第30話 腹を折った男
灰原甚内は、城庭の隅に座らされていた。
手は縛られている。
隣では、源蔵が別の場所に押さえられていた。あちらは荒い。縄を噛み切らんばかりに暴れ、見張りの足軽へ何度も唾を吐いた。
甚内は違った。
逃げようとしない。
暴れもしない。
ただ、笠森城の庭を見ていた。
竈。
水桶。
薪の置き場。
門の位置。
南谷の者と足軽の配置。
板。
その目は、捕らわれた者の目ではなく、まだ荷の流れを読む目だった。
久住宗介は、その視線が嫌だった。
こちらの腹の中まで見られているような気がする。
「水を」
片瀬弥四郎が命じた。
甚内の前に、小椀で水が置かれる。
粥はない。
甚内は椀を見て、少し笑った。
「話の前に水。粥は話の後。よく締めておられる」
「黙って飲め」
宇平次が低く言った。
甚内は肩をすくめ、水を少しずつ飲んだ。
一気には飲まない。
渇いているはずなのに、飲み方を知っている。
それだけで、宗介はこの男がただの野盗ではないと改めて思った。
弥四郎は甚内の前に立った。
「灰原甚内。お前を今すぐ斬れと言う者は多い」
周囲の足軽たちが静かに頷いた。
南谷の者の目にも怒りがある。
井戸の縄を狙われた。
家を荒らされた。
名を盗まれた。
人足を取られかけた。
恨む理由はいくらでもある。
「だが、斬る前に聞く」
弥四郎の声は冷えていた。
「誰がお前を動かした」
甚内は黙った。
宇平次の手が刀へ伸びる。
弥四郎は動かない。
甚内は少しだけ口元を歪めた。
「若殿は、俺が勝手に灰原の者を集めたと思っておられますか」
「勝手に集めただけなら、塩と味噌の回りがよすぎる」
弥四郎は即座に返した。
「水場も、南谷の家の名も、笠森の荷車も見すぎている。お前一人の腹ではない」
甚内の目がわずかに細くなった。
若い城主を測り直したようだった。
「和木原主膳」
その名が出た瞬間、南谷の庄屋が息を呑んだ。
善助も顔を上げる。
宇平次が低く言った。
「川向こうの和木原か」
「ええ」
甚内は答えた。
「小さいが、渡しと炭道を押さえたがる男です。南谷の米と人足、笠森の荷車、槙尾へ抜ける道。あれを掴めば、この辺りの荷は一度、和木原を通らざるを得なくなる」
「主膳が、米を出したのか」
「少しは。塩も。味噌は商人筋から流した。だが、十分ではない。こちらが南谷の米を取る前提で動かされた」
喜兵衛が吐き捨てるように言った。
「他人の米を当てにした兵糧か」
「よくある話です」
甚内は悪びれず答えた。
「奪えば増える。取れねば飢える。俺の下にいた者は、そのどちらかしかなかった」
「だから人の井戸を切るか」
善助の声が震えていた。
「だから子の草履まで使うか」
甚内は善助を見た。
その目には、悔いらしいものはなかった。
「名は荷になる。草履も荷になる。人を動かせるなら、使う」
善助が拳を握る。
宇平次が一歩出かけたが、弥四郎が手で止めた。
「源蔵は」
弥四郎が問う。
「あれは俺の腹ではない」
甚内は源蔵の方を見た。
「和木原から付けられた目付です。下の者を逃がすな、荷を戻せ、米を取れ。そううるさかった」
源蔵が叫んだ。
「黙れ! お前こそ、最後に下を売っただろうが!」
甚内は振り向きもしなかった。
「俺は荷を見た。お前は荷を壊した。だから負けた」
源蔵が暴れ、見張りに押さえ込まれる。
その姿を見て、降った者たちの何人かが目を逸らした。
彼らは知っている。
逃げようとした者を射たのは源蔵だ。
塩を上だけに回したのも、源蔵が関わっていた。
弥四郎は甚内へ向き直った。
「和木原主膳は、今どこにいる」
「館におるでしょう。自分では動かぬ。俺が勝てば、南谷の米と人足を受ける。俺が負ければ、賊の仕業で片づける」
「証は」
「源蔵が持っている」
宇平次が源蔵を調べさせた。
腰の内側から、小さく折った紙片が出てきた。
宗介には読めない。
だが、喜兵衛が弥四郎へ渡し、弥四郎が目を通すと表情が硬くなった。
「南谷の井戸、渡し、荷車。取れたものから和木原へ回せ、とある」
庄屋が怒りで震えた。
「我らは、村ごと荷にされたのですか」
「そうだ」
弥四郎は短く答えた。
ごまかさなかった。
庄屋は唇を噛み、深く頭を下げた。
「若様。南谷は、笠森に従います。水と米を守っていただいた恩、忘れませぬ」
その言葉は、城庭に重く落ちた。
ただ守られたからではない。
井戸を守り、名を守り、人足を守った。
その積み重ねが、南谷を笠森側へ寄せた。
宗介は胸の奥で息を吐いた。
小さな変化だ。
けれど、この小城にとっては大きい。
弥四郎はすぐに命じた。
「市松。書け」
「へい」
市松が板を抱えて走る。
「灰原甚内、和木原主膳の名を出す。源蔵は和木原の目付。証の紙あり。南谷の井戸、渡し、荷車を狙う。南谷、笠森に従う」
市松の炭が板を走る。
甚内。
源蔵。
和木原。
井戸。
渡し。
荷車。
南谷。
線が増えていく。
笠森城の周りの世界が、また少し広がった。
弥四郎は甚内を見た。
「お前の処遇は後で決める」
「斬らぬのですか」
「今は斬らぬ」
弥四郎は言った。
「お前の頭には、道が残っている。和木原の道、商人の道、灰原の逃げ道。話すうちは生かす」
甚内は薄く笑った。
「粥は」
「話した分だけ、半椀」
「厳しい」
「お前から学んだ」
甚内の笑みが一瞬だけ消えた。
それから、小さく息を吐いた。
「よい若殿だ」
弥四郎は答えなかった。
甚内には半椀の粥が出された。
源蔵には出されなかった。
水だけである。
源蔵は怒鳴ったが、誰も取り合わない。
降った者たちは、源蔵を見ようともしなかった。
この差を、宗介は少し怖いと思った。
粥半椀。
水一椀。
それだけで、人の立場が変わる。
それでも、源蔵へ粥を出すわけにはいかない。
下の者を矢で射ち、城を割ろうとし、和木原の目付として動いた男だ。
同じ扱いにはできない。
喜兵衛が低く言った。
「宗介。降った者の役を決めろ。食わせるだけにはできぬ」
「はい」
宗介は頷いた。
降った者たちを一か所に固めない。
武器は持たせない。
南谷の女衆や子供の近くには置かない。
まずは水運び、薪割り、溝さらい、壊れた柵の外側ではなく内側の修繕。
勘六と与七は、他の降り人の通訳役。
太助と弥助は薪場。
腹を壊した二人は、動けるまで隔離し、湯だけ。
全て板に残す。
「敵だった者に働かせるのか」
足軽の一人が言った。
「はい」
宗介は答えた。
「食わせるだけなら不満が出ます。働かせすぎれば倒れます。なので、できる分だけ」
「甘いな」
「甘いかもしれません」
宗介は足軽を見た。
「でも、働ける者を寝かせておくほど米はありません」
足軽は少しだけ笑った。
「そこは甘くねえな」
「余裕がないので」
降った者たちは、不満そうにしながらも作業へ回された。
水桶を運ぶ者。
薪を割る者。
泥で埋まりかけた排水溝をさらう者。
最初は足軽たちが睨んでいた。
南谷の者も距離を置いた。
しかし、昼過ぎには少しだけ空気が変わり始めた。
灰原から降った太助が、薪の割り方を知っていた。
湿った薪と乾いた薪の見分けもできる。
「これは今夜使うな。煙が出る」
そう言うと、おきぬが眉を上げた。
「あんた、分かるのかい」
「炭焼きの手伝いをしてた」
「なら、そこへ置きな。間違えたら叩くよ」
「叩くのか」
「叩くよ」
太助は少しだけ笑い、黙って薪を分けた。
別の男は縄を編めた。
南谷の井戸縄の予備に使えるほどではないが、荷を括る縄なら作れる。
弥三がそれを見て、手順を確認する。
「そこは締めすぎると水を吸って固まる」
「荷ならその方がいい」
「井戸縄には悪い」
「なら別だ」
敵だった者と南谷の者が、縄の話をしている。
宗介はそれを見て、不思議な気持ちになった。
昨日までなら、あり得なかった光景だ。
粥半椀で全てが許されるわけではない。
恨みも恐怖も残っている。
だが、働く手に変わる者がいる。
食う口だけではない。
第八話で南谷の避難民を見た時と同じだ。
人は、役を持てば少し立てる。
午後、安西新蔵が槙尾へ戻る前に弥四郎へ言った。
「和木原主膳の名が出た以上、これは笠森だけの話では済みませぬ」
「槙尾も関わるか」
「関わります。渡しと炭道を押さえられれば、槙尾も困る」
弥四郎は頷いた。
「なら、槙尾左馬助殿へ伝えてほしい。笠森は南谷の井戸と渡しを守った。甚内を捕らえた。源蔵の紙もある。和木原には、勝手な荷の道は認めぬ、と」
新蔵は少し驚いた顔をした。
「強く出られますな」
「弱く出れば、次は井戸ではなく城を見られる」
弥四郎の声は静かだった。
「笠森は小さい。だからこそ、腹を見せすぎるわけにはいかぬ」
新蔵は深く頭を下げた。
「承知しました。槙尾にも、笠森が小さくとも侮れぬ城だと伝えましょう」
その言葉に、足軽たちが少しざわめいた。
笠森が侮れぬ城。
数日前なら、誰もそんなことを思わなかったかもしれない。
敗走寸前の足軽。
乱れた兵糧蔵。
湿った米。
足りない水。
南谷から逃げる人々。
そこから始まった。
今、笠森は甚内を捕らえ、南谷を引き寄せ、槙尾と道と水の話をしている。
大きな合戦には勝っていない。
首級を並べたわけでもない。
それでも、城の立ち位置は変わった。
夕方、弥四郎は城庭に全員を集めた。
足軽。
小者。
南谷の者。
降った者。
女衆。
子供たちは少し離れた場所で見ている。
弥四郎は声を張りすぎず、しかしはっきり言った。
「灰原甚内は捕らえた。源蔵も捕らえた。南谷の井戸、渡し、荷車、人足は守った」
城庭が静まる。
「だが、これで終わりではない。和木原主膳の名が出た。小さな城を食おうとする者は、ほかにもいる」
宗介は、弥四郎の横顔を見た。
若い。
まだ若い。
だが、もう未熟なだけの小領主ではない。
「笠森は米で大きな城に勝てぬ。兵の数でも勝てぬ。だが、腹を粗末にはせぬ。水を見、薪を見、道を見、人を見て、崩れぬ城にする」
弥四郎はそこで宗介を見た。
「宗介」
「はい」
「お前を、正式に笠森の兵糧方とする」
宗介は息を止めた。
周囲の視線が集まる。
足軽たち。
南谷の者。
おきぬ。
喜兵衛。
宇平次。
市松。
降った者たち。
甚内までもが、こちらを見ていた。
「米だけではない。水、薪、荷車、縄、井戸、道、人足、帳。兵糧に関わるものを見よ。ただし、一人で抱えるな。喜兵衛、善助、庄屋、宇平次、市松を使え」
市松が目を丸くした。
「俺も?」
場に小さな笑いが起きた。
弥四郎は真面目に頷いた。
「お前もだ。板を書く者は、城の腹を見る者だ」
市松は顔を赤くし、板を抱きしめた。
宗介は膝をついた。
「……承知しました」
声が震えた。
現代で五十一年を生きた自分が、戦国の小城で兵糧方になる。
剣も振れない。
戦働きもできない。
米俵一つ満足に担げない。
それでも、この城で役を得た。
「刀は振れません」
宗介は言った。
「槍も使えません。ですが、腹を空かせた兵を立たせるために、見えるものは見ます」
弥四郎は頷いた。
「それでよい」
その日の夜、笠森城の竈では、いつもより少しだけ濃い粥が炊かれた。
甚内から得た小分け米と塩が少し入ったからである。
多くはない。
ほんの少しだ。
だが、舌に塩気があった。
足軽たちは黙って啜った。
南谷の者も啜った。
降った者たちも、半椀だけ受け取った。
甚内は話を続けることを条件に、半椀。
源蔵は水だけ。
全て板に残された。
宗介は椀を持ったまま、門の外を見た。
和木原。
槙尾。
灰原。
南谷。
尾張、美濃、三河。
まだ遠かった大きな名が、少しずつ近づいている。
笠森城の米と水の匂いは、もう城内だけに留まらない。
それは怖いことだった。
同時に、ここからが本当の始まりなのだと分かった。
小さな城の兵糧方。
その役目は、思っていたよりずっと広い。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
宗介は粥を啜った。
温かかった。
腹に落ちる。
兵は、明日も立てる。
第30話─了




