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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第29話 逃げ道の水

 灰原甚内は、夜のうちに退いた。


 だが、消えたわけではなかった。


 門の外には、捨てられた槍と棒が残っている。降った者たちは城の隅に座らされ、半椀の粥と小椀の水を受けた。誰も満腹にはなっていない。それでも、灰原の沢の悪い水と干し飯だけで動いていた者たちには、温かい粥の湯気だけで顔が変わった。


 久住宗介は、その顔を見るたび、胸の奥が重くなった。


 勝っている気はしない。


 人が腹で割れていく様子を、目の前で見ているだけだ。


 だが、その半椀で南谷の井戸が守られ、荷車が守られ、人足が守られる。


 ならば、やるしかない。


 夜明け前、片瀬弥四郎は三枚の板の前に立った。


 城内。


 城外。


 敵の腹。


 そこに、市松が描いた新しい印が並ぶ。


 甚内、門前に来る。


 人足と荷車を要求。


 断る。


 四人降る。


 源蔵、下を止める。


 甚内、退く。


 弥四郎は、その最後の印を指で押さえた。


「退いた先はどこだ」


 宇平次が答えた。


「西沢へ抜けるか、灰原へ戻るか。だが水車小屋は使えませぬ。灰原の沢は水が悪い」


 安西新蔵もそこにいた。


 槙尾から夜明け前に駆けつけたのだ。


「槙尾側の西沢は塞いでおります。完全ではありませぬが、大人数では抜けにくい」


 善助が板の南谷奥を指した。


「灰原へ戻るなら、この乾き沢を使うはずです。水は少ないですが、途中に古い水溜まりが一つございます」


「水溜まり」


 宗介は顔を上げた。


「飲める水ですか」


「濁っています。煮れば何とか。ですが、急ぐ者はそのまま飲むかもしれませぬ」


 喜兵衛が低く言った。


「腹を壊すな」


「はい」


 宗介は板を見る。


 甚内にはもう、きれいな水場がない。


 水車小屋は止めた。


 南谷の井戸は守った。


 槙尾の西沢は塞がれつつある。


 なら、甚内の残った者たちは、乾き沢の悪い水へ向かうか、笠森の水と粥へ降るか、二つに割れる。


「水を先に置きます」


 宗介は言った。


 宇平次が眉を寄せる。


「敵の逃げ道にか」


「はい。ただし、ただ置くのではありません。乾き沢へ入る前の広い場所に、こちらの見張りを置いて、水と粥半椀を示す。武器を捨てる者だけ受ける。甚内と源蔵についていく者は通さない」


 佐太が苦い顔をする。


「また粥か」


「はい」


「どんどん出すな」


「出す量は決めます。半椀まで。それ以上は出しません」


 新蔵が少し笑った。


「逃げ道の前に水を置く。嫌な手ですな」


「嫌な手です」


 宗介は認めた。


「でも、甚内の下の者は、きれいな水の前を通れば迷います。そこで迷う者を増やせば、甚内は人をまとめられなくなる」


 弥四郎は頷いた。


「逃げる者を追うのではない。逃げ道の水を押さえる」


「はい」


「よし。宇平次、乾き沢の入口を押さえよ。新蔵殿、槙尾は西沢を塞いでほしい。甚内を広い道へ出さぬ」


「承知しました」


「宗介は乾き沢の入口へ。水と粥を見ろ。だが、甚内本人が出ても前に立つな」


 宗介の喉が鳴った。


 甚内本人。


 昨日、門の外から自分へ声をかけた男。


 米を小さく見る男、と言った男。


 怖い。


 直接顔を見る前から、怖かった。


「はい」


 声は震えた。


 だが、頷いた。


 朝になると、笠森城の中はすぐ動いた。


 大きな荷は使わない。


 水桶を二つ。


 薄い粥の入った小桶を一つ。


 半椀ずつ出すための椀。


 武器を捨てさせる場所を示す縄。


 名を聞いて板へ残す市松の代わりに、今日は喜兵衛の下の小者が一人つく。


 市松は城内に残された。


「俺も行く」


 市松は不満そうに言った。


「今日は駄目」


「何で」


「城の板を見る人がいる」


「俺ばっかり留守番かよ」


「留守番じゃない。城の中を見てもらう」


 市松はまだ不満そうだったが、やがて板を抱えた。


「戻れよ」


「戻る」


「絶対やぞ」


「うん」


 その一言が、宗介の胸に残った。


 乾き沢の入口は、南谷奥から少し外れた場所にあった。


 低い雑木が多く、道幅は狭い。


 だが入口の手前だけは少し開けている。水桶を置き、武器を捨てる場所を作るには十分だった。


 宇平次はすぐに配置を決めた。


 前には槍持ち。


 左右に弓を持つ者。


 奥には佐太。


 宗介と水桶は、少し下がった場所。


 勘六と与七は、声をかけるために連れてきた。


 ただし、二人とも見張りつきである。


 太助と六太は城に残した。


 降った者をまとめて外へ出せば、逆に危うい。


「勘六」


 宇平次が言った。


「呼べ」


 勘六は頷き、乾き沢の方へ向かって声を張った。


「甚内の下にいる者! 乾き沢の水は悪い! 腹を壊したい奴だけ進め!」


 与七も続けた。


「武器を置け! 名を言え! 水を飲め! 粥は半椀だ!」


 しばらく、何も起きなかった。


 鳥の声。


 沢の奥で水が細く流れる音。


 宗介は水桶の横でじっとしていた。


 手が汗で濡れる。


 ここに水がある。


 煮た水。


 笠森の井戸と南谷の井戸から運んだ、腹を壊しにくい水。


 たったそれだけが、今は槍より強く見える。


 やがて、乾き沢の奥から人影が現れた。


 ひとり。


 続いて、もうひとり。


 どちらも疲れている。


 手に棒を持っているが、構える力も弱い。


 宇平次が声を落とした。


「武器を捨てろ」


 先頭の男は迷った。


 後ろの男が、先に棒を落とした。


 乾いた音がした。


 その音が合図になったように、先頭の男も棒を置く。


「両手を上げろ。名を言え」


「……久野瀬の平太」


「灰原の権蔵」


 宗介は水を小椀に入れた。


「一気に飲まないでください。少しずつ」


 平太は椀を受け取ると、泣きそうな顔になった。


「水が澄んでる」


 それだけで、後ろの権蔵の喉が鳴った。


 二人に水を飲ませ、粥は城へ戻ってからと伝える。


 不満そうだったが、勘六が言った。


「ここで食ってる間に源蔵が来る。城まで行け。半椀は出る」


 二人は従った。


 まず二人。


 次に三人。


 さらに一人。


 少しずつ、乾き沢から甚内の下の者がこぼれてくる。


 全員が降るわけではない。


 奥で怒鳴る声も聞こえる。


 源蔵の声だ。


「戻れ! 戻らぬ奴は、甚内様の敵だぞ!」


 それでも、水桶を見た者の足は止まった。


 水は、嘘をつかない。


 きれいな水の前で、悪い沢へ戻れと言われる。


 その命令を、腹が拒む。


 宗介は、その瞬間を見ていた。


 人は理屈だけで動かない。


 だが、腹だけでもない。


 水を見て、粥を思い出し、後ろの源蔵の怒声を聞き、前の槍を見て、それでも両手を上げる。


 それは、ただの空腹だけではない。


 生きる方へ倒れる判断だった。


 七人目が出た時、乾き沢の奥で怒号が大きくなった。


 源蔵が姿を現した。


 手には弓。


 後ろに二人。


 そして、その奥にもう一人いた。


 背は高くない。


 だが、立ち方が違う。


 荷を担ぐ者の立ち方ではない。


 人を動かす側の立ち方だった。


 灰原甚内。


 宗介は、見た瞬間に分かった。


 甚内は年の頃四十前後。


 痩せているが、目は鋭い。


 顔に煤と泥がつき、衣は粗末だったが、周囲を見る目だけはまだ死んでいなかった。


 甚内は、水桶を見た。


 次に降った者たちを見る。


 それから、宗介を見た。


「お前か」


 声は静かだった。


 門外で聞いた声と同じ。


 宗介の喉が乾いた。


 答えられない。


 宇平次が前へ出る。


「灰原甚内だな」


「灰原など、仮の名よ」


 甚内は短く言った。


「荷のある所が俺の居場所だ」


 弥四郎はいない。


 ここにいるのは宇平次、宗介、佐太、勘六、与七、そして見張りたちだ。


 弥四郎は城に残り、全体を見ることになっていた。


 甚内はそれを分かっているのか、少し笑った。


「若殿は来ぬか」


「来る必要がない」


 宇平次が答えた。


「お前の荷は、もう軽い」


 甚内の目が細くなった。


 痛いところだったのだろう。


 源蔵が怒鳴った。


「戻れ! お前ら、粥半椀で売るのか!」


 降りかけた男の一人が震えた。


 だが、勘六が叫んだ。


「売ったんじゃねえ! 甚内が俺らを荷みたいに積んだんだ!」


 与七も声を張る。


「塩は上だけ! 味噌も上だけ! 腹を壊した奴は置き去り! それで何が仲間だ!」


 源蔵が弓を引いた。


 狙いは与七。


 佐太が叫ぶ。


「伏せろ!」


 矢が飛ぶ。


 与七の肩をかすめた。


 深くはない。


 しかし、血が散った。


 その瞬間、空気が変わった。


 降ろうとしていた者たちの目が、源蔵へ向いた。


 また射った。


 逃げる者を。


 味方だった者を。


 源蔵は気づいていない。


「戻れと言っている!」


 その声に、従う者はもう少なかった。


 甚内は源蔵を見た。


 一瞬だけ。


 その目に怒りが走った。


 自分の荷を壊す者を見る目だった。


「源蔵」


 甚内が低く言った。


「撃つなと言ったはずだ」


「しかし、甚内様」


「撃つなと言った」


 源蔵が息を呑んだ。


 宗介は、その一瞬を見た。


 甚内と源蔵が割れた。


 下の者を力で縛る源蔵。


 下の者を荷として数える甚内。


 似ているようで違う。


 甚内は、源蔵の弓が下の者をさらに逃がすことを理解している。


 だが遅い。


 もう、見られた。


 宇平次がその隙を逃さなかった。


「甚内の下の者よ! 見たな! 戻れば源蔵に射られる! 来るなら今だ!」


 勘六が続く。


「武器を捨てろ! 水はここだ!」


 棒が一つ落ちた。


 次に短刀。


 さらに槍。


 三人が一気にこちらへ出た。


 源蔵が怒鳴る。


 弓を引こうとする。


 甚内がその腕を掴んだ。


「もうよい」


「甚内様!」


「もう、この場では無理だ」


 その言葉が、下の者たちに聞こえた。


 甚内が諦めた。


 そう聞こえた。


 さらに二人が武器を捨てた。


 乾き沢の入口は、一気に混乱した。


 宇平次は門のように声を飛ばす。


「一人ずつだ! 武器を置け! 名を言え! 走るな!」


 宗介は水を出す。


 小椀に少し。


 一気に飲ませない。


 名を聞く。


 板に残す。


 平太、権蔵、六郎、伊助、孫七。


 似たような名が続き、宗介の頭は混乱しかけた。


 それでも止められない。


 ここで雑に扱えば、あとで揉める。


 甚内はそれを見ていた。


 黙って。


 源蔵はまだ怒っている。


 だが、もう人が戻らないことを理解したのか、唇を噛んでいた。


「兵糧方」


 甚内が呼んだ。


 宗介の手が止まる。


 宇平次が前に立つ。


「宗介に用なら、俺を通せ」


 甚内は薄く笑った。


「お前ではない。そこの男に聞きたい」


 宗介は喉を鳴らした。


「何を、ですか」


 ようやく声が出た。


 甚内の目が宗介を射抜く。


「なぜ、俺の水を先に押さえた」


 宗介は水桶を見た。


 答えは単純だった。


「水がなければ、飯が炊けないからです」


「それだけか」


「はい」


「水があれば、人は戻る。水がなければ、人は逃げる。お前はそれを見ていた」


「あなたも、見ていたはずです」


 甚内の口元がわずかに歪んだ。


「そうだ。だから井戸を狙った。縄を切れば、城は水を失う」


「でも、縄を守りました」


「薪も濡らした」


「分けました」


「名も使った」


「確かめました」


「捨て道も置いた」


「あなたが拾いました」


 周囲が静かになっていた。


 槍を構える者たちも、降った者たちも、勘六も与七も、二人のやり取りを聞いていた。


 宗介は怖かった。


 甚内の目は、ただの賊の目ではない。


 同じものを見ている敵の目だった。


 米の量。


 水の質。


 薪の乾き。


 人の疲れ。


 名の重さ。


 それらを、道具として見る男。


「惜しいな」


 甚内が言った。


「お前が俺の側にいれば、もう少し楽に動けた」


 宇平次の手が刀へ伸びかけた。


 宗介は首を振った。


「俺は、笠森の兵糧方です」


 声は震えていた。


 だが、言えた。


 甚内は笑った。


「そうか」


 その笑いは、少しだけ本物に見えた。


 次の瞬間、源蔵が動いた。


 弓ではない。


 腰の短刀を抜き、甚内へ向けた。


「もう終わりだ! あんたが下を甘くしたから!」


 源蔵の刃は、甚内の脇腹を狙った。


 だが、甚内は半歩引いてかわした。


 宇平次が叫ぶ。


「押さえろ!」


 佐太と三郎兵衛が動く。


 源蔵は逃げようとした。


 しかし、足元に落ちていた槍に躓いた。


 水を求めて捨てられた武器。


 その一本に足を取られた。


 佐太が源蔵を組み伏せる。


 源蔵は暴れたが、三郎兵衛の槍柄が肩を押さえた。


 甚内は、その様子を冷たく見ていた。


「荷を乱す男は、最後に荷に躓くか」


 低い声だった。


 宗介は背筋が冷えた。


 源蔵が捕らえられた。


 甚内の下は、ほとんど割れた。


 残ったのは、甚内本人と、数人の固い者だけ。


 宇平次が甚内へ槍を向けた。


「甚内。お前はどうする」


 甚内は乾き沢の奥を見た。


 そこには悪い水しかない。


 西沢は槙尾が塞いでいる。


 水車小屋は使えない。


 南谷の人足は取れない。


 下の者は水と粥に引かれて離れた。


 源蔵も捕らえられた。


 甚内の荷は、もうほとんど残っていない。


 甚内はゆっくり両手を上げた。


 だが、膝はつかなかった。


「片瀬弥四郎と話す」


 宇平次が目を細める。


「条件を出せる立場か」


「俺の頭には、まだ道がある」


 甚内は言った。


「灰原、槙尾、西沢、南谷。どこに米が隠れ、どの商人が通り、どの小領主が裏で煽ったか。若殿には価値があるはずだ」


 宗介は息を呑んだ。


 裏。


 やはり、甚内一人ではない。


 誰かが甚内を使った。


 米か銭か、約束か。


 弥四郎が知るべき情報だった。


 宇平次は少し考え、命じた。


「縛れ。ただし、口は塞ぐな」


 甚内は抵抗しなかった。


 源蔵は縛られ、引き起こされる。


 降った者たちは一人ずつ名を言い、水を受けた。


 宗介は最後の椀を差し出しながら、手が震えていることに気づいた。


 甚内は捕らえた。


 源蔵も捕らえた。


 下の者は割れた。


 だが、これで終わりではない。


 甚内の背後に、まだ誰かがいる。


 笠森城へ戻る道で、甚内は一度だけ宗介に言った。


「半椀の粥で、人は落ちる」


 宗介は答えなかった。


 甚内は続けた。


「だが、半椀の粥で、人は立つこともある。お前はそちらを選んだだけだ」


 宗介は喉の奥が詰まった。


 選んだ。


 本当に選べているのか。


 分からない。


 ただ、笠森城の竈には火がある。


 南谷の井戸には水がある。


 人足は奪われず、荷車も残り、子供たちは薄い粥を啜っている。


 それだけは、事実だった。


 城へ戻ると、弥四郎が門の内側で待っていた。


 宇平次が膝をつく。


「甚内、源蔵を捕らえました。下の者、多くが降りました。乾き沢の水は使わせておりませぬ」


 弥四郎は甚内を見た。


 甚内も、弥四郎を見た。


 二人の間に、しばらく沈黙が落ちる。


 やがて弥四郎が言った。


「灰原甚内」


「はい」


「お前の腹は折れたか」


 甚内は少し笑った。


「腹は空いております」


 弥四郎の目が細くなる。


「なら、話す前に水だけ出す。粥は、話の後だ」


 甚内は笑みを深めた。


「よい城主だ」


 弥四郎は答えなかった。


 市松が板を抱えて走ってきた。


「何を書く」


 宗介は深く息を吸った。


「乾き沢の入口。水を押さえる。甚内の下、多く降る。源蔵捕縛。甚内捕縛。背後に誰かあり」


 市松の手が止まった。


「捕まえたんか」


「うん」


「甚内を?」


「うん」


 市松は大きく息を吐き、それから炭を握り直した。


 水桶の印。


 降った者の印。


 源蔵。


 甚内。


 そして、背後を示す黒い影。


 宗介はその板を見ながら、ようやく少しだけ膝の力を抜いた。


 小さな笠森城は、灰原甚内の腹を折った。


 だが、その向こうに、さらに大きな影が見え始めている。


 尾張。


 美濃。


 三河。


 まだ名だけの遠い影だったものが、少しずつ、この小城の米と水の匂いに近づいていた。


第29話─了

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