第四十話 流れた荷
雨は、夜が明けても止まなかった。
強い雨ではない。
だが、細く長く続く雨だった。
屋根を叩く音。
泥を濡らす音。
竈の煙を低く押さえる湿った空気。
笠森城の庭は、朝から足元が悪かった。
久住宗介は、竈のそばで粥を配りながら、何度も門の方を見た。
今日、牛渡しは使えない。
小六は夜明け前に川を見に行き、すぐ戻ってきた。
水は昨日よりさらに太い。
赤い止め札はそのまま。
枝の印は二本目にかかっている。
そう報告した。
片瀬弥四郎は迷わず命じた。
「今日も牛渡しは止める」
その一言で、城内の動きは決まった。
水札の裏に牛角があっても、赤い止め札が立つ日は渡さない。
商人が急いでいても、南谷の者が頼んでも、笠森の使いでも通さない。
川を見る者が止めると言えば、止める。
それが昨日、決まった。
決まったばかりの仕組みが、いきなり試されている。
「宗介」
市松が板を抱えてきた。
「今日の水札、どうする?」
「水場は使える?」
「南谷外れは使える。槙尾西沢は、まだ知らせなし。牛渡しは止め」
「じゃあ、今日の水札には雨の印を」
「雨?」
「水場は使えるけど、牛渡しは駄目だと分かるように」
市松は少し考え、板片に斜めの線を何本か刻んだ。
「雨に見えるか?」
「見える」
「本当か?」
「本当」
「最近、俺の絵を褒めるのが上手くなったな」
「上手くなってます」
「どっちが?」
市松は少し笑いながら、板片へ雨の印を増やした。
その時、門の外から声が上がった。
「槙尾より急ぎ!」
門番が叫ぶ。
入ってきたのは、槙尾の若者だった。
肩で息をしている。
足元は泥まみれで、片方の草鞋がほどけかけていた。
宇平次がすぐに前へ出る。
「何があった」
「和木原の渡しで荷が流れました!」
城庭が凍った。
宗介は、持っていた椀を落としかけた。
「人は」
弥四郎が問う。
「一人、川に落ちかけました。荷は二つ流れ、ひとつは川下に引っかかっております。商人が怪我をしております」
「和木原の渡しは、止めなかったのか」
宇平次の声が低くなる。
槙尾の若者は首を振った。
「笠森が商人を止めたと聞き、和木原の渡しは通すと言い張ったようです。渡し賃も取って……そのまま」
宗介は目を閉じたくなった。
和木原は、笠森が止めることを悪く見せようとした。
だから自分たちは通す、と言ったのだろう。
だが、川は言葉を聞かない。
札の面子も、渡し賃も、和木原の名も関係ない。
増えた川は、人も荷も持っていく。
弥四郎はすぐに命じた。
「宇平次、佐太、小六、善助を連れて川下へ行け。宗介も行くか」
宗介の喉が鳴った。
行きたくない。
雨の川。
流れた荷。
怪我人。
和木原の者。
どれも怖い。
だが、荷が流れたということは、何を救えるか見なければならない。
塩か。
油か。
干物か。
人の怪我はどうか。
「行きます」
答えると、弥四郎は頷いた。
「お前は荷を見る。人は宇平次が見る。前へ出るな」
「はい」
「おきぬ。怪我人を入れる支度を」
「はいよ」
「喜兵衛。濡れた荷を受ける場所を空けよ。米や塩なら、混ぜるな。濡れ荷として別に置く」
「承知」
動きは早かった。
こういう時、もう誰も宗介一人を待たない。
おきぬは布と湯を用意し、喜兵衛は蔵の端を空ける。
市松は板を持ち、雨荷の印を描き足す。
水桶には火消し用ではなく、泥を落とすための印がつけられた。
必要なことが、それぞれの手で始まる。
宗介は、その光景を見て胸の奥に少しだけ力が戻った。
一人で抱えなくていい。
そう思えるだけで、足が動いた。
川下へ向かう道は悪かった。
雨で泥が緩み、足を取られる。
小六は先頭を歩いた。
昨日より背筋が伸びている。
渡し役として認められたことで、迷いが少し消えたのかもしれない。
「小六」
宇平次が声をかける。
「和木原の渡しは、今日ならどう見る」
「止めるべきです」
小六は即答した。
「水が濁っています。流れの芯が太い。舟を出すなら、縄を二本張って、荷を軽くしなければ危ない」
「和木原は、それをしなかった」
「たぶん」
小六の声は暗かった。
「川を見ていない者が、通せと言ったのでしょう」
宗介は、その言葉に弥四郎の昨日の言葉を思い出した。
川を見ぬ者が、川を見る者の上に立てば、人が流れる。
それが、もう現実になりかけている。
川下へ出ると、騒ぎはすぐ見えた。
和木原の渡しより下流。
大きな枝に、荷包みがひとつ引っかかっていた。
岸には商人が二人、和木原の渡し人が二人、槙尾の若者が一人いる。
商人の一人は腕を押さえ、座り込んでいた。
もう一人は泥だらけになって、流れた荷を見つめている。
和木原の渡し人は、怒鳴っていた。
「勝手に荷を多く載せたからだ!」
「そちらが通せると言ったんだろう!」
商人が言い返す。
空気は荒れていた。
宇平次が近づくと、和木原の渡し人が顔をこわばらせた。
「笠森の者が何をしに来た」
「流れた荷と怪我人を見に来た」
「和木原の渡しのことだ。笠森は関わるな」
「では、怪我人も荷も捨てるのか」
宇平次の声が低く落ちた。
渡し人は黙った。
宗介は商人の腕を見た。
深い傷ではない。
だが、肩を打ったのか、腕が上がりにくそうだ。
「おきぬさんのところへ運んだ方がいいです」
「医者か」
商人が不安そうに言う。
「医者ではありません。でも、泥を落として、布で固定するくらいならできます」
商人は頷いた。
次に宗介は荷を見た。
川に引っかかっている包みは一つ。
岸には濡れた包みがもう一つ。
「中身は」
「塩と干物だ」
商人が答えた。
宗介の胃が痛くなった。
塩。
濡れたら終わる。
いや、全部ではない。
包み方次第では、中が少し助かるかもしれない。
「岸の荷を開けます。水に濡れたものと、まだ乾いているものを分けます。混ぜないでください」
「開けるのか」
「今開けないと、全部駄目になります」
商人は迷ったが、頷いた。
宗介は佐太と太助に手伝ってもらい、岸の荷を開けた。
外の藁は濡れている。
中の布も湿っている。
だが、塩の小袋は油紙に包まれていた。
完全ではないが、中心はまだ固い。
「助かる分があります」
宗介は言った。
商人の顔が変わった。
「本当か」
「はい。ただし、すぐ笠森で広げて乾かします。濡れた外側は別。中心も早く分ける」
和木原の渡し人が口を挟む。
「その荷は和木原の渡しで流れた。まず和木原で改める」
佐太が睨む。
宇平次が一歩前へ出た。
「今、改めている」
「笠森に持ち込む気か」
宗介は振り向いた。
「濡れた塩は、時間が勝負です。ここで言い争っている間に駄目になります」
「知るか」
渡し人が言った瞬間、商人が怒鳴った。
「知るかとは何だ! 通せると言ったのはお前たちだ!」
空気が一気に荒れた。
宇平次が間に入る。
「黙れ。荷を救うのが先だ」
小六が川を見ていた。
「あの枝の荷、今なら取れます」
「危なくないか」
宗介が聞く。
「岸から縄を投げれば。川に入るのは駄目です」
小六は即答した。
「入れば流されます」
宇平次が頷く。
「縄」
太助が笠森の縄を出した。
昨日も戻り荷を通すために使った縄である。
佐太が石を結び、小六が投げる位置を指示する。
「もう少し上。流れに乗せて、枝へ絡める」
一投目は外れた。
二投目で、縄が枝に引っかかった。
佐太と太助、槙尾の若者がゆっくり引く。
無理に引けば破れる。
少しずつ。
水を切るように。
荷包みが岸へ近づいてくる。
和木原の渡し人たちも、黙って見ていた。
やがて、荷は岸へ上がった。
こちらも外は濡れている。
だが、中はまだ何とかなる。
宗介は息を吐いた。
「すぐ笠森へ。乾かす場所があります」
商人は深く頭を下げた。
「頼む」
和木原の渡し人が何か言いかけた。
その時、小六が川を指した。
「今のを見ましたか」
全員が川を見る。
さっき荷が引っかかっていた枝が、さらに下流へ流されていく。
もし少し遅れていれば、荷はもう取れなかった。
小六は静かに言った。
「今日は、渡す日ではありません」
和木原の渡し人は、何も返せなかった。
笠森城へ戻る頃には、雨は少し強くなっていた。
城門に入ると、おきぬがすぐ怪我人を受け取った。
「泥を落とすよ。痛くても暴れるんじゃないよ」
商人は顔をしかめながらも従った。
喜兵衛は濡れ荷を蔵の端へ運ばせた。
宗介はすぐに分け始める。
「外の藁は捨てないで。乾かせば焚きつけに使えるかもしれません。ただし、塩の近くには置かない」
「湿った布は別」
「塩の外側は削って、濡れ塩として分けます。中心は乾いた板へ」
「干物は匂いを見てください。駄目なものは食べない」
指示を出しながら、宗介は濡れた塩を見た。
すべては助からない。
だが、半分は助かる。
それだけでも大きい。
怪我をした商人は腕を布で吊られ、城庭の隅に座っていた。
彼は濡れた塩が広げられていく様子を見て、何度も頭を下げた。
「笠森が止める理由が分かった」
その言葉は、城庭に響いた。
足軽たちも、南谷の者も、降った者たちも聞いていた。
「和木原は通すと言った。笠森は止めると言った。俺は、通す方がありがたいと思った。だが、川は違った」
商人は悔しそうに続けた。
「次からは、止め札を見る」
宗介は、その言葉を板に残したいと思った。
市松がすでに板を持っていた。
「書く?」
「書いて」
「何て?」
「商人、止め札を見る、と」
市松は頷き、炭を走らせた。
午後、槙尾から安西新蔵が来た。
和木原渡しで荷が流れたことは、すでに槙尾にも届いていた。
新蔵は濡れた塩と怪我人を見て、深く息を吐いた。
「これは、和木原には痛い」
「人が死ななかっただけましです」
宗介が言うと、新蔵は頷いた。
「ええ。ですが、商人の間では広がります。和木原は通して荷を流した。笠森は止めて荷を守った、と」
弥四郎は静かに言った。
「そう伝えよ」
「よろしいので」
「事実だ」
弥四郎は濡れた塩を見た。
「ただし、和木原を悪く言うだけにするな。笠森は、渡れる日だけ渡す。渡れぬ日は止める。水場も同じだ。そこを伝えよ」
新蔵は頭を下げた。
「承知しました」
その夕方、油屋宗八からの使いも来た。
津島筋で、笠森札の話が出始めているという。
そこへ今日の和木原渡しの事故が加われば、商人たちはますます比べるだろう。
水場を守る札。
渡しを止める札。
和木原札。
笠森札。
どちらが荷を守るか。
それを商人自身が見始めている。
夜、城庭では濡れた藁が少しずつ乾かされていた。
塩は板の上に薄く広げられ、使えるものと濡れすぎたものに分けられている。
干物はおきぬが匂いを見て、怪しいものは容赦なく捨てた。
「もったいない」
太助が言うと、おきぬは睨んだ。
「腹を壊す方がもったいないよ」
宗介は頷いた。
「その通りです」
おきぬは少し笑った。
「兵糧方のお墨付きだ」
場に小さな笑いが起きた。
その日の粥には、助かった塩がほんの少し使われた。
和木原の渡しで流れかけ、笠森で救った塩。
その味は薄い。
だが、商人たちは忘れないだろう。
弥四郎は粥を啜った後、宗介に言った。
「止め札は、今日で本物になったな」
「はい」
「通す札だけなら、和木原も真似できる。だが、止める札は真似しにくい」
「損を覚悟で止める必要がありますから」
「そうだ」
弥四郎は雨の降る門外を見た。
「損を覚悟で止める者を、商人は信用する」
宗介はその言葉を胸に刻んだ。
水札。
止め札。
牛角。
赤線。
それらは、ただの印ではない。
笠森が、無理に通さない城だと示すものになり始めている。
道を守るとは、通すことだけではない。
止めるべき時に止めること。
流れた荷が、それを教えた。
市松が板の端に、流れた荷の絵を描いていた。
川に浮く包み。
それを引く縄。
横には赤い止め札。
「これ、分かるか?」
「分かる」
「今度は本当か?」
「本当」
市松は満足げに頷いた。
雨は、まだ降っている。
明日、川はどうなるか分からない。
だが、笠森は今日、荷を一つ救った。
そして、止めることの値を、商人に見せた。
和木原の渡し賃より高いもの。
それは、流さないという信用だった。
第四十話─了




