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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十四話 札の責

 槙尾の庭から戻った翌日、笠森城の門前には、朝から商人の足があった。


 大荷ではない。


 小荷ばかりだ。


 塩。


 縄。


 針。


 油の小壺。


 干物。


 布の端切れ。


 どれも背負えるほどの量だったが、数が増えれば門前は騒がしくなる。


 久住宗介は、門の内側からその様子を見ていた。


 尾張筋の名が出た。


 津島。


 清洲。


 その言葉が和木原主膳の口から出た途端、笠森の水札は一段重くなった。


 小城の庭で使う札では済まなくなってきている。


 だが、笠森はまだ小城だ。


 米も人も、余ってはいない。


 通す荷が増えれば、守る水場も増える。


 水場が増えれば、壊れる場所も増える。


 それを見誤れば、水札は味方ではなく荷になる。


「宗介」


 喜兵衛が横へ来た。


「顔がまた暗い」


「商人が増えています」


「よいことではないか」


「はい。でも、増えすぎると水場が潰れます」


 喜兵衛は頷いた。


「米と同じだな。あると思われた途端、手が伸びる」


「はい」


 宗介は門前の商人たちを見た。


 彼らは敵ではない。


 だが、味方とも限らない。


 商人は道を選ぶ。


 損の少ない道を選ぶ。


 信用できる道を選ぶ。


 そして、都合のいい道があれば、そこへ荷を寄せる。


 笠森札が信用になり始めた今、次に起きるのはそれだった。


 荷が寄る。


 水が減る。


 手が足りなくなる。


 そこを和木原に突かれる。


 門番が声を上げた。


「尾張筋、柏屋惣右衛門!」


 宗介は顔を上げた。


 柏屋惣右衛門は、以前と同じく落ち着いた足取りで門をくぐった。


 隣には油屋宗八もいる。


 その後ろに、見慣れぬ商人が二人。


 笠森の水札を選び始めた商人たちだった。


 片瀬弥四郎が庭へ出る。


「よく来た」


 惣右衛門は頭を下げた。


「槙尾での話、聞き及びました。笠森札、槙尾の場で一応の筋を得たとか」


「一応だ」


 弥四郎は短く答える。


「和木原は退いていない」


「でしょうな」


 惣右衛門は苦笑した。


「その和木原より、尾張筋へ噂が流れております」


 庭の空気がわずかに硬くなった。


 弥四郎は問う。


「何と」


「笠森札を持つ荷は、笠森が責を負う。和木原の渡しで遅れても、牛渡しで止められても、荷が傷んでも、笠森へ言えばよい、と」


 宗介の胃が沈んだ。


 そう来たか。


 和木原は、笠森札を潰すために逆の噂を流している。


 笠森札を持てば、笠森が全部面倒を見る。


 商人にそう思わせれば、荷はさらに笠森へ寄る。


 そして何かが起きた時、商人は笠森へ詰め寄る。


 札の信用を、過大な責任へ変える手だ。


 弥四郎の目が鋭くなった。


「笠森は、商人の損のすべてを背負う気はない」


 惣右衛門は頷いた。


「承知しております。ですが、承知しておらぬ商人も出ます。今日は、それを確かめに参りました」


 油屋宗八が一歩前へ出る。


「笠森札は、何を守る札か。どこから先は商人の責か。そこを決めていただきたい」


 宗介は唇を結んだ。


 必要な話だった。


 水札。


 止め札。


 牛角。


 濡れ荷改め。


 それぞれが増えた。


 だが、何を約束して、何を約束しないのかは、まだ曖昧だった。


 曖昧なまま広がれば、必ず揉める。


 弥四郎は宗介を見た。


「宗介」


「はい」


「札の責を分けろ」


 宗介は一瞬、言葉に詰まった。


 責任。


 重い言葉だった。


 現代なら、契約書がある。


 約款がある。


 保険がある。


 だが、ここにあるのは木札と板と人の記憶だけだ。


 それでも、線は引かなければならない。


「市松、板を」


「はい」


 市松が板を持ってくる。


 宗介は門前の商人たちにも聞こえるよう、ゆっくり言った。


「笠森札が守るものは三つです」


 市松が炭を構える。


「一つ目。決められた水場を、決められた使い方で使えること」


 市松が、水場の印を描く。


「二つ目。渡れない日は、止める知らせを出すこと」


 赤い横線の印。


「三つ目。笠森が預かった荷は、濡れたもの、助かったもの、捨てるものを分け、持ち主の前で改めること」


 濡れ荷の印。


 惣右衛門は黙って聞いている。


 宗八も頷いた。


 宗介は続けた。


「笠森札が守らないものもあります」


 門前が少しざわついた。


「一つ。商人の儲け」


 ざわめきが強くなる。


 宗介はそれでも続けた。


「二つ。無理に積んだ荷」


 市松が、背負いすぎて曲がった人の絵を描こうとして、手を止めた。


「描かなくていい」


「分かった」


「三つ。札にない道で傷んだ荷」


 宗介は深く息を吸う。


「四つ。止め札を無視して通った荷」


 庭が静まった。


 これが一番大事だった。


 止め札を出したのに通る。


 その荷の損まで笠森が負えば、止め札は意味を失う。


 ただし、人が流れかけたなら助ける。


 そこは曲げてはならない。


 助けることと、損を背負うことは違う。


 その線を引かなければならなかった。


 惣右衛門が口を開いた。


「よろしい。では、笠森札を持っていても、商人が勝手に無理をすれば商人の責。止め札を破れば、その荷の損は商人の責。札にない道へ逸れれば商人の責。そういうことですな」


「はい」


 宗介は頷いた。


「笠森は、通せる道と水を示します。全部の損を背負う札ではありません」


 宗八が言った。


「それを聞きに来ました」


 弥四郎は惣右衛門へ向いた。


「尾張筋へ伝えられるか」


「伝えます。ただし、言葉だけでは弱い」


 惣右衛門は板を見る。


「札の裏に、責の印を加えましょう」


「責の印?」


 市松が嫌そうな顔をした。


「また印が増えるのか」


 惣右衛門は笑った。


「増えますな。道が増えれば、印も増える」


 宗介は考えた。


 印を増やしすぎると、逆に分かりにくくなる。


 だが、今必要なのは、笠森札が何でも保証する札ではないと示すことだ。


「小さな枠でいいと思います」


 宗介は言った。


「札の裏に、三つの点。水場、止め、改め。そこまでが笠森の責。それ以外は商人の責」


 市松が小さな板片に三つの点を打った。


「これで分かるか?」


「分かる人には」


「分からない人は?」


「門で説明する」


「また俺が書くのか」


「たぶん」


 市松は大きく息を吐いた。


「城が板で埋まるぞ」


「整理します」


「前も聞いた」


 門前に小さな笑いが起きた。


 だが、その笑いはすぐに止まった。


 商人の一人が前に出たからだ。


 見慣れぬ男だった。


 背には、他の者より明らかに大きい荷を背負っている。


 顔には焦りがあった。


「なら、笠森札をくれ」


 男は言った。


「尾張へ急ぐ荷だ。和木原の渡しは高い。牛渡しで通してくれ」


 宗介は荷を見た。


 大きい。


 小荷ではない。


 背負っている男の肩が沈み、腰が曲がっている。


 中身は布か。


 いや、油壺も混じっているかもしれない。


 水に濡れれば重くなる。


 転べば割れる。


「荷を下ろしてください」


 宗介が言うと、男は顔をしかめた。


「急いでいる」


「下ろしてください」


 宇平次が一歩動いた。


 商人は渋々荷を下ろした。


 中には油の小壺が三つ、布包みが二つ、針の小箱、干物まで混じっていた。


 宗介は眉を寄せた。


「混ぜすぎです」


「商いだ。まとめて運んだ方が得だろう」


「牛渡しは使えません。水がまだ高い。それに、この荷は小荷ではありません」


「だが、笠森札があれば通せると聞いた」


 和木原の噂が効いている。


 宗介は奥歯を噛んだ。


「違います。笠森札は、無理な荷を通す札ではありません」


「では、何のための札だ」


「荷を流さないための札です」


 男は不満そうに言った。


「それでは儲けが減る」


「儲けを増やすために荷を流せば、元もなくなります」


「油は急ぐ」


 宗介は油壺を見た。


 蓋の締め方が甘い。


 布と干物の間に置かれている。


 もし割れれば、布も干物も駄目になる。


「油壺は別にしてください」


「そこまで言うのか」


「はい。油と干物を同じ包みに入れたまま、水場や渡しへ行かせません」


 商人は怒りかけた。


 だが、その前に惣右衛門が静かに言った。


「やめておきなされ」


 男は振り向く。


「柏屋殿」


「笠森が止めた荷を、無理に通せば、そなたの責になる。先ほど決まったばかりだ」


「しかし」


「油を割れば、布も干物も売れぬ。針の小箱も湿る。急いだ分、損が大きくなる」


 宗八も言った。


「油壺は、俺ならその包みには入れない」


 油屋の言葉は重かった。


 男は黙った。


 宗介は、少し声を和らげた。


「荷を分けてください。油壺は一包み。布は別。干物は今日中に捌ける分だけ。針の小箱は濡れない包みに。牛渡しは今日は止めです。槙尾西沢までなら、水札を出せます。そこで荷を置き直し、明日の水位を待ってください」


「明日」


「小六が川を見ます。渡れるなら牛角。駄目なら止め札です」


 男は悔しそうに荷を見た。


 だが、惣右衛門と宗八が黙っているため、押し切れない。


 やがて、低く言った。


「分ける」


 宗介は息を吐いた。


「市松。荷分けの板を」


「また板」


「必要です」


 市松は諦めたように板を持った。


 油壺。


 布。


 針。


 干物。


 それぞれを分ける。


 どの荷がどの水札で槙尾西沢まで行くかを残す。


 男は不満そうだったが、荷が軽くなると、少しだけ顔が変わった。


 肩が楽になったのだ。


 宗介はそれを見逃さなかった。


「軽い方が、道で転びにくいです」


「……分かっている」


「分かっていても、急ぐと増やします」


 男は返事をしなかった。


 だが、怒りは少し引いていた。


 その時、門の外からまた声がした。


「和木原の札を持つ者!」


 門番が警戒の声を上げる。


 入ってきたのは、若い商人だった。


 手には和木原札がある。


 顔は青い。


「笠森札へ替えてほしい」


 弥四郎が問う。


「なぜ」


「和木原の渡しで、笠森札なら笠森が損を持つと言われました。なら和木原札の方が早いと勧められた。けれど、途中で別の者から、和木原札では笠森の水場は使えないと聞いて……」


 宗介は和木原札を受け取り、確認した。


 新しい札だった。


 以前のものより、文字が増えている。


 和木原改め済み。


 渡し優先。


 笠森損分引受。


 宗介は目を細めた。


「笠森損分引受?」


 弥四郎の顔が冷えた。


「笠森がいつ、そんなことを認めた」


 商人は震えた。


「私は、知りませぬ。渡しの者が、そう刻まれているから大丈夫だと」


 庭にいた商人たちがざわめく。


 惣右衛門が札を見て、眉を寄せた。


「これは悪い」


 宗八も低く言った。


「笠森の名を使っている」


 和木原は、笠森に過大な責を負わせる噂を流すだけでなく、札に刻んできた。


 弥四郎は静かに言った。


「その札は預かる。代わりに、笠森の仮札を一枚出す。ただし、牛渡しは止め。槙尾西沢までだ」


 若い商人は何度も頷いた。


「それで構いませぬ」


「市松」


「はい」


「和木原札、新しい偽り。笠森損分引受とあり。笠森は認めず」


 市松の炭が板を走る。


 宗介は、背筋が冷たくなるのを感じた。


 和木原は、場を変え、言葉を変え、札の中身まで変えてくる。


 こちらが線を引けば、その線を歪ませる。


 だから、もっとはっきり示さなければならない。


「若様」


 宗介は弥四郎へ向いた。


「門外札を出した方がいいです」


「何を書く」


「笠森札の責は、水場、止め、改めまで。商人の儲け、無理荷、止め札を破った荷の損、札にない道は負わない。笠森の名を勝手に刻む札は偽り」


 弥四郎は頷いた。


「書け」


 市松が目を剥いた。


「大きな板だな」


「大きいです」


「誰が書くと思ってる」


「市松」


「知ってた」


 市松は文句を言いながらも、板を持ってきた。


 惣右衛門がその様子を見て、静かに言った。


「その板、写しを取ってよろしいか」


「尾張筋へか」


 弥四郎が問う。


「はい。笠森札が何でも背負う札ではないと、こちらからも伝えます。むしろ、その方が商人は安心する」


 宗介は驚いた。


「安心、ですか」


「ええ」


 惣右衛門は頷いた。


「何でも背負うと言う者は、たいてい何も背負いきれませぬ。背負うものと背負わぬものを分ける者の方が、商人には信用できます」


 宗介は、その言葉を胸に刻んだ。


 何でも背負わない。


 それは逃げではない。


 続けるための線だった。


 午後には、門外に新しい板が立った。


 笠森札の責。


 水場。


 止め札。


 濡れ荷改め。


 それ以外は、商人の責。


 無理荷は通さず。


 止め札を破った荷、笠森の責にあらず。


 笠森の名を勝手に刻む札は偽り。


 字は多かった。


 市松は疲れ果てた顔をしていた。


「読めるか?」


 宗介は板を見た。


「読めます」


「絵は?」


「分かります」


「本当か?」


「本当」


 市松は今度こそ少し満足げだった。


 夕方、商人たちは荷を分けて出ていった。


 牛渡しへは行かない。


 槙尾西沢まで。


 水札を持ち、荷を軽くし、油壺と干物を分けて。


 若い商人は、和木原札を笠森へ預け、仮札を持って去った。


 惣右衛門と宗八は、門前の板の写しを取った。


 尾張筋へ持っていくという。


 夜、笠森城の庭は静かになった。


 だが、板は増えた。


 水札の板。


 止め札の板。


 濡れ荷改めの板。


 そして、札の責の板。


 宗介はそれらを見て、肩が重くなるのを感じた。


 また仕事が増えた。


 だが、増やさなければ潰れる仕事だった。


 弥四郎が横へ来る。


「宗介」


「はい」


「今日は、背負わぬものを決めたな」


「はい」


「それでよい」


 弥四郎は門外の板を見た。


「背負えるものを背負う。背負えぬものは、最初から言う。それも城の信用だ」


 宗介は頷いた。


 五十一年生きても、難しいことだった。


 頼まれれば断りにくい。


 困っている者を見れば、助けたくなる。


 だが、すべてを背負うと言えば、最後は誰も守れなくなる。


 水場も。


 荷も。


 城の米も。


 人の腹も。


 守るためには、断る線が要る。


 その夜の粥は、少し薄かった。


 商人が増えた分、水と薪を使ったからだ。


 喜兵衛はそれを板に残していた。


 商人水、増。


 薪、減り早し。


 明日、薪場を改めること。


 宗介は粥を啜りながら、それを見た。


 札の責を決めても、腹の責は消えない。


 商人が増えれば、薪が減る。


 水が減る。


 人手が減る。


 そこにもまた、線を引かねばならない。


 外では、門外札が夜風に揺れていた。


 笠森札は、何でも背負う札ではない。


 背負えるものを、背負う札だ。


 その線が、明日どこまで守れるか。


 宗介には、まだ分からなかった。


第四十四話─了

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