第四十三話 槙尾の庭
槙尾へ持っていくものは、米俵ではなかった。
木札。
濡れた塩。
偽水札。
和木原札。
源蔵から出た紙片。
濡れ荷改めの板。
槙尾の写し。
商人の帳。
どれも軽い。
米俵一つより、ずっと軽い。
だが、久住宗介には、そのどれもが妙に重く感じられた。
笠森城の庭で、喜兵衛が一つずつ包みを確かめる。
「濡れ塩は少しでよいな」
「はい。全部持つ必要はありません。濡れた外側と、残った中心が分かる分だけ」
「偽札は」
「二つ。井戸と薪の偽物、それと炭と鳥の偽物」
市松が横で顔をしかめた。
「俺の鳥の偽物か」
「そう」
「あれは偽物の方が上手かった」
「真似しやすい上手さと、真似しにくい下手さがあります」
「それ、褒めてるのか?」
「かなり」
市松は納得していない顔だったが、偽札を包みに入れた。
片瀬弥四郎は、その様子を静かに見ていた。
若い城主の衣は、いつもより少し整えられている。だが、派手さはない。小城の主として、無理に大きく見せようとしていない。
宇平次は槍を持つ者を二人だけ選んだ。
多く連れていけば、和木原に警戒される。
少なすぎれば、侮られる。
その間を取る。
宗介は、自分が持つ包みを見た。
木札と板。
槍ではない。
刀でもない。
だが、今日の場では、これが笠森の武器になる。
「宗介」
弥四郎が声をかけた。
「はい」
「槙尾の場では、聞かれたことに答えよ。だが、余計に喋りすぎるな」
「分かりました」
「お前の言葉は、荷のように見られる。軽く投げるな」
宗介は喉を鳴らした。
「はい」
怖かった。
水場で敵と向き合うのも怖い。
増えた川を見るのも怖い。
だが、今日の怖さはそれとは違った。
槙尾の庭で、笠森と和木原が向き合う。
言葉を間違えれば、笠森の水札は勝手な支配だと見られる。
濡れ荷改めは商人の荷を奪う仕組みだと言われる。
降った者を働かせていることも、賊を養っていると変えられる。
現場で積み上げてきたものが、言葉一つで別物にされるかもしれない。
それが怖かった。
出立前、小六が門のそばに立っていた。
牛渡しの渡し役である。
「俺も行かなくてよいのですか」
小六が問う。
弥四郎は首を横に振った。
「お前は牛渡しを見る。今日も水は高い」
「はい」
「槙尾で誰かが牛渡しを使えと言っても、お前が駄目と言えば駄目だ。そのために、お前は残る」
小六は目を伏せ、深く頭を下げた。
「承知しました」
宗介はその姿を見て、少しだけ胸が熱くなった。
槙尾に連れていくことだけが重用ではない。
現場に残すこともまた、信用だった。
笠森から槙尾への道は、雨の名残で泥が多かった。
水場のそばを通るたび、宗介は足を止めたくなる。
南谷外れ。
槙尾西沢。
古炭道の湧き水。
それぞれに印と決まりがある。
少し前まで、ただの水場だった場所が、今は笠森と槙尾と商人の信用を支える場所になっていた。
槙尾の館へ着くと、すでに和木原の者が来ていた。
和木原主膳。
初めて見る男だった。
年は四十を越えたくらいか。細い顔に、薄い笑みを浮かべている。衣は笠森よりよい。供も整っている。
その横には奥田弥五郎が控えていた。
柔らかい笑みの男。
宗介は、彼を見るだけで胃が重くなった。
槙尾左馬助は、庭に面した広間の上座にいた。
年配の男で、派手なところはない。
だが、目は鋭かった。
安西新蔵がその脇に控えている。
弥四郎が礼を取る。
和木原主膳も、形だけは丁寧に頭を下げた。
「片瀬殿。此度は、少々騒ぎが大きくなりましたな」
主膳の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさが逆に怖い。
弥四郎は短く答えた。
「水と荷の話だ。大きくもなる」
槙尾左馬助が口を開いた。
「今日の場は、槙尾が預かる。笠森も和木原も、まずは言い分を述べよ。だが、怒鳴り合いは許さぬ。ここは槍場ではない」
「承知」
弥四郎と主膳が同時に答えた。
先に口を開いたのは、和木原主膳だった。
「笠森は、このところ水札なるものを出し、商人の通行を選んでおります。さらに、牛渡しに札をつけ、濡れ荷改めと称して商人の荷に関わっている。これでは、小城が勝手に道の掟を作っているようなもの」
主膳は穏やかな顔のまま続けた。
「和木原は、渡しを持つ家として荷を改め、渡し賃を取ってきました。そこへ笠森が横から札を出せば、商人は迷う。道が乱れます」
宗介は、思わず口を開きかけた。
弥四郎が、わずかに手で止める。
まだだ。
主膳はさらに言った。
「加えて、笠森は灰原の流れ者を抱え、水と粥を与え、働かせております。賊を養い、その手を使って道を押さえる。周辺の者が不安に思うのも当然でしょう」
庭が静まる。
言い方が上手い。
水札。
牛渡し。
濡れ荷改め。
降り人。
全てを一つにつなげて、笠森が勝手に道を支配しているように見せている。
槙尾左馬助は、表情を変えずに弥四郎を見た。
「片瀬殿」
弥四郎は頷いた。
「笠森は、道の掟を作ったのではない。水場を荒らさせぬ手順を作った」
「言い方の違いでは」
主膳が挟む。
弥四郎はそちらを見た。
「違う。和木原の札は、笠森の水場まで使えると言った。だが、何人で、どれだけ水を汲み、どこで荷を下ろすかは書いていない。水場を守る気がない札だ」
主膳の笑みが少し薄くなる。
弥四郎は宗介へ頷いた。
「出せ」
宗介は包みを開いた。
笠森の水札。
和木原札。
偽水札。
それらを並べる。
札だけなら小さな木片だ。
だが、並べると違いは見えた。
笠森の札には、その日の印がある。
水場ごとの返し印がある。
使った水場を残す板と結びついている。
和木原札には、和木原改め済みと大きく刻まれているだけだった。
「笠森札は、水場ごとに使い方を決めました」
宗介は言った。
声が少し震えた。
それでも続ける。
「南谷外れは竹筒二本まで。火は使わない。槙尾西沢は荷を下ろす場所を決める。古炭道の湧き水は、汚された後、使えない日は使わせない。札は、通すためだけではありません」
槙尾左馬助が問う。
「通すためだけではないとは」
「止めるためでもあります」
宗介は赤い止め札を出した。
牛角の上に赤い横線。
渡るな、の印。
「牛渡しは、使える日だけ使います。水が増えた日は止めます。小六という南谷の者が川を見て、渡れない日は止める。昨日も止めました」
主膳が静かに言う。
「そのせいで商人の荷が遅れた」
「和木原の渡しでは、止めずに荷が流れました」
宗介は言った。
庭の空気が一段冷えた。
主膳の目が細くなる。
宗介は逃げずに続けた。
「笠森が止めた牛渡しでは、荷は流れていません。和木原が通した渡しでは、荷が流れました。怪我人も出ています」
「和木原の渡しで何があったか、笠森はすべて見たわけではあるまい」
奥田弥五郎が柔らかく言った。
弥四郎が答える。
「だから、見たものだけを持ってきた」
次に出したのは、濡れ塩だった。
外側が溶けかけた塩。
中心が残った塩。
捨てた干物の印。
救った縄の印。
そして三つの帳。
笠森の板。
槙尾の写し。
商人の帳。
安西新蔵が槙尾の写しを示した。
「槙尾は、この濡れ荷改めに立ち会いました。笠森が勝手に荷を抜いた様子はございません」
伊助もいた。
腕にはまだ布が巻かれている。
商人として、この場へ呼ばれていた。
伊助は膝をつき、はっきり言った。
「和木原の渡しで荷が流れ、笠森の者が縄で引き上げ、濡れたものと助かったものを分けてくれました。荷は、私と彦七のものです。和木原の荷ではございません」
槙尾左馬助は伊助を見る。
「笠森に荷を奪われたか」
「いいえ」
「濡れ荷改めの賃は」
「先に決めました。助かった塩の小包み一つと、縄一本です。こちらから渡しました」
「高いか」
「高くはございません。むしろ、荷が助かった分を思えば安い」
主膳は黙っていた。
宗介は、心臓が強く打つのを感じていた。
三つの帳。
現物。
商人の証言。
それらが、主膳の言葉を少しずつ押し返している。
槙尾左馬助は、今度は弥四郎へ問うた。
「灰原の降り人はどう扱っている」
弥四郎は即答した。
「武器を持たせず、水運び、薪割り、縄干し、溝さらいに使っている。粥は半椀から。名を板に残している」
「賊を養っているのではないか」
「働かせている。逃がせばまた和木原や他の者に使われる。斬れば手は減るが、情報も減る。笠森は、使える手を見張りつきで使う」
宇平次が続けた。
「下の者を矢で射た源蔵は別に押さえております。甚内も同じ。誰も同じ扱いにはしておりませぬ」
源蔵の紙片が出された。
南谷の井戸。
渡し。
荷車。
和木原へ回せ。
その文字が、場へ置かれる。
主膳の顔から、完全に笑みが消えた。
「それは、源蔵が勝手に持っていたもの。和木原の意ではない」
弥四郎は静かに答える。
「では、源蔵を和木原の者ではないと認めるか」
主膳は一瞬、言葉を止めた。
源蔵を切れば、責任は軽くなる。
だが、源蔵が和木原の者ではないとなれば、和木原は源蔵の引き渡しを求める理由を失う。
弥四郎はそこを突いた。
槙尾左馬助の目が、少しだけ動いた。
主膳は答えを避けた。
「その件は、後日改める」
「なら、今日の水と荷の件も、源蔵の紙を抜きには語れぬ」
弥四郎は言った。
静かだが、押していた。
宗介は、その横顔を見た。
数日前まで、弥四郎は若い小領主だった。
今も若い。
だが、米と水と荷の現場を見続けたことで、言葉の重心が変わっている。
槙尾左馬助は、しばらく黙った。
そして、ゆっくり口を開いた。
「今日のところ、槙尾はこう見る」
全員が顔を上げる。
「笠森の水札は、少なくとも南谷外れと槙尾西沢において有効とする。ただし、槙尾西沢では槙尾の立ち会い印を残すこと」
安西新蔵が頷く。
「はっ」
「牛渡しは、南谷の渡し役が水を見て止める日を決める。笠森はその判断を支える。和木原は、牛渡しを無理に通せと商人へ触れてはならぬ」
主膳の眉が動いた。
だが、左馬助は続けた。
「和木原の渡しは和木原のものだ。渡し賃を取ることまでは否定せぬ。だが、笠森札を持つ荷という理由だけで賊荷と呼ぶことは認めぬ。荷改めをするなら、その場で商人へ理由を示せ」
主膳は低く言った。
「槙尾殿。それでは、和木原の渡しの面目が」
「荷を流した渡しの面目は、水位を見て立て直せ」
左馬助の声が少しだけ重くなった。
庭が静まった。
「濡れ荷改めについては、笠森、槙尾、商人の三つの帳を認める。ただし、改め賃は先に決めること。勝手に荷を抜けば、笠森の責とする」
「承知しました」
弥四郎が頭を下げる。
主膳は黙っていた。
完全な勝ちではない。
和木原の渡しは残る。
和木原札も、和木原の内では消えないだろう。
だが、笠森の水札は槙尾の場で認められた。
牛渡しの止め札も、濡れ荷改めも。
小さな城の手順が、外の場で形を得た。
宗介は、膝の力が抜けそうになるのをこらえた。
その時、主膳が静かに言った。
「では、次は尾張筋の商人にも聞かねばなりますまい」
弥四郎の目が細くなる。
「何をだ」
「笠森札を選ぶと言う商人がいるなら、その商人たちにも責を負わせるべきです。津島筋、清洲筋へも話が及ぶなら、いずれ大きな家の耳にも入る」
主膳は薄く笑った。
「小城の庭では済まぬ話になりますな」
宗介の背中に冷たい汗が流れた。
やはり、和木原は退かない。
槙尾で押されたなら、次はさらに外へ場を動かす。
尾張筋。
津島。
清洲。
大きな家。
水札の噂が、遠くへ行くほど、笠森だけでは抱えきれないものになる。
槙尾左馬助は主膳を見た。
「それはまた別の話だ」
「ええ」
主膳は頭を下げた。
「今日のところは、槙尾殿の裁きを受けましょう」
その言い方には、まだ棘があった。
協議は終わった。
笠森は、水札と止め札と濡れ荷改めを守った。
だが、次の影も見えた。
尾張筋の商人。
その向こうの清洲。
さらに大きな力。
帰り道、宗介は包みを抱えて歩いた。
持ってきた札は軽くなっていない。
むしろ、重くなった気がした。
弥四郎が隣で言った。
「宗介」
「はい」
「今日は、腹を見せたな」
「はい」
「だが、全部は見せていない」
「はい。隠すものは隠しました」
「よい」
弥四郎は前を見た。
「次は、尾張筋だ」
宗介は足を止めそうになった。
だが、止まらなかった。
道は濡れている。
水場はまだ増水に気をつけなければならない。
和木原は退かない。
それでも、笠森の札は槙尾の庭を越えた。
小さな木札が、また少し遠くへ進んだ。
第四十三話─了




