第三十三話 水札
笠森城の門外に立てた札は、朝露で少し湿っていた。
笠森、南谷の井戸を守る。
水と道を乱す者を許さず。
市松が昨夜遅くまでかかって彫った字である。ところどころ線が曲がり、塩の印は米粒にも石にも見えたが、門を通る者には意味が伝わった。
久住宗介は、その札の前に立っていた。
門の外に札を立てる。
たったそれだけのことなのに、胸が落ち着かなかった。
和木原は、笠森を「賊を養う城」と見せようとした。
笠森は、自分たちを「井戸と道を守る城」と示した。
つまり、外へ名乗ったのだ。
今までは、城内で米と水を回すことに必死だった。
けれど、もうそれだけでは済まない。
塩の道。
商人の道。
槙尾との道。
南谷の井戸。
降った者の扱い。
それらが外から見られ始めている。
「字、読めるよな」
市松が不安そうに言った。
「読める」
「ほんまに?」
「読める」
「昨日は、たぶんって言った」
「今日は読める」
市松は少しだけ胸を張った。
その横で、太助が薪を割っている。
もとは甚内の下にいた炭焼きの男だ。
今は見張りつきで、乾いた薪と湿った薪を分けている。おきぬに叱られながらも、手は確かだった。
勘六は水桶を運んでいた。
与七はまだ肩の傷が痛むため、軽い縄束を運んでいる。
降った者たちは、食う口から働く手へ少しずつ変わり始めていた。
もちろん、足軽たちの目はまだ冷たい。
南谷の者もすぐには近づかない。
それでいい。
すぐに許される方が不自然だ。
ただ、見えるところで働く。
出した粥の分、働く。
それを板に残す。
今の笠森にできるのは、そこまでだった。
昼前、塩屋藤七がまた来た。
今度は一人ではなかった。
背負い荷の男を一人連れている。年若い商人で、藤七よりも目が泳いでいた。荷は軽く、足取りも落ち着かない。
門番が名を問うと、藤七は頭を下げた。
「塩屋藤七にございます。こちらは松吉。炭と縄を扱う小商いの者です」
松吉は慌てて頭を下げた。
「松吉にございます」
宇平次が門の内側から見下ろす。
「荷は」
「炭少し、縄少し。塩は……」
藤七はそこで言葉を切った。
宗介はすぐに察した。
塩はある。
ただし、大きく言えない。
宇平次も分かったらしい。
「二人だけ中へ。供はなし。荷は門で改める」
「承知しております」
門が開き、二人が入る。
荷を開けると、炭と縄の底に小さな塩包みが三つあった。
昨日の二包みよりは多い。
だが、城全体を満たすには遠い。
それでも貴重だった。
喜兵衛が塩包みを受け取り、重さを確かめる。
「よく通ったな」
藤七は苦笑した。
「通ったというより、すり抜けました。和木原はまだ、笠森へ塩を入れる荷を止めております」
「見張りは」
「増えています。ですが、炭と縄まで全部止めれば、和木原へも荷が入らなくなる。そこが隙でございます」
松吉が小声で言った。
「ただ、このままでは続きませぬ」
弥四郎が現れた。
若い城主は二人へ水を出させ、飯は出さなかった。
藤七はもう慣れている。
松吉は一瞬だけ粥の匂いへ目を動かしたが、すぐ水椀へ視線を戻した。
「続かぬとは」
弥四郎が問う。
松吉は緊張した声で答えた。
「和木原の役人が、笠森へ入る荷は賊荷と見る、と言い始めております。炭や縄でも、笠森へ向かうと分かれば止められるかもしれませぬ」
「賊荷」
宇平次の声が低くなる。
藤七が頷く。
「それに、商人仲間も怖がっております。笠森へ行けば和木原に睨まれる。だが、笠森の道を使えば水は飲める。槙尾も通れる。どちらへ転ぶか、皆が見ております」
宗介は板の前へ行った。
和木原。
塩止め。
賊荷。
商人。
水場。
槙尾西沢。
古炭道。
線がまた増える。
「笠森の道を通っていい荷と、駄目な荷を分ける必要があります」
宗介は言った。
「商人が勝手に水場を使えば、敵も混じります。全部止めれば、塩も縄も入らない。だから、通していい荷に札を出す」
「札?」
弥四郎が聞く。
「はい。水場を使っていい札です。誰が、いつ、どの道を通り、どの水場で休むかを決める。札のない者は水場を使わせない。札があっても、道を外れれば次は出さない」
喜兵衛が腕を組んだ。
「通り札か」
「通り札に近いですが、水場と結びます。笠森が守るのは水と道ですから」
藤七が目を細めた。
「水札、でございますな」
宗介は頷いた。
「はい。水札」
市松が顔を上げた。
「また札か」
「小さい札です」
「俺が書くんか」
「頼む」
市松は少し嫌そうな顔をしたが、目は光っていた。
弥四郎はすぐに決めた。
「作れ。だが、多く出すな」
「はい」
宗介は続けた。
「札には、今日の印を入れます。毎日変える。和木原に真似されても、翌日は使えないように」
「今日の印は何にする」
市松が聞く。
弥四郎は少し考えた。
「井戸と薪」
「また井戸かよ」
「忘れぬ」
市松は文句を言いながら、小さな板片に井戸と薪の印を刻み始めた。
札は三枚だけ作られた。
一枚は藤七。
一枚は松吉。
一枚は槙尾へ渡す分。
それぞれに、通る道と使える水場を決める。
藤七は槙尾西沢から古炭道。
松吉は南谷外れの水場まで。
槙尾の札は、西沢の見張りへ。
札は小さい。
腰に結べる程度の板片だ。
ただし、返さなければ次は出さない。
使った水の量も、できる範囲で印に残す。
松吉は札を受け取ると、じっと見つめた。
「これがあれば、笠森の水場を使えるのですか」
「決めた場所だけです」
宗介は言った。
「勝手に南谷の井戸へ近づけば、次は使えません」
「分かりました」
「荷を偽るなら」
宇平次が低く言った。
「札ごと取り上げる」
松吉は青い顔で頷いた。
藤七は少し笑った。
「厳しいが、商人にはありがたい。決まりがある道は、無法な道より通りやすい」
宗介はその言葉を覚えた。
決まりがある道。
それは、今の笠森が作ろうとしているものだった。
午後、最初の水札を持った荷が出た。
藤七と松吉。
笠森の足軽一人。
槙尾の若者一人。
それに太助。
太助は炭道を知るため、案内役としてつけた。
足軽たちはまだ彼を信用していない。
だが、昨日塩を通した実績がある。
それが大きかった。
「また炭か」
太助が籠を背負いながらぼやく。
「今日は塩を守る炭です」
宗介が言うと、太助は肩をすくめた。
「炭も出世したな」
「出世?」
「ただ燃やされるだけだったのに、今は塩を隠して道を通る」
宗介は少し笑った。
確かにそうかもしれない。
荷は、使い方で意味が変わる。
炭も、縄も、札も、粥半椀も。
門を出た一行は、南谷外れの水場を通り、古炭道へ向かった。
宗介は今回も城に残る。
外へ出ないことに安堵しつつ、やはり胃は痛かった。
水札が初めて使われる。
通れば、笠森の道に新しい形ができる。
失敗すれば、和木原に笑われ、商人は逃げる。
夕方前、知らせが戻った。
戻ってきたのは槙尾の若者だった。
「南谷外れの水場は無事通過。水札を見せ、決めた桶だけ使いました」
宗介は胸を撫で下ろした。
「その後は」
「古炭道の手前で、和木原の者らしき三人に止められました」
場が硬くなる。
「荷は」
「奪われておりませぬ。藤七殿が水札を見せ、これは槙尾と笠森で定めた水場通行の札であり、荷改めは笠森と槙尾の立ち会いで済んでいる、と」
宇平次が目を細めた。
「商人が言ったのか」
「はい。さらに、槙尾の若者が証人として立ちました。和木原の者は、強くは出られず退きました」
弥四郎は小さく頷いた。
「槙尾の名が効いたか」
「はい。それと、水札が珍しかったのか、相手も迷っておりました」
宗介は息を吐いた。
札が効いた。
ただの木片だ。
だが、決めた道、決めた水場、槙尾の立ち会い、笠森の札。
それが重なって、和木原の者を一歩止めた。
夜に入る前、藤七たちは戻った。
荷は軽くなっていた。
塩の小袋は二つ。
縄が一束。
干物が少し。
そして、別の商人から預かったという小さな包みが一つ。
「これは?」
喜兵衛が問う。
藤七は笑みを薄くした。
「別の商人からでございます。笠森の水札が本当に使えるなら、次は自分も通りたい、と」
包みの中には、粗塩が少し入っていた。
多くはない。
だが、明らかな意思表示だった。
商人たちが、笠森の道を見始めている。
松吉は疲れた顔で水札を返した。
「返します」
宗介は受け取った。
札の端には、水場で使った印が一つ加えられていた。
決めた通りだ。
「また出ますか」
松吉は少し迷い、頷いた。
「水が飲める道なら、出ます」
弥四郎は言った。
「笠森の水場を荒らさぬなら、札は出す」
「ありがとうございます」
松吉は深く頭を下げた。
その夜、塩は少しだけ粥に足された。
ほんの少しだ。
けれど、足軽の一人が椀を啜って言った。
「昨日より味がある」
それだけで、竈の周りに小さな息が流れた。
南谷の子供も、舌を出すようにして粥を舐めた。
降った者たちにも、半椀。
塩はほんのわずか。
だが、太助はそれを飲んで、静かに目を閉じた。
「道を通した味がする」
おきぬが笑った。
「何だい、それは」
「炭を背負った味だ」
「なら、明日も背負いな」
「考えとく」
周囲に小さな笑いが起きた。
宗介は、それを聞きながら板の前へ座った。
水札。
藤七。
松吉。
槙尾立ち会い。
和木原の見張り、退く。
塩小袋。
別商人、次を望む。
市松がそれを書いていく。
「水札、効いたな」
「うん」
「明日はもっと作る?」
「作りすぎない」
「何で」
「多すぎると、誰に出したか分からなくなる。偽物も出る」
「面倒やな」
「札は増えるほど、面倒になります」
市松は嫌そうな顔をした。
「でも、ちょっと格好ええな」
「何が」
「笠森の水札」
宗介は札を手に取った。
小さな木片。
井戸と薪の印。
これだけで、商人が動き、塩が入った。
戦は、やはり見えにくい。
槍を合わせずとも、道は争われる。
水場は争われる。
塩は止められ、札は道を開く。
深夜、槙尾から安西新蔵の使いが来た。
短い書付だった。
水札の件、槙尾左馬助も認める。
西沢の水場について、笠森と共に取り決めたい。
その一文を見た弥四郎は、静かに頷いた。
「槙尾が乗った」
宇平次が言った。
「和木原への押さえになりますな」
「それだけではない」
弥四郎は宗介を見た。
「水札は、笠森だけの札ではなくなる。槙尾と笠森で水場を守る札になる」
宗介は胸の奥が熱くなった。
小さな木片が、城と城をつなぎ始めている。
ただし、それは同時に責任でもある。
札を出すなら、水場を守らなければならない。
道を示すなら、道を荒らさせてはいけない。
塩を入れるなら、帳を乱せない。
「忙しくなります」
宗介は言った。
弥四郎は少し笑った。
「兵糧方が暇な城は、腹が弱い」
「それは、困りますね」
「困る」
弥四郎は札を見た。
「明日、槙尾と水場を改める。和木原が止めた道ではなく、こちらが通す道を作る」
宗介は頷いた。
和木原の塩止めは、笠森を締めに来た。
だが、その締め付けが、笠森と槙尾の水場を結び、商人の目を変え始めている。
まだ小さい。
塩包み三つと、水札三枚。
それだけだ。
だが、笠森城はまた一つ、外へ腹を伸ばした。
第三十三話─了




