第26話 半椀の誘い
夜が明ける前から、笠森城の竈には火が入っていた。
強い火ではない。
煙を抑えた細い火である。
だが、鍋の中では薄い粥が静かに温まっていた。
米粒は少ない。
味噌も濃くはない。
それでも、灰原の悪い水を飲み、干し飯だけで動いている者にとっては、喉が鳴るほどの匂いになるはずだった。
久住宗介は、鍋の縁に浮かぶ湯気を見ながら、腹の奥が重くなるのを感じていた。
敵に粥を見せる。
敵を誘う。
武器を捨て、名を言えば、水と粥を与える。
言葉にすれば簡単だ。
だが、その粥は笠森の足軽たちも、南谷の子供たちも、怪我人たちも欲しがっているものだった。
敵に出す半椀があれば、味方に出せる半椀が減る。
その不満は必ず出る。
「宗介」
喜兵衛が隣へ来た。
手には小さな板がある。
「捕らえた者へ出す粥は、半椀ずつ。水は小椀に一つ。これでよいな」
「はい。最初から多くは出しません」
「足軽どもが怒るぞ」
「分かっています」
「南谷の者も怒る」
「それも、分かっています」
宗介は鍋を見た。
「だから、隠さず出します。誰に、どれだけ、何のために出すか。全部、見えるようにします」
喜兵衛は鼻を鳴らした。
「お前は本当に、何でも見えるようにしたがる」
「見えないと、疑われます」
「見えても、腹は立つ」
「はい」
それが現実だった。
正しければ納得されるわけではない。
理由があれば怒りが消えるわけでもない。
それでも、隠せばもっと悪くなる。
宗介はこの数日で、それだけは嫌というほど学んでいた。
門の近くでは、与七が座らされていた。
若い捕虜である。
灰原甚内の下で動いていた男。
今は手を縛られているが、昨日より顔色は少しましだった。水を少し、粥を少し入れたからだ。
その与七を、今日使う。
甚内の下の者へ呼びかけるために。
宇平次が与七の前に立った。
「逃げれば斬る」
与七は青い顔で頷いた。
「嘘を混ぜても斬る」
「……はい」
「だが、本当に甚内の下の者が降れば、お前の言葉は覚えておく」
与七が顔を上げた。
「俺は、どうなるんですか」
宇平次は答えなかった。
代わりに、片瀬弥四郎が歩み寄った。
「すぐ自由にはせぬ」
与七の顔が曇る。
「だが、話したこと、働いたことは帳に残す。お前が人を殺めず、こちらを欺かず、甚内から人を離す助けをしたなら、その分は見る」
「……粥を、もらえるんですか」
その問いが、あまりに素直で、宗介は胸が痛くなった。
弥四郎は頷いた。
「半椀からだ」
「半椀……」
「足りぬか」
与七は首を横に振った。
「灰原じゃ、湯だけの日もありました」
周囲の足軽たちが黙った。
怒りが消えたわけではない。
だが、敵の苦しさが見えてしまった。
それはそれで、扱いに困るものだった。
弥四郎は城庭の者たちへ向き直った。
「聞け。今日、甚内の下にいる者へ、水と粥を示す」
ざわめきが起きた。
弥四郎は声を強めない。
静かなまま続けた。
「これは敵を厚くもてなすためではない。甚内の腹を崩すためだ。武器を捨て、名を言い、甚内の命を話す者だけを受ける。粥は半椀。水は小椀。すぐ自由にはせぬ」
足軽の一人が唇を歪めた。
「俺らの粥が減るんですかい」
宇平次が睨みかけた。
しかし弥四郎は手で止めた。
「減る」
はっきり言った。
場が静まる。
「だが、甚内の者を一人剥がせば、夜に井戸の縄を切る手が一つ減る。薪を濡らす手が一つ減る。名を盗む手が一つ減る。粥半椀で敵の手が減るなら、安い」
足軽は何も言えなかった。
弥四郎はさらに言った。
「不満は分かる。だから隠さぬ。出した粥も水も、板に残す。お前たちへ回す分も減らさぬよう、喜兵衛と宗介が見る」
喜兵衛が渋い顔で頷く。
「見る。だが、無駄に食わせた者はわしが叱る」
その言葉で、少しだけ空気が緩んだ。
午前のうちに、一行は南谷奥へ向かった。
宇平次。
佐太。
三郎兵衛。
善助。
宗介。
そして、与七。
与七の手は縛ったままだが、歩けるように前で結び直してある。逃げ出せない距離に佐太がつき、三郎兵衛が少し離れて周囲を見る。
宗介は小さな桶を持っていた。
中には薄い粥が入っている。
もう一人が水竹筒を持つ。
たったそれだけの荷が、やけに重く感じた。
南谷奥の道には、昨日見つけた三本傷が残っていた。
木の根元に刻まれた三本の傷。
三筋の通り道。
名を拾い、声を投げる者たちの印。
そこから少し離れた窪地で、一行は足を止めた。
「ここでよい」
宇平次が言った。
深く入りすぎない。
こちらが見える場所。
敵も声を聞ける場所。
逃げ道を塞がれない場所。
宗介は桶を置き、周囲を見た。
水場はない。
だからこそ、こちらの水が意味を持つ。
灰原側の者が欲しがるのは、米だけではない。
きれいな水だ。
「与七」
宇平次が言った。
「呼べ」
与七は震えた。
声が出ない。
宗介は小椀に水を少し入れ、与七の口元へ運んだ。
「喉だけ湿らせてください」
与七は水を飲み、何度か咳をした。
それから、藪の奥へ向かって声を出した。
「灰原の者! 久野瀬の者! 沢にいる者!」
声は細かった。
宇平次が低く言う。
「腹から出せ」
与七は唇を噛み、もう一度叫んだ。
「甚内様の下にいる者! 聞け! 笠森には煮た水がある! 粥がある! 武器を捨て、名を言えば、水を飲ませる!」
藪は黙っていた。
風が竹を鳴らす。
宗介の背中に汗が流れる。
本当に聞いているのか。
それとも、もう囲まれているのか。
与七はさらに叫んだ。
「俺は与七だ! 久野瀬の与七だ! 生きてる! 粥を食った! 嘘じゃない!」
その言葉が終わった直後、藪の奥で音がした。
佐太が槍を構える。
三郎兵衛が横へ動く。
宇平次は動かない。
藪から顔を出したのは、痩せた男だった。
手に槍を持っている。
年は三十ほど。
目が落ちくぼみ、唇が白い。
「与七」
男は低く呼んだ。
与七が息を呑む。
「勘六さん……」
知り合いらしい。
勘六と呼ばれた男は、こちらを睨んだ。
「裏切ったのか」
「違う。俺は……」
「粥を食ったんだろう」
与七は何も言えなかった。
宗介は一歩前へ出た。
宇平次が手で止めかけたが、宗介はすぐに足を止めた。
前へ出すぎない。
戦えない自分が近づけば、邪魔になる。
「水はあります」
宗介は言った。
「武器を置けば、飲めます」
勘六の目が桶へ向いた。
一瞬だった。
だが、見た。
飢えた者の目ではなく、渇いた者の目だった。
「毒か」
「毒ではありません」
「敵の言葉を信じろと?」
「信じなくていいです。与七が飲んでいます」
与七は慌てて頷いた。
「腹は……壊してない」
勘六は迷っていた。
藪の奥で、さらに別の音がした。
もう一人いる。
いや、二人。
宇平次が低く言った。
「出るなら、武器を前へ投げろ。出ぬなら、去れ」
勘六は唇を噛んだ。
その時、藪の奥から別の声が飛んだ。
「戻れ、勘六!」
硬い声だった。
命令する側の声。
勘六の肩が跳ねる。
「戻れば、飯はある」
その声が続く。
宗介は桶の中の粥を見た。
飯はある。
本当にあるのか。
甚内側に、まだどれだけの飯があるのか。
勘六の顔を見る限り、多くはない。
「勘六さん」
与七が叫んだ。
「塩、もうないだろ! 沢の水、まだ濁ってるんだろ! 戻っても腹を壊すだけだ!」
「黙れ!」
藪の奥の声が怒鳴る。
その瞬間、何かが飛んだ。
短い矢だった。
勘六の足元に刺さる。
勘六は反射的に後ろへ下がった。
戻れという脅し。
逃げる者を射るという合図。
宇平次が吠えた。
「伏せろ!」
次の矢が飛ぶ。
三郎兵衛が勘六の前へ出て、槍の柄で払った。
佐太が藪へ向けて槍を構える。
宇平次は追わない。
追えば罠だ。
宗介は桶を抱えた。
こぼしてはいけない。
こんな時でも、そう思ってしまった。
藪の奥で声が乱れた。
「戻れ! 戻れと言っている!」
勘六は震えていた。
槍を握ったまま、前にも後ろにも動けない。
宗介は叫んだ。
「武器を捨ててください!」
勘六がこちらを見る。
「武器を持ったままでは、水を出せません!」
勘六の手が震える。
槍が下がる。
だが、藪の奥からまた矢が来る。
今度は勘六の肩をかすめた。
血が飛んだ。
「ぐっ!」
勘六は膝をついた。
与七が叫ぶ。
「勘六さん!」
宇平次が即座に判断した。
「佐太、三郎兵衛、壁になれ! 善助、勘六を引け! 深追いするな!」
動きは一瞬だった。
佐太と三郎兵衛が前へ出る。
善助が勘六の襟を掴んで引く。
勘六はまだ槍を握っていた。
宗介は叫んだ。
「槍を捨てて!」
勘六は、ようやく槍を手放した。
槍が土に落ちる。
その音を聞いた瞬間、宗介は自分でも驚くほど大きな声で言った。
「水!」
善助が勘六を引きずりながら戻る。
勘六の肩から血が流れている。
傷は浅い。
だが、放れば悪くなる。
宗介は竹筒を取り、小椀に少しだけ水を入れた。
勘六は椀を見るなり、むさぼるように飲もうとした。
「少しずつ!」
宗介は椀を引く。
勘六が睨む。
だが、すぐに咳き込んだ。
「一気に飲むと吐きます。少しずつ」
勘六は荒い息を吐いた。
藪の奥では、声が遠ざかっていく。
命令していた男は逃げたようだった。
宇平次は追わせなかった。
その代わり、落ちた矢を拾わせた。
「甚内の者だな」
三郎兵衛が矢を見て言った。
「短い。藪から射るための矢だ」
「勘六を殺す気だったのか」
佐太が呟く。
「戻さぬためだろう」
宇平次の声は冷たい。
勘六は肩を押さえながら、下を向いていた。
宗介は粥を半椀だけよそった。
約束通り。
多くは出さない。
しかし、出す。
「名は」
宇平次が問う。
「……勘六」
「どこの者だ」
「久野瀬の川端。田は流れた」
「甚内から何を命じられた」
勘六は粥を見つめていた。
答えない。
宗介は椀を手にしたまま言った。
「話せば粥を増やすとは言いません。でも、話さないなら渡せません」
勘六が顔を上げた。
憎しみと空腹が混じった目だった。
「卑怯だな」
「はい」
宗介は否定しなかった。
「でも、あなたたちも井戸の縄を切ろうとしました。薪を濡らしました。名前を盗みました」
勘六は黙った。
「こちらも綺麗なことだけでは守れません」
宗介の声は震えていた。
だが、逃げなかった。
勘六はしばらくして、低く言った。
「甚内は、もう沢には戻らん」
宇平次の目が鋭くなる。
「どこだ」
「古い水車小屋だ。灰原から南へ下った、朽ちた水車。水はまだ使える。そこで飯を炊くつもりだ」
善助が息を呑んだ。
「水車小屋……」
三郎兵衛も頷く。
「槙尾の古い道からも近い」
「人数は」
宇平次が問う。
「動けるのは二十そこそこ。腹を壊した者が十近く。三筋は昨夜から戻りが悪い。空俵を掴まされたって怒ってた」
宗介は心臓が強く打つのを感じた。
捨て道が効いている。
空俵を掴まされ、三筋が揺れた。
水が悪く、腹を壊した者が増えた。
そして甚内は水車小屋へ移る。
敵の本当の飯場が見えた。
勘六は続けた。
「けど、甚内はまだ諦めてない。水車小屋で飯を炊いて、今夜か明日、南谷の荷を襲う。米じゃなく、人足を取るって言ってた」
「人足?」
宗介が聞く。
「荷を運ぶ手だ。飯をやるから働けと言って、村の若い者を連れていく」
宗介の背中が冷えた。
米、水、薪、名。
次は人足。
敵はついに、運ぶ手そのものを狙い始めた。
宇平次は勘六を睨んだ。
「嘘なら」
「嘘じゃない」
勘六は粥を見て言った。
「嘘ついても、腹は膨れねえ」
宇平次は宗介を見た。
宗介は頷いた。
「半椀、渡します。約束です」
勘六は椀を受け取った。
手が震えている。
一口啜った瞬間、勘六の顔が崩れた。
悔しそうに。
情けなさそうに。
それでも、粥を飲み込んだ。
「温けえな」
それだけ言った。
宗介は何も返せなかった。
一行は勘六を連れて笠森城へ戻った。
与七は何度も後ろを振り返っていた。
勘六は肩を押さえ、黙って歩いた。
敵を一人剥がした。
情報も得た。
なのに、宗介の胸は晴れなかった。
粥半椀で、人がこちらへ来る。
それだけ敵が苦しいということだ。
同時に、それだけ戦国の腹は軽く人を動かすということでもあった。
城へ戻ると、弥四郎はすぐに報告を聞いた。
勘六は門の内側で座らされ、傷を手当てされた。
捕虜として、与七とは別に置かれる。
市松が板を抱えて走ってきた。
「何を書く」
宗介は深く息を吸った。
「勘六、武器を捨てて降る。肩に矢傷。水と粥半椀。甚内は灰原の沢を捨て、水車小屋へ移る。動ける者二十ほど。腹を壊した者十近く。次は人足狙い」
市松の顔が変わった。
「人足って、南谷の若い衆か」
「たぶん」
善助の顔も硬い。
南谷の若者たちが互いを見る。
敵はもう、米だけではなく、自分たちの腕と足を狙っている。
弥四郎は板を見た。
そして、静かに言った。
「次はこちらから動く」
宇平次が顔を上げる。
「水車小屋を?」
「攻め落とすのではない。先に水を押さえる」
宗介は弥四郎を見た。
若い城主の目は、はっきり敵の腹を見ていた。
「水車小屋の水を甚内に渡せば、敵は息を吹き返す。なら、そこを先に見る。水を断てるか。飯場を使わせぬようにできるか。槙尾にも知らせよ」
「承知」
「宗介」
「はい」
「水車小屋に、敵がどれだけ飯を炊けるかを見る。だが、今度は見るだけでは終わらぬ。水と飯で、甚内の下をさらに剥がす」
「はい」
宗介は頷いた。
ついに、敵の新しい飯場が見えた。
灰原の沢ではない。
朽ちた水車小屋。
そこを押さえられるかどうかで、甚内の腹は決まる。
竈の火が、低く揺れる。
粥はまた少し減った。
だが、その半椀で敵の手が一つ減り、敵の飯場が見えた。
市松が板に新しい印を描く。
水車。
粥半椀。
勘六。
人足狙い。
そして、甚内の腹へ伸びる一本の線。
笠森城は、ようやく灰原甚内の喉元に近づき始めていた。
第26話─了




