第三十五話 尾張筋の商人
翌朝、笠森城の門前には、二人の商人が立っていた。
一人は塩屋藤七。
もう一人は、藤七よりも背が高く、目の動きが鋭い男だった。年は四十を少し越えたくらいか。衣は上等ではないが、よく手入れされている。腰には小さな帳袋を下げ、背負い荷には油壺、針の包み、干物、細い麻縄が分けて結ばれていた。
門の上から宇平次が声を落とす。
「名を申せ」
藤七が頭を下げた。
「塩屋藤七にございます。こちらは尾張筋を通う商人、柏屋惣右衛門殿」
男は静かに頭を下げた。
「柏屋惣右衛門にございます。津島筋、清洲筋の市を回り、油、針、干物、塩、縄を扱っております」
尾張。
清洲。
その名を聞いた瞬間、久住宗介の胸が小さく鳴った。
まだ遠いと思っていた名が、商人の口から自然に出てきた。
織田。
斎藤。
今川。
松平。
そうした大きな名は、いきなり城門を叩くのではない。
先に荷の道から近づいてくる。
宗介は、改めてそう感じた。
片瀬弥四郎が門の内側へ出た。
「片瀬弥四郎である。荷を改める」
「承知しております」
柏屋惣右衛門は嫌な顔をしなかった。
むしろ、荷を下ろす手が慣れていた。
油壺は布でくるみ、針は小さな竹筒に収め、干物は藁で巻いてある。塩は、表には見えない。だが、荷を扱う者が見れば、底に重さがあると分かる。
喜兵衛が荷を見て、少し目を細めた。
「上手く分けておる」
惣右衛門は軽く笑った。
「一つにまとめれば、一つ奪われれば終わりにございます」
宗介は、その言葉に反応した。
この男は分かっている。
荷を分ける意味を。
道で失う怖さを。
藤七とはまた違う商人だった。
弥四郎は水を出させた。
飯は出さない。
惣右衛門は水椀を受け取り、匂いを嗅ぎ、少しだけ口に含んだ。
「よい水ですな」
「水札を見に来たのか」
弥四郎が問うと、惣右衛門は頷いた。
「はい。和木原では、笠森は賊を養う城だと聞きました」
城内の足軽たちの顔が険しくなる。
惣右衛門は続けた。
「一方、藤七殿からは、笠森は南谷の井戸を守り、槙尾と水場を改め、札のある荷だけを通すと聞きました。商人として、どちらが本当か見に来た次第です」
「見て、どう思う」
弥四郎が聞いた。
惣右衛門は城庭を見回した。
竈。
水桶。
薪の置き場。
板。
働く降り人。
南谷の者。
見張る足軽。
そして、門外の札。
「賊を養う城にしては、粥の匂いが薄い」
惣右衛門は言った。
足軽の何人かが、思わず変な顔をした。
惣右衛門は淡々と続ける。
「つまり、無駄に食わせてはおられぬ。水場の桶も分けられている。薪も乾いたものと湿ったものが別。降った者も働かせている。商人の目から見れば、こちらは水と道を売り物にする城です」
宗介は思わず口を挟んだ。
「売り物、ですか」
「ええ」
惣右衛門は宗介を見る。
「米や塩だけが商いではございません。安全に水を飲める場所。荷を下ろしても道が詰まらぬ場所。偽札を見分ける決まり。そういうものも、商人にとっては銭と同じ価値がございます」
弥四郎の目が少し鋭くなる。
「なら、笠森の水札を使うか」
「使いたい。ですが、条件がございます」
宇平次が一歩前へ出た。
「条件だと」
惣右衛門は慌てなかった。
「商人の荷を守るには、札だけでは足りませぬ。偽札が出回るなら、本物と偽物を誰が見分けるのか。水場が汚されたなら、誰が清めるのか。和木原が道を塞いだなら、笠森と槙尾は本当に商人を通すのか。そこを見なければ、尾張筋の荷は動きませぬ」
宗介は黙って聞いていた。
正論だった。
札を出しただけで、道が安全になるわけではない。
水場を守ると言った以上、汚された時に清める。
偽札が出たら見分ける。
和木原が止めたら、別道を示す。
そこまでできなければ、商人は信用しない。
「なら、今日見せる」
弥四郎は言った。
「南谷外れ、槙尾西沢、古炭道の湧き水。昨日改めた三つの水場を、お前の目でも見よ。宗介、つけ」
「はい」
宗介は頷いた。
また外へ出る。
胃が重くなる。
だが、これは逃げられない。
水札を外へ広げるなら、商人に現場を見せる必要がある。
ただの話ではなく、実際の水と道を見せる。
そうでなければ信用にならない。
昼前、宗介たちは城を出た。
宇平次。
佐太。
塩屋藤七。
柏屋惣右衛門。
槙尾から来ていた若者一人。
太助。
そして宗介。
安西新蔵は槙尾へ戻っているため、今日は槙尾の若者が札を確認する役だった。
今日の水札には、炭と鳥の印が彫られている。
市松が本当に変な鳥を彫った。
嘴が長すぎ、足が三本あるようにも見える。
だが、そのせいで真似しにくい札になっていた。
「これは何の鳥ですかな」
惣右衛門が札を見て問う。
宗介は少し迷った。
「笠森鳥、ということで」
「聞いたことがございません」
「俺もありません」
太助が横で吹き出した。
宇平次が睨む。
「笑うな。真面目な札だ」
「鳥はふざけてるだろ」
「真似されにくいなら、それでよい」
惣右衛門は札を眺め、面白そうに目を細めた。
「確かに、これを毎日真似るのは骨ですな」
最初の南谷外れの水場は、無事だった。
昨日決めた通り、休めるのは二人まで。
竹筒二本まで。
火は使わない。
惣右衛門は水の量を見て頷いた。
「ここは大荷には向きませぬな」
「はい」
宗介は答えた。
「大きい荷をここで休ませると、水場が荒れます。小荷か、先触れ用です」
「なるほど。水の量に合わせて荷の大きさを決める」
「そうです」
「商人は、荷を売れる場所で決めがちです。水で決めるのは面白い」
面白い。
宗介にとっては怖いだけだったが、商人にはそう見えるらしい。
次の槙尾西沢では、惣右衛門が自分から荷を下ろした。
決められた平たい石の上。
道を塞がない場所。
彼は一度荷を置き、後ろを振り返った。
「ここなら、後ろの荷も通れますな」
「はい」
宗介は頷いた。
「ただし、三つ以上の荷は止めない。順番待ちさせるなら手前で」
「商人には面倒ですが、詰まるよりはよい」
藤七も頷いた。
「昨日までなら、皆が好きに下ろして揉めておりました」
槙尾の若者が、西沢の板へ印をつける。
笠森の水札一枚使用。
竹筒二本。
荷下ろし一回。
それを槙尾側にも残す。
惣右衛門はその様子をじっと見ていた。
「笠森だけでなく、槙尾にも印が残るのですな」
「水場は槙尾側でもありますから」
宗介が答える。
「片方だけの帳だと、後で揉めます」
「商人も同じです。片方の帳だけでは、だいたい揉めます」
惣右衛門は少し笑った。
最後の古炭道の湧き水へ向かう途中、太助が足を止めた。
昨日も、彼が臭いに気づいた。
今日も同じだった。
「人がいる」
太助が低く言った。
宇平次がすぐ手を上げる。
全員が止まった。
湧き水の手前、低い藪の陰に男が二人いた。
こちらに気づいて逃げようとする。
「待て!」
佐太が走った。
宇平次も続く。
男たちは荷を捨てて逃げたが、一人が足を滑らせた。佐太が組み伏せる。もう一人は藪へ消えた。
捕まった男は、和木原の者ではないと言い張った。
だが、捨てた荷の中から木片が出てきた。
偽の水札だった。
昨日の井戸と薪ではない。
今日の炭と鳥を真似たもの。
ただし、鳥が少しまともに描かれている。
市松の変な鳥とは違った。
宗介はそれを見て、思わず呟いた。
「上手すぎる」
宇平次が眉をひそめる。
「何が」
「鳥です。本物はもっと変です」
緊張の中で、太助が小さく笑った。
佐太も口元を歪めた。
惣右衛門は本物の札と偽札を見比べ、深く頷いた。
「なるほど。下手な鳥が本物とは、商人泣かせですな」
「市松には言わないでください」
宗介は真面目に言った。
捕まえた男は、和木原の名は出さなかった。
だが、偽札を銭で売るよう命じられたと白状した。
誰に、と聞くと、奥田弥五郎の配下らしき男の特徴を言った。
弥五郎。
昨日来た使者である。
宇平次の目が冷えた。
「使者の顔で来て、裏で札を偽らせるか」
惣右衛門は偽札を手に取り、宗介へ返した。
「これは大きな証になります」
「商人から見て、ですか」
「はい。偽の札で銭を取る者は、商人に嫌われます。荷を奪う賊も嫌われますが、札を偽る者はもっと嫌われる。道の決まりそのものを腐らせますから」
宗介はその言葉を覚えた。
道の決まりを腐らせる。
和木原のやっていることは、それだった。
塩を止める。
水を汚す。
偽札で銭を取る。
それは笠森を締めるだけでなく、周辺の商いそのものを腐らせている。
古炭道の湧き水は、昨日の掃除でかなり戻っていた。
まだ念のため飲ませない。
だが、水は澄み始めている。
宗介は惣右衛門へ言った。
「今日は、ここでは飲ませません。明日の朝、もう一度見ます」
「それがよろしいでしょう」
惣右衛門は頷いた。
「水場を守るとは、飲ませることだけではない。飲ませぬ判断も含む。よく分かりました」
その言葉は、宗介の胸に少し残った。
飲ませないことも、水を守ること。
確かにそうだ。
使える水と使えない水を分ける。
それも兵糧だった。
夕方、笠森城へ戻ると、弥四郎はすぐ報告を聞いた。
偽の水札。
炭と鳥の印を真似たが、本物より上手い鳥。
奥田弥五郎の配下らしき男。
商人から銭を取るための偽札。
惣右衛門は、弥四郎の前で静かに頭を下げた。
「笠森の水札、本物と認めます」
城庭が静まった。
「ただし、札だけでは足りませぬ。今日見たように、偽物は必ず出ます。ですので、商人筋へ伝えます。水札は笠森か槙尾で受けること。今日の印を確かめること。水場で使ったら返すこと。偽札を売る者がいれば、笠森か槙尾へ知らせること」
弥四郎は頷いた。
「その代わり、笠森は決めた水場を守る。汚された水は使わせぬ。道を乱す者は許さぬ」
「商人として、それで十分にございます」
惣右衛門は背負い荷から、小さな包みを二つ取り出した。
「これは、今日の分とは別です」
喜兵衛が受け取る。
塩と、針だった。
「針?」
おきぬが目を上げた。
惣右衛門は言った。
「針は小さいが、衣を直し、袋を縫い、縄の補いにも使えます。水札が使える道なら、こういう小さい荷も動かせる」
宗介は針の包みを見た。
塩ほど目立たない。
米ほど重くない。
だが、衣や袋が破れれば人は困る。荷袋が破れれば米も塩も落ちる。
針もまた、兵糧の外ではなかった。
「ありがたく受ける」
弥四郎は言った。
「代価は」
惣右衛門は笑みを薄くした。
「本日は、道の代といたしましょう。次からは商いとして」
喜兵衛がすぐに言った。
「次からは帳につける」
「もちろんにございます」
夜、笠森城の竈の前で、市松は偽札と本物の札を見比べていた。
「俺の鳥、そんなに変か?」
宗介は返答に詰まった。
「真似されにくい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「ほんまか?」
宗介は一瞬止まった。
「本当」
市松はまだ疑わしそうだったが、少しだけ嬉しそうに札をしまった。
その夜の板には、新しい印が並んだ。
柏屋惣右衛門。
尾張筋。
水場三か所を確認。
古炭道の湧き水、明朝再確認。
偽水札、捕らえる。
奥田弥五郎の配下疑い。
水札、本物と認められる。
塩と針、入る。
宗介はそれを見ながら、静かに息を吐いた。
和木原は水札を偽った。
だが、その偽物を見つけたことで、逆に本物の水札の意味が強まった。
商人は見た。
笠森が水場を見ていることを。
槙尾と印を合わせていることを。
使えない水は使わせないことを。
偽札を見分けることを。
小さな木片が、ただの札ではなくなっていく。
それは、道を通す信用になり始めていた。
竈の火が鳴る。
粥には塩が少し。
おきぬは新しい針を手に、破れた袋を縫い始めていた。
太助は乾いた薪を分けている。
藤七は明日の荷の話をしている。
惣右衛門は、尾張へ戻る道を板の上で示していた。
尾張。
清洲。
津島。
遠かった名が、荷の線で笠森へつながり始める。
宗介はその線を見て、腹の奥がまた重くなるのを感じた。
道が広がれば、荷も来る。
荷が来れば、噂も来る。
噂が来れば、大きな家の目も来る。
それでも、道を閉じれば塩も針も来ない。
だから、見るしかない。
水と道を。
明日も、腹を壊さないために。
第三十五話─了




