表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/49

第30話 腹を折った男

 灰原甚内は、城庭の隅に座らされていた。


 手は縛られている。


 隣では、源蔵が別の場所に押さえられていた。あちらは荒い。縄を噛み切らんばかりに暴れ、見張りの足軽へ何度も唾を吐いた。


 甚内は違った。


 逃げようとしない。


 暴れもしない。


 ただ、笠森城の庭を見ていた。


 竈。


 水桶。


 薪の置き場。


 門の位置。


 南谷の者と足軽の配置。


 板。


 その目は、捕らわれた者の目ではなく、まだ荷の流れを読む目だった。


 久住宗介は、その視線が嫌だった。


 こちらの腹の中まで見られているような気がする。


「水を」


 片瀬弥四郎が命じた。


 甚内の前に、小椀で水が置かれる。


 粥はない。


 甚内は椀を見て、少し笑った。


「話の前に水。粥は話の後。よく締めておられる」


「黙って飲め」


 宇平次が低く言った。


 甚内は肩をすくめ、水を少しずつ飲んだ。


 一気には飲まない。


 渇いているはずなのに、飲み方を知っている。


 それだけで、宗介はこの男がただの野盗ではないと改めて思った。


 弥四郎は甚内の前に立った。


「灰原甚内。お前を今すぐ斬れと言う者は多い」


 周囲の足軽たちが静かに頷いた。


 南谷の者の目にも怒りがある。


 井戸の縄を狙われた。


 家を荒らされた。


 名を盗まれた。


 人足を取られかけた。


 恨む理由はいくらでもある。


「だが、斬る前に聞く」


 弥四郎の声は冷えていた。


「誰がお前を動かした」


 甚内は黙った。


 宇平次の手が刀へ伸びる。


 弥四郎は動かない。


 甚内は少しだけ口元を歪めた。


「若殿は、俺が勝手に灰原の者を集めたと思っておられますか」


「勝手に集めただけなら、塩と味噌の回りがよすぎる」


 弥四郎は即座に返した。


「水場も、南谷の家の名も、笠森の荷車も見すぎている。お前一人の腹ではない」


 甚内の目がわずかに細くなった。


 若い城主を測り直したようだった。


「和木原主膳」


 その名が出た瞬間、南谷の庄屋が息を呑んだ。


 善助も顔を上げる。


 宇平次が低く言った。


「川向こうの和木原か」


「ええ」


 甚内は答えた。


「小さいが、渡しと炭道を押さえたがる男です。南谷の米と人足、笠森の荷車、槙尾へ抜ける道。あれを掴めば、この辺りの荷は一度、和木原を通らざるを得なくなる」


「主膳が、米を出したのか」


「少しは。塩も。味噌は商人筋から流した。だが、十分ではない。こちらが南谷の米を取る前提で動かされた」


 喜兵衛が吐き捨てるように言った。


「他人の米を当てにした兵糧か」


「よくある話です」


 甚内は悪びれず答えた。


「奪えば増える。取れねば飢える。俺の下にいた者は、そのどちらかしかなかった」


「だから人の井戸を切るか」


 善助の声が震えていた。


「だから子の草履まで使うか」


 甚内は善助を見た。


 その目には、悔いらしいものはなかった。


「名は荷になる。草履も荷になる。人を動かせるなら、使う」


 善助が拳を握る。


 宇平次が一歩出かけたが、弥四郎が手で止めた。


「源蔵は」


 弥四郎が問う。


「あれは俺の腹ではない」


 甚内は源蔵の方を見た。


「和木原から付けられた目付です。下の者を逃がすな、荷を戻せ、米を取れ。そううるさかった」


 源蔵が叫んだ。


「黙れ! お前こそ、最後に下を売っただろうが!」


 甚内は振り向きもしなかった。


「俺は荷を見た。お前は荷を壊した。だから負けた」


 源蔵が暴れ、見張りに押さえ込まれる。


 その姿を見て、降った者たちの何人かが目を逸らした。


 彼らは知っている。


 逃げようとした者を射たのは源蔵だ。


 塩を上だけに回したのも、源蔵が関わっていた。


 弥四郎は甚内へ向き直った。


「和木原主膳は、今どこにいる」


「館におるでしょう。自分では動かぬ。俺が勝てば、南谷の米と人足を受ける。俺が負ければ、賊の仕業で片づける」


「証は」


「源蔵が持っている」


 宇平次が源蔵を調べさせた。


 腰の内側から、小さく折った紙片が出てきた。


 宗介には読めない。


 だが、喜兵衛が弥四郎へ渡し、弥四郎が目を通すと表情が硬くなった。


「南谷の井戸、渡し、荷車。取れたものから和木原へ回せ、とある」


 庄屋が怒りで震えた。


「我らは、村ごと荷にされたのですか」


「そうだ」


 弥四郎は短く答えた。


 ごまかさなかった。


 庄屋は唇を噛み、深く頭を下げた。


「若様。南谷は、笠森に従います。水と米を守っていただいた恩、忘れませぬ」


 その言葉は、城庭に重く落ちた。


 ただ守られたからではない。


 井戸を守り、名を守り、人足を守った。


 その積み重ねが、南谷を笠森側へ寄せた。


 宗介は胸の奥で息を吐いた。


 小さな変化だ。


 けれど、この小城にとっては大きい。


 弥四郎はすぐに命じた。


「市松。書け」


「へい」


 市松が板を抱えて走る。


「灰原甚内、和木原主膳の名を出す。源蔵は和木原の目付。証の紙あり。南谷の井戸、渡し、荷車を狙う。南谷、笠森に従う」


 市松の炭が板を走る。


 甚内。


 源蔵。


 和木原。


 井戸。


 渡し。


 荷車。


 南谷。


 線が増えていく。


 笠森城の周りの世界が、また少し広がった。


 弥四郎は甚内を見た。


「お前の処遇は後で決める」


「斬らぬのですか」


「今は斬らぬ」


 弥四郎は言った。


「お前の頭には、道が残っている。和木原の道、商人の道、灰原の逃げ道。話すうちは生かす」


 甚内は薄く笑った。


「粥は」


「話した分だけ、半椀」


「厳しい」


「お前から学んだ」


 甚内の笑みが一瞬だけ消えた。


 それから、小さく息を吐いた。


「よい若殿だ」


 弥四郎は答えなかった。


 甚内には半椀の粥が出された。


 源蔵には出されなかった。


 水だけである。


 源蔵は怒鳴ったが、誰も取り合わない。


 降った者たちは、源蔵を見ようともしなかった。


 この差を、宗介は少し怖いと思った。


 粥半椀。


 水一椀。


 それだけで、人の立場が変わる。


 それでも、源蔵へ粥を出すわけにはいかない。


 下の者を矢で射ち、城を割ろうとし、和木原の目付として動いた男だ。


 同じ扱いにはできない。


 喜兵衛が低く言った。


「宗介。降った者の役を決めろ。食わせるだけにはできぬ」


「はい」


 宗介は頷いた。


 降った者たちを一か所に固めない。


 武器は持たせない。


 南谷の女衆や子供の近くには置かない。


 まずは水運び、薪割り、溝さらい、壊れた柵の外側ではなく内側の修繕。


 勘六と与七は、他の降り人の通訳役。


 太助と弥助は薪場。


 腹を壊した二人は、動けるまで隔離し、湯だけ。


 全て板に残す。


「敵だった者に働かせるのか」


 足軽の一人が言った。


「はい」


 宗介は答えた。


「食わせるだけなら不満が出ます。働かせすぎれば倒れます。なので、できる分だけ」


「甘いな」


「甘いかもしれません」


 宗介は足軽を見た。


「でも、働ける者を寝かせておくほど米はありません」


 足軽は少しだけ笑った。


「そこは甘くねえな」


「余裕がないので」


 降った者たちは、不満そうにしながらも作業へ回された。


 水桶を運ぶ者。


 薪を割る者。


 泥で埋まりかけた排水溝をさらう者。


 最初は足軽たちが睨んでいた。


 南谷の者も距離を置いた。


 しかし、昼過ぎには少しだけ空気が変わり始めた。


 灰原から降った太助が、薪の割り方を知っていた。


 湿った薪と乾いた薪の見分けもできる。


「これは今夜使うな。煙が出る」


 そう言うと、おきぬが眉を上げた。


「あんた、分かるのかい」


「炭焼きの手伝いをしてた」


「なら、そこへ置きな。間違えたら叩くよ」


「叩くのか」


「叩くよ」


 太助は少しだけ笑い、黙って薪を分けた。


 別の男は縄を編めた。


 南谷の井戸縄の予備に使えるほどではないが、荷を括る縄なら作れる。


 弥三がそれを見て、手順を確認する。


「そこは締めすぎると水を吸って固まる」


「荷ならその方がいい」


「井戸縄には悪い」


「なら別だ」


 敵だった者と南谷の者が、縄の話をしている。


 宗介はそれを見て、不思議な気持ちになった。


 昨日までなら、あり得なかった光景だ。


 粥半椀で全てが許されるわけではない。


 恨みも恐怖も残っている。


 だが、働く手に変わる者がいる。


 食う口だけではない。


 第八話で南谷の避難民を見た時と同じだ。


 人は、役を持てば少し立てる。


 午後、安西新蔵が槙尾へ戻る前に弥四郎へ言った。


「和木原主膳の名が出た以上、これは笠森だけの話では済みませぬ」


「槙尾も関わるか」


「関わります。渡しと炭道を押さえられれば、槙尾も困る」


 弥四郎は頷いた。


「なら、槙尾左馬助殿へ伝えてほしい。笠森は南谷の井戸と渡しを守った。甚内を捕らえた。源蔵の紙もある。和木原には、勝手な荷の道は認めぬ、と」


 新蔵は少し驚いた顔をした。


「強く出られますな」


「弱く出れば、次は井戸ではなく城を見られる」


 弥四郎の声は静かだった。


「笠森は小さい。だからこそ、腹を見せすぎるわけにはいかぬ」


 新蔵は深く頭を下げた。


「承知しました。槙尾にも、笠森が小さくとも侮れぬ城だと伝えましょう」


 その言葉に、足軽たちが少しざわめいた。


 笠森が侮れぬ城。


 数日前なら、誰もそんなことを思わなかったかもしれない。


 敗走寸前の足軽。


 乱れた兵糧蔵。


 湿った米。


 足りない水。


 南谷から逃げる人々。


 そこから始まった。


 今、笠森は甚内を捕らえ、南谷を引き寄せ、槙尾と道と水の話をしている。


 大きな合戦には勝っていない。


 首級を並べたわけでもない。


 それでも、城の立ち位置は変わった。


 夕方、弥四郎は城庭に全員を集めた。


 足軽。


 小者。


 南谷の者。


 降った者。


 女衆。


 子供たちは少し離れた場所で見ている。


 弥四郎は声を張りすぎず、しかしはっきり言った。


「灰原甚内は捕らえた。源蔵も捕らえた。南谷の井戸、渡し、荷車、人足は守った」


 城庭が静まる。


「だが、これで終わりではない。和木原主膳の名が出た。小さな城を食おうとする者は、ほかにもいる」


 宗介は、弥四郎の横顔を見た。


 若い。


 まだ若い。


 だが、もう未熟なだけの小領主ではない。


「笠森は米で大きな城に勝てぬ。兵の数でも勝てぬ。だが、腹を粗末にはせぬ。水を見、薪を見、道を見、人を見て、崩れぬ城にする」


 弥四郎はそこで宗介を見た。


「宗介」


「はい」


「お前を、正式に笠森の兵糧方とする」


 宗介は息を止めた。


 周囲の視線が集まる。


 足軽たち。


 南谷の者。


 おきぬ。


 喜兵衛。


 宇平次。


 市松。


 降った者たち。


 甚内までもが、こちらを見ていた。


「米だけではない。水、薪、荷車、縄、井戸、道、人足、帳。兵糧に関わるものを見よ。ただし、一人で抱えるな。喜兵衛、善助、庄屋、宇平次、市松を使え」


 市松が目を丸くした。


「俺も?」


 場に小さな笑いが起きた。


 弥四郎は真面目に頷いた。


「お前もだ。板を書く者は、城の腹を見る者だ」


 市松は顔を赤くし、板を抱きしめた。


 宗介は膝をついた。


「……承知しました」


 声が震えた。


 現代で五十一年を生きた自分が、戦国の小城で兵糧方になる。


 剣も振れない。


 戦働きもできない。


 米俵一つ満足に担げない。


 それでも、この城で役を得た。


「刀は振れません」


 宗介は言った。


「槍も使えません。ですが、腹を空かせた兵を立たせるために、見えるものは見ます」


 弥四郎は頷いた。


「それでよい」


 その日の夜、笠森城の竈では、いつもより少しだけ濃い粥が炊かれた。


 甚内から得た小分け米と塩が少し入ったからである。


 多くはない。


 ほんの少しだ。


 だが、舌に塩気があった。


 足軽たちは黙って啜った。


 南谷の者も啜った。


 降った者たちも、半椀だけ受け取った。


 甚内は話を続けることを条件に、半椀。


 源蔵は水だけ。


 全て板に残された。


 宗介は椀を持ったまま、門の外を見た。


 和木原。


 槙尾。


 灰原。


 南谷。


 尾張、美濃、三河。


 まだ遠かった大きな名が、少しずつ近づいている。


 笠森城の米と水の匂いは、もう城内だけに留まらない。


 それは怖いことだった。


 同時に、ここからが本当の始まりなのだと分かった。


 小さな城の兵糧方。


 その役目は、思っていたよりずっと広い。


 竈の火が、ぱちりと鳴った。


 宗介は粥を啜った。


 温かかった。


 腹に落ちる。


 兵は、明日も立てる。


第30話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ