前へ出た。


 怖い。


 鉈を持つ男は怖い。


 だが、ここで黙れば、また言葉を奪われる。


「押さえません」


 宗介は言った。


「残す木を決めています」


「同じことだろう」


「違います。切る木を笠森が決めているのではありません。黒谷の彦蔵さんが、切ってはいけない木を決めています」


 男は鼻で笑った。


「言葉遊びだ」


「切ってはいけない木を切れば、土が落ちます」


 宗介は水の流れを指した。


「土が落ちれば、水が濁ります。水が濁れば、南谷の水場も、槙尾西沢も荒れます。炭を取るために水場を壊せば、商人の道も壊れます」


 男は言い返そうとしたが、太助が割り込んだ。


「お前らが印をつけた木、あれを切る気だったのか」


「炭にする木だ」


「馬鹿言うな」


 太助の声が低くなった。


「あれを切れば、次の大雨で土が落ちる。炭どころか、谷道が埋まる」


「炭焼きでもないお前が言うな」


「俺は炭を見てきた」


「甚内の犬が」


 その言葉に、太助の顔が強張った。


 宇平次が動きかける。


 だが、太助は自分で踏みとどまった。


「そうだ。俺は前に、安く炭を取った。だから今度は、取らせねえ」


 彦蔵が太助を見た。


 男たちは少しだけ黙った。


 その隙に、彦蔵が前に出た。


「黒谷の炭を焼くのは俺だ。どの木を切り、どの木を残すかは、俺が見る」


「和木原が道を守ってやっている」


「まだ払ってもいない炭を押さえる者に、山は預けられぬ」


 彦蔵の声は震えていた。


 だが、昨日より強かった。


 和木原の男は顔を歪めた。


「主膳様へ伝えるぞ」


「伝えろ」


 宇平次が低く言った。


「ただし、笠森も伝える。和木原が根を抱える木に傷をつけ、黒谷の山を崩しかけたとな」


「崩れてもいない」


「崩れてからでは遅い」


 宗介は思わず言った。


 その言葉は、自分でも少し強かった。


「水も、火も、山も、壊れてからでは遅いんです」


 和木原の男たちは、すぐには動かなかった。


 だが、こちらには宇平次と佐太がいる。


 彦蔵も退いていない。


 太助も前にいる。


 彼らは悪態をつきながら、谷を下っていった。


 静かになると、宗介は膝から力が抜けそうになった。


 佐太が肩を支える。


「立て」


「立っています」


「半分座ってる」


「すみません」


 太助が、和木原のつけた傷を見た。


「この傷、放っておくと腐るかもしれねえ」


 彦蔵が頷く。


「塗るものが要る」


「灰を混ぜた土で塞ぐか」


「それで少しは持つ」


 宗介は返しに来た灰を見た。


 黒谷炭の灰。


 畑へ戻すはずだった灰。


 その一部を、傷つけられた木の根元へ使う。


「いいんですか」


 彦蔵は頷いた。


「畑へ戻す前に、山へ戻す」


 その言葉に、宗介は胸の奥が熱くなった。


 灰を返す。


 畑へ戻す。


 山の傷を塞ぐ。


 全部がつながっていく。


 作業は昼過ぎまで続いた。


 縄を結ぶ木。


 傷を塞ぐ木。


 今後切ってよい倒れ木。


 乾かして薪に回す枝。


 炭にするには早い若木。


 太助と彦蔵が一つずつ見た。


 宗介はそれを板片に残した。


 細かい。


 面倒だ。


 だが、これを残さなければ、次に来た者がまた勝手に切る。


 帰る前、彦蔵は宗介へ言った。


「笠森は、木も買うのか」


「全部は買えません」


「全部買うな」


 彦蔵は苦い顔で言った。


「全部買われても困る。山が痩せる」


「はい。火所で使う分だけ、炭として買います。木は、彦蔵さんが山を見て焼いた分だけ」


 彦蔵は頷いた。


「それでいい」


 太助が言った。


「次は、切る日も決めた方がいい。雨の後はやめろ。道が傷む」


「分かった」


 彦蔵は太助を見た。


「また来るか」


 太助は少し迷い、頷いた。


「来る。炭を見に」


「炭だけか」


 太助は言葉に詰まった。


 彦蔵は、少し笑った。


「まあいい。次に来る時は、灰も持ってこい」


「ああ」


 笠森へ戻る道で、宗介は何度も足を滑らせた。


 疲れが出ている。


 だが、手には軽い板片があった。


 残す木。


 切る木。


 傷を塞いだ木。


 戻した灰。


 軽いはずなのに、やはり重い。


 城へ戻ると、弥四郎はすぐに報告を聞いた。


 宗介が話し、太助が補い、宇平次が和木原の男たちの様子を伝えた。


 弥四郎は黙って聞き終え、板片を見た。


「残す木、か」


「はい」


「切る木ではなく、残す木を先に決めたのだな」


「その方が、山が壊れにくいと」


 太助が言った。


「炭を焼くには、切る木だけ見てたら駄目です。残す木を見ねえと、次がなくなる」


 弥四郎は深く頷いた。


「なら、笠森はそうする。黒谷の炭は、彦蔵が焼いた分を買う。笠森は山の木を勝手に切らぬ。残す木に縄。切る木は彦蔵と太助が見る」


 市松が板を持ってきた。


「また増えた」


「増えたな」


 弥四郎が少し笑う。


「だが、これは大事だ。書け」


 市松は板へ炭を走らせた。


 黒谷。


 残す木。


 水のそば。


 根を抱える木。


 若すぎる木。


 風を止める木。


 笠森、勝手に切らず。


 彦蔵と太助が見る。


 宗介はそれを見て、ようやく息を吐いた。


 また仕事が増えた。


 だが、これは火所を続けるための仕事だった。


 炭を買うだけでは足りない。


 炭を焼く山を壊さない。


 そこまで見なければ、火は続かない。


 夜の粥は、黒谷炭で静かに炊かれた。


 煙は少ない。


 竈の火も、火所の火も、それぞれの場所に収まっている。


 太助は椀を手に、いつもより黙っていた。


 宇平次がその横に座り、ぽつりと言った。


「今日は、逃げなかったな」


 太助は顔を上げた。


「何から」


「昔のことから」


 太助はしばらく黙り、粥を啜った。


「逃げても、炭の匂いは残る」


 宇平次は何も言わなかった。


 だが、その沈黙は悪くなかった。


 宗介は二人を見て、椀を両手で持った。


 水を守るために、縄を見る。


 火を守るために、炭を見る。


 炭を守るために、山を見る。


 山を守るために、残す木を見る。


 どこまでも広がる。


 だが、広がる先にあるのは、結局、腹だった。


 粥一椀。


 それを炊く火。


 火を支える炭。


 炭を生む山。


 その山が崩れれば、腹も崩れる。


 宗介は薄い粥を飲み込んだ。


 今日は、煙が少ない。


 その静かな火を守るために、笠森はまた一つ、見えない線を山へ結んだ。


第四十七話─了

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