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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十二話 三つの帳

 翌朝、笠森城の庭には、板が三枚並べられていた。


 一枚は笠森の板。


 一枚は槙尾が写すための板。


 もう一枚は、商人の帳と照らし合わせるために置いた仮板である。


 久住宗介は、その前にしゃがみ込んでいた。


 蔵の端では、昨日の濡れ荷がまだ広げられている。


 塩は板の上に薄く伸ばされ、外側の濡れた分と、中心に残った分に分けられていた。干物は、おきぬが一枚ずつ見て、食えるもの、煮れば使えるもの、捨てるものに分けている。縄は太助が泥を落とし、城壁の内側で干していた。


 見た目は地味だった。


 だが、宗介には分かる。


 これは、ただ荷を乾かしているだけではない。


 誰の荷か。


 どれだけ流れたか。


 どれだけ助かったか。


 誰が見たか。


 それを残している。


 荷を守るための仕事であり、同時に、言い逃れをさせないための仕事でもあった。


「濡れ塩、外側は味噌湯用」


 宗介が言うと、市松が板に印をつける。


「中心の塩、保存用。ただし、早めに使う」


「早めに使うって、どう描くんだよ」


「日を表す印を添えて」


「日?」


「丸でいい」


 市松は塩の印の横に、小さな丸を二つ刻んだ。


「二日くらい?」


「そういう意味に見える」


「なら、そうする」


 宗介は次に干物を見る。


 おきぬがすでに三つに分けていた。


「これは今日中。これは煮る。これは捨てる」


「捨てる分も板に」


「はいよ。もったいないけど、腹を壊すよりましだね」


 喜兵衛が横で頷いた。


「濡れ荷は、助かった分だけ見ればよいのではない。駄目になった分を残すから、商人が納得する」


 その通りだった。


 助かった分だけを見せれば、笠森がいくらでも抜ける。


 駄目になった分も残す。


 捨てるものも見せる。


 それで初めて、改めになる。


 昼前、槙尾の安西新蔵が来た。


 供を一人連れている。


 その供は字が少し書ける者らしく、細い木片と炭を持っていた。


 続いて、伊助と彦七も来た。


 伊助の腕はまだ布で吊られているが、昨日より顔色はよい。


 彼らの荷が、今日の濡れ荷改めの中心だった。


 片瀬弥四郎は庭へ出た。


「始める」


 短い一言で、全員の目が板へ向いた。


 宗介は一つずつ読み上げた。


「塩包み、二つ。外側濡れ。中心部は残りあり。外側は味噌湯用、中心部は保存用。ただし早めに使う」


 市松が笠森の板に印を残す。


 槙尾の供が写す。


 伊助は自分の小さな帳に印をつけた。


 次。


「干物。食えるもの、少し。煮れば使えるもの、半分ほど。捨てるもの、あり」


 おきぬが横から言った。


「捨てるものは、もう一度嗅いでもいいよ。けど、食わせないよ」


 伊助は一枚を取り、匂いを嗅いだ。


 顔をしかめ、すぐ戻した。


「捨ててくだされ」


 彦七も頷く。


「惜しいが、これは駄目だ」


 次。


「縄。濡れあり。泥を落とし、干せば使える。ただし、井戸縄には使わない。荷縄として」


 太助が縄を持ち上げて見せた。


「強いところは残ってる。水を吸ったところは締め直しがいる」


「太助」


 宇平次が低く呼ぶ。


「誤魔化すなよ」


「誤魔化さねえ」


 太助は少しむっとした顔で答えた。


「濡れた縄をごまかすと、荷が落ちる。俺も困る」


 その言葉に、伊助が小さく頷いた。


 太助は、もとは灰原甚内の下にいた男だ。


 まだ完全に信用されてはいない。


 だが、縄と炭の扱いでは役に立つ。


 宗介は、それを板に残したいと思った。


 降った者が役を持つ。


 それも笠森の変化だ。


 改めが終わる頃には、三つの記録が揃っていた。


 笠森の板。


 槙尾の写し。


 商人の帳。


 全てが完全に同じではない。


 字の癖も、印の形も違う。


 だが、同じ荷を同じ場で見た記録であることは分かった。


 安西新蔵は、その三つを見比べ、静かに言った。


「これがあれば、和木原が後から何を言っても押し返せますな」


 伊助も深く息を吐いた。


「私ら商人にとっては、ありがたい。流れた荷は、だいたい後で揉めます。誰が拾った、誰が抜いた、どこで濡れた、どれが元から傷んでいた。口だけでは決着がつかない」


「だから三つ残す」


 宗介は言った。


「一つだけだと、都合よく変えたと言われます」


「笠森だけの板なら、和木原は疑う。商人だけの帳なら、商人が欲を出したと言う。槙尾だけなら、槙尾の都合と言われる」


 新蔵が笑う。


「三つあれば、三つをまとめて嘘にせねばならぬ」


 弥四郎は頷いた。


「なら、濡れ荷改めはこの形にする。笠森、槙尾、商人。三つの帳で残す」


 市松が板を見て呟いた。


「三つも帳があると、面倒だな」


 宗介は答えた。


「面倒だから、信用になる」


 市松は少し考え、頷いた。


「昨日、誰かも言ってたな」


「惣右衛門さん」


「ああ、尾張の商人」


 尾張の商人。


 その言葉が、城庭に少しだけ響きを残した。


 津島。


 清洲。


 尾張筋。


 少し前まで遠かった名が、いまでは板の上の線として笠森へ繋がり始めている。


 濡れ荷改めが終わると、次は手間賃の話になった。


 これが難しかった。


 笠森は荷を救った。


 乾かし、分け、記録した。


 そこには人手も場所も使っている。


 ただでやれば、城の米と時間が削られる。


 だが、高く取れば、和木原の渡し賃と同じになる。


 宗介は、正直に言った。


「俺には、商人の銭の相場は分かりません」


 伊助と彦七が顔を見合わせた。


 喜兵衛が腕を組む。


「なら、銭にこだわらず、形を分けよ」


「形?」


「荷の持ち主が望むなら銭。銭がなければ、助かった荷の一部。塩なら一つまみずつではなく、小分けの一包み。縄なら短い一本。干物なら食える分から少し。だが、取りすぎるな」


 新蔵が頷く。


「槙尾なら、助かった荷の一部を改め賃とするでしょう。ただし、最初に決めることです。後から取れば、奪ったと言われる」


 宗介は深く頷いた。


 最初に決める。


 見えるようにする。


 選べるようにする。


 ここでも同じだった。


 弥四郎は言った。


「濡れ荷改めの賃は、持ち主と先に決める。銭か、助かった荷の一部か。笠森が勝手に抜くことは禁ずる」


 伊助はすぐに答えた。


「今回は、塩の小包みを一つ、笠森へ」


 彦七も頷いた。


「縄一本もお渡しします。荷を救っていただいた分です」


 弥四郎は宗介を見る。


 宗介は少し迷ったが、頷いた。


「多すぎません」


 喜兵衛も言った。


「受けてよい」


 弥四郎は頷いた。


「では、受ける。市松、改め賃として板に残せ。塩小包み一つ、縄一本。勝手に取ったものではない。伊助、彦七より」


「はい」


 市松は丁寧に書いた。


 その時、門の外で声が上がった。


「和木原より使者!」


 庭の空気が一瞬で硬くなった。


 昨日、宮部源八郎が来たばかりだ。


 今度は誰か。


 門から入ってきたのは、奥田弥五郎だった。


 先日、甚内と源蔵を引き渡せと言ってきた男である。


 衣は整っている。


 顔にはいつもの柔らかい笑みがある。


 だが、門をくぐった瞬間、庭に並んだ三つの板を見て、笑みがわずかに固まった。


「これはこれは」


 奥田は頭を下げた。


「たいそうな改めでございますな」


 弥四郎は立ったまま答えた。


「濡れ荷改めだ」


「和木原の渡しで流れた荷について、こちらでも話を聞いております」


「昨日も聞いた」


「昨日の者は、少々言葉が足りませなんだ」


 奥田は笑みを戻した。


「和木原は、商人の荷を奪おうというのではございませぬ。ただ、和木原の渡しで起きたことゆえ、渡しの帳に残さねばならぬ。そのため、笠森で改めた板の写しをいただきたい」


「写しは槙尾立ち会いで作ると言ったはずだ」


 弥四郎の声は冷たい。


 奥田は頷く。


「では、この場で。槙尾の方もおられる。商人もおられる。何も問題はございますまい」


 宗介は、奥田の顔を見た。


 上手い。


 昨日、和木原だけへ写しは渡さぬと言った。


 なら今日は、槙尾と商人がいる場で写しを求める。


 形だけなら、拒みにくい。


 奥田は、そこでさらに言った。


「ただし、和木原の渡し人の言い分も板に加えていただきたい。商人が荷を重く積みすぎたため流れた、と」


 伊助が立ち上がりかけた。


 弥四郎が目で止める。


 宗介は息を呑んだ。


 そこか。


 和木原は、濡れ荷の量ではなく、原因を板に入れようとしている。


 商人が重く積みすぎた。


 そう書かせれば、和木原の責任は薄くなる。


 通せると言って渡したことも、増水の日に止めなかったことも、商人の荷のせいにできる。


 弥四郎は言った。


「その言い分を入れるなら、笠森の見分も入れる」


「見分とは」


「昨日、牛渡しは小六が止めた。水位は枝の二本目にかかった。流木もあり。和木原は同じ日、渡しを通した。その結果、荷が流れた」


 奥田の笑みが薄くなる。


「笠森は和木原の渡しを見ておらぬ」


「荷が流れた下流は見た。商人の怪我も見た。荷も救った」


 弥四郎は静かに続ける。


「原因を書くなら、見た者の名も書く。小六、宇平次、宗介、伊助、彦七、槙尾の者。和木原の渡し人も呼べ。全員の前で書く」


 奥田は黙った。


 全員の前で書く。


 それは、和木原にとって都合が悪い。


 渡し人を呼べば、通せると言ったことも問われる。


 流木を見た商人もいる。


 牛渡しを止めた小六もいる。


 笠森だけの主張ではなくなる。


 安西新蔵が柔らかく言った。


「槙尾としても、その形なら立ち会えます」


 伊助も言った。


「私も、その場でなら話します」


 彦七も頷く。


「荷を重く積みすぎたというなら、どれだけ積んだかも言えます。和木原の渡し人が、通せると言ったことも」


 奥田は少し目を伏せた。


 やがて、笑みを戻す。


「では、今日は写しを求めませぬ」


 宇平次の目が鋭くなる。


 奥田は続けた。


「ただ、和木原としては、笠森が商人の荷に深く関わることを懸念しております。水札、止め札、牛渡し、濡れ荷改め。いずれも、本来は小城一つで決めるには大きい話」


 弥四郎は黙って聞いていた。


 奥田の声は、少し低くなった。


「周辺の小領で、一度話し合うべきではございませぬか」


 城庭の空気が変わった。


 周辺の小領。


 つまり、笠森、和木原、槙尾、その他の小領を集めた場。


 和木原は、現場で負けた。


 札で押され、商人に選ばれ、渡しの事故も不利になった。


 だから、場を変えるつもりだ。


 道と水の話を、政治の場へ持ち上げる。


 弥四郎は、すぐには答えなかった。


 宗介は喉の奥が乾いた。


 これは、まずい。


 笠森は小さい。


 現場の水場や濡れ荷では勝てても、小領主たちが集まる場では、力の差が出る。


 和木原が根回しをすれば、笠森の札は「勝手な取り決め」とされるかもしれない。


 弥四郎は静かに問うた。


「どこで話す」


「槙尾はいかがでしょう」


 奥田は言った。


「槙尾左馬助殿の前で、水場と渡しの取り決めを改める。和木原も笠森も、そこで言い分を出す」


 安西新蔵が少し目を細めた。


 自分の主の名を使われたのだ。


 しかし、すぐに拒むこともできない。


「持ち帰ります」


 新蔵は言った。


「槙尾左馬助へ伺いましょう」


 奥田は丁寧に頭を下げた。


「よろしくお伝えください」


 弥四郎は短く言った。


「笠森は逃げぬ」


 奥田の笑みが少し深くなった。


「頼もしいことにございます」


 奥田は去った。


 門が閉まると、城庭に重い沈黙が落ちた。


 市松が小声で言った。


「これ、面倒なことになった?」


 宇平次が答えた。


「面倒だな」


 宗介も頷いた。


「かなり」


 だが、弥四郎の表情は崩れていなかった。


 若い城主は、三つの帳を見た。


 笠森の板。


 槙尾の写し。


 商人の帳。


「なら、持っていくものは決まっている」


 弥四郎は言った。


「水札。止め札。牛渡しの牛角。濡れ荷改め。和木原札。偽水札。源蔵の紙。すべて、見える形で持つ」


 宗介は息を呑んだ。


 これまで積み上げたものを、槙尾の場へ持っていく。


 ただの言葉ではなく、現物と帳で。


「宗介」


「はい」


「次は、城の外で腹を見せることになる。隠すものと見せるものを分けろ」


「承知しました」


 宗介は板を見た。


 仕事はまた増えた。


 だが、これは進んでいる証でもある。


 水場の話は、城庭を越えた。


 渡しの話は、川岸を越えた。


 濡れ荷の帳は、小領主たちの場へ持ち込まれようとしている。


 笠森城は、小さいままではいられなくなってきた。


 夜の粥は薄かった。


 けれど、濡れ塩の味が少しだけ残っていた。


 宗介はそれを啜りながら、槙尾での話し合いを思った。


 刀は振れない。


 槍も使えない。


 だが、板と札と濡れた荷なら持てる。


 それで、どこまで戦えるか。


 次の相手は、川ではない。


 人の前に並べられた言葉と面子だった。


第四十二話─了

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