第三十四話 水場を結ぶ
水札を出した翌朝、笠森城の門前には、いつもより多い足跡が残っていた。
商人の足跡。
槙尾の使いの足跡。
南谷の若者が水桶を運んだ足跡。
そして、誰のものかまだ分からない細い足跡。
久住宗介は、門の外にしゃがみ込んでいた。
昨夜のうちに雨は降っていない。だから土の跡は残りやすい。わらじの結び、足の向き、荷を背負っていたかどうか。そこまで正確に読めるわけではないが、見ようとするだけで分かることは増えていた。
「また足跡か」
宇平次が背後で言った。
「はい」
「お前、だんだん犬みたいになってきたな」
「犬ほど鼻はよくありません」
「そこは否定するのか」
宇平次は呆れたように言ったが、目は足跡を見ていた。
宗介は細い足跡を指した。
「これは、商人でも槙尾の若者でもないと思います。荷の跡がない。けれど、門前まで近づいています」
「和木原の見張りか」
「かもしれません。水札を見に来たのかも」
宇平次の顔が険しくなった。
「札そのものを真似る気か」
「たぶん、そう考えます」
宗介は門の内側に掛けられた小さな札を見た。
昨日の印は、井戸と薪。
今日の印は変える。
槙尾と水場を改める日だから、水と石にする予定だった。
毎日変える。
出しすぎない。
返させる。
それだけで防げるとは思っていない。
だが、何もしなければ一日で真似される。
「若へ知らせる」
宇平次が言った。
朝の粥が配られる頃、片瀬弥四郎は城庭に槙尾の使者を迎えた。
安西新蔵である。
今日は供が二人。
槙尾から水場改めのために来た者たちだった。
新蔵は門前の札を見て、軽く頭を下げた。
「昨日の水札、槙尾でも評判になっております」
弥四郎は表情を変えない。
「評判だけでは水は守れぬ」
「その通りでございます。ですので、槙尾左馬助より、三か所の水場を笠森と共に定めたいとのこと」
「三か所か」
「はい。南谷外れ。槙尾西沢。古炭道中ほどの湧き水」
宗介は板を見た。
三か所とも重要だった。
南谷外れは笠森の入口。
槙尾西沢は塩の小荷を通す要。
古炭道中ほどの湧き水は、笠森と槙尾をつなぐ細い喉のような場所だ。
そこを和木原に荒らされれば、水札はただの木片になる。
「今日のうちに見ます」
宗介は言った。
弥四郎がこちらを見る。
「行けるか」
「行きます」
言ってから、胃が縮んだ。
外へ出るのはまだ怖い。
けれど、水場を決めるなら現場を見なければならない。水の量、足場、荷を置ける場所、火を使ってよい場所、見張りの立ち位置。そこを見ずに札だけ出せば、後で必ず崩れる。
「宇平次」
弥四郎が言った。
「宗介をつける。だが、前には出すな」
「承知」
「新蔵殿。槙尾の者も、水場で勝手に汲ませぬ。札の印を合わせる」
「心得ております」
市松が新しい札を彫っていた。
水と石。
水は波線。
石は丸い塊。
相変わらず少し頼りないが、昨日の井戸と薪とは違う。
「これでええか」
「いい」
宗介は頷いた。
「三枚だけ?」
「今日は四枚」
「増えるんか」
「槙尾用が一枚、藤七さん用が一枚、松吉さん用が一枚、笠森の控えが一枚」
「控え?」
「何を出したか残すため」
市松は少し得意げに言った。
「分かった。控えにも同じ印やな」
「頼む」
市松は黙って彫り始めた。
手つきが、少しずつ丁寧になっている。
昼前、宗介たちは城を出た。
宇平次。
佐太。
槙尾の新蔵と供二人。
南谷から善助。
笠森の降り人から太助。
そして宗介。
太助を連れていくことには、足軽たちから不満が出た。
しかし、太助は炭道と湿った薪の扱いを知っている。昨日、塩の小荷を通した実績もあった。
弥四郎は一言で決めた。
「疑うなら見張れ。使える手を捨てるほど、笠森は太くない」
太助は何も言わなかった。
ただ、背負い縄を締め直した。
最初に見たのは、南谷外れの水場だった。
井戸ではない。
小さな湧き水を石で囲った場所である。
水量は多くないが、きれいだった。荷を置ける平場が少しあり、二人なら休める。三人以上が一度に使えば、すぐ足元が泥になる。
「札一枚につき、ここで休めるのは二人まで」
宗介は言った。
「水を汲むのは竹筒二本まで。桶で汲ませると荒れます」
新蔵が頷く。
「商人には厳しく聞こえますな」
「荒れたら、誰も使えなくなります」
「確かに」
善助が足元の石を見た。
「この石を少し増やせば、泥はましになります」
「石を増やすなら、南谷の者が分かるように印を」
「はい」
太助が周りの木を見て言った。
「ここで火は焚かない方がいい。煙が見える」
佐太が眉を上げた。
「お前が言うのか」
「炭焼きだから分かる」
太助はぶっきらぼうに答えた。
宗介は頷いた。
「ここは水だけ。火は駄目。休みも短く」
新蔵の供が板片に簡単な印を写す。
南谷外れ。
二人まで。
竹筒二本。
火を使わない。
次は槙尾西沢だった。
こちらは水量がやや多い。
ただし、道が狭い。荷を置く場所が悪く、背負い荷を下ろすと後ろが詰まる。
宗介はその場所を見た瞬間、嫌な汗をかいた。
「ここは、荷を下ろす場所を決めないと詰まります」
「どこがよい」
新蔵が聞く。
宗介は少し歩き、沢の脇の平たい石を指した。
「ここだけです。ほかで下ろすと道を塞ぎます。水を汲む人、荷を見張る人、通る人を分ける」
宇平次が笑った。
「水を飲むだけでも役を分けるのか」
「ここは詰まれば危ないです。後ろから敵が来た時、荷が邪魔になります」
太助が頷いた。
「ここは逃げにくい。炭荷を背負って一度転んだら、後ろも全部止まる」
「経験あるのか」
佐太が聞く。
「ある」
「笑えんな」
「笑えねえ」
槙尾の供が真面目に頷いた。
西沢では、槙尾の者が見張りを置くことになった。
だが、笠森の水札も通じる。
代わりに、笠森の荷が水を使った時は、槙尾の板にも印を残す。
宗介はそれを聞いて、胸の奥に少し重いものを感じた。
板が増える。
印が増える。
手間が増える。
だが、ここを曖昧にすれば、次に必ず揉める。
最後に向かったのは、古炭道中ほどの湧き水だった。
そこへ着く少し手前で、太助が足を止めた。
「待て」
宇平次がすぐに手を上げる。
全員が止まる。
「どうした」
「臭いが変だ」
太助は鼻を動かした。
「水じゃない。油か、腐った米か」
宗介の背筋が冷えた。
湧き水へ近づくと、答えはすぐに分かった。
水場の脇に、小さな袋が破られていた。
中には腐った米糠のようなものが入っている。水そのものへはまだ大きく混ざっていないが、足元に撒かれていた。
放っておけば雨で水へ入る。
水場を汚すための仕掛けだった。
善助が怒りで顔を赤くした。
「水を汚すか」
宇平次の目も冷える。
「和木原か」
新蔵はしゃがみ、袋を小枝で寄せた。
「断じるには早い。ですが、昨日の今日です。偶然ではありますまい」
宗介は水場を見た。
まだ助かる。
水そのものは澄んでいる。
足元の汚れを取り、石を入れ替え、周囲を掘り直せば使える。
「今すぐ掃除します」
宗介は言った。
「水は止められません。でも、汚れが入る前に足元を削る。汚れた土は下へ流さず、布か籠で取る。水を汲む場所を一時的に上へずらす」
佐太が顔をしかめた。
「道具は」
「手でやるしかありません」
宗介は袖をまくろうとした。
宇平次が止める。
「お前は指示しろ。手は他にもある」
太助がすぐに腰を下ろした。
「俺がやる」
佐太が意外そうに見る。
「お前が?」
「炭場で水を汚すと、後で自分が困る。こういうのは早い方がいい」
善助も膝をついた。
「私も」
槙尾の供も加わる。
腐った米糠のようなものを、枝と布で丁寧に取る。
汚れた土を削る。
水の筋を一時的に石でずらす。
宗介は足場を見ながら指示を出した。
「そこは踏まないでください。水が濁ります」
「汚れた布は水場から離して」
「石は上流側から。下流の泥を戻さないで」
作業は半刻ほどかかった。
その間、宇平次と新蔵は周囲を見張っていた。
やがて、太助が水を手ですくい、匂いを嗅いだ。
「まだ少し臭うが、流せば戻る」
善助も頷く。
「今日一日は飲ませぬ方がよい。明日、もう一度見ましょう」
宗介は板片に印をつけた。
古炭道湧き水。
汚されかけた。
掃除済み。
今日使用禁止。
明日再確認。
新蔵がその印を見て、感心したように言った。
「使えない水場にも札を出すのですな」
「使えないと分からなければ、使ってしまいます」
「なるほど。悪い水にも札が要る」
宗介は頷いた。
「はい。使える水と、使えない水を分けるのも大事です」
太助が汚れた手を布で拭きながら呟いた。
「和木原は、水を殺しに来たな」
その言葉は重かった。
水を殺す。
井戸縄を切るのとは違う。
水場そのものの信用を壊す手だ。
もし商人がこの水で腹を壊せば、水札の信用は落ちる。
笠森と槙尾が水場を守るという名も傷つく。
「これは、すぐ知らせる必要があります」
宗介は言った。
新蔵も頷いた。
「槙尾へも伝えます。和木原が水場を汚した可能性があると」
「断言はしないでください」
宗介は言った。
「証がありません」
新蔵は少し笑った。
「慎重ですな」
「断言して違ったら、こちらの信用が落ちます」
「では、こうしましょう。何者かが古炭道の湧き水を汚そうとした。笠森と槙尾が共同で清め、今日は使わせない。和木原の塩止めの直後に起きた、と」
「それなら」
宇平次が頷いた。
「十分だ。聞く者は考える」
水場改めは、そこで終わらなかった。
帰り道、宗介たちは小さな荷の一行と出会った。
松吉ではない。
知らない商人二人。
彼らは笠森の水札に似た木片を腰に下げていた。
宇平次がすぐに槍を向ける。
「止まれ」
商人たちは驚いて立ち止まった。
「水札を見せろ」
一人が慌てて木片を出す。
宗介は見た瞬間、違和感を覚えた。
今日の印は水と石。
だが、その札には井戸と薪が刻まれている。
昨日の印だ。
しかも、市松の線より丁寧すぎる。
真似た者が、逆に上手く彫っていた。
「これは昨日の印です」
宗介は言った。
「今日の札ではありません」
商人の顔が青くなる。
「いや、これは和木原の者から、笠森の水場を通れる札だと」
新蔵の目が細くなった。
「和木原から?」
「はい。通行の代わりに銭を取られました」
場が静まった。
和木原は、笠森の水札を真似て、銭を取っていた。
しかも古い印で。
これはただの妨害ではない。
笠森と槙尾の信用を盗み、商人から銭を取る手だ。
宇平次が低く言った。
「その札は預かる」
「困ります」
「偽物だ。持っていれば、お前たちが疑われる」
商人たちは顔を見合わせ、しぶしぶ差し出した。
宗介は二人に水を出すか迷った。
水札は偽物。
だが、商人本人が偽物を作ったとは限らない。
弥四郎ならどうするか。
少し考え、宗介は言った。
「今日は、南谷外れの水場だけ使ってください。笠森の見張りが立ち会います。次からは、本物の水札を笠森か槙尾で受けてください。偽物を使えば水場は使えません」
商人たちは何度も頭を下げた。
「助かります」
宇平次が小声で言った。
「甘いな」
「締め出すと、和木原の札が本物みたいになります」
宗介も小声で答えた。
「こちらが本物の手順を示した方がいい」
宇平次は少し考え、頷いた。
「一理ある」
笠森城へ戻る頃には、夕方になっていた。
報告は山ほどあった。
南谷外れの水場は二人まで。
槙尾西沢は荷下ろし場所を限定。
古炭道の湧き水は汚されかけ、本日使用禁止。
偽の水札が出回り始めた。
和木原が銭を取っていた可能性。
弥四郎は黙って聞いた。
若い城主の顔には怒りがあった。
だが、すぐ怒鳴りはしない。
「市松」
「へい」
「今日のことを書け。古炭道の水場、汚されかける。笠森と槙尾で清める。本日は使わず。偽水札、和木原より出る疑い。昨日の印、井戸と薪。今日の印、水と石」
市松の顔が引き締まる。
「偽物、出たんやな」
「出た」
「じゃあ、明日の印はもっと変なやつにする?」
弥四郎は少しだけ考えた。
「炭と鳥」
「何で鳥?」
「真似しにくい」
市松は真顔で頷いた。
「任せろ。変な鳥を彫る」
宇平次がぼそりと言った。
「変すぎて味方も分からぬ札は困るぞ」
場に小さな笑いが起きた。
緊張の中で、その笑いはありがたかった。
弥四郎はすぐ真顔に戻る。
「和木原は塩を止め、水を汚し、札を偽った。なら、こちらは本物の水札を広げる。ただし、雑には出さぬ」
安西新蔵も頷いた。
「槙尾も同じ札を認めましょう。偽札を見つけた商人には、笠森か槙尾へ持ち込ませる。本物と替えるか、破棄する」
「本物と替える時は、名と荷を聞きます」
宗介が言った。
「偽札がどこから来たかも」
「情報も回収するわけですな」
新蔵が笑う。
「はい。偽札も荷です」
喜兵衛が呆れたように言った。
「とうとう偽物まで荷になったか」
「運ばれてきたので」
宗介は真面目に答えた。
その夜、笠森城の粥には、昨日通した塩が少しだけ入った。
水場を清めた者たちには、普段より少しだけ多めの味噌湯が出た。
太助にも出た。
足軽の一人がそれを見て、眉を寄せたが、何も言わなかった。
太助が汚れた水場を清めたことは、皆が見ていた。
役に立った者に、役に立った分が返る。
それが見えれば、不満は完全には消えなくても、形を変える。
宗介は椀を持ちながら、門外の札を見た。
笠森、南谷の井戸を守る。
水と道を乱す者を許さず。
今日、その言葉は試された。
水場は汚されかけた。
札は偽られた。
それでも、笠森と槙尾は水場を清め、偽札を見つけ、本物の手順を示した。
小さな城の札が、ただの札ではなくなりつつある。
道を通すもの。
水を守るもの。
偽りを見つけるもの。
それは、和木原が思ったより厄介なものになっているはずだった。
夜更け、藤七から使いが届いた。
短い伝言だった。
水札が本物なら、明日、別の商人が二人、笠森へ来る。
塩だけではない。
油、針、干物。
そして、尾張へ抜ける商人筋の話もある。
宗介はその伝言を聞いて、胸がざわついた。
尾張。
その名が、初めて少し近いところで響いた。
笠森の水と道は、もう南谷と槙尾だけの話ではなくなり始めている。
弥四郎は静かに言った。
「明日は、商人を二人迎える。水は出す。飯は出さぬ」
宇平次が笑った。
「そこは変わりませぬな」
「変えぬ」
弥四郎は答えた。
「飯を出す相手は、こちらが決める」
宗介は頷いた。
水は道を通す。
飯は腹を預ける。
その違いを、笠森は覚え始めていた。
第三十四話─了




