第三十七話 札を選ぶ商人
柏屋惣右衛門の戻り荷が石切坂を越えてから、二日目の朝。
笠森城の門前に、見慣れぬ商人が三人立った。
荷は大きくない。
油壺が一つ。
細縄が二束。
針と布の小包み。
それに、干物を少し。
大商いではない。
だが、久住宗介には分かった。
これは様子見の荷だ。
重い米や塩を運ぶ前に、まず小さな荷で道を試しに来たのだ。
門上から宇平次が声を落とす。
「名を申せ」
先頭の男が頭を下げた。
「津島筋へ出入りしております、油屋宗八にございます。柏屋惣右衛門殿より、笠森の水札は本物と聞き、参りました」
尾張筋。
津島。
その名がまた門前に立った。
城庭にいた足軽たちが、互いに顔を見合わせる。
宗介は、片瀬弥四郎の横で息を整えた。
いよいよ、噂が荷を連れて戻ってきた。
弥四郎は表情を変えずに言った。
「荷を改める。武器は預かる。水は出す。飯は出さぬ」
油屋宗八は、少しだけ笑った。
「柏屋殿から聞いております。笠森は飯に堅い、と」
「米が少ない」
弥四郎は平然と答えた。
「だから無駄に出さぬ」
「その方が、商人には分かりやすうございます」
宗八は荷を下ろした。
油壺は布で幾重にも包まれ、針は小さな竹筒に分けられている。細縄は乾いたものと、湿り気を含んだものが別だった。
宗介は、その分け方を見て少し感心した。
この男も、荷をよく知っている。
喜兵衛が荷を改め、問題なしと頷いた。
弥四郎は水を出させた。
宗八は水を少しだけ飲み、すぐに本題へ入った。
「水札を一枚、いただきたい」
「どの水場を使う」
宗介が問うと、宗八はすぐ答えた。
「南谷外れ。槙尾西沢。古炭道の湧き水は、まだ使えぬと聞いております」
宗介は内心で驚いた。
情報が早い。
古炭道の湧き水が汚されかけ、まだ慎重に見ていることまで伝わっている。
惣右衛門が話したのだろう。
あるいは塩屋藤七か。
水札の情報は、荷より早く動き始めている。
「古炭道の湧き水は、今日の夕方に再確認します」
宗介は言った。
「使えると決まるまでは、札があっても飲ませません」
宗八は頷いた。
「承知しました。使えぬ水を使わせぬ札なら、信用できます」
市松が今日の水札を持ってきた。
今日の印は、右を見る目。
昨日の話を本当に札にしたらしい。
板片には、丸い目が一つ、横へぎょろりと向いたように彫られている。
弥四郎はそれを見て、ほんのわずか眉を動かした。
「……目だな」
「右を見る目にございます」
市松は妙に真面目に答えた。
宇平次がぼそりと言う。
「気味が悪い」
「真似しにくいです」
市松は胸を張った。
宗介は咳払いした。
「今日の印としては、分かりやすいです」
「本当か?」
「本当」
市松は少し満足そうにした。
宗八は札を受け取り、目の印をじっと見た。
「これは、商人仲間で噂になりますな」
「悪い噂か」
宇平次が言うと、宗八は笑った。
「忘れにくい噂です」
水札は二枚だけ出された。
一枚は宗八。
もう一枚は、和木原札を持ってきた商人に渡すための仮札だった。
控えの板には、同じ目の印を市松が丁寧に刻む。
今日から、商人には札を出す時、必ず荷と道と水場を書き残すことになった。
宗介は、油屋宗八へ念を押した。
「南谷外れでは竹筒二本まで。槙尾西沢では荷を下ろす場所を決めています。火は使わないでください」
「油を扱います。火の怖さは知っております」
宗八は真顔で答えた。
その時、門の外で別の騒ぎが起きた。
「また商人です!」
門番が声を張った。
今度の商人は二人。
背負い荷には塩と干物らしい包みがある。
だが、その腰に下がっていた札を見て、宗介はすぐ嫌な予感がした。
札の形が違う。
笠森の板片より少し大きく、紐も新しい。
門番が札を取り上げ、宇平次へ渡した。
宇平次は一目見て、顔を険しくした。
「和木原札だ」
札には、和木原改め済み、と粗い字で刻まれていた。
下には、水場通行を許す、という意味の印。
笠森の水札とは違う。
だが、商人から見れば似た役目に見える。
商人の一人が慌てて言った。
「和木原で、これを持てば笠森の水場も使えると」
場が静まった。
弥四郎の目が冷えた。
「誰が言った」
「和木原の役人です。笠森の水札は賊札だから使うな、と」
宗介は腹の奥が重くなった。
和木原は、笠森の札を偽るだけではなく、自分たちの札を出してきた。
笠森の水場を、和木原の札で使わせようとしている。
水場の支配を奪う気だ。
宇平次が低く言った。
「叩き出すか」
宗介は首を振った。
「商人は、騙されている可能性があります」
「なら、通すのか」
「そのままでは通しません」
宗介は弥四郎を見た。
弥四郎は黙って続きを促した。
「和木原札では、笠森の水場は使えない。これははっきり言います。ただ、荷を改めて危ないものがなければ、一度だけ笠森で本物の水札に替えます。その代わり、どこで誰から受けたかを板に残す」
喜兵衛が頷いた。
「偽札と同じ扱いだな」
「はい。ただし、これは偽物ではなく、和木原の札です。だから捨てずに証として預かる」
弥四郎はすぐに決めた。
「そうする。和木原札で笠森の水場は使わせぬ。だが、商人を全部追えば和木原の方へ戻る。荷を改め、名を聞き、笠森札に替えよ」
和木原札を持ってきた商人二人は、青い顔で頭を下げた。
荷を改める。
中身は塩と干物だった。
危ないものはない。
喜兵衛は塩包みを見て、少しだけ目を細めた。
「笠森に塩を入れるなと言っておきながら、和木原札を持った塩は通すのか」
宇平次が吐き捨てるように言った。
つまり、和木原は塩を止めたいのではない。
笠森の水札を通さず、自分たちの札で塩を通したいのだ。
塩の道を握る。
水場の名を握る。
和木原の狙いが、また一つ見えた。
市松が新しい板へ書く。
和木原札。
笠森水場には使わせず。
商人名、荷、受けた場所。
笠森札へ一度だけ替え。
市松は和木原札の絵を描きながら、顔をしかめた。
「これ、笠森の札より偉そうだな」
「大きいからな」
佐太が言う。
「大きい札が偉いとは限らない」
宗介は言った。
「使える水場を守っていなければ、ただの木です」
その言葉に、弥四郎が小さく頷いた。
昼前、二組の商人が同じ道へ出ることになった。
油屋宗八は、本物の笠森水札。
和木原札を持ってきた商人二人は、笠森で交換した仮札。
同行するのは、佐太、太助、槙尾の若者一人。
宗介も、南谷外れの水場までつく。
ここで手順を見せるためだ。
門を出る時、和木原札は弥四郎の手元に残された。
これも証になる。
南谷外れの水場では、すぐに差が出た。
油屋宗八は、札を見せ、荷を決められた場所に置き、水を竹筒二本だけ汲んだ。
一方、和木原札を持ってきた商人の一人は、つい大きな桶を出そうとした。
佐太が止める。
「桶は駄目だ」
「和木原では、このくらいは」
「ここは笠森の水場だ」
商人は慌てて桶を引いた。
宗介は穏やかに言った。
「竹筒二本までです。水場が荒れます」
「申し訳ありません」
「今日覚えてください。次に守れないなら、札は出せません」
油屋宗八は横でじっと見ていた。
商人同士だからこそ、この違いは分かるのだろう。
水場の手順を守れる者と、ただ札を見せて水を取ろうとする者。
その差が、道の信用を分ける。
南谷外れを出て槙尾西沢へ向かう途中、前方に人影が見えた。
和木原の者だった。
旗はない。
だが、腰の札と衣の色で分かる。
男は道の真ん中に立ち、こちらを見るなり声を張った。
「その商人は、和木原の札で通した者だ。笠森が勝手に札を奪うな」
佐太が槍を構える。
「笠森の水場を使う札ではない」
「水は誰のものでもない」
男は言った。
宗介は、その言葉に強い違和感を覚えた。
水は誰のものでもない。
一見、正しい。
だが、水場は放っておけば荒れる。
汚される。
奪われる。
守る者がいなければ、次の者が飲めなくなる。
「水は誰のものでもなくても、水場は守らなければ壊れます」
宗介は思わず言った。
男の目がこちらへ向く。
「お前が笠森の兵糧方か」
また知られている。
宗介の背中が冷える。
「そうです」
声は震えたが、逃げなかった。
「笠森の水場を使うなら、笠森の手順を守ってください。槙尾の水場なら、槙尾の手順も。和木原の札では、ここの水場は使えません」
男は鼻で笑った。
「小城が偉そうに」
その時、油屋宗八が一歩前へ出た。
「商人として申し上げます」
声は静かだった。
「水場を守らぬ札は、商人には危うございます。和木原札では、どの水場を何人で、どれだけ使ってよいか分からぬ。笠森札にはそれがある。私は笠森札を使います」
和木原札を持ってきた商人二人も、互いに顔を見合わせた。
そして片方が、小さく言った。
「我らも……笠森札で」
和木原の男の顔が変わった。
商人が選んだ。
和木原札ではなく、笠森札を。
それは、槍を交えるよりも痛いことだったのかもしれない。
男はしばらく睨んでいたが、やがて道を開けた。
「後悔するぞ」
佐太が低く返す。
「水場を荒らす方が後悔する」
一行は進んだ。
宗介は足が震えていた。
だが、胸の奥に小さな熱もあった。
水札は、ただの取り決めではなくなりつつある。
商人が、どちらの札を使うか選び始めた。
槙尾西沢では、槙尾の若者が立ち会った。
油屋宗八は商人帳へ記し、笠森の仮札を持つ二人も同じように名を残した。
水を使う。
返し印をつける。
荷を下ろす場所を守る。
和木原の男は、遠くから見ていた。
手を出せなかった。
夕方、笠森城へ戻ると、弥四郎は和木原札と、商人たちの証言を板に残させた。
「和木原札、笠森水場には使わせず。商人二人、笠森札へ替える。道中、和木原の者が抗議。商人、笠森札を選ぶ」
市松の炭が走る。
水札。
和木原札。
商人が選ぶ。
その印は、二つの札の間に、人の足が笠森側へ向いている絵になった。
「これは何だ」
宇平次が聞く。
「商人がこっちへ来た印」
市松が答える。
「分かりにくい」
「分かるだろ」
「……まあ、分かる」
弥四郎は板を見て、静かに言った。
「和木原は、次に怒る」
宇平次が頷く。
「はい。札で商人を取られた形です」
「取ったのではない。選ばせた」
弥四郎は言った。
「だが、和木原はそう見ぬ」
宗介も頷いた。
和木原主膳から見れば、笠森は小城のくせに水場を押さえ、商人を札で囲い始めたように見えるだろう。
実際には囲っていない。
手順を示しているだけだ。
だが、手順が信用になれば、それは力になる。
夜、油屋宗八は笠森に泊まらず、槙尾へ向かった。
その前に、弥四郎へ頭を下げた。
「笠森札、津島筋へ伝えます。和木原札との違いも」
「悪く伝えるな」
「商人は、使える札をよく伝えます」
宗八はそう言って、少し笑った。
その日の粥には、塩がほんの少し足された。
油屋から買った油は使わない。
貴重すぎる。
ただ、小さな壺が蔵へ入っただけで、おきぬは少し安心した顔をした。
「針、塩、油。小さいものばかりだけど、あると違うね」
「はい」
宗介は答えた。
「小さいものほど、切れると困ります」
おきぬは笑った。
「兵糧方らしい言い方だ」
夜更け、市松が板の前で今日の印を見直していた。
「商人が札を選ぶって、何か変だな」
「変?」
「水を飲むだけなのに」
「水を飲むだけじゃなくなってきたから」
宗介は門の外を見た。
闇の向こうには、南谷、槙尾、西沢、古炭道、そして尾張へ続く商人の道がある。
和木原の札。
笠森の札。
どちらを選ぶかで、荷の流れが変わる。
荷の流れが変われば、米や塩だけでなく、人の噂も変わる。
小さな木札一枚が、思っていたより大きなものを動かし始めていた。
宗介は、少し怖くなった。
だが、その怖さにも慣れ始めている自分がいた。
怖いから見る。
怖いから書く。
怖いから分ける。
それが今の自分にできることだった。
竈の火が小さく鳴る。
明日も、水場を見なければならない。
商人が来るなら、荷も見る。
和木原が来るなら、札も見る。
笠森城の腹は、また外へ伸びていた。
第三十七話─了




