表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/49

第三十五話 尾張筋の商人

 翌朝、笠森城の門前には、二人の商人が立っていた。


 一人は塩屋藤七。


 もう一人は、藤七よりも背が高く、目の動きが鋭い男だった。年は四十を少し越えたくらいか。衣は上等ではないが、よく手入れされている。腰には小さな帳袋を下げ、背負い荷には油壺、針の包み、干物、細い麻縄が分けて結ばれていた。


 門の上から宇平次が声を落とす。


「名を申せ」


 藤七が頭を下げた。


「塩屋藤七にございます。こちらは尾張筋を通う商人、柏屋惣右衛門殿」


 男は静かに頭を下げた。


「柏屋惣右衛門にございます。津島筋、清洲筋の市を回り、油、針、干物、塩、縄を扱っております」


 尾張。


 清洲。


 その名を聞いた瞬間、久住宗介の胸が小さく鳴った。


 まだ遠いと思っていた名が、商人の口から自然に出てきた。


 織田。


 斎藤。


 今川。


 松平。


 そうした大きな名は、いきなり城門を叩くのではない。


 先に荷の道から近づいてくる。


 宗介は、改めてそう感じた。


 片瀬弥四郎が門の内側へ出た。


「片瀬弥四郎である。荷を改める」


「承知しております」


 柏屋惣右衛門は嫌な顔をしなかった。


 むしろ、荷を下ろす手が慣れていた。


 油壺は布でくるみ、針は小さな竹筒に収め、干物は藁で巻いてある。塩は、表には見えない。だが、荷を扱う者が見れば、底に重さがあると分かる。


 喜兵衛が荷を見て、少し目を細めた。


「上手く分けておる」


 惣右衛門は軽く笑った。


「一つにまとめれば、一つ奪われれば終わりにございます」


 宗介は、その言葉に反応した。


 この男は分かっている。


 荷を分ける意味を。


 道で失う怖さを。


 藤七とはまた違う商人だった。


 弥四郎は水を出させた。


 飯は出さない。


 惣右衛門は水椀を受け取り、匂いを嗅ぎ、少しだけ口に含んだ。


「よい水ですな」


「水札を見に来たのか」


 弥四郎が問うと、惣右衛門は頷いた。


「はい。和木原では、笠森は賊を養う城だと聞きました」


 城内の足軽たちの顔が険しくなる。


 惣右衛門は続けた。


「一方、藤七殿からは、笠森は南谷の井戸を守り、槙尾と水場を改め、札のある荷だけを通すと聞きました。商人として、どちらが本当か見に来た次第です」


「見て、どう思う」


 弥四郎が聞いた。


 惣右衛門は城庭を見回した。


 竈。


 水桶。


 薪の置き場。


 板。


 働く降り人。


 南谷の者。


 見張る足軽。


 そして、門外の札。


「賊を養う城にしては、粥の匂いが薄い」


 惣右衛門は言った。


 足軽の何人かが、思わず変な顔をした。


 惣右衛門は淡々と続ける。


「つまり、無駄に食わせてはおられぬ。水場の桶も分けられている。薪も乾いたものと湿ったものが別。降った者も働かせている。商人の目から見れば、こちらは水と道を売り物にする城です」


 宗介は思わず口を挟んだ。


「売り物、ですか」


「ええ」


 惣右衛門は宗介を見る。


「米や塩だけが商いではございません。安全に水を飲める場所。荷を下ろしても道が詰まらぬ場所。偽札を見分ける決まり。そういうものも、商人にとっては銭と同じ価値がございます」


 弥四郎の目が少し鋭くなる。


「なら、笠森の水札を使うか」


「使いたい。ですが、条件がございます」


 宇平次が一歩前へ出た。


「条件だと」


 惣右衛門は慌てなかった。


「商人の荷を守るには、札だけでは足りませぬ。偽札が出回るなら、本物と偽物を誰が見分けるのか。水場が汚されたなら、誰が清めるのか。和木原が道を塞いだなら、笠森と槙尾は本当に商人を通すのか。そこを見なければ、尾張筋の荷は動きませぬ」


 宗介は黙って聞いていた。


 正論だった。


 札を出しただけで、道が安全になるわけではない。


 水場を守ると言った以上、汚された時に清める。


 偽札が出たら見分ける。


 和木原が止めたら、別道を示す。


 そこまでできなければ、商人は信用しない。


「なら、今日見せる」


 弥四郎は言った。


「南谷外れ、槙尾西沢、古炭道の湧き水。昨日改めた三つの水場を、お前の目でも見よ。宗介、つけ」


「はい」


 宗介は頷いた。


 また外へ出る。


 胃が重くなる。


 だが、これは逃げられない。


 水札を外へ広げるなら、商人に現場を見せる必要がある。


 ただの話ではなく、実際の水と道を見せる。


 そうでなければ信用にならない。


 昼前、宗介たちは城を出た。


 宇平次。


 佐太。


 塩屋藤七。


 柏屋惣右衛門。


 槙尾から来ていた若者一人。


 太助。


 そして宗介。


 安西新蔵は槙尾へ戻っているため、今日は槙尾の若者が札を確認する役だった。


 今日の水札には、炭と鳥の印が彫られている。


 市松が本当に変な鳥を彫った。


 嘴が長すぎ、足が三本あるようにも見える。


 だが、そのせいで真似しにくい札になっていた。


「これは何の鳥ですかな」


 惣右衛門が札を見て問う。


 宗介は少し迷った。


「笠森鳥、ということで」


「聞いたことがございません」


「俺もありません」


 太助が横で吹き出した。


 宇平次が睨む。


「笑うな。真面目な札だ」


「鳥はふざけてるだろ」


「真似されにくいなら、それでよい」


 惣右衛門は札を眺め、面白そうに目を細めた。


「確かに、これを毎日真似るのは骨ですな」


 最初の南谷外れの水場は、無事だった。


 昨日決めた通り、休めるのは二人まで。


 竹筒二本まで。


 火は使わない。


 惣右衛門は水の量を見て頷いた。


「ここは大荷には向きませぬな」


「はい」


 宗介は答えた。


「大きい荷をここで休ませると、水場が荒れます。小荷か、先触れ用です」


「なるほど。水の量に合わせて荷の大きさを決める」


「そうです」


「商人は、荷を売れる場所で決めがちです。水で決めるのは面白い」


 面白い。


 宗介にとっては怖いだけだったが、商人にはそう見えるらしい。


 次の槙尾西沢では、惣右衛門が自分から荷を下ろした。


 決められた平たい石の上。


 道を塞がない場所。


 彼は一度荷を置き、後ろを振り返った。


「ここなら、後ろの荷も通れますな」


「はい」


 宗介は頷いた。


「ただし、三つ以上の荷は止めない。順番待ちさせるなら手前で」


「商人には面倒ですが、詰まるよりはよい」


 藤七も頷いた。


「昨日までなら、皆が好きに下ろして揉めておりました」


 槙尾の若者が、西沢の板へ印をつける。


 笠森の水札一枚使用。


 竹筒二本。


 荷下ろし一回。


 それを槙尾側にも残す。


 惣右衛門はその様子をじっと見ていた。


「笠森だけでなく、槙尾にも印が残るのですな」


「水場は槙尾側でもありますから」


 宗介が答える。


「片方だけの帳だと、後で揉めます」


「商人も同じです。片方の帳だけでは、だいたい揉めます」


 惣右衛門は少し笑った。


 最後の古炭道の湧き水へ向かう途中、太助が足を止めた。


 昨日も、彼が臭いに気づいた。


 今日も同じだった。


「人がいる」


 太助が低く言った。


 宇平次がすぐ手を上げる。


 全員が止まった。


 湧き水の手前、低い藪の陰に男が二人いた。


 こちらに気づいて逃げようとする。


「待て!」


 佐太が走った。


 宇平次も続く。


 男たちは荷を捨てて逃げたが、一人が足を滑らせた。佐太が組み伏せる。もう一人は藪へ消えた。


 捕まった男は、和木原の者ではないと言い張った。


 だが、捨てた荷の中から木片が出てきた。


 偽の水札だった。


 昨日の井戸と薪ではない。


 今日の炭と鳥を真似たもの。


 ただし、鳥が少しまともに描かれている。


 市松の変な鳥とは違った。


 宗介はそれを見て、思わず呟いた。


「上手すぎる」


 宇平次が眉をひそめる。


「何が」


「鳥です。本物はもっと変です」


 緊張の中で、太助が小さく笑った。


 佐太も口元を歪めた。


 惣右衛門は本物の札と偽札を見比べ、深く頷いた。


「なるほど。下手な鳥が本物とは、商人泣かせですな」


「市松には言わないでください」


 宗介は真面目に言った。


 捕まえた男は、和木原の名は出さなかった。


 だが、偽札を銭で売るよう命じられたと白状した。


 誰に、と聞くと、奥田弥五郎の配下らしき男の特徴を言った。


 弥五郎。


 昨日来た使者である。


 宇平次の目が冷えた。


「使者の顔で来て、裏で札を偽らせるか」


 惣右衛門は偽札を手に取り、宗介へ返した。


「これは大きな証になります」


「商人から見て、ですか」


「はい。偽の札で銭を取る者は、商人に嫌われます。荷を奪う賊も嫌われますが、札を偽る者はもっと嫌われる。道の決まりそのものを腐らせますから」


 宗介はその言葉を覚えた。


 道の決まりを腐らせる。


 和木原のやっていることは、それだった。


 塩を止める。


 水を汚す。


 偽札で銭を取る。


 それは笠森を締めるだけでなく、周辺の商いそのものを腐らせている。


 古炭道の湧き水は、昨日の掃除でかなり戻っていた。


 まだ念のため飲ませない。


 だが、水は澄み始めている。


 宗介は惣右衛門へ言った。


「今日は、ここでは飲ませません。明日の朝、もう一度見ます」


「それがよろしいでしょう」


 惣右衛門は頷いた。


「水場を守るとは、飲ませることだけではない。飲ませぬ判断も含む。よく分かりました」


 その言葉は、宗介の胸に少し残った。


 飲ませないことも、水を守ること。


 確かにそうだ。


 使える水と使えない水を分ける。


 それも兵糧だった。


 夕方、笠森城へ戻ると、弥四郎はすぐ報告を聞いた。


 偽の水札。


 炭と鳥の印を真似たが、本物より上手い鳥。


 奥田弥五郎の配下らしき男。


 商人から銭を取るための偽札。


 惣右衛門は、弥四郎の前で静かに頭を下げた。


「笠森の水札、本物と認めます」


 城庭が静まった。


「ただし、札だけでは足りませぬ。今日見たように、偽物は必ず出ます。ですので、商人筋へ伝えます。水札は笠森か槙尾で受けること。今日の印を確かめること。水場で使ったら返すこと。偽札を売る者がいれば、笠森か槙尾へ知らせること」


 弥四郎は頷いた。


「その代わり、笠森は決めた水場を守る。汚された水は使わせぬ。道を乱す者は許さぬ」


「商人として、それで十分にございます」


 惣右衛門は背負い荷から、小さな包みを二つ取り出した。


「これは、今日の分とは別です」


 喜兵衛が受け取る。


 塩と、針だった。


「針?」


 おきぬが目を上げた。


 惣右衛門は言った。


「針は小さいが、衣を直し、袋を縫い、縄の補いにも使えます。水札が使える道なら、こういう小さい荷も動かせる」


 宗介は針の包みを見た。


 塩ほど目立たない。


 米ほど重くない。


 だが、衣や袋が破れれば人は困る。荷袋が破れれば米も塩も落ちる。


 針もまた、兵糧の外ではなかった。


「ありがたく受ける」


 弥四郎は言った。


「代価は」


 惣右衛門は笑みを薄くした。


「本日は、道の代といたしましょう。次からは商いとして」


 喜兵衛がすぐに言った。


「次からは帳につける」


「もちろんにございます」


 夜、笠森城の竈の前で、市松は偽札と本物の札を見比べていた。


「俺の鳥、そんなに変か?」


 宗介は返答に詰まった。


「真似されにくい」


「それ、褒めてる?」


「褒めてる」


「ほんまか?」


 宗介は一瞬止まった。


「本当」


 市松はまだ疑わしそうだったが、少しだけ嬉しそうに札をしまった。


 その夜の板には、新しい印が並んだ。


 柏屋惣右衛門。


 尾張筋。


 水場三か所を確認。


 古炭道の湧き水、明朝再確認。


 偽水札、捕らえる。


 奥田弥五郎の配下疑い。


 水札、本物と認められる。


 塩と針、入る。


 宗介はそれを見ながら、静かに息を吐いた。


 和木原は水札を偽った。


 だが、その偽物を見つけたことで、逆に本物の水札の意味が強まった。


 商人は見た。


 笠森が水場を見ていることを。


 槙尾と印を合わせていることを。


 使えない水は使わせないことを。


 偽札を見分けることを。


 小さな木片が、ただの札ではなくなっていく。


 それは、道を通す信用になり始めていた。


 竈の火が鳴る。


 粥には塩が少し。


 おきぬは新しい針を手に、破れた袋を縫い始めていた。


 太助は乾いた薪を分けている。


 藤七は明日の荷の話をしている。


 惣右衛門は、尾張へ戻る道を板の上で示していた。


 尾張。


 清洲。


 津島。


 遠かった名が、荷の線で笠森へつながり始める。


 宗介はその線を見て、腹の奥がまた重くなるのを感じた。


 道が広がれば、荷も来る。


 荷が来れば、噂も来る。


 噂が来れば、大きな家の目も来る。


 それでも、道を閉じれば塩も針も来ない。


 だから、見るしかない。


 水と道を。


 明日も、腹を壊さないために。


第三十五話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ