第三十六話 戻り荷の証
尾張筋の商人、柏屋惣右衛門は、朝の粥が配られる前から門のそばに立っていた。
荷は昨日より軽い。
油壺は減り、針の包みも一部が笠森の蔵へ入った。代わりに、背負い荷の底には笠森でまとめた縄束と、太助が選んだ炭が少し、そして小さな木札が包まれている。
木札は、水札ではない。
昨日見つけた偽水札だった。
和木原の者が銭を取って商人に渡した疑いがある札である。
久住宗介は、その偽札を布に包みながら、何度も確認した。
本物ではない。
だが、ただ捨てるものでもない。
偽物が出たという証だ。
それを尾張筋の商人へ見せることができれば、和木原の言葉より笠森の手順を信じる者が増えるかもしれない。
「これを持って行くのですか」
宗介が問うと、惣右衛門は頷いた。
「はい。商人仲間へ見せます。本物と偽物を並べれば、皆、話を聞きます」
「危なくありませんか」
「危のうございます」
惣右衛門は平然と答えた。
「ですが、危ないからこそ値があります。偽札が出回る道は、商人にとって毒の混じった水と同じ。どこで飲めば腹を壊すか、早く知らせねばなりませぬ」
毒の混じった水。
そのたとえは、宗介の腹に落ちた。
偽札は、紙や木の問題ではない。
道の信用を腐らせるものだ。
水札が信用されなければ、塩も針も油も入らない。商人は和木原の顔色を見て、笠森を避けるようになる。
そうなれば、塩止めはまた効き始める。
「戻り荷を空にせぬのも、大事にございます」
惣右衛門は背負い荷を軽く叩いた。
「行きだけ荷がある道は弱い。帰りにも荷がある道は続く」
宗介は目を上げた。
「戻り荷」
「ええ。尾張から笠森へ塩や針を入れるだけでは、片荷になります。帰りに笠森や南谷から炭、縄、木札、道の知らせを持ち帰る。そうすれば、この道は一度きりではなくなる」
喜兵衛が横で低く唸った。
「商人らしい見方だな」
「商人でございますので」
惣右衛門は笑った。
片瀬弥四郎は、門の内側でそのやり取りを聞いていた。
「今日の水札は」
弥四郎が言うと、市松が小さな板片を持って走ってきた。
「針と波です」
市松は少し得意げだった。
昨日の鳥で散々言われたせいか、今日の針はやけに細く、波は妙に力強い。
宇平次が札を見る。
「これは針に見えるな」
「昨日の鳥だって鳥だった」
市松が不満そうに言う。
「いや、昨日のは鳥というより」
佐太が言いかけ、宗介が咳払いした。
市松の顔が険しくなる。
「何だよ」
「今日の札は、とてもいいと思います」
「昨日のもよかっただろ」
「真似されにくかった」
「それは褒めているのか?」
わずかに笑いが起きた。
だが、弥四郎はすぐに表情を引き締めた。
「惣右衛門。今日の札は三枚。お前の分、藤七の分、槙尾控え。返しの印を忘れるな」
「承知しました」
「宇平次」
「はっ」
「戻り荷には佐太をつける。大仰に守るな。守りすぎれば、そこに大事なものがあると教える」
「承知」
「宗介」
「はい」
「お前も途中まで行け。水札の手順を、商人の目の前で見せろ。ただし、石切坂より先へは行くな」
宗介の喉が鳴った。
外へ出る。
しかも、和木原が見ているかもしれない道へ。
怖い。
当然、怖い。
だが、今日の道は大事だった。
水札を出しただけでは足りない。本当に通れることを見せなければ、尾張筋へ信用は届かない。
「承知しました」
声は少し震えた。
宇平次が横目で見た。
「震えてもいいが、札は落とすな」
「そこは気をつけます」
門を出る一行は少なかった。
惣右衛門。
藤七。
佐太。
宗介。
太助。
槙尾の若者一人。
荷は炭と縄と偽札の包み。塩はない。
むしろ、帰り荷らしく見せるため、笠森で整えた縄束を目立つ場所へ置いた。
南谷外れの水場では、手順通りに止まった。
水札を見せる。
札の印は針と波。
見張りが控え板と合わせる。
水を汲むのは竹筒二本まで。
火は使わない。
荷は道を塞がない場所へ置く。
惣右衛門は、わざとゆっくり見ていた。
「これを商人が自分で守らねば、札はただの飾りですな」
「はい」
宗介は答えた。
「水場を荒らした商人には、次の札を出しません」
「厳しい」
「水場が荒れれば、次の商人が困ります」
「道の信用を商人にも負わせるわけですか」
「負わせるというか……一緒に守らないと続きません」
惣右衛門は頷いた。
「それは尾張筋でも通じる話です」
南谷外れを抜け、槙尾西沢へ向かう。
途中で、太助が何度か後ろを振り返った。
「誰かつけてるのか」
佐太が低く聞く。
「分からねえ。ただ、枝の音が変だ」
太助は炭焼きだった男だ。
山の音に敏い。
佐太はすぐに槍の持ち方を変えた。
宗介の心臓が速くなる。
見られている。
やはり、和木原か。
あるいは偽札を売っていた者の仲間か。
惣右衛門は足を止めなかった。
商人の顔のまま、淡々と歩いている。
槙尾西沢の水場では、槙尾の若者が立ち会った。
ここでも手順通り。
荷を下ろす場所は平たい石の上だけ。
水を汲む者と荷を見る者を分ける。
札に小さな返し印をつける。
惣右衛門は腰の帳袋から細い筆のようなものを取り出し、自分の帳にも何かを記した。
「商人の帳にも残すのですか」
宗介が聞くと、惣右衛門は頷いた。
「笠森の板、槙尾の板、商人の帳。三つ合えば、嘘がつきにくくなります」
「三つもあると面倒では」
「面倒だから信用になることもございます」
宗介はその言葉を胸に刻んだ。
面倒だから信用になる。
確かに、簡単すぎる手順はすぐ真似される。
だが、関わる者がそれぞれに残し、合わせる手順は、面倒な分だけ偽りにくい。
面倒は敵ではない。
使い方次第で、守りになる。
石切坂へ近づく頃、道は急に狭くなった。
片側は斜面。
もう片側は浅い沢。
荷を背負った者が止まれば、後ろも詰まる。
宗介は嫌な感じがした。
「ここ、止まると危ないです」
「分かってる」
佐太が短く答えた。
その時、前方に倒木が見えた。
道を完全には塞いでいない。
だが、荷を背負った者が通るには邪魔になる位置だった。
佐太が手を上げる。
全員が止まる。
太助が低く言った。
「自然に倒れたんじゃねえ」
倒木の切り口は新しい。
斧で少し切ってから倒した跡がある。
惣右衛門が静かに荷を下ろした。
「来ましたな」
藪の向こうから、三人の男が出てきた。
和木原の旗はない。
だが、昨日捕らえた男と同じような身なりだった。
一人が声を張る。
「その荷は賊荷だ。和木原の取り決めにより改める」
佐太が槍を構えた。
「ここは槙尾と笠森が水札を通した道だ。和木原の荷改めは受けぬ」
「賊を養う笠森の札など知らん」
男は鼻で笑った。
「荷を置け」
宗介は足が震えた。
戦えない。
ここで斬り合いになれば、自分は邪魔だ。
だが、荷を置けば、戻り荷が奪われる。
偽札の証も奪われる。
水札の道は、初めての戻り荷で折れる。
惣右衛門が一歩前へ出た。
「柏屋惣右衛門にございます」
商人の声だった。
低く、よく通る。
「この荷は、笠森で荷改めを受け、槙尾西沢で返し印を受けた戻り荷でございます。荷の中身は、炭、縄、偽札の証。尾張筋の商人へ知らせるもの。和木原がここで奪えば、和木原が偽札の証を消したと商人筋へ伝わります」
男たちの顔が変わった。
宗介は、惣右衛門の言葉に息を呑んだ。
荷を守っているのではない。
奪われた時の意味を先に置いた。
奪えば、証を消したことになる。
商人に嫌われる。
道の信用を失う。
男たちはそこまで考えていなかったのだろう。
「知ったことか」
別の男が吐き捨てた。
だが、先頭の男は迷った。
その迷いを、槙尾の若者が突いた。
「槙尾の西沢で返し印をつけた荷だ。ここで奪えば、槙尾への乱暴でもある」
佐太も続ける。
「笠森だけではない。槙尾の道も汚す気か」
男たちは互いに目を合わせた。
和木原の名を出せば、大事になる。
出さなければ、ただの野盗になる。
どちらにしても、荷を奪う理由が弱くなっている。
宗介は、その場で初めて分かった。
水札は通行許可だけではない。
誰が、どこで、何を認めたかを結ぶ証でもある。
笠森だけなら潰せても、槙尾と商人の帳が重なれば、乱暴に消しにくい。
太助が低く言った。
「倒木、どけますか」
佐太が頷いた。
「俺が見る。お前は縄を出せ」
「分かった」
太助は荷から縄を出した。
敵の前で堂々と、笠森の戻り荷の縄を使う。
それがまた、妙に効いた。
男たちは手を出せない。
佐太と太助、槙尾の若者が倒木を少しずらす。
完全にはどけない。
荷が通れる幅だけ開ける。
宗介も手を出しかけたが、宇平次の言葉を思い出した。
前へ出るな。
自分は、周りを見る。
すると、沢の側にもう一人いるのが見えた。
隠れていた男。
手には短い棒。
「右の沢側に一人!」
宗介が叫ぶ。
佐太が即座に反応した。
槍を向ける。
隠れていた男は舌打ちし、藪へ逃げた。
挟むつもりだったのだ。
倒木で止め、正面で話をし、横から荷を奪う。
宗介の膝が震えた。
もし見落としていれば、荷は奪われたかもしれない。
「進みます!」
宗介は声を出した。
「ここで止まる方が危ない!」
惣右衛門がすぐ荷を背負う。
藤七も続く。
太助が倒木の端を押さえ、皆を通す。
佐太は最後まで槍を構えた。
男たちは罵声を飛ばしたが、追っては来なかった。
石切坂を抜けると、宗介はようやく息を吐いた。
足が震えている。
手も冷たい。
だが、荷は通った。
戻り荷は折れなかった。
惣右衛門は少し歩いてから、宗介へ言った。
「よく右を見ましたな」
「たまたまです」
「たまたまでも、荷は助かりました」
「怖かっただけです」
「怖い者は、よく見ます」
惣右衛門はそう言った。
宗介は返事ができなかった。
怖いから見る。
それは、たぶん当たっていた。
夕方、笠森城へ戻ると、報告を聞いた弥四郎の顔が険しくなった。
「倒木で止め、正面で賊荷と言い、右から荷を狙ったか」
「はい」
佐太が答えた。
「和木原の名は出しませんでした。ですが、偽札の証を消したがっていたように見えます」
惣右衛門は布包みを弥四郎の前へ置いた。
「戻り荷は無事。偽札も無事です。これを尾張筋へ持ち帰ります」
「今日、戻るのか」
「はい。夜道は避けますが、槙尾で一泊し、明朝尾張筋へ抜けます」
弥四郎は頷いた。
「水札をもう一枚出す。明朝の印は、槙尾で受けよ。笠森の控えにも残す」
「承知しました」
市松が板を持ってきた。
「何を書く」
宗介は深く息を吸った。
「戻り荷、石切坂で止められる。賊荷と言われる。倒木。右沢側に伏せあり。荷は無事。偽札の証、守る。槙尾と商人帳、効く」
市松は真剣な顔で書いた。
「右を見たのは、宗介だろ」
「たまたま」
「書いた方がいいんじゃないか?」
宗介は一瞬、市松を見た。
「右も見る、とは書いて」
「分かった」
板には、右も見る、という妙な印が増えた。
目が二つ、左右へ向いている絵だった。
夜、惣右衛門は笠森を発つ前に、弥四郎へ頭を下げた。
「笠森の水札、尾張筋へ伝えます」
「尾張の誰へ伝わる」
「まずは津島の小商い。次に清洲へ入る油商、針商。大きな家の耳へ届くかは分かりませぬ。ただ、商人の口は荷より早く動くことがございます」
弥四郎は静かに頷いた。
「よい噂にしろ」
惣右衛門は少し笑った。
「商人は、役に立つ噂を好みます。笠森は水と道を見る。偽札を許さぬ。塩を通す。これは役に立つ噂です」
宗介はその言葉に、また胸が重くなった。
噂が動く。
尾張へ。
津島へ。
清洲へ。
望んだことでもある。
怖いことでもある。
水札が広がれば、笠森の名も広がる。
名が広がれば、和木原だけではない目も向く。
それでも、塩と針を入れるためには、道を開かなければならない。
惣右衛門たちが出た後、弥四郎は城庭の者たちへ言った。
「戻り荷は通った。和木原の妨げは退けた。だが、これで終わりではない。尾張筋へ笠森の名が流れる」
足軽たちが黙って聞いている。
南谷の者も。
降った者も。
「名が流れれば、荷も来る。荷が来れば、目も来る。だから、城の腹を乱すな。水場を荒らすな。札を雑に扱うな。粥一椀、塩一つまみ、縄一本まで、見えるようにせよ」
宗介は頭を下げた。
「承知しました」
その日の粥には、塩がほんの少し入った。
おきぬは惣右衛門の針で、破れた飯袋を縫っていた。
太助は、石切坂で使った縄を干している。
市松は、明日の札に何を彫るか悩んでいた。
「次は、何がいいと思う?」
宗介は少し考えた。
「右を見る目」
「それ、札にするのかよ」
「真似しにくいかも」
「嫌だ。気味悪い」
小さな笑いが起きた。
その笑いの向こうで、門の外はもう暗い。
道は、まだ危ない。
和木原は引かない。
けれど、戻り荷は通った。
笠森の水札は、尾張筋へ向かう荷の中に入った。
小さな木片と、偽札の証と、商人の帳。
それらが、笠森城の名を少し遠くへ運んでいく。
宗介は椀の粥を啜った。
塩気は薄い。
だが、確かにあった。
明日も兵は立てる。
第三十六話─了




