第31話 和木原の使者
灰原甚内を捕らえた翌朝、笠森城の庭には、いつもとは違う緊張があった。
敵が夜に来る緊張ではない。
火矢や縄切りを警戒する緊張でもない。
もっと静かで、腹の底に重いものが沈むような緊張だった。
和木原主膳。
その名が板に書かれてから、城の空気は変わった。
灰原甚内は、確かに厄介な男だった。
米の道を見、水を見、薪を見、名まで使って人を動かした。だが甚内は、あくまで現場で動く男だった。
その甚内へ塩と味噌を流し、南谷の井戸や渡しや荷車を狙わせた者がいる。
それが和木原主膳。
川向こうの小領主。
笠森より少し大きいが、大勢力から見れば同じく小さな家。
だが、小さい家ほど、隣の米と水には敏い。
久住宗介は、城庭の板を見つめていた。
和木原。
南谷。
渡し。
荷車。
井戸。
主膳。
市松が描いた和木原の印は、妙に角張った館の絵だった。
「これ、館に見えるか?」
市松が尋ねる。
「見える」
「ほんまか?」
「たぶん」
「またたぶんかよ」
市松は口を尖らせた。
だが、すぐ真顔に戻った。
「和木原って、来るんかな」
「来ると思う」
宗介は答えた。
「甚内を捕らえた。源蔵の紙もある。南谷は笠森についた。黙っていると、自分が裏で動かしたと認めるようなものだから」
「じゃあ、戦か?」
「すぐ戦とは限らない」
そう言いながら、宗介の腹は重くなった。
戦でない方が楽とは限らない。
使者が来る。
言い訳をする。
甚内を渡せと言う。
源蔵を返せと言う。
南谷の米は和木原側のものだったと言うかもしれない。
そんな言葉の戦が始まる。
そして宗介は、言葉の戦が嫌いだった。
米俵なら湿っているかどうか分かる。
水なら濁っているかどうか見える。
薪なら乾いているか触れば分かる。
だが、言葉は違う。
本物と嘘が混ざる。
その怖さは、偽の呼び声で嫌というほど知った。
「宗介」
喜兵衛が呼んだ。
「蔵へ来い。甚内から取った小分け米と塩を分ける」
「はい」
蔵へ行くと、甚内の飯場から回収した小さな米袋と塩包みが置かれていた。
量は多くない。
米袋は五つ。
塩は二包み。
それでも、笠森にとっては貴重だった。
「これは戦利と言えるのですか」
宗介が聞くと、喜兵衛は渋い顔をした。
「言える。だが、扱いを間違えると揉める」
「南谷の米かもしれない」
「そうだ」
喜兵衛は米袋を開け、指で米を触った。
「粒を見る限り、南谷から失った米と似ている。すべてではないが、一部はそう見てよい」
「なら、南谷の預かり米へ戻しますか」
「すぐには戻さん」
喜兵衛は言った。
「まず板に残す。甚内より回収。南谷米の疑いあり。城の飯へ使うか、南谷へ戻すか、若の判断を受ける」
「分かりました」
宗介は頷いた。
勝手に混ぜない。
勝手に使わない。
勝手に戻さない。
面倒だが、ここを曖昧にすると、また不信になる。
蔵から出ると、城門の上から声が飛んだ。
「西より使者!」
宇平次がすぐに門へ向かった。
宗介も胸を押さえながら後を追う。
片瀬弥四郎は、すでに門の内側へ出ていた。
若い城主の顔は疲れている。
だが、目は澄んでいた。
「旗は」
弥四郎が問う。
門上の見張りが答える。
「和木原のものと思われます。供は四。使者二」
城内がざわついた。
早い。
思ったより早い。
和木原主膳は、甚内捕縛の知らせを聞いて、すぐ動いたのだろう。
弥四郎は短く命じた。
「門は大きく開けるな。使者二人のみ。供は外。武器は預かれ。水は出す。飯は出さぬ」
宗介は頷いた。
この手順はもう城に染みている。
客にも腹がある。
だが、食わせ方でこちらの腹も見られる。
水は出す。
飯は出さない。
粥の匂いは竈の奥へ逃がし、門からは見えにくくする。
市松が板を持って走る。
「和木原使者、水のみ。飯なし。武器預かり」
「それで」
宗介は言った。
市松は頷き、手早く印をつけた。
門がわずかに開く。
入ってきたのは、年配の男と若い書き役だった。
年配の男は小綺麗な衣を着ているが、足元には泥がついている。急いで来たのだろう。
顔には笑みがある。
だが、目は笑っていない。
「和木原主膳が家中、奥田弥五郎にございます」
男は丁寧に頭を下げた。
「笠森の若殿へ、主より申し入れがございます」
弥四郎は座らなかった。
立ったまま、相手を見る。
「片瀬弥四郎である。申せ」
奥田弥五郎は一度、城庭を見た。
竈。
水桶。
薪の置き場。
板。
捕らえられている甚内と源蔵の方へも、目が動いた。
それを宗介は見逃さなかった。
この男も、見る。
城の腹を見ている。
「まずは、此度の騒ぎについて」
奥田は柔らかい声で言った。
「灰原辺りに集まった流れ者が、笠森様や南谷にご迷惑をおかけしたと聞き及びました。和木原としても、心を痛めております」
心を痛めている。
宗介は、思わず胸の中で繰り返した。
便利な言葉だ。
水も米も返さずに済む言葉。
弥四郎は表情を変えなかった。
「そうか」
短い返事だった。
奥田は少しだけ目を細める。
「つきましては、灰原甚内と源蔵を、和木原へお引き渡しいただきたい。主膳様の方で厳しく取り調べ、処分いたします」
宇平次の眉が動いた。
南谷の庄屋も息を呑む。
やはり来た。
甚内と源蔵を引き渡せ。
そうすれば、源蔵の持っていた紙も、甚内の口も、和木原の中で消える。
弥四郎は静かに問うた。
「なぜ、和木原へ渡す」
「灰原筋は、和木原に近い場所にございます。流れ者の始末は、こちらでも責任を持たねばなりませぬ」
「責任を持つのが早いな」
弥四郎の声が少し冷えた。
「南谷の井戸を狙われた時は、責任を持たなかった。渡しを抜かれかけた時も、荷車を狙われた時も、名を盗まれた時も、和木原から人は来なかった」
奥田は笑みを保った。
「それは、こちらも把握が遅れまして」
「なら、把握が遅れた家に、甚内を渡す理由はない」
場が静まった。
若い城主の言葉は、鋭かった。
奥田の笑みが少し固まる。
「若殿。あまり事を荒立てては、周辺の小領にも波が立ちます」
「すでに波は立っている」
弥四郎は言った。
「南谷の家は荒らされた。井戸の縄は切られかけた。人足を取られかけた。笠森の荷車も狙われた。これは波ではない。泥水だ」
宗介は、弥四郎の横顔を見た。
強い。
だが、感情だけではない。
事実を並べている。
井戸。
縄。
人足。
荷車。
それらが板に残っているから、言葉がぶれない。
奥田は、今度は少し視線を変えた。
「では、証があると?」
弥四郎は喜兵衛へ合図した。
喜兵衛が、源蔵から出た紙片を布に包んだまま持ってくる。
弥四郎はそれを開かず、奥田へ見せた。
「源蔵が持っていた。南谷の井戸、渡し、荷車について書かれている。和木原へ回せ、と」
奥田の目が一瞬だけ揺れた。
本当に一瞬だった。
だが、宗介には分かった。
知っている。
少なくとも、この紙が何かを想像できている。
「偽物かもしれませぬ」
奥田は言った。
「そうかもしれぬ」
弥四郎は認めた。
「だから、槙尾左馬助殿にも見てもらう。南谷の庄屋にも。必要なら、近隣の小領にも知らせる」
奥田の顔から笑みが消えた。
これは効いた。
笠森一城だけなら押せる。
だが槙尾と南谷、さらに周辺に知られるとなると、和木原は動きにくい。
宇平次が一歩前へ出た。
「甚内は、笠森が預かる。源蔵もだ。和木原へは渡さぬ」
奥田は宇平次を見た。
それから、宗介へ視線を向けた。
「そちらの方が、兵糧方殿ですかな」
宗介の背中が固まる。
いきなり来た。
「はい」
「灰原甚内を粥半椀で崩したとか」
周囲の足軽がざわついた。
和木原にも、もうそれが伝わっている。
奥田は柔らかく笑う。
「見事なものです。笠森には、よい知恵者がおられる」
宗介は返答に困った。
褒め言葉ではない。
値踏みだ。
この男は、宗介がどこまで口を滑らせるか見ている。
「俺は、米と水を見ているだけです」
宗介は答えた。
「それが難しい」
奥田は言った。
「米と水を見る者は、どこの家でも重宝されます」
宇平次の目が鋭くなる。
弥四郎は宗介の前へ半歩出た。
「宗介は笠森の兵糧方だ」
その一言で、奥田の視線が止まった。
門前で甚内にも言った言葉。
弥四郎は、同じように言った。
宗介は胸の奥が熱くなった。
「これは失礼」
奥田は頭を下げた。
だが、その目は笑っていなかった。
和木原は、甚内だけではなく、宗介にも目をつけた。
そう感じた。
弥四郎は話を切った。
「和木原主膳殿へ伝えよ。甚内と源蔵は笠森が預かる。紙片は槙尾にも示す。南谷の井戸と渡しに手を出せば、次は賊では済まぬ。和木原の名で受ける」
奥田は深く頭を下げた。
「承りました」
「水を飲んで帰れ」
「飯は」
奥田が軽く言った。
冗談のようで、探りだった。
弥四郎は答えた。
「出さぬ」
奥田は少しだけ笑った。
「堅い城でございますな」
「米が少ないのでな」
弥四郎は平然と返した。
宗介は少し驚いた。
米が少ない。
それは弱みのように聞こえる。
だが、弥四郎の口から出ると違う。
だから無駄に出さない。
だから見せ飯に乗らない。
そういう強さになる。
奥田は水を少し飲み、門から出て行った。
門が閉まると、城庭に大きな息が戻った。
足軽たちも、南谷の者も、今のやり取りを見ていた。
和木原に対して、笠森が引かなかった。
それは、ただの言葉ではない。
南谷の者にとっては、自分たちの井戸と米と人足を和木原へ渡さないという約束だった。
庄屋が弥四郎へ深く頭を下げた。
「若様。南谷は、改めて笠森の下で働きます」
「働け」
弥四郎は短く言った。
「守られるだけでは、次にまた狙われる。水場、道、薪、名。南谷の者が知るものを、笠森へ出せ」
「はい」
善助も頷いた。
「南谷の水と道、すべて洗い直します」
宗介はその言葉に、ほっとした。
また仕事は増える。
だが、これは停滞ではない。
南谷が笠森側へはっきり寄った結果の作業だ。
状況が動いた証拠だった。
昼過ぎ、槙尾の安西新蔵が来た。
和木原の使者が来たことを聞くと、彼は苦笑した。
「早い。つまり、痛いところを押さえたということです」
弥四郎は紙片を見せた。
新蔵は目を通し、顔を引き締めた。
「これは、槙尾でも写しを取りたい」
「写せ」
「よろしいので」
「和木原が知られたくないものなら、知らせた方がよい」
新蔵は深く頭を下げた。
「槙尾左馬助も、笠森を見る目を変えましょう」
宇平次が問う。
「よい方へか」
「少なくとも、ただの小城とは見ますまい」
新蔵は宗介へ視線を向けた。
「兵糧方殿の名も、少し広がるかもしれませぬな」
宗介は嫌な汗をかいた。
「広げないでください」
「それは難しい」
新蔵は笑った。
「半椀の粥で甚内を崩した男。噂にしやすい」
「困ります」
本当に困る。
目立てば、狙われる。
和木原もすでに見ている。
もっと大きな家の耳に入れば、どうなるか分からない。
弥四郎が言った。
「噂にするなら、笠森が南谷の井戸を守った、と言え。宗介一人の話にするな」
新蔵は頷いた。
「承知しました」
宗介は弥四郎を見た。
また守られた。
この若い城主は、宗介を道具として前へ出すのではなく、笠森の仕組みの一部として包もうとしている。
ありがたい。
同時に、責任が重かった。
夕方、甚内が再び呼ばれた。
和木原の使者が来たことを伝えると、甚内は薄く笑った。
「奥田弥五郎でしたか」
「知っているのか」
宇平次が問う。
「荷の値を叩く男です。人を安く見ます」
「お前が言うか」
宇平次の声には棘があった。
甚内は否定しなかった。
「俺は人を荷として見た。だが、荷には重さがある。奥田は、その重さを見ない」
宗介は少しだけ引っかかった。
甚内の言い方には、自分なりの線があるようだった。
許せるものではない。
だが、理解はできる。
それがまた嫌だった。
弥四郎は甚内へ言った。
「お前から、和木原の道を聞く。話した分だけ粥を出す」
「また半椀ですか」
「半椀だ」
「若殿は、徹底しておられる」
甚内は笑った。
そして、和木原の裏道を話し始めた。
川向こうの細い渡し。
炭を運ぶ道。
塩屋藤七が避けている危ない沢。
主膳の館へ荷を入れる裏門。
どの道も、小さく、泥臭く、だが重要だった。
宗介は聞きながら板へ印をつけた。
道が増える。
敵が増える。
守るものが増える。
だが同時に、笠森の見える世界も広がっていく。
夜、竈の前で市松が言った。
「三十話で甚内捕まえて、次は和木原か」
宗介は反射的に顔を上げた。
「三十?」
市松は首をかしげた。
「いや、米袋の数。甚内から取った小袋、今日で三十くらいに見えた」
「そういうことか」
宗介は胸を撫で下ろした。
変なところで心臓に悪い。
市松は不思議そうにしている。
「何やと思ったんだよ」
「何でもない」
「変な奴」
宗介は苦笑した。
竈の火が揺れる。
今夜の粥には、甚内から回収した塩がほんの少し入っていた。
味は薄い。
だが、昨日よりは舌に残る。
足軽も、南谷の者も、降った者も、同じ鍋からそれぞれ決められた分を受け取った。
全員が満腹にはならない。
だが、全員が明日動ける程度には腹へ入れる。
それが笠森の今の限界であり、強さでもあった。
宗介は門の方を見た。
和木原主膳は、これで引かないだろう。
槙尾も動く。
南谷は笠森へ寄った。
甚内は捕らえたが、その頭の中の道はまだ使える。
小さな兵糧の戦は、隣の小領主たちを巻き込み始めている。
宗介は椀を持つ手に力を込めた。
刀は振れない。
だが、明日も米と水と道を見る。
笠森城が腹を壊さないために。
第31話─了




