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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第四十一話 濡れ荷の帳

 雨は昼前にようやく細くなった。


 笠森城の庭には、濡れた藁と泥の匂いが残っている。


 蔵の端には、昨日和木原の渡しで流れかけた荷が広げられていた。


 塩。


 干物。


 縄。


 濡れた布。


 使えるもの、使えないもの、急げば助かるもの。


 久住宗介は、喜兵衛と並んでそれを見ていた。


「塩は、中心が残ったものと、外だけ溶けたものに分けます」


「外の濡れ塩はどうする」


「味噌湯に少しずつ。保存には向きません。湿ったまま置くと固まるか、悪くなります」


「干物は」


「おきぬさんの鼻に任せます」


 少し離れたところで、おきぬが干物を一枚ずつ嗅いでいた。


 表情は厳しい。


「これは駄目だね。これは今日中ならいける。これは煮れば何とか。これは捨てな」


 太助が顔をしかめる。


「捨てるのか」


「腹を壊す方が高くつくよ」


 おきぬが即答した。


 宗介は頷いた。


「捨てます」


 太助は諦めたように息を吐いた。


「もったいねえな」


「もったいないから、早く分けるんです」


 宗介は濡れた縄を手に取った。


 使える。


 ただし、このまま巻いておけば腐るかもしれない。


「縄は広げて干します。泥を落として、日が出たら城壁の内側へ」


「外ではなく内側か」


 喜兵衛が問う。


「外に干すと、誰が見ているか分かりません。濡れ荷がどれだけ助かったか、和木原に全部見せる必要はありません」


「ほう」


 喜兵衛は小さく笑った。


「隠すことも覚えたか」


「見せるものと、見せないものを分けるだけです」


「言い方が兵糧方らしくなってきたな」


 宗介は苦笑しかけたが、すぐに表情を戻した。


 今日の濡れ荷は、ただの救った荷ではない。


 商人の信用そのものだった。


 和木原の渡しで流れかけ、笠森で救った。


 それを雑に扱えば、せっかく得た信用が腐る。


 濡れ荷にも帳がいる。


「市松」


「へい」


 市松が板を抱えてくる。


 昨日の板には、川に浮く荷と赤い止め札が描かれていた。


「濡れ荷の板を作ります」


「また増えるのか」


「増える」


「もう城が板で埋まるぞ」


「埋まる前に整理します」


「本当に?」


 市松は途中で自分で言い直した。


 宗介は少しだけ笑った。


「本当に」


 市松はむっとした顔をしながらも、板を用意した。


 宗介は一つずつ言った。


「流れた荷。持ち主。中身。濡れた分。助かった分。捨てた分。笠森で預かる分。返す分」


 市松は目を丸くした。


「多い」


「多い。でも、これを残さないと揉めます」


 喜兵衛も頷いた。


「商人の荷は、城の米より揉める。銭が絡むからな」


「銭のことは分かりません」


 宗介は正直に言った。


「でも、何が残ったかは分けられます」


「それで十分だ」


 喜兵衛が言った。


「銭の話は商人にさせる。こちらは、濡れた荷を濡れたまま混ぜぬ。それだけでも値がある」


 昼頃、昨日の商人たちが再び城へ来た。


 腕を打った商人の名は、伊助といった。


 もう一人は彦七。


 二人とも、和木原の渡しで荷を流しかけた者である。


 伊助の腕は布で吊られていた。


 おきぬの手当てが効いたのか、昨日より顔色はましだった。


 門で荷改めを受ける必要もない。


 彼らの荷は、すでに城内にある。


 弥四郎は二人を庭へ通した。


 水だけを出す。


 飯は出さない。


 伊助は水を飲み、深く頭を下げた。


「昨日は、命も荷も助けていただきました」


 弥四郎は短く答えた。


「川を見たのは小六だ。荷を分けたのは宗介と喜兵衛。礼を言うなら、そちらへ言え」


 伊助は小六へ向かって頭を下げた。


 小六は困った顔をした。


「私は、止めただけです」


「止めてもらえなかったから、流れました」


 伊助はそう言った。


 城庭が静まった。


 この言葉は重い。


 昨日、小六が牛渡しを止めた。


 和木原は通した。


 その差が、目に見える形で出た。


 伊助は濡れ荷の板を見た。


「これは」


 宗介が答えた。


「助かった荷と、駄目になった荷を分けています。確認してください」


 伊助と彦七は、板と荷を見比べた。


 塩。


 干物。


 縄。


 濡れた布。


 捨てたものまで別に置いてある。


 伊助は驚いた顔をした。


「捨てたものまで残しているのですか」


「量を見るためです。あとで、もっとあった、少なかった、と揉めないように」


 彦七が低く言った。


「商人の荷の扱いを知っておられる」


「知らないから、見えるようにしているだけです」


 宗介は答えた。


 これは本心だった。


 現代で物流や配送の段取りを見てきた。


 だが、戦国の商人の細かい銭勘定を知っているわけではない。


 だからこそ、現物を分ける。


 数える。


 濡れたものと乾いたものを混ぜない。


 それしかできない。


 伊助は塩の中心部を見て、息を吐いた。


「半分は助かっている」


「はい。外側は味噌湯用に回せますが、元の値では売れないと思います」


「それを隠さず言うのですな」


「隠して売れば、次の人が腹を壊します」


 伊助はしばらく宗介を見ていた。


 やがて、小さく頭を下げた。


「笠森の濡れ荷改め、商人筋へ伝えます」


 濡れ荷改め。


 宗介は、その言葉を内心で繰り返した。


 また一つ、名がついた。


 水札。


 止め札。


 牛角。


 濡れ荷改め。


 こちらが意図していなくても、商人たちは名をつける。


 名がつけば、広がる。


 広がれば、また責任になる。


 その時、門外が騒がしくなった。


「和木原より使者!」


 宇平次がすぐ門へ向かう。


 宗介の胃が固くなった。


 早い。


 昨日の今日で、もう来た。


 門から入ってきたのは、奥田弥五郎ではなかった。


 もっと若い男だ。


 だが衣は整っており、腰には和木原の札が下がっている。


「和木原主膳が家中、宮部源八郎」


 男は名乗ると、弥四郎へ頭を下げた。


 形だけは丁寧だった。


「昨日、和木原の渡しにて流れた荷について申し入れに参りました」


 弥四郎は静かに見る。


「申せ」


 宮部源八郎は、濡れ荷をちらりと見た。


「その荷は、和木原の渡しで扱った荷にございます。渡しの者が回収し、改めるべきところ、笠森が勝手に持ち去ったと聞き及んでおります」


 城庭の空気が一気に冷えた。


 伊助が顔を赤くする。


「勝手に持ち去っただと!」


 宇平次が手で制する。


 宮部は続けた。


「つきましては、その荷を和木原へ返していただきたい。あわせて、和木原の渡しで生じた損分については、商人側と和木原で改める」


 宗介は息を呑んだ。


 損分を改める。


 つまり、笠森が助けた荷を和木原へ戻し、何が助かり何が駄目になったかを和木原の帳へ入れるつもりだ。


 そうなれば、話は変わる。


 笠森が救ったことも、止め札が正しかったことも、和木原の渡しが無理に通したことも、薄められる。


 弥四郎は表情を変えなかった。


「伊助」


「はい」


「この荷は、誰の荷だ」


「私と彦七の荷です」


「和木原の荷か」


「違います」


「笠森が奪ったか」


「違います。流れかけた荷を、笠森の者が縄で引き上げ、濡れた分を分けてくれました」


 宮部の顔がわずかに動いた。


 弥四郎はさらに問う。


「和木原の渡しは、昨日止めたか」


 伊助は唇を噛んだ。


「止めませんでした」


「小六は、牛渡しを止めたか」


「止めました」


「どちらで荷が流れた」


「和木原の渡しです」


 弥四郎は宮部へ向き直った。


「聞いたな」


 宮部は笑みを保とうとした。


「商人は、笠森に恩を感じておりますゆえ、そう申すかもしれませぬ」


 その言葉に、伊助がさらに怒りかけた。


 だが、その前に彦七が低く言った。


「では、荷を見ればよい」


 彦七は濡れ荷の板を指した。


「ここに濡れたもの、助かったもの、捨てたものが分けてある。和木原の渡しでは、流れた荷を見もせず、笠森へ行くなと怒鳴っただけだった。これを見て、どちらが荷を改めたと言える」


 宮部は黙った。


 宗介は、板が効いていることを感じた。


 言葉だけなら、押し返されたかもしれない。


 だが、現物がある。


 濡れた藁。


 助かった塩。


 駄目になった干物。


 捨てた分。


 板に残った数量。


 それらが、その場にある。


 嘘をつきにくい。


 弥四郎が言った。


「和木原へ荷は渡さぬ。持ち主が望むなら、笠森で改めた荷を返す。持ち主が笠森に預けると言うなら預かる。和木原が口を出す荷ではない」


 宮部の目が冷える。


「和木原の渡しを通った荷です」


「通ったのではない。流れた」


 弥四郎は即座に返した。


「そして笠森が拾った」


 宇平次が一歩前へ出る。


「和木原は、通せると言って通し、流した。笠森は、止めるべき日は止める。これだけだ」


 宮部はしばらく黙っていた。


 やがて、低く言った。


「主膳様は、この扱いを不快に思われましょう」


 弥四郎は静かに答えた。


「笠森も、和木原が商人の荷を流したことを不快に思う」


 城庭の空気がさらに張りつめた。


 若い城主と、和木原の使者。


 小城同士の言葉の刃だった。


 宗介は、背中に汗を感じていた。


 槍を合わせているわけではない。


 だが、一言で次の争いが起こるかもしれない。


 宮部は最後に、濡れ荷の板へ目をやった。


「その板の写しをいただきたい」


「断る」


 弥四郎は即答した。


「必要なら、槙尾立ち会いで写す。商人の前でだ。和木原だけには渡さぬ」


 宮部は唇を結んだ。


 槙尾。


 商人。


 その二つの名が、和木原の好き勝手を防いでいる。


 宮部は深く頭を下げた。


「主へ伝えます」


「伝えよ。笠森は、流れた荷を勝手に取らぬ。だが、救った荷を勝手に奪わせもせぬ」


 宮部は去った。


 門が閉まると、城庭に大きな息が戻った。


 伊助が弥四郎へ膝をつく。


「若様。荷は、一部を笠森へ預けます」


「なぜ」


「濡れた塩を乾かしていただきたい。使えるものは売ります。駄目なものは処分します。その改めを、笠森でしていただきたい」


 弥四郎は宗介を見る。


 宗介は少し考え、頷いた。


「できます。ただし、手間がかかります」


 伊助は言った。


「手間賃を払います」


 宗介は困った。


 手間賃。


 そこまでは考えていなかった。


 喜兵衛が低く言った。


「受けろ」


「しかし」


「無償にすれば、後で揉める。商人の荷を預かり、分け、乾かす。これは仕事だ。米でも銭でもよい。形を決めねばならん」


 弥四郎も頷いた。


「濡れ荷改めの賃を決める。ただし、高く取るな。荷を救うための賃だ。奪うためではない」


 伊助は深く頭を下げた。


「それでお願いいたします」


 宗介は息を吐いた。


 また新しい仕事が増えた。


 濡れ荷改め。


 濡れた塩を乾かし、使えるものと捨てるものを分け、持ち主へ返す。


 手間賃を取りすぎれば、和木原と同じになる。


 取らなければ、笠森の米と人手が削れる。


 中間を見つけなければならない。


「市松」


「分かってる」


 市松はすでに板を構えていた。


「濡れ荷改め。持ち主あり。笠森で乾かす。手間賃を決める。和木原には渡さず。槙尾と商人立ち会いなら写し可」


 宗介は少し驚いた。


「よく分かったね」


「毎日聞いてれば分かる」


 市松は少し得意げだった。


 その日の午後、濡れ荷改めの場所が決められた。


 蔵の中ではない。


 蔵の外、屋根のある壁際。


 風が通るが、雨は当たりにくい場所である。


 塩は板の上。


 干物はおきぬの確認を受ける。


 縄は太助が見る。


 布は女衆が見て、使えるものだけ洗う。


 商人が立ち会う。


 笠森の者が一人つく。


 板に記す。


 それだけで、かなりの手間だった。


 だが、城庭の空気は不思議と悪くなかった。


 足軽たちは、商人の荷を救ったことを見ている。


 南谷の者たちは、止め札が水を守ることを知っている。


 降った者たちは、太助が縄を干し、濡れ荷の扱いで役に立つ姿を見せている。


 それぞれが、自分の役を少しずつ見つけていた。


 夕方、槙尾の安西新蔵が来た。


 和木原の使者が来たことを聞くと、新蔵はすぐに言った。


「濡れ荷改め、槙尾も立ち会います」


「早いな」


 宇平次が言うと、新蔵は苦笑した。


「和木原が荷の写しを欲しがったなら、これは道の争いです。槙尾が黙れば、西沢の札も軽くなる」


 弥四郎は頷いた。


「では、明日、濡れ荷の写しを槙尾立ち会いで作る。商人にも一枚持たせる」


「それがよろしいでしょう」


 伊助と彦七は、その話を聞いて安堵した顔をした。


 自分たちの荷が、和木原の言葉だけで動かされない。


 笠森、槙尾、商人。


 三つの目で残る。


 それが信用になっていく。


 夜、粥には助かった濡れ塩の一部が使われた。


 濡れた外側を味噌湯に回したものだ。


 味は荒い。


 少し苦いような気もする。


 だが、体には染みた。


 太助が椀を見て言った。


「流れかけた塩の味だな」


 おきぬが笑った。


「ありがたく飲みな。あんたが縄を投げたんだろ」


「投げたのは佐太だ。俺は引いた」


「引くのも役だよ」


 その言葉に、太助は黙って粥を啜った。


 宗介は板の前に座った。


 今日の印は多い。


 和木原、濡れ荷を要求。


 伊助、彦七、拒む。


 笠森、荷を返す相手は持ち主と定める。


 濡れ荷改め。


 手間賃。


 槙尾立ち会い。


 商人の写し。


 また、城の仕事が増えた。


 だが、これはただの雑務ではない。


 笠森が、荷を奪わず、救い、分け、返す城だと示す仕事だった。


 宗介は、弥四郎の昼の言葉を思い出した。


 流れた荷を勝手に取らぬ。


 だが、救った荷を勝手に奪わせもせぬ。


 小さな城にとって、それは一つの立場だった。


 外はまだ湿っている。


 牛渡しは、明日も使えるか分からない。


 和木原は、また次の手を打つだろう。


 それでも、今日の笠森は荷を守った。


 荷を守ったことで、商人の目を少し得た。


 明日、その目がどこへ向くかは分からない。


 だが、少なくとも今日、濡れ荷は腐らずに済んだ。


 宗介は粥を啜った。


 塩気は少し荒い。


 けれど、確かに腹へ落ちた。


第四十一話─了

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