第28話 粥で割れる腹
水車小屋から連れて戻った者たちは、城の隅に座らされた。
武器を捨てた者が五人。
腹を壊し、ほとんど歩けなくなっていた者が二人。
勘六、太助、弥助、与七を含めれば、灰原甚内の下から笠森へ移った者は、もう十人近くになる。
それは、ただ人数が増えたということではなかった。
食う口が増えたということでもある。
久住宗介は、竈の前で鍋を見ていた。
薄い粥。
米粒は少ない。
だが、湯気は立っている。
この半椀で、敵の手を減らせる。
そう分かっていても、胸は軽くならなかった。
「また敵に食わせるのか」
足軽の一人が言った。
声に棘がある。
当然だった。
昨夜も、今朝も、笠森の足軽たちは薄い粥で門に立っている。南谷の子供たちも、腹いっぱいには食べていない。
そこへ、昨日まで井戸の縄を切ろうとし、薪を濡らし、荷を狙っていた者たちへ粥を出す。
納得しろという方が無理だった。
宗介は椀を手にしたまま振り向いた。
「半椀だけです」
「半椀でも粥は粥だ」
「はい」
「俺らの分は」
「減らしません。喜兵衛が数えています」
足軽は鼻を鳴らした。
「数えれば米が増えるのか」
「増えません」
宗介ははっきり答えた。
「でも、甚内の手は減ります。昨夜の井戸の縄を切る手も、薪を濡らす手も、南谷の人足を奪う手も」
足軽は黙った。
まだ不満はある。
だが、完全には否定できない。
水車小屋から降った五人は、実際に甚内側の人手を減らした。水車小屋の飯場も潰れた。南谷の人足も守れた。
結果は見えている。
だからこそ、余計に腹立たしいのかもしれない。
「隠して食わせるなよ」
足軽は低く言った。
「俺らの知らんところで粥が消えたら、次は止める」
「隠しません」
宗介は頷いた。
「出した分は全部、板に書きます」
「その板ばっかりだな」
「板がなかったら、今頃もっと揉めています」
足軽は返事をしなかった。
ただ、椀を受け取りに来た別の足軽へ場所を譲った。
怒りは残っている。
それでも、殴り合いにはならない。
今はそれで十分だった。
片瀬弥四郎は、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
若い城主は、捕らえた者たちの前に立つと、静かに言った。
「武器を捨て、名を言い、甚内の命を話した者には水と粥を出す。だが、笠森の者になったわけではない。逃げれば追う。嘘をつけば罰する。奪えば斬る」
降った者たちは、誰も顔を上げなかった。
腹を壊した二人は、座っているのも苦しそうだった。
弥四郎は続けた。
「だが、働ける者には働く場所を与える。水を運ぶ。薪を割る。柵を直す。南谷の者に手を出すな。足軽へ口答えするな。まずは、半椀の粥からだ」
喜兵衛が市松へ顎をしゃくった。
「書け」
市松は板に炭を走らせる。
降り人。
水。
粥半椀。
名。
役。
見張り。
下手な印がまた増えた。
その横で、宗介は粥をよそった。
半椀。
多くしない。
少なくしすぎない。
粥を受け取った太助は、椀を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「飲まないんですか」
宗介が聞くと、太助は掠れた声で答えた。
「熱い粥なんて、久しぶりで」
そして、ゆっくり口へ運んだ。
一口。
二口。
男の肩が震えた。
泣いているのか、湯気で目がしみたのか、分からない。
宗介は何も言わなかった。
その時、勘六が口を開いた。
「甚内は、今夜までに動く」
弥四郎が振り向く。
「なぜだ」
「水車小屋を取られた。灰原の沢には戻れない。塩もない。下の者が降ったと知れば、さらに逃げる。甚内は、逃げる前に何か取る」
「何を取る」
「人足か、荷車か、庄屋」
庄屋という言葉に、南谷の者たちが揺れた。
善助の顔も険しくなる。
勘六は続けた。
「庄屋を取れば、南谷の米と人を動かせる。人足を取れば、荷を運べる。荷車を取れば、甚内はここから離れられる」
宗介は板を見た。
人足。
荷車。
庄屋。
敵が欲しがるものが、はっきりしてきた。
米そのものだけではない。
米を動かす手。
米を動かす車。
米を動かす名。
甚内は、まだ腹を見ている。
「なら、庄屋を隠すか」
宇平次が言った。
庄屋が顔を上げる。
「私だけ隠れても、村の者が動揺します」
弥四郎は頷いた。
「隠すのではない。動かす場所を決める」
宗介はすぐに言った。
「庄屋さんは、今夜は城の奥へ。ですが、姿が見えないと不安が出ます。夕方までは皆の前で話して、夜は善助さんと交代する形にする」
「交代?」
「庄屋さんの役を全部一人に集めない。人名確認は庄屋さん。水場確認は善助さん。南谷の若者の配置は弥三さん。役を分けます」
弥三が驚いた顔をした。
「私が?」
「足は悪いですが、南谷の若者の顔は分かります。門へ近づけてはいけない人も分かる。走らなくていい役です」
弥三は少し戸惑い、やがて頷いた。
「やります」
庄屋も深く息を吐いた。
「役を分ける。確かに、私一人が取られれば村が揺れますな」
「はい」
宗介は言った。
「敵に取られて困るものは、一か所に置かない。米と同じです」
宇平次が苦笑した。
「庄屋まで米俵扱いか」
「すみません」
「いや、分かりやすい」
弥四郎はすぐに命じた。
「南谷の役を分ける。庄屋、善助、弥三。三人に分けろ。今夜は庄屋を門へ近づけぬ」
「承知」
その日の午後、城内の配置はまた変わった。
だが、以前のような停滞した組み替えではなかった。
目的がはっきりしている。
甚内が取りたいものを、取れない形にする。
庄屋一人に集まっていた南谷の判断を、善助と弥三に分ける。
荷車は城庭の奥へ移し、車輪を外しておく。
すぐ奪って走れないようにするためだ。
だが、完全に壊すわけではない。
使う時には戻せる。
人足として狙われやすい南谷の若者たちは、足軽と混ぜて二人組にする。
一人で水場へ行かせない。
一人で薪場へ行かせない。
門近くで呼ばれても、勝手に動けないようにする。
市松が板に描きながらぼやいた。
「また組み替えや」
「今回は、取られないための組み替え」
「いつも取られないためやん」
「今回は、人足と庄屋と荷車」
「多いわ」
「うん」
市松はため息をつきながらも、手は止めなかった。
その頃、安西新蔵が槙尾から来た。
水車小屋の件を受け、槙尾も動いたという。
「西沢へ抜ける道を塞ぎました。甚内の者が槙尾へ流れるなら、そこで止めます」
弥四郎は頷いた。
「助かる」
「ただし、槙尾も米は出せませぬ。降る者を受ける余裕は笠森ほどありません」
喜兵衛が眉をひそめた。
「笠森にも余裕などない」
「存じております」
新蔵は悪びれず言った。
「だからこそ、笠森へ流れるでしょう。水と粥を出すと知られている」
足軽たちの間に、不満がまた走った。
宗介も胃が重くなる。
水と粥を出す。
それは敵を剥がす力になる。
同時に、敵を呼び込む匂いにもなる。
弥四郎は新蔵を見た。
「槙尾は、甚内をどう見る」
「今夜か明朝、必ず何か掴みに来ます。水車を失い、下の者を失い、南谷の人足も取れなかった。甚内ほどの男なら、引く前に取り返しを狙う」
「甚内本人は出るか」
「出るかもしれませぬ。出ざるを得ないところまで追い込まれつつある」
宇平次の目が鋭くなる。
「なら、今夜が山か」
新蔵は頷いた。
「小さな山でございますが、ここで逃せば、甚内は別の弱い村へ流れる。そうなれば、また同じことが起きます」
弥四郎は板を見た。
灰原。
水車小屋。
南谷。
槙尾。
敵の腹は、狭まっている。
「宗介」
「はい」
「甚内が今夜欲しがるものを、もう一度言え」
「人足、荷車、庄屋」
「米ではなく」
「米を動かすものです」
弥四郎は頷いた。
「なら、そこを守る。だが守るだけではない」
若い城主は、勘六と与七の方を見た。
「甚内の下にいる者へ、もう一度知らせる。武器を捨て、名を言えば、水と粥を出す。ただし、甚内本人と、下を殺して止める者は別だ」
勘六が顔を上げた。
「源蔵ですか」
「そうだ」
宇平次が答えた。
「源蔵は甚内の荷を見ている男。下の者を矢で脅した。あれがいる限り、降る者は増えぬ」
「源蔵を切り離しますか」
宗介が聞くと、宇平次が頷いた。
「切り離す。甚内と源蔵、下の者を分ける」
宗介は腹の奥が冷えた。
人を分ける。
敵の中も分ける。
それは、こちらがずっとやってきたことと同じだった。
ただし今度は、敵を崩すために使う。
弥四郎は言った。
「勘六、与七。お前たちは夜、門の内から呼べ。甚内の下の者へ、水と粥を示す。ただし、源蔵に従う者は受けぬ。武器を置いて、両手を上げ、名を言う者だけだ」
与七は震えながら頷いた。
勘六は少し黙り、低く言った。
「甚内は、怒ります」
「怒らせる」
弥四郎は即答した。
「怒れば、無理をする。無理をすれば、下が離れる」
宗介は弥四郎を見た。
若い城主の顔は、もう数日前とは違っていた。
粥で兵が立つことを知った。
水が城を支えることを知った。
薪も縄も名も、人の不安も兵糧に関わると知った。
そして今、敵の腹を崩すために、粥半椀を武器として使おうとしている。
日が落ちた。
笠森城は静かだった。
門の近くには宇平次。
荷車は車輪を外し、奥へ。
庄屋は城の奥に下がり、善助と弥三が前に出る。
南谷の若者は足軽と組み、水場と薪場へ分けられている。
降った者たちは一か所に固めず、見張りの届く範囲で分けた。
竈の火は低い。
粥はある。
半椀ずつなら、まだ出せる。
夜半、門の外に声がした。
「笠森の若殿に話がある」
低い声だった。
今までの偽声とは違う。
落ち着いている。
宇平次が門の内側で身構えた。
「名を申せ」
「灰原甚内」
城内の空気が凍った。
ついに、名の主が門の外に来た。
宗介は、手の中の椀を落としそうになった。
門の外の声は続いた。
「水車を止めた手際、見事だ。粥半椀で下を釣るやり口も、嫌らしい」
宇平次が低く問う。
「何の用だ」
「南谷の人足を三十日貸せ。荷車を一つ。それで手を引く」
宇平次の顔が怒りで歪む。
弥四郎が前へ出た。
「断る」
短い一言だった。
門外の甚内は笑ったようだった。
「若いな。人足を出さぬなら、南谷の家は一つずつ焼く」
「焼けば、お前の荷の道も消える」
弥四郎は返した。
「水車を失い、沢へ戻れず、下の者に粥半椀で逃げられる男が、まだ焼けると思うか」
沈黙。
門の外の空気が、ほんの少し変わった。
弥四郎は続けた。
「甚内。お前の下の者へ告げる。武器を捨て、名を言え。水と粥を出す。だが、甚内と源蔵につく者は別だ」
合図を受け、勘六が声を張った。
「勘六だ! 水車はもう使えねえ! 沢の水へ戻れば、また腹を壊すだけだ! 武器を捨てて来い!」
与七も叫ぶ。
「粥はある! 半椀だが、温けえ! 甚内はお前らを米俵みたいに使うだけだ!」
門の外で、ざわめきが起きた。
複数の足音。
槍の柄が土に触れる音。
甚内は黙っていた。
その沈黙が、逆に効いていることを示していた。
やがて、別の声が怒鳴った。
「黙れ、裏切り者!」
勘六が顔を歪めた。
「源蔵だ」
宗介の背中に汗が流れた。
門外で、甚内、源蔵、下の者が揺れている。
弥四郎は動かなかった。
門は開けない。
ただ、声だけを出す。
「源蔵」
弥四郎が呼んだ。
「下の者を矢で射る男だな。笠森は見たぞ」
外で一瞬、怒声が止まった。
「甚内の下の者よ。源蔵に従えば、次に逃げる時は背を射られる。武器を捨てるなら今だ」
その言葉の後、何かが土に落ちる音がした。
一つ。
二つ。
棒か、槍か。
誰かが武器を捨てた。
源蔵の怒鳴り声が上がる。
「拾え! 拾えと言っている!」
だが、次の瞬間、門の外から別の声がした。
「水をくれ!」
宇平次が弥四郎を見る。
弥四郎は頷いた。
「門は開けぬ。小門から一人ずつ。両手を上げ、名を言わせろ」
宇平次が命じる。
小門の前に槍が並ぶ。
一人目が入った。
若い男。
武器なし。
両手を上げている。
「名は」
「久野瀬の六太」
「誰の命で来た」
「甚内……いや、源蔵に荷を担げと言われた」
「水を」
宗介は小椀で水を渡した。
六太は泣きそうな顔で飲んだ。
続いて二人目。
三人目。
四人目。
外では源蔵が怒鳴っている。
甚内はまだ黙っている。
その沈黙が、じわじわと下の者を離していた。
源蔵の怒声だけが残り、甚内自身は飯を出せない。
水も出せない。
それが門の外の者にも分かっているのだ。
五人目が入ろうとした時、外で短い悲鳴が上がった。
源蔵が誰かを斬ったのかもしれない。
宇平次が歯を食いしばる。
だが門は大きく開けない。
ここで飛び出せば、罠になる。
弥四郎も耐えていた。
顔は硬い。
だが、命じなかった。
やがて、甚内の声がした。
「片瀬弥四郎」
「何だ」
「今夜は引く」
「逃げるのか」
「荷を移すだけだ」
甚内の声には、まだ余裕を装う響きがあった。
だが、宗介には分かった。
装っている。
腹はもう細い。
「次は、若殿ではなく、その兵糧方と話したい」
宗介の心臓が跳ねた。
門の内側の視線が、自分へ集まる。
甚内は続けた。
「米を小さく見る男。お前の半椀、よく効いたぞ」
宗介は答えられなかった。
喉が乾き、声が出ない。
弥四郎が代わりに言った。
「宗介は俺の兵糧方だ。話すなら、俺を通せ」
門外で、甚内が低く笑った。
「よい主を得たな、兵糧方」
足音が遠ざかる。
源蔵の怒鳴り声も遠ざかった。
門の外には、捨てられた槍と棒が残った。
そして、小門の内側には、新たに四人の降り人が座っていた。
五人目は、入れなかった。
外で何が起きたかは、まだ分からない。
宗介は椀を持つ手が震えていた。
弥四郎が静かに言った。
「市松。書け」
市松は真っ青な顔で炭を握った。
「何を」
「甚内、門前に来る。人足と荷車を要求。断る。勘六と与七が呼ぶ。四人降る。源蔵、下を止める。甚内、退く」
市松の手は震えていたが、字は書けた。
宗介は板を見た。
水車小屋を失い、人足を取れず、門前で下の者を剥がされた。
甚内はまだ逃げていない。
だが、確実に削れている。
弥四郎は門の外を見つめたまま言った。
「次で決める」
宇平次が頷く。
「甚内は、もう大きくは動けませぬ」
宗介は粥の鍋を見た。
薄い粥。
半椀ずつ。
それだけで、敵の腹が割れていく。
恐ろしいほど地味で、恐ろしいほど効いている。
灰原甚内は、ついに表へ出た。
次は、逃がすか、折るか。
小さな笠森城は、その分かれ目に立っていた。
第28話─了




