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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第三十六話 戻り荷の証

 尾張筋の商人、柏屋惣右衛門は、朝の粥が配られる前から門のそばに立っていた。


 荷は昨日より軽い。


 油壺は減り、針の包みも一部が笠森の蔵へ入った。代わりに、背負い荷の底には笠森でまとめた縄束と、太助が選んだ炭が少し、そして小さな木札が包まれている。


 木札は、水札ではない。


 昨日見つけた偽水札だった。


 和木原の者が銭を取って商人に渡した疑いがある札である。


 久住宗介は、その偽札を布に包みながら、何度も確認した。


 本物ではない。


 だが、ただ捨てるものでもない。


 偽物が出たという証だ。


 それを尾張筋の商人へ見せることができれば、和木原の言葉より笠森の手順を信じる者が増えるかもしれない。


「これを持って行くのですか」


 宗介が問うと、惣右衛門は頷いた。


「はい。商人仲間へ見せます。本物と偽物を並べれば、皆、話を聞きます」


「危なくありませんか」


「危のうございます」


 惣右衛門は平然と答えた。


「ですが、危ないからこそ値があります。偽札が出回る道は、商人にとって毒の混じった水と同じ。どこで飲めば腹を壊すか、早く知らせねばなりませぬ」


 毒の混じった水。


 そのたとえは、宗介の腹に落ちた。


 偽札は、紙や木の問題ではない。


 道の信用を腐らせるものだ。


 水札が信用されなければ、塩も針も油も入らない。商人は和木原の顔色を見て、笠森を避けるようになる。


 そうなれば、塩止めはまた効き始める。


「戻り荷を空にせぬのも、大事にございます」


 惣右衛門は背負い荷を軽く叩いた。


「行きだけ荷がある道は弱い。帰りにも荷がある道は続く」


 宗介は目を上げた。


「戻り荷」


「ええ。尾張から笠森へ塩や針を入れるだけでは、片荷になります。帰りに笠森や南谷から炭、縄、木札、道の知らせを持ち帰る。そうすれば、この道は一度きりではなくなる」


 喜兵衛が横で低く唸った。


「商人らしい見方だな」


「商人でございますので」


 惣右衛門は笑った。


 片瀬弥四郎は、門の内側でそのやり取りを聞いていた。


「今日の水札は」


 弥四郎が言うと、市松が小さな板片を持って走ってきた。


「針と波です」


 市松は少し得意げだった。


 昨日の鳥で散々言われたせいか、今日の針はやけに細く、波は妙に力強い。


 宇平次が札を見る。


「これは針に見えるな」


「昨日の鳥だって鳥だった」


 市松が不満そうに言う。


「いや、昨日のは鳥というより」


 佐太が言いかけ、宗介が咳払いした。


 市松の顔が険しくなる。


「何だよ」


「今日の札は、とてもいいと思います」


「昨日のもよかっただろ」


「真似されにくかった」


「それは褒めているのか?」


 わずかに笑いが起きた。


 だが、弥四郎はすぐに表情を引き締めた。


「惣右衛門。今日の札は三枚。お前の分、藤七の分、槙尾控え。返しの印を忘れるな」


「承知しました」


「宇平次」


「はっ」


「戻り荷には佐太をつける。大仰に守るな。守りすぎれば、そこに大事なものがあると教える」


「承知」


「宗介」


「はい」


「お前も途中まで行け。水札の手順を、商人の目の前で見せろ。ただし、石切坂より先へは行くな」


 宗介の喉が鳴った。


 外へ出る。


 しかも、和木原が見ているかもしれない道へ。


 怖い。


 当然、怖い。


 だが、今日の道は大事だった。


 水札を出しただけでは足りない。本当に通れることを見せなければ、尾張筋へ信用は届かない。


「承知しました」


 声は少し震えた。


 宇平次が横目で見た。


「震えてもいいが、札は落とすな」


「そこは気をつけます」


 門を出る一行は少なかった。


 惣右衛門。


 藤七。


 佐太。


 宗介。


 太助。


 槙尾の若者一人。


 荷は炭と縄と偽札の包み。塩はない。


 むしろ、帰り荷らしく見せるため、笠森で整えた縄束を目立つ場所へ置いた。


 南谷外れの水場では、手順通りに止まった。


 水札を見せる。


 札の印は針と波。


 見張りが控え板と合わせる。


 水を汲むのは竹筒二本まで。


 火は使わない。


 荷は道を塞がない場所へ置く。


 惣右衛門は、わざとゆっくり見ていた。


「これを商人が自分で守らねば、札はただの飾りですな」


「はい」


 宗介は答えた。


「水場を荒らした商人には、次の札を出しません」


「厳しい」


「水場が荒れれば、次の商人が困ります」


「道の信用を商人にも負わせるわけですか」


「負わせるというか……一緒に守らないと続きません」


 惣右衛門は頷いた。


「それは尾張筋でも通じる話です」


 南谷外れを抜け、槙尾西沢へ向かう。


 途中で、太助が何度か後ろを振り返った。


「誰かつけてるのか」


 佐太が低く聞く。


「分からねえ。ただ、枝の音が変だ」


 太助は炭焼きだった男だ。


 山の音に敏い。


 佐太はすぐに槍の持ち方を変えた。


 宗介の心臓が速くなる。


 見られている。


 やはり、和木原か。


 あるいは偽札を売っていた者の仲間か。


 惣右衛門は足を止めなかった。


 商人の顔のまま、淡々と歩いている。


 槙尾西沢の水場では、槙尾の若者が立ち会った。


 ここでも手順通り。


 荷を下ろす場所は平たい石の上だけ。


 水を汲む者と荷を見る者を分ける。


 札に小さな返し印をつける。


 惣右衛門は腰の帳袋から細い筆のようなものを取り出し、自分の帳にも何かを記した。


「商人の帳にも残すのですか」


 宗介が聞くと、惣右衛門は頷いた。


「笠森の板、槙尾の板、商人の帳。三つ合えば、嘘がつきにくくなります」


「三つもあると面倒では」


「面倒だから信用になることもございます」


 宗介はその言葉を胸に刻んだ。


 面倒だから信用になる。


 確かに、簡単すぎる手順はすぐ真似される。


 だが、関わる者がそれぞれに残し、合わせる手順は、面倒な分だけ偽りにくい。


 面倒は敵ではない。


 使い方次第で、守りになる。


 石切坂へ近づく頃、道は急に狭くなった。


 片側は斜面。


 もう片側は浅い沢。


 荷を背負った者が止まれば、後ろも詰まる。


 宗介は嫌な感じがした。


「ここ、止まると危ないです」


「分かってる」


 佐太が短く答えた。


 その時、前方に倒木が見えた。


 道を完全には塞いでいない。


 だが、荷を背負った者が通るには邪魔になる位置だった。


 佐太が手を上げる。


 全員が止まる。


 太助が低く言った。


「自然に倒れたんじゃねえ」


 倒木の切り口は新しい。


 斧で少し切ってから倒した跡がある。


 惣右衛門が静かに荷を下ろした。


「来ましたな」


 藪の向こうから、三人の男が出てきた。


 和木原の旗はない。


 だが、昨日捕らえた男と同じような身なりだった。


 一人が声を張る。


「その荷は賊荷だ。和木原の取り決めにより改める」


 佐太が槍を構えた。


「ここは槙尾と笠森が水札を通した道だ。和木原の荷改めは受けぬ」


「賊を養う笠森の札など知らん」


 男は鼻で笑った。


「荷を置け」


 宗介は足が震えた。


 戦えない。


 ここで斬り合いになれば、自分は邪魔だ。


 だが、荷を置けば、戻り荷が奪われる。


 偽札の証も奪われる。


 水札の道は、初めての戻り荷で折れる。


 惣右衛門が一歩前へ出た。


「柏屋惣右衛門にございます」


 商人の声だった。


 低く、よく通る。


「この荷は、笠森で荷改めを受け、槙尾西沢で返し印を受けた戻り荷でございます。荷の中身は、炭、縄、偽札の証。尾張筋の商人へ知らせるもの。和木原がここで奪えば、和木原が偽札の証を消したと商人筋へ伝わります」


 男たちの顔が変わった。


 宗介は、惣右衛門の言葉に息を呑んだ。


 荷を守っているのではない。


 奪われた時の意味を先に置いた。


 奪えば、証を消したことになる。


 商人に嫌われる。


 道の信用を失う。


 男たちはそこまで考えていなかったのだろう。


「知ったことか」


 別の男が吐き捨てた。


 だが、先頭の男は迷った。


 その迷いを、槙尾の若者が突いた。


「槙尾の西沢で返し印をつけた荷だ。ここで奪えば、槙尾への乱暴でもある」


 佐太も続ける。


「笠森だけではない。槙尾の道も汚す気か」


 男たちは互いに目を合わせた。


 和木原の名を出せば、大事になる。


 出さなければ、ただの野盗になる。


 どちらにしても、荷を奪う理由が弱くなっている。


 宗介は、その場で初めて分かった。


 水札は通行許可だけではない。


 誰が、どこで、何を認めたかを結ぶ証でもある。


 笠森だけなら潰せても、槙尾と商人の帳が重なれば、乱暴に消しにくい。


 太助が低く言った。


「倒木、どけますか」


 佐太が頷いた。


「俺が見る。お前は縄を出せ」


「分かった」


 太助は荷から縄を出した。


 敵の前で堂々と、笠森の戻り荷の縄を使う。


 それがまた、妙に効いた。


 男たちは手を出せない。


 佐太と太助、槙尾の若者が倒木を少しずらす。


 完全にはどけない。


 荷が通れる幅だけ開ける。


 宗介も手を出しかけたが、宇平次の言葉を思い出した。


 前へ出るな。


 自分は、周りを見る。


 すると、沢の側にもう一人いるのが見えた。


 隠れていた男。


 手には短い棒。


「右の沢側に一人!」


 宗介が叫ぶ。


 佐太が即座に反応した。


 槍を向ける。


 隠れていた男は舌打ちし、藪へ逃げた。


 挟むつもりだったのだ。


 倒木で止め、正面で話をし、横から荷を奪う。


 宗介の膝が震えた。


 もし見落としていれば、荷は奪われたかもしれない。


「進みます!」


 宗介は声を出した。


「ここで止まる方が危ない!」


 惣右衛門がすぐ荷を背負う。


 藤七も続く。


 太助が倒木の端を押さえ、皆を通す。


 佐太は最後まで槍を構えた。


 男たちは罵声を飛ばしたが、追っては来なかった。


 石切坂を抜けると、宗介はようやく息を吐いた。


 足が震えている。


 手も冷たい。


 だが、荷は通った。


 戻り荷は折れなかった。


 惣右衛門は少し歩いてから、宗介へ言った。


「よく右を見ましたな」


「たまたまです」


「たまたまでも、荷は助かりました」


「怖かっただけです」


「怖い者は、よく見ます」


 惣右衛門はそう言った。


 宗介は返事ができなかった。


 怖いから見る。


 それは、たぶん当たっていた。


 夕方、笠森城へ戻ると、報告を聞いた弥四郎の顔が険しくなった。


「倒木で止め、正面で賊荷と言い、右から荷を狙ったか」


「はい」


 佐太が答えた。


「和木原の名は出しませんでした。ですが、偽札の証を消したがっていたように見えます」


 惣右衛門は布包みを弥四郎の前へ置いた。


「戻り荷は無事。偽札も無事です。これを尾張筋へ持ち帰ります」


「今日、戻るのか」


「はい。夜道は避けますが、槙尾で一泊し、明朝尾張筋へ抜けます」


 弥四郎は頷いた。


「水札をもう一枚出す。明朝の印は、槙尾で受けよ。笠森の控えにも残す」


「承知しました」


 市松が板を持ってきた。


「何を書く」


 宗介は深く息を吸った。


「戻り荷、石切坂で止められる。賊荷と言われる。倒木。右沢側に伏せあり。荷は無事。偽札の証、守る。槙尾と商人帳、効く」


 市松は真剣な顔で書いた。


「右を見たのは、宗介だろ」


「たまたま」


「書いた方がいいんじゃないか?」


 宗介は一瞬、市松を見た。


「右も見る、とは書いて」


「分かった」


 板には、右も見る、という妙な印が増えた。


 目が二つ、左右へ向いている絵だった。


 夜、惣右衛門は笠森を発つ前に、弥四郎へ頭を下げた。


「笠森の水札、尾張筋へ伝えます」


「尾張の誰へ伝わる」


「まずは津島の小商い。次に清洲へ入る油商、針商。大きな家の耳へ届くかは分かりませぬ。ただ、商人の口は荷より早く動くことがございます」


 弥四郎は静かに頷いた。


「よい噂にしろ」


 惣右衛門は少し笑った。


「商人は、役に立つ噂を好みます。笠森は水と道を見る。偽札を許さぬ。塩を通す。これは役に立つ噂です」


 宗介はその言葉に、また胸が重くなった。


 噂が動く。


 尾張へ。


 津島へ。


 清洲へ。


 望んだことでもある。


 怖いことでもある。


 水札が広がれば、笠森の名も広がる。


 名が広がれば、和木原だけではない目も向く。


 それでも、塩と針を入れるためには、道を開かなければならない。


 惣右衛門たちが出た後、弥四郎は城庭の者たちへ言った。


「戻り荷は通った。和木原の妨げは退けた。だが、これで終わりではない。尾張筋へ笠森の名が流れる」


 足軽たちが黙って聞いている。


 南谷の者も。


 降った者も。


「名が流れれば、荷も来る。荷が来れば、目も来る。だから、城の腹を乱すな。水場を荒らすな。札を雑に扱うな。粥一椀、塩一つまみ、縄一本まで、見えるようにせよ」


 宗介は頭を下げた。


「承知しました」


 その日の粥には、塩がほんの少し入った。


 おきぬは惣右衛門の針で、破れた飯袋を縫っていた。


 太助は、石切坂で使った縄を干している。


 市松は、明日の札に何を彫るか悩んでいた。


「次は、何がいいと思う?」


 宗介は少し考えた。


「右を見る目」


「それ、札にするのかよ」


「真似しにくいかも」


「嫌だ。気味悪い」


 小さな笑いが起きた。


 その笑いの向こうで、門の外はもう暗い。


 道は、まだ危ない。


 和木原は引かない。


 けれど、戻り荷は通った。


 笠森の水札は、尾張筋へ向かう荷の中に入った。


 小さな木片と、偽札の証と、商人の帳。


 それらが、笠森城の名を少し遠くへ運んでいく。


 宗介は椀の粥を啜った。


 塩気は薄い。


 だが、確かにあった。


 明日も兵は立てる。


第三十六話─了

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