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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第三十九話 渡らせぬ札

 牛渡しを使った翌朝、空は低かった。


 雲が山の上に重く垂れ、風には湿った匂いが混じっている。笠森城の庭に立つだけで、遠くの水音がいつもより太く聞こえる気がした。


 久住宗介は、竈のそばで粥をよそいながら、何度も空を見た。


 雨はまだ降っていない。


 だが、上で降っているかもしれない。


 こちらで晴れていても、上流で降れば川は増える。昨日、牛渡しを見た時、小六が言った言葉が頭に残っていた。


 上の雲が厚い。


 夕方はやめた方がいい。


 水を見る者の言葉だった。


「宗介」


 喜兵衛が声をかけた。


「顔が暗いぞ」


「川が気になります」


「牛渡しか」


「はい。昨日使えたからといって、今日も使えるとは限りません」


 喜兵衛は頷いた。


「水場と同じだな。昨日飲めた水が、今日飲めるとは限らぬ」


「はい」


 宗介は板の前へ行った。


 水札。


 牛角。


 和木原の渡し止め。


 又七の小荷。


 小六、渡し役。


 細い道が一本増えたばかりだった。


 だが、細い道は折れやすい。


 一度でも事故が起きれば、和木原は必ず言うだろう。


 笠森の牛渡しで商人が流された。


 笠森札は危ない。


 そう言われれば、水札で積み上げた信用は一気に崩れる。


 そこへ、門番の声が飛んだ。


「南谷より小六!」


 小六は息を切らしていた。


 衣の裾が濡れ、足には泥がついている。


 片瀬弥四郎が門の内側へ出る。


「何があった」


 小六は膝をつき、すぐに答えた。


「牛渡し、今日は危うございます」


 城庭が静まった。


「雨はまだ降っておらぬぞ」


 佐太が言う。


 小六は首を振った。


「上で降っています。水の色が変わりました。枝の印、一本目を越えています。昼までには二本目へ届くかもしれませぬ」


 宗介は胸が冷えた。


「今日は渡れない」


「はい。少なくとも、荷を持っては無理です」


 弥四郎は即座に言った。


「牛渡しは止める」


 その判断は早かった。


 だが、問題はそこからだった。


 すでに商人が動いているかもしれない。


 和木原の渡しを避け、牛渡しへ向かう者がいるかもしれない。


 止める知らせを出さなければならない。


「止め札が要ります」


 宗介は言った。


 市松が顔を上げる。


「止め札?」


「渡ってよい札ではなく、今日は渡ってはいけない札です」


 市松は眉を寄せた。


「そんな札まで作るのかよ」


「作ります。渡れる札だけだと、商人は札があれば行けると思います。今日は駄目だと見せる札が要る」


 弥四郎が頷いた。


「赤い印はあるか」


 おきぬが竈のそばから言った。


「赤土ならありますよ。火のそばの土を混ぜれば、少し赤く見える」


「それを使う」


 弥四郎は命じた。


「牛角の上に赤い横線。今日は渡し止め。小六、南谷へ戻って立てよ。佐太をつける。宗介も行けるか」


 宗介の喉が鳴った。


 牛渡し。


 増え始めた川。


 和木原が狙うかもしれない場所。


 行きたくはない。


 だが、今日行かなければ危ない。


「行きます」


 声は震えた。


 宇平次が横から言った。


「俺も行く」


 弥四郎は少し考え、頷いた。


「よい。ただし、深追いするな。止めるのが役目だ。渡らせるな」


「承知」


 市松は小さな板に牛角の印を刻み、その上に赤土を塗った横線を引いた。


 少し不格好だったが、意味は強い。


 渡るな。


 そう見える。


「これ、嫌な札だな」


 市松が呟いた。


「必要な札です」


 宗介は答えた。


「止めることも、守ることだから」


 牛渡しへ向かう道は、昨日より湿っていた。


 まだ雨は落ちていない。


 だが、土は柔らかく、草の先に水がついている。


 小六は足早に進む。


 宗介は何度も足を滑らせそうになり、そのたびに佐太が肩を掴んだ。


「転ぶなよ」


「努力しています」


「努力だけでは足りん」


「分かっています」


 息が上がる。


 米俵を担いでいるわけではない。


 それでも、戦国の山道は宗介の足を容赦なく削った。


 知識はあっても、身体はまだ追いつかない。


 牛渡しへ着くと、音で分かった。


 昨日より水が強い。


 流れそのものが太い。


 岸に挿した枝の一本目は、すでに水に触れていた。


 二本目まではまだ少しある。


 だが、増え方が早い。


「今日は駄目です」


 小六が言った。


「昼まで待てば、もっと悪くなります」


 宇平次は周囲を見て、すぐに命じた。


「止め札を立てろ。小六、ここに立て。佐太、右岸を見ろ。宗介は水に近づくな」


「はい」


 宗介は素直に下がった。


 川を見る。


 昨日渡れた場所が、今日は違う顔をしている。


 石の頭がいくつか水に隠れていた。


 足を置く場所が消えている。


 それだけで危険は跳ね上がる。


 そこへ、川下から声がした。


「笠森の者か!」


 又七だった。


 昨日、和木原の渡しで止められ、牛渡しを通って小荷を入れた男である。


 今日は二人の商人を連れていた。


 荷は小さい。


 だが、一人の背には塩らしい包みが見える。


 小六がすぐに前へ出た。


「今日は渡れません」


 又七は顔をしかめた。


「和木原の渡しは、今日も二倍だ。こっちを通らなければ損が出る」


「今日は駄目です」


 小六の声は揺れなかった。


「水が増えています」


 商人の一人が言った。


「昨日は通れたと聞いた」


「昨日は昨日です」


 小六は川を指した。


「今日は水が違います」


 商人は不満そうだった。


 当然だ。


 荷を背負ってここまで来た。


 和木原の渡しでは値を上げられた。


 ここで止められれば、時間も体力も失う。


 だが、通せば命を失うかもしれない。


 宗介は前へ出た。


 宇平次がちらりと見たが、止めなかった。


「今日は渡し止めです」


 宗介は言った。


「札があっても、牛角の裏印があっても、赤い止め札が立っている日は通せません」


「誰が決める」


 商人が問う。


「渡し役の小六さんです」


「若殿ではなく?」


「川は、小六さんが見ます。城は、その判断を支えます」


 小六が驚いたように宗介を見た。


 宗介は続けた。


「無理に渡れば、荷も人も流れます。塩が濡れれば終わりです。人が流れれば、もっと終わりです」


 商人は唇を噛んだ。


 又七が川を見て、低く言った。


「確かに昨日より速い」


 商人はまだ迷っていた。


 その時、対岸の藪から男が二人現れた。


 和木原の者だった。


 ひとりが声を張る。


「笠森は、また商人を止めるのか!」


 宇平次の目が冷える。


「和木原か」


「水は誰のものでもないと言ったはずだ。商人が渡りたいなら渡らせろ」


 男は笑った。


「笠森札は、荷を止める札か」


 宗介の背筋が冷たくなった。


 狙いはそれか。


 笠森が商人を止めた。


 その噂を流す気だ。


 和木原は、笠森が水場を管理することを「商人の邪魔」と見せたいのだ。


「止めています」


 宗介は言った。


 和木原の男が意外そうにこちらを見る。


「認めるのか」


「はい。今日は危ないので止めています」


「商人の邪魔だな」


「商人を流さないためです」


 宗介は川を指した。


「水が増えています。昨日見えた石が沈んでいます。枝の印も一本目を越えました。昼までにもっと増える。渡せば荷が濡れるか、人が流れます」


 和木原の男は鼻で笑った。


「臆病者の理屈だ」


 宗介は胸を刺されたように感じた。


 臆病。


 そうだ。


 怖い。


 川も、敵も、失敗も、全部怖い。


 だが、怖いから止める。


 怖くないふりをして渡らせる方が、よほど危うい。


「臆病で結構です」


 宗介は言った。


 声は震えていた。


 でも、川音に負けないように出した。


「荷を流すよりましです」


 又七が黙って頷いた。


 商人二人も、川を見ていた。


 和木原の男は苛立ったように言った。


「なら、和木原の渡しへ戻れ。金を払えば通してやる」


 そこで、商人の一人が顔を上げた。


「和木原の渡しは高すぎる」


「安全の値だ」


「なら、ここで止めるのも安全の値ではないか」


 和木原の男が黙った。


 商人は続けた。


「渡れぬ日に渡せと言う札より、渡れぬ日に止める札の方が信用できる」


 宗介は、思わずその商人を見た。


 昨日までなら、こんな言葉は出なかったかもしれない。


 水札の手順を、商人側も理解し始めている。


 水を飲ませる札。


 道を通す札。


 そして、今日は止める札。


 それらが全部つながって初めて、信用になる。


 和木原の男は舌打ちした。


「勝手にしろ。だが、荷は遅れるぞ」


「遅れても、流れるよりましだ」


 又七が言った。


 その直後だった。


 川上から、枝が流れてきた。


 細い枝ではない。


 腕ほどの太さの枝が、水に揉まれながら勢いよく下ってくる。


 昨日の流れなら、こんな速さではなかった。


 枝は牛渡しの石に当たり、跳ね、昨日小六が通った足場の上を転がるように流れていった。


 全員が黙った。


 もし今、誰かが渡っていれば。


 脚を取られていたかもしれない。


 荷を落としていたかもしれない。


 小六が静かに言った。


「今日は駄目です」


 今度は、誰も反論しなかった。


 宇平次が和木原の男へ向き直る。


「見たな」


 男は返事をしない。


「それでも渡れと言うなら、和木原が流すつもりだったと伝える」


 和木原の男は睨んだが、言い返せなかった。


 やがて、二人は藪へ消えた。


 商人たちは、笠森側の岸で荷を下ろした。


 宗介はすぐに段取りを変えた。


「今日はここで待たせません。南谷外れの水場まで戻ります。そこで水を飲ませ、荷を置く場所を決めます。夕方までに水が引かなければ、笠森へ一度入れるか、槙尾へ回します」


「また戻るのか」


 商人が疲れた顔で言う。


「ここにいる方が危ないです。増水したら戻る道も悪くなります」


 又七が頷いた。


「従う」


 小六は止め札を牛渡しの入口に立て直した。


 赤い横線。


 牛角。


 渡るな。


 それは、昨日の牛角札よりずっと強い意味を持っていた。


 南谷外れの水場へ戻る途中、雨が降り始めた。


 細い雨だった。


 だが、すぐに土の匂いが立つ。


 宗介は背中に冷たいものを感じた。


 間に合った。


 あのまま牛渡しで揉めていれば、帰り道も危うかった。


 南谷外れの水場では、手順通りに水を出した。


 竹筒二本まで。


 火は使わない。


 荷は石の上。


 商人たちは、文句を言わなかった。


 むしろ、ひとりが小さく言った。


「止める札も、悪くない」


 宗介は、その言葉を忘れないようにした。


 笠森城へ戻ると、弥四郎は報告を聞き、すぐに市松を呼んだ。


「書け」


「はい」


「牛渡し、増水。小六、渡し止め。赤い止め札。和木原、渡らせようとする。商人、止め札を選ぶ。荷は流れず」


 市松の炭が板を走った。


 牛角。


 赤線。


 流れる枝。


 商人の荷。


 止め札。


 宗介はそれを見て、深く息を吐いた。


 また一つ、札の意味が増えた。


 通すだけではない。


 止める。


 使わせない。


 待たせる。


 戻す。


 それも道を守ることだった。


 弥四郎は小六を前へ呼んだ。


 小六は雨で濡れた髪のまま、緊張していた。


「よく止めた」


「いえ、川が」


「川を見たのはお前だ」


 弥四郎は言った。


「牛渡しの渡し役、小六。今後、川を見て渡れぬと言った日は、誰であろうと渡さぬ。商人でも、足軽でも、俺の使いでもだ」


 城庭がざわついた。


 小六の顔が青くなる。


「若様の使いでも、ですか」


「そうだ」


 弥四郎は頷いた。


「川を見ぬ者が、川を見る者の上に立てば、人が流れる」


 宗介は胸の奥が熱くなった。


 これだ。


 これが仕組みになる瞬間だった。


 役を与え、判断を認める。


 ただ命じるだけではない。


 現場を見る者の目を、城の判断に組み込む。


 小六は深く頭を下げた。


「承知しました」


 その夜、笠森城の竈では、雨音を聞きながら粥が炊かれた。


 外の川は、おそらくさらに増えている。


 牛渡しは使えない。


 だが、荷は流れなかった。


 商人も流れなかった。


 和木原は「笠森が商人を止めた」と言うかもしれない。


 だが、商人たちは見た。


 止めなければ、枝が足場を叩いていたことを。


 止め札が荷を守ったことを。


 市松が板の端に、小さく赤い線を描き足した。


「通す札より、止める札の方が怖いな」


「うん」


 宗介は頷いた。


「でも、必要だ」


「水は怖いな」


「怖い」


 宗介は素直に言った。


「だから、見ないといけない」


 雨は夜更けまで続いた。


 粥には、又七の荷から入った粗塩が少しだけ使われた。


 薄い塩気。


 だが、その塩は、昨日牛渡しを通った荷の塩だった。


 そして今日は、同じ牛渡しを止めたから守られた荷がある。


 通すこと。


 止めること。


 その両方が、笠森の道になっていく。


 宗介は椀を手に、雨音を聞いた。


 明日、川はさらに太いかもしれない。


 和木原はまた何か言うだろう。


 それでも、笠森には止め札ができた。


 細い道は、無理に通すだけでは続かない。


 止める日を決められる道だけが、長く続く。


第三十九話─了

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