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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第32話 塩を止める手

 和木原の使者が帰った翌日、笠森城から塩の匂いが薄くなった。


 実際には、塩そのものが消えたわけではない。


 蔵の奥には、まだ小さな塩包みがいくつか残っている。甚内から回収した粗い塩も、板に印をつけて別に置いてある。


 だが、喜兵衛の顔は朝から険しかった。


「減り方が悪い」


 蔵の土間で、喜兵衛は小さな塩包みを並べていた。


 久住宗介は、その前に膝をつく。


「どれくらい持ちますか」


「今の薄い粥に使う分だけなら、しばらく持つ。だが、怪我人、腹を壊した者、降った者、南谷の者まで見るとなると余裕はない」


「味を濃くするためではなく、身体をもたせるための塩ですね」


「そうだ」


 喜兵衛は短く答えた。


「塩を削りすぎると、人は鈍る。汗をかく者は特にな」


 宗介は頷いた。


 現代の知識として、塩分が大事だということは分かる。


 だが、ここでは知識より先に現場がそれを知っている。


 汗をかく足軽。


 水を運ぶ南谷の若者。


 薪を割る者。


 腹を壊した降り人。


 塩は味ではない。


 動くためのものだ。


「塩屋藤七は、今日来る予定でしたか」


「そのはずだ」


 喜兵衛は蔵の外へ目を向けた。


「だが、まだ来ぬ」


 その言葉が、宗介の腹に重く落ちた。


 塩屋藤七。


 川向こうや灰原筋を通る商人。


 笠森に道と水を求め、代わりに荷の流れを知らせる約束をした男。


 彼が来ない。


 和木原の使者が来た翌日に。


 偶然とは思いにくかった。


 昼前、門の見張りが声を上げた。


「南谷より人!」


 来たのは藤七ではなかった。


 南谷の若者、半助である。腕はまだ完全ではないが、伝え役として動いている。


 息を切らし、門を入るなり膝をついた。


「塩屋藤七が、渡しの手前で止められております」


 片瀬弥四郎がすぐに顔を上げた。


「誰に」


「和木原の者です。笠森へ荷を入れるな、と」


 城庭がざわついた。


 宇平次の目が鋭くなる。


「人数は」


「五、六人。槍は二本。荷は奪われてはおりませぬが、通せぬと」


 弥四郎はすぐに宇平次を見る。


「行く」


「はっ」


「ただし、戦をしに行くのではない」


 弥四郎はそう言って、宗介へ視線を向けた。


「宗介」


「はい」


「塩の荷を通すには、何が要る」


 宗介は一瞬戸惑った。


 塩の荷。


 和木原の者。


 渡し。


 こちらが槍を持って行けば、小競り合いになる。


 だが行かなければ、笠森の塩の道が止まる。


 商人は危ない道を避ける。


 一度、笠森へ行くと止められると広まれば、塩だけでなく、味噌も布も情報も来なくなる。


「証人が要ります」


 宗介は言った。


「笠森だけで押すと、和木原は笠森が無理に通したと言います。槙尾の人にも見てもらう。南谷の庄屋か善助さんにも。あと、藤七本人に、どこで誰に何と言われたか言わせる」


「戦ではなく、通行の場にするわけだな」


「はい。それと、水を用意します」


 宇平次が眉を寄せた。


「また水か」


「商人は止められて喉が渇いているはずです。こちらが水を出せば、道を守る側として見せられます。和木原が止める側。笠森が通す側。そう見せる」


 弥四郎は頷いた。


「よし。水桶一つ。飯は出さぬ。塩の荷は開けさせぬ。だが、封は確認する」


「通り札を作ります」


 宗介は言った。


「通り札?」


「笠森と南谷が認めた荷だと分かる小さな木札です。塩屋藤七の荷に一つつける。今日は仮で構いません。和木原がそれを無視して止めたなら、笠森と南谷の通行を邪魔したことになります」


 喜兵衛が低く唸る。


「荷札か」


「はい。ただし、米の札とは別です。商人の通り札」


 弥四郎は即断した。


「作れ。市松」


「へい!」


 市松が飛んでくる。


「木札に、笠森と南谷の印を入れる。字は少なくていい。井戸と道の印、それから片瀬の印」


「片瀬の印って、俺が描くんか?」


「弥四郎様に確認してもらう」


「緊張するやんけ」


「急いで」


「へいへい!」


 市松は板切れを持って走った。


 宗介はその背中を見ながら、息を整える。


 話が速い。


 だが、今は速さがいる。


 塩の道を止められた。


 それは、戦を仕掛けられたのと同じくらい重い。


 ただし、槍ではなく荷で仕掛けられている。


 なら、こちらも荷で返す。


 半刻も経たぬうちに、一行は門を出た。


 弥四郎は城に残る。


 向かったのは宇平次、宗介、善助、南谷の若者二人、足軽四人。さらに、槙尾へ知らせに走った者が戻り次第、安西新蔵かその配下が渡しで合流する手筈になった。


 荷は少ない。


 水桶一つ。


 小さな通り札。


 それと、源蔵から出た紙片の写し。


 原本は城に残した。


 宗介は、写しを持つ手が汗ばむのを感じていた。


 和木原の者へ見せすぎてもいけない。


 見せなさすぎても押される。


 情報も塩と同じだ。


 出す量を間違えると、こちらの腹を壊す。


 渡しに近づくと、声が聞こえた。


「笠森へは通せぬと言っている!」


 和木原側の男の声だった。


 藤七の声も返る。


「私は商いの者でございます。塩を運ぶだけで、どちらの兵でもございませぬ」


「笠森は賊を抱えた。灰原の者を勝手に捕らえ、和木原に渡さぬ。そんな城へ荷を通せば、和木原への敵対だ」


 宗介は奥歯を噛んだ。


 早い。


 もうそういう言い方に変えてきた。


 笠森が甚内を捕らえたから悪い。


 和木原へ渡さないから悪い。


 そこへ荷を通す者は敵だ。


 そう見せたいのだ。


 宇平次が前へ出た。


「誰の命で止めている」


 和木原の男たちがこちらを見た。


 槍を持つ二人。


 後ろに小者らしき者が三人。


 藤七は荷を背負ったまま、道の脇に立たされていた。供の若者も一人いる。


 藤七は宗介を見ると、ほんの少しだけ目を細めた。


 安心したのか、さらに面倒なことになったと思ったのかは分からない。


「和木原主膳様の道である」


 槍持ちの男が言った。


 宇平次が冷たく返す。


「ここは南谷の渡しだ。笠森が守っている」


「川向こうは和木原の筋だ」


「なら、こちら側は笠森の筋だ」


 空気が硬くなる。


 宗介は慌てて前へ出そうになり、足を止めた。


 自分が前に出すぎれば邪魔になる。


 だが、ここで槍のやり取りになれば駄目だ。


「藤七殿」


 宗介は声をかけた。


「荷は塩ですか」


「はい。塩と、少しの干物。笠森へ入れる約束の分にございます」


「封は」


「開けておりません。和木原の方にも、開けさせておりませぬ」


 宗介は頷いた。


「善助さん」


「はい」


「南谷の渡しで、藤七殿が通ることは以前からありましたか」


「あります。塩、味噌、干物を持ってまいりました」


「南谷の者は、この荷を通すことに異存は」


「ありませぬ。むしろ塩が止まれば困ります」


 宗介は和木原の男たちへ向いた。


「笠森と南谷は、この荷を通します」


 槍持ちの男が鼻で笑う。


「兵糧方が決めることか」


「いいえ」


 宗介は首を振った。


「片瀬弥四郎様の命です。こちらに通り札があります」


 木札を出す。


 市松の字は少し歪んでいる。


 だが、片瀬の印と南谷の井戸印、道の印がついている。


 善助がそれを見て頷いた。


「南谷も認めます」


 そこへ、槙尾の声がした。


「槙尾も見届けましょう」


 安西新蔵だった。


 息は少し上がっているが、いつもの笑みを浮かべている。


 供を二人連れていた。


 和木原の男たちの顔色が変わった。


 笠森だけではない。


 南谷だけでもない。


 槙尾が見ている。


 新蔵は穏やかに言った。


「商人の塩を止めるとは、穏やかではございませんな。どなたの命と申されましたか」


 槍持ちの男は口を引き結んだ。


「和木原主膳様の道だ」


「和木原殿の道なら、南谷の井戸も渡しも荷車も、すべて和木原殿のものになるので?」


 新蔵の声は柔らかい。


 だが、刃があった。


 男は答えられない。


 宇平次が写しを出した。


「源蔵より出た紙の写しだ。南谷の井戸、渡し、荷車を和木原へ回せとある。そちらは、これも和木原の道だと言うか」


 男の目が揺れた。


 見た。


 知っているかどうかは分からない。


 だが、紙の存在は痛い。


「偽物だ」


 男は言った。


 宇平次は頷いた。


「そう申すなら、槙尾、南谷、笠森で改めて確かめる。塩屋藤七を止めたことも、合わせて記す」


 宗介はすぐに小者へ合図した。


 小者が板へ印をつける。


 和木原、渡しで塩を止める。


 藤七。


 笠森、南谷、槙尾、見届け。


 水を出す。


 通り札。


 和木原の男たちの表情が、さらに険しくなった。


 記される。


 それを嫌がっている。


 記録は、米だけでなく、政治にも効くのだと宗介は感じた。


「水を」


 宗介は言った。


 南谷の若者が藤七へ水を差し出す。


 藤七は礼を言い、少しずつ飲んだ。


 次に供の若者へ。


 和木原の男たちには出さない。


 宇平次が低く問う。


「和木原の方々も飲まれるか。ただし、笠森と南谷の渡しの水として出す」


 男たちは返事をしなかった。


 飲めば、この場の水を笠森と南谷が出していることを認めるようなものになる。


 飲まなければ、喉が渇く。


 小さなことだ。


 だが、こういう小さなことが積み上がる。


 やがて、和木原の槍持ちは舌打ちし、道を空けた。


「通ればよい。だが、和木原は認めておらぬ」


 新蔵が微笑む。


「通した事実は、ここにいる者が見ました」


 宇平次は藤七へ頷いた。


「通れ」


 藤七は深く頭を下げた。


 宗介は通り札を藤七の荷へ結んだ。


「この札は、笠森へ入るまで外さないでください。城で外して、板に残します」


「承知しました」


 藤七は小声で続けた。


「兵糧方殿」


「はい」


「塩は止められましたが、話も拾いました」


 宗介の目が変わる。


「何を」


「和木原は、南の大きな家の顔色を見ております。今、尾張の方では、織田の家中が騒がしいと商人筋で聞きます。小領主たちは、どちらへ荷を流すか迷っております」


 織田。


 その名が、初めてこの場で重く響いた。


 宗介の胸が冷えた。


 尾張。


 織田。


 遠い大勢力の影が、荷の道を通じて近づいてくる。


「詳しくは、城で」


 藤七はそれだけ言い、歩き出した。


 和木原の男たちは睨んでいたが、止めなかった。


 笠森、南谷、槙尾が見ている中で、これ以上押せば、ただの通行妨害では済まない。


 塩の荷は、渡しを越えた。


 笠森側の道へ入った。


 宗介はその背中を見て、ようやく息を吐いた。


 戦わずに通した。


 槍を交えずに、塩の道を守った。


 だが、これで終わりではない。


 和木原は引き下がっただけだ。


 そして、藤七は織田の名を出した。


 城へ戻ると、弥四郎はすぐ報告を聞いた。


 藤七の荷から通り札を外し、板に残す。


 塩は喜兵衛が確認する。


 封は破られていない。


 干物も少しある。


 城の者たちの顔に、わずかな安堵が広がった。


 塩が入った。


 それだけで、明日の粥の味と、働く者の身体が少し違う。


 藤七は水をもう一杯だけ受け取り、弥四郎の前に座った。


「尾張の方で、織田家中が騒がしいと申したな」


 弥四郎が問う。


「はい。商人筋の話でございます。津島や熱田の荷の流れに、少し乱れが出ております。どの織田へ荷を通すか、どの道が安全か、商人たちが探っております」


 宇平次が眉を寄せる。


「織田の話が、なぜ笠森へ来る」


 藤七は慎重に言葉を選んだ。


「この辺りは、尾張、美濃、三河の狭間。大きな家が揺れると、小さな道ほど先に揺れます。和木原主膳殿も、それを見ているのでしょう。今のうちに渡しや人足を押さえ、どちらへでも荷を流せるようにしたい」


 宗介は板を見た。


 和木原。


 渡し。


 塩。


 織田。


 大きな名が、小さな塩の荷に繋がる。


 弥四郎は低く言った。


「つまり、和木原はこの辺りの荷の首を押さえたい」


「はい」


 藤七は頷いた。


「笠森が南谷の井戸と渡しを守ったことは、商人には大きい。水があり、通り札があり、槙尾も見届けた。これは噂になります」


 新蔵が横で笑った。


「笠森を侮れぬ、と」


「商人の言い方では、笠森は水を出すが飯は出さぬ、でしょうな」


 藤七の言葉に、城庭に小さな笑いが起きた。


 弥四郎も少しだけ口元を動かした。


「それでよい。飯を簡単に出す城と思われるよりましだ」


 宗介は深く頷いた。


 水は出す。


 飯は簡単に出さない。


 通る道は示す。


 勝手な通行は許さない。


 それが笠森の姿として外へ伝わる。


 小さいが、筋がある城。


 そう見られるなら、悪くない。


 その日の夕方、塩が蔵に入った。


 喜兵衛が板に記す。


 藤七の塩。


 封無事。


 和木原に止められる。


 笠森、南谷、槙尾で通す。


 通り札、初使用。


 市松はその下に、得意げに札の絵を描いた。


「これ、俺の札やで」


「笠森の札です」


 宗介が言うと、市松は少しむっとした。


「描いたんは俺や」


「それはそう」


「じゃあ、ちょっと俺の札でもある」


「少しだけ」


 市松は満足げに頷いた。


 夜、粥にはほんの少しだけ塩が入った。


 濃くはない。


 だが、舌に残る。


 足軽たちは黙って啜り、南谷の者たちもほっとした顔をした。


 降った者たちにも半椀。


 甚内にも、話した分として半椀。


 源蔵は水だけ。


 全て板に残される。


 宗介は椀を手に、門の外を見た。


 和木原は、塩を止めた。


 笠森は、塩を通した。


 その一つの荷が、槙尾と南谷と商人を巻き込み、さらに尾張の織田という名まで運んできた。


 戦国の大きな流れは、旗や槍だけで来るのではない。


 塩の袋。


 水桶。


 通り札。


 商人の噂。


 そういう小さな荷の中に紛れて、城の門までやって来る。


 宗介は粥を啜った。


 塩気があった。


 それは、この小城が一日、道を守った味だった。


第32話─了

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