第四十五話 火の線
翌朝、笠森城の板には、新しい文字が増えていた。
商人水、増。
薪、減り早し。
明日、薪場を改めること。
久住宗介は、その三行を見つめていた。
水札の責を決めたばかりだった。
何を背負い、何を背負わないか。
ようやく線を引いたと思った途端、次の線が見えてくる。
水の次は、火だった。
朝の竈では、おきぬが不機嫌な顔をしていた。
「昨日から、商人の濡れ布だの、湿った草鞋だの、竈のそばに寄せようとする者が増えてるよ」
「すみません」
「宗介さんが謝ることじゃないけどね。火のそばは、飯を作る場所だ。何でも乾かす場所じゃない」
「はい」
おきぬの言葉は、正しかった。
竈は城の腹である。
粥を炊く。
湯を沸かす。
怪我人の布を煮る。
濡れた荷を乾かしたい気持ちは分かる。
だが、商人の荷を全部竈に寄せれば、城の飯が遅れる。
薪も減る。
火の番も増える。
そして火は、水と違って、扱いを誤れば燃え広がる。
宗介が考え込んでいると、太助が庭へ入ってきた。
肩には、細い枝を束ねたものを背負っている。
「薪場、見てきた」
宇平次も一緒だった。
顔が険しい。
弥四郎が庭へ出る。
「何かあったか」
太助は束を下ろした。
「南谷外れに置いてた小枝束が、二つ消えてる。あと、槙尾西沢へ向かう道端で、勝手に折られた枝があった」
宗介は眉を寄せた。
「商人ですか」
「たぶん。火を起こした跡があった。濡れた藁を乾かしたみたいだな」
宇平次が続けた。
「水場の近くだ。火は使うなと決めた場所だ」
庭の空気が重くなった。
水場で火を使えば、そこに人が長く留まる。
荷を広げる。
飯を食う。
ゴミが出る。
灰が残る。
水場が荒れる。
それを避けるために、南谷外れの水場では火を禁じていた。
それが破られた。
「和木原か」
佐太が低く言う。
太助は首をかしげた。
「分からねえ。ただ、火跡のそばに、和木原の渡しで売ってる細縄が落ちてた」
「わざとらしいな」
宇平次が言う。
宗介も同じことを思った。
和木原が直接やったと決めつけるには早い。
だが、商人の足が増え、笠森札が広がり始めた今、水場で勝手な火が増えれば、笠森の手順は崩れる。
和木原であれ、便乗した商人であれ、放っておけば同じことになる。
弥四郎は宗介を見た。
「火も分けるか」
「はい」
宗介は即答した。
「水より急ぎます」
「なぜだ」
「火は、一度出ると止めにくい。薪も食います。人も寄ります。水場のそばで火を許せば、次は飯を炊く者が出ます」
喜兵衛が腕を組んだ。
「水を出したら、次は火。火を出したら、次は飯。腹の道理だな」
「はい」
宗介は板へ向かった。
「水は出す。飯は出さぬ。これは商人対応の線でした。でも、火も決めないといけません」
市松が板を持ってきた。
「また板か」
「また板です」
「もう驚かない」
「ありがとう」
「褒められてる気がしない」
宗介は小さく息を吐き、言葉を選んだ。
「水場では火を使わない」
市松が書く。
「火を使うなら、決めた火所だけ」
「火所?」
「火を使ってよい場所です。水場から離し、灰を捨てる場所を決め、火番を置く」
おきぬが竈のそばから口を出した。
「火番なしで火を使わせたら駄目だよ。消したつもりの炭が残る」
「はい」
太助も頷いた。
「湿った枝は煙が多い。煙が上がると、場所も知られる」
それも大事だった。
煙は目印になる。
水場の位置、荷の集まる場所、人の流れ。
全部を遠くへ知らせてしまう。
「火所は門前の外れに一つ。槙尾西沢は槙尾と相談。南谷外れは火なしを続ける」
宗介が言うと、弥四郎が頷いた。
「よい」
「それと、薪はただでは出せません」
庭が静かになった。
宗介は続ける。
「水は決めた分を出します。でも火は、商人が自分の薪を持つか、笠森へ薪賃を出す。銭でなくてもいいです。小枝、炭、縄切れ、荷の端材。使えるものを出してもらう」
喜兵衛が頷く。
「薪を出すだけなら、城が痩せる。薪賃を取るなら、形を決めねばならん」
「はい。高く取りません。でも、ただにはしません」
弥四郎は言った。
「火の線だな」
「はい」
宗介は板を見た。
水場は水。
火所は火。
飯は城が決める。
商人の火には薪賃。
火番なしの火は禁ずる。
それは冷たいようにも見える。
だが、必要な線だった。
昼前、さっそくその線は試された。
門前へ、商人が三人来た。
一人は昨日荷を分けた男だった。
油壺を布と干物から分け、槙尾西沢まで行った男である。
今日は戻ってきて、荷を乾かしたいと言った。
「昨日、槙尾西沢で雨に当たった。布が湿った。笠森の火を貸してほしい」
男の声には焦りがあった。
布が湿れば、売り値が落ちる。
その気持ちは分かる。
宗介は問うた。
「薪はありますか」
「ない。笠森札がある」
門前が少しざわついた。
まただ。
笠森札があれば、水も火も何とかなる。
そう思われ始めている。
「笠森札は、火をただで使う札ではありません」
宗介は言った。
男は顔をしかめる。
「昨日は荷を分けろと言われた。今日は火も使わせぬのか」
「使わせます。ただし、火所で。薪賃が要ります」
「銭を取るのか」
「銭でなくても構いません。小枝束、炭、縄切れ、荷の端材。火に使えるものを出してください」
「そんなものはない」
男が言った時、隣の商人が気まずそうに目を逸らした。
宗介はそれを見逃さなかった。
「荷を見せてください」
男は渋ったが、宇平次が一歩前へ出ると、諦めて荷を下ろした。
中には布包みのほかに、細い薪が数本入っていた。
宗介は何も言わず、それを見た。
男の顔が赤くなる。
「これは、道で拾った」
太助が薪を手に取り、匂いを嗅いだ。
「南谷外れの小枝束だ。縛りの癖が同じだ」
庭が冷えた。
男は慌てて言った。
「少し借りただけだ。火を使うつもりで」
「借りたのではない」
宇平次の声が低い。
「盗ったのだ」
男は黙った。
宗介は、怒鳴りたくなるのをこらえた。
ここで怒鳴れば、商人は萎縮する。
だが、曖昧にすれば、薪はこれから何本でも消える。
「その薪は笠森のものです」
宗介は言った。
「水場を守るために置いた小枝束です。勝手に使われると、火消しにも、火所にも回せなくなります」
「すまなかった」
男はようやく頭を下げた。
弥四郎が庭へ出てきた。
「名は」
「喜三郎と申します」
「喜三郎。今日の火は使わせる。ただし、盗った薪は返した上で、薪賃として荷の端材を出せ」
「はい」
「次に水場の薪を盗れば、笠森札は出さぬ」
喜三郎は深く頭を下げた。
「承知しました」
弥四郎は市松へ言った。
「板に残せ。喜三郎、南谷小枝束を勝手に取る。返す。荷端材を薪賃とする。次は札なし」
市松が書く。
商人たちがその板を見ていた。
ただ叱ったのではない。
名を残した。
返させた。
次の線を示した。
喜三郎の顔は悔しそうだったが、逃げることはできなかった。
火所は、門前から少し離れた窪地に作られた。
水場から遠く、風下を見て、灰を捨てる穴を掘る。
太助が場所を選んだ。
「ここなら煙が城へ入りにくい。火も見える。逃げる時も門へ近い」
おきぬが灰穴を見て言った。
「火のあとに水をかける桶も要るよ」
「置きます」
宗介は水桶を一つ用意させた。
ただし、飲み水ではない。
火消し水。
これも分ける。
飲む水、洗う水、火を消す水。
分けなければ、いざという時に足りなくなる。
喜三郎たちは火所で布を広げた。
火番には佐太がついた。
商人は最初、不満そうだった。
だが、決めた場所で火を使うと、ほかの商人も見に来た。
油壺を遠ざける。
布だけを広げる。
干物は火の近くに置きすぎない。
煙が強くなれば、太助が湿った枝を抜く。
おきぬは遠くから睨んでいる。
「竈よりはましだね」
「はい」
「でも、目を離したら駄目だよ」
「分かっています」
昼過ぎ、柏屋惣右衛門が油屋宗八を伴って戻ってきた。
門外札の写しを尾張筋へ回す途中で、火所の煙を見て立ち寄ったのだ。
「今度は火ですか」
「はい」
宗介は疲れた声で答えた。
「水の次は火でした」
惣右衛門は火所をじっと見た。
「よい線ですな。水場で火を使わせぬ。火を使うなら火所。薪賃を取る」
「商人に嫌がられませんか」
「嫌がります」
惣右衛門はあっさり言った。
「ですが、火事を出すよりはましです。荷を乾かしたい者には火所がある。使うなら薪賃。これは商人にも分かりやすい」
宗介は少し安心した。
だが、惣右衛門は続けた。
「ただし、和木原はこう言うでしょうな。笠森は水の次に火まで値をつけた、と」
「でしょうね」
「言わせておけばよろしい。水場を荒らす火は禁ずる。荷を守る火は場所を決める。これも、尾張筋には伝えます」
弥四郎が近づいた。
「柏屋殿」
「はい」
「尾張筋へ伝えるなら、これも加えよ。笠森は火を売るのではない。火の場所を決める」
惣右衛門は目を細め、深く頷いた。
「よい言葉です」
市松が小声で言った。
「また書く?」
宗介は頷いた。
「書いて」
市松は諦めたように炭を取った。
笠森は火を売らず。
火の場所を決める。
夕方近く、和木原の手が見えた。
南谷外れの水場から、善助が駆け込んできたのである。
「水場のそばで、火を起こそうとした者がいます!」
宇平次がすぐ立ち上がる。
「誰だ」
「商人ではありませぬ。荷も少ない。笠森札を持っておりましたが、裏の三つ点がありません」
宗介は顔を上げた。
古い札か。
いや、昨日から裏に責の三つ点を入れ始めたばかりだ。
全部の札が変わっているわけではない。
そこを使われたかもしれない。
弥四郎は即座に命じた。
「宇平次、佐太。宗介も来い。太助、煙を見ろ」
南谷外れへ向かうと、細い煙が上がっていた。
水場のすぐ脇ではない。
だが近い。
草の上に濡れた枝を重ね、火をつけようとした跡がある。
男は二人。
片方は荷を背負っているが、中身は軽そうだった。
もう片方は、笠森札らしきものを手にしている。
宇平次が槍を向けた。
「火を消せ」
男は慌てて立った。
「笠森札がある!」
「ここは火なしの水場だ」
「笠森は火所を作ったと聞いた。なら火は使えるはずだ」
「火所はここではない」
宗介が言うと、男は嫌な笑みを浮かべた。
「水も火も細かいな。商人が通りにくい城だ」
その言い方で、宗介は察した。
商人ではない。
少なくとも、まともに荷を運ぶ者の言い方ではない。
荷を守りたいのではなく、笠森の決まりを破るために来ている。
太助が男の荷を見た。
「中身、軽いな。見せろ」
「商人の荷に触るな」
男は拒んだ。
宇平次が一歩詰める。
「笠森札で水場を使うなら、荷改めを受けろ」
男は舌打ちした。
荷を開けると、中には湿った藁と灰、そして小さな油壺が一つ入っていた。
宗介の背筋が冷たくなった。
火を大きくするためのものだ。
水場で火を出し、煙を上げ、場合によっては燃え広がらせる。
そうすれば、笠森札の水場で火が出たと言える。
「これは商いの荷ではありません」
宗介は言った。
男は黙る。
宇平次が男たちを押さえた。
佐太が火を踏み消し、火消し水をかける。
太助が湿った藁を拾い上げ、顔をしかめた。
「油を染ませてる。これ、火がつけば煙がひどい」
善助が青い顔で水場を見た。
「ここで火を出されたら、水場が使えなくなります」
「それが狙いです」
宗介は言った。
和木原は、水場を汚すだけではなく、火で笠森の手順を潰そうとしている。
水札は水を守る。
火所は火を分ける。
ならば、水場で火を出せば、その両方を傷つけられる。
宇平次が男の襟を掴んだ。
「誰に頼まれた」
男は口を閉ざす。
もう一人は震えていた。
太助が低く言った。
「こいつら、和木原の渡し近くで見たことがある」
宇平次の目が細くなる。
「なら、城へ連れていく」
男たちは縛られた。
水場には、新しい札が立てられた。
火なし。
火を使うなら、笠森火所へ。
火種、油、灰を隠す者は札なし。
市松がいなかったので、善助が下手な字で書いた。
宗介はそれを見て頷いた。
「読めます」
「下手で申し訳ない」
「下手な方が真似しにくいです」
善助は少し困った顔をした。
城へ戻ると、弥四郎は男たちを庭に座らせ、油を染ませた藁と灰を前に置かせた。
門前にいた商人たちも、それを見た。
柏屋惣右衛門が静かに言った。
「これは、火を使いたい者の荷ではございませぬな」
宗八も頷く。
「油を売る者から見ても、悪い使い方だ」
弥四郎は男たちへ問うた。
「和木原の者か」
男は黙っている。
弥四郎は続けた。
「答えぬなら、火付けを狙った者として押さえる。水場で油と灰を持ち、火を起こそうとした。笠森はそう板に残す」
男の顔色が変わった。
火付け。
それは重い。
「俺は、火をつけろとは言われていない」
男が口を開いた。
「ただ、水場で火を使えば笠森の札が乱れる、と」
「誰に」
宇平次が問う。
男は答えない。
弥四郎はそれ以上追わなかった。
「なら、今日はそこまで板に残す。水場で火を使い、札を乱せと言われた者、と」
市松が書く。
和木原とはまだ書かない。
証が足りないからだ。
だが、火と油と灰は残る。
男の言葉も残る。
惣右衛門はその板を見て言った。
「写しを取ります」
「尾張筋へか」
「はい。笠森が火を売るのではなく、火の場所を決める理由になります」
弥四郎は頷いた。
「持っていけ」
夜、笠森城では、火所の灰が改められた。
火が消えているか。
灰穴に残り火はないか。
水桶は空になっていないか。
佐太が火番の報告をし、太助が薪の減りを見た。
喜兵衛は板に書く。
火所、一つ。
薪賃、端材。
南谷水場、火なし。
油藁、灰、押さえ。
宗介はそれを見て、椀を持ったまま座っていた。
今日もまた、ただの作業では終わらなかった。
薪を盗る者。
火を使いたい商人。
水場で火を出そうとする者。
そこに和木原の影。
水の次は火。
火の次は、きっとまた別のものが来る。
だが、今日は一つ線を引けた。
水場では火を使わない。
火を使うなら火所。
薪はただではない。
火を売るのではない。
火の場所を決める。
弥四郎が竈の火を見ながら言った。
「宗介」
「はい」
「火は、怖いな」
「はい」
「だが、火がなければ飯も炊けぬ」
「はい」
「なら、怖いものほど場所を決めねばならぬ」
宗介は頷いた。
水も同じだった。
道も同じだった。
荷も同じだった。
怖いから遠ざけるだけではなく、怖いから場所を決める。
それが、笠森のやり方になっていく。
その夜の粥は、いつもより少し煙の匂いがした。
だが、焦げてはいない。
竈の火は、竈の中にある。
火所の火は、火所で消された。
水場に火は残っていない。
当たり前のようで、当たり前ではない。
宗介は粥を啜りながら、外の暗がりを見た。
和木原は、また札の線を越えようとするだろう。
だが、笠森もまた、線を引き直す。
水の線。
荷の線。
責の線。
そして、火の線。
小さな城の庭に、見えない線が増えていく。
それは柵ではない。
人と荷と水と火を、壊さず動かすための線だった。
第四十五話─了




