第四十二話 三つの帳
翌朝、笠森城の庭には、板が三枚並べられていた。
一枚は笠森の板。
一枚は槙尾が写すための板。
もう一枚は、商人の帳と照らし合わせるために置いた仮板である。
久住宗介は、その前にしゃがみ込んでいた。
蔵の端では、昨日の濡れ荷がまだ広げられている。
塩は板の上に薄く伸ばされ、外側の濡れた分と、中心に残った分に分けられていた。干物は、おきぬが一枚ずつ見て、食えるもの、煮れば使えるもの、捨てるものに分けている。縄は太助が泥を落とし、城壁の内側で干していた。
見た目は地味だった。
だが、宗介には分かる。
これは、ただ荷を乾かしているだけではない。
誰の荷か。
どれだけ流れたか。
どれだけ助かったか。
誰が見たか。
それを残している。
荷を守るための仕事であり、同時に、言い逃れをさせないための仕事でもあった。
「濡れ塩、外側は味噌湯用」
宗介が言うと、市松が板に印をつける。
「中心の塩、保存用。ただし、早めに使う」
「早めに使うって、どう描くんだよ」
「日を表す印を添えて」
「日?」
「丸でいい」
市松は塩の印の横に、小さな丸を二つ刻んだ。
「二日くらい?」
「そういう意味に見える」
「なら、そうする」
宗介は次に干物を見る。
おきぬがすでに三つに分けていた。
「これは今日中。これは煮る。これは捨てる」
「捨てる分も板に」
「はいよ。もったいないけど、腹を壊すよりましだね」
喜兵衛が横で頷いた。
「濡れ荷は、助かった分だけ見ればよいのではない。駄目になった分を残すから、商人が納得する」
その通りだった。
助かった分だけを見せれば、笠森がいくらでも抜ける。
駄目になった分も残す。
捨てるものも見せる。
それで初めて、改めになる。
昼前、槙尾の安西新蔵が来た。
供を一人連れている。
その供は字が少し書ける者らしく、細い木片と炭を持っていた。
続いて、伊助と彦七も来た。
伊助の腕はまだ布で吊られているが、昨日より顔色はよい。
彼らの荷が、今日の濡れ荷改めの中心だった。
片瀬弥四郎は庭へ出た。
「始める」
短い一言で、全員の目が板へ向いた。
宗介は一つずつ読み上げた。
「塩包み、二つ。外側濡れ。中心部は残りあり。外側は味噌湯用、中心部は保存用。ただし早めに使う」
市松が笠森の板に印を残す。
槙尾の供が写す。
伊助は自分の小さな帳に印をつけた。
次。
「干物。食えるもの、少し。煮れば使えるもの、半分ほど。捨てるもの、あり」
おきぬが横から言った。
「捨てるものは、もう一度嗅いでもいいよ。けど、食わせないよ」
伊助は一枚を取り、匂いを嗅いだ。
顔をしかめ、すぐ戻した。
「捨ててくだされ」
彦七も頷く。
「惜しいが、これは駄目だ」
次。
「縄。濡れあり。泥を落とし、干せば使える。ただし、井戸縄には使わない。荷縄として」
太助が縄を持ち上げて見せた。
「強いところは残ってる。水を吸ったところは締め直しがいる」
「太助」
宇平次が低く呼ぶ。
「誤魔化すなよ」
「誤魔化さねえ」
太助は少しむっとした顔で答えた。
「濡れた縄をごまかすと、荷が落ちる。俺も困る」
その言葉に、伊助が小さく頷いた。
太助は、もとは灰原甚内の下にいた男だ。
まだ完全に信用されてはいない。
だが、縄と炭の扱いでは役に立つ。
宗介は、それを板に残したいと思った。
降った者が役を持つ。
それも笠森の変化だ。
改めが終わる頃には、三つの記録が揃っていた。
笠森の板。
槙尾の写し。
商人の帳。
全てが完全に同じではない。
字の癖も、印の形も違う。
だが、同じ荷を同じ場で見た記録であることは分かった。
安西新蔵は、その三つを見比べ、静かに言った。
「これがあれば、和木原が後から何を言っても押し返せますな」
伊助も深く息を吐いた。
「私ら商人にとっては、ありがたい。流れた荷は、だいたい後で揉めます。誰が拾った、誰が抜いた、どこで濡れた、どれが元から傷んでいた。口だけでは決着がつかない」
「だから三つ残す」
宗介は言った。
「一つだけだと、都合よく変えたと言われます」
「笠森だけの板なら、和木原は疑う。商人だけの帳なら、商人が欲を出したと言う。槙尾だけなら、槙尾の都合と言われる」
新蔵が笑う。
「三つあれば、三つをまとめて嘘にせねばならぬ」
弥四郎は頷いた。
「なら、濡れ荷改めはこの形にする。笠森、槙尾、商人。三つの帳で残す」
市松が板を見て呟いた。
「三つも帳があると、面倒だな」
宗介は答えた。
「面倒だから、信用になる」
市松は少し考え、頷いた。
「昨日、誰かも言ってたな」
「惣右衛門さん」
「ああ、尾張の商人」
尾張の商人。
その言葉が、城庭に少しだけ響きを残した。
津島。
清洲。
尾張筋。
少し前まで遠かった名が、いまでは板の上の線として笠森へ繋がり始めている。
濡れ荷改めが終わると、次は手間賃の話になった。
これが難しかった。
笠森は荷を救った。
乾かし、分け、記録した。
そこには人手も場所も使っている。
ただでやれば、城の米と時間が削られる。
だが、高く取れば、和木原の渡し賃と同じになる。
宗介は、正直に言った。
「俺には、商人の銭の相場は分かりません」
伊助と彦七が顔を見合わせた。
喜兵衛が腕を組む。
「なら、銭にこだわらず、形を分けよ」
「形?」
「荷の持ち主が望むなら銭。銭がなければ、助かった荷の一部。塩なら一つまみずつではなく、小分けの一包み。縄なら短い一本。干物なら食える分から少し。だが、取りすぎるな」
新蔵が頷く。
「槙尾なら、助かった荷の一部を改め賃とするでしょう。ただし、最初に決めることです。後から取れば、奪ったと言われる」
宗介は深く頷いた。
最初に決める。
見えるようにする。
選べるようにする。
ここでも同じだった。
弥四郎は言った。
「濡れ荷改めの賃は、持ち主と先に決める。銭か、助かった荷の一部か。笠森が勝手に抜くことは禁ずる」
伊助はすぐに答えた。
「今回は、塩の小包みを一つ、笠森へ」
彦七も頷いた。
「縄一本もお渡しします。荷を救っていただいた分です」
弥四郎は宗介を見る。
宗介は少し迷ったが、頷いた。
「多すぎません」
喜兵衛も言った。
「受けてよい」
弥四郎は頷いた。
「では、受ける。市松、改め賃として板に残せ。塩小包み一つ、縄一本。勝手に取ったものではない。伊助、彦七より」
「はい」
市松は丁寧に書いた。
その時、門の外で声が上がった。
「和木原より使者!」
庭の空気が一瞬で硬くなった。
昨日、宮部源八郎が来たばかりだ。
今度は誰か。
門から入ってきたのは、奥田弥五郎だった。
先日、甚内と源蔵を引き渡せと言ってきた男である。
衣は整っている。
顔にはいつもの柔らかい笑みがある。
だが、門をくぐった瞬間、庭に並んだ三つの板を見て、笑みがわずかに固まった。
「これはこれは」
奥田は頭を下げた。
「たいそうな改めでございますな」
弥四郎は立ったまま答えた。
「濡れ荷改めだ」
「和木原の渡しで流れた荷について、こちらでも話を聞いております」
「昨日も聞いた」
「昨日の者は、少々言葉が足りませなんだ」
奥田は笑みを戻した。
「和木原は、商人の荷を奪おうというのではございませぬ。ただ、和木原の渡しで起きたことゆえ、渡しの帳に残さねばならぬ。そのため、笠森で改めた板の写しをいただきたい」
「写しは槙尾立ち会いで作ると言ったはずだ」
弥四郎の声は冷たい。
奥田は頷く。
「では、この場で。槙尾の方もおられる。商人もおられる。何も問題はございますまい」
宗介は、奥田の顔を見た。
上手い。
昨日、和木原だけへ写しは渡さぬと言った。
なら今日は、槙尾と商人がいる場で写しを求める。
形だけなら、拒みにくい。
奥田は、そこでさらに言った。
「ただし、和木原の渡し人の言い分も板に加えていただきたい。商人が荷を重く積みすぎたため流れた、と」
伊助が立ち上がりかけた。
弥四郎が目で止める。
宗介は息を呑んだ。
そこか。
和木原は、濡れ荷の量ではなく、原因を板に入れようとしている。
商人が重く積みすぎた。
そう書かせれば、和木原の責任は薄くなる。
通せると言って渡したことも、増水の日に止めなかったことも、商人の荷のせいにできる。
弥四郎は言った。
「その言い分を入れるなら、笠森の見分も入れる」
「見分とは」
「昨日、牛渡しは小六が止めた。水位は枝の二本目にかかった。流木もあり。和木原は同じ日、渡しを通した。その結果、荷が流れた」
奥田の笑みが薄くなる。
「笠森は和木原の渡しを見ておらぬ」
「荷が流れた下流は見た。商人の怪我も見た。荷も救った」
弥四郎は静かに続ける。
「原因を書くなら、見た者の名も書く。小六、宇平次、宗介、伊助、彦七、槙尾の者。和木原の渡し人も呼べ。全員の前で書く」
奥田は黙った。
全員の前で書く。
それは、和木原にとって都合が悪い。
渡し人を呼べば、通せると言ったことも問われる。
流木を見た商人もいる。
牛渡しを止めた小六もいる。
笠森だけの主張ではなくなる。
安西新蔵が柔らかく言った。
「槙尾としても、その形なら立ち会えます」
伊助も言った。
「私も、その場でなら話します」
彦七も頷く。
「荷を重く積みすぎたというなら、どれだけ積んだかも言えます。和木原の渡し人が、通せると言ったことも」
奥田は少し目を伏せた。
やがて、笑みを戻す。
「では、今日は写しを求めませぬ」
宇平次の目が鋭くなる。
奥田は続けた。
「ただ、和木原としては、笠森が商人の荷に深く関わることを懸念しております。水札、止め札、牛渡し、濡れ荷改め。いずれも、本来は小城一つで決めるには大きい話」
弥四郎は黙って聞いていた。
奥田の声は、少し低くなった。
「周辺の小領で、一度話し合うべきではございませぬか」
城庭の空気が変わった。
周辺の小領。
つまり、笠森、和木原、槙尾、その他の小領を集めた場。
和木原は、現場で負けた。
札で押され、商人に選ばれ、渡しの事故も不利になった。
だから、場を変えるつもりだ。
道と水の話を、政治の場へ持ち上げる。
弥四郎は、すぐには答えなかった。
宗介は喉の奥が乾いた。
これは、まずい。
笠森は小さい。
現場の水場や濡れ荷では勝てても、小領主たちが集まる場では、力の差が出る。
和木原が根回しをすれば、笠森の札は「勝手な取り決め」とされるかもしれない。
弥四郎は静かに問うた。
「どこで話す」
「槙尾はいかがでしょう」
奥田は言った。
「槙尾左馬助殿の前で、水場と渡しの取り決めを改める。和木原も笠森も、そこで言い分を出す」
安西新蔵が少し目を細めた。
自分の主の名を使われたのだ。
しかし、すぐに拒むこともできない。
「持ち帰ります」
新蔵は言った。
「槙尾左馬助へ伺いましょう」
奥田は丁寧に頭を下げた。
「よろしくお伝えください」
弥四郎は短く言った。
「笠森は逃げぬ」
奥田の笑みが少し深くなった。
「頼もしいことにございます」
奥田は去った。
門が閉まると、城庭に重い沈黙が落ちた。
市松が小声で言った。
「これ、面倒なことになった?」
宇平次が答えた。
「面倒だな」
宗介も頷いた。
「かなり」
だが、弥四郎の表情は崩れていなかった。
若い城主は、三つの帳を見た。
笠森の板。
槙尾の写し。
商人の帳。
「なら、持っていくものは決まっている」
弥四郎は言った。
「水札。止め札。牛渡しの牛角。濡れ荷改め。和木原札。偽水札。源蔵の紙。すべて、見える形で持つ」
宗介は息を呑んだ。
これまで積み上げたものを、槙尾の場へ持っていく。
ただの言葉ではなく、現物と帳で。
「宗介」
「はい」
「次は、城の外で腹を見せることになる。隠すものと見せるものを分けろ」
「承知しました」
宗介は板を見た。
仕事はまた増えた。
だが、これは進んでいる証でもある。
水場の話は、城庭を越えた。
渡しの話は、川岸を越えた。
濡れ荷の帳は、小領主たちの場へ持ち込まれようとしている。
笠森城は、小さいままではいられなくなってきた。
夜の粥は薄かった。
けれど、濡れ塩の味が少しだけ残っていた。
宗介はそれを啜りながら、槙尾での話し合いを思った。
刀は振れない。
槍も使えない。
だが、板と札と濡れた荷なら持てる。
それで、どこまで戦えるか。
次の相手は、川ではない。
人の前に並べられた言葉と面子だった。
第四十二話─了




