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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第26話 半椀の誘い

 夜が明ける前から、笠森城の竈には火が入っていた。


 強い火ではない。


 煙を抑えた細い火である。


 だが、鍋の中では薄い粥が静かに温まっていた。


 米粒は少ない。


 味噌も濃くはない。


 それでも、灰原の悪い水を飲み、干し飯だけで動いている者にとっては、喉が鳴るほどの匂いになるはずだった。


 久住宗介は、鍋の縁に浮かぶ湯気を見ながら、腹の奥が重くなるのを感じていた。


 敵に粥を見せる。


 敵を誘う。


 武器を捨て、名を言えば、水と粥を与える。


 言葉にすれば簡単だ。


 だが、その粥は笠森の足軽たちも、南谷の子供たちも、怪我人たちも欲しがっているものだった。


 敵に出す半椀があれば、味方に出せる半椀が減る。


 その不満は必ず出る。


「宗介」


 喜兵衛が隣へ来た。


 手には小さな板がある。


「捕らえた者へ出す粥は、半椀ずつ。水は小椀に一つ。これでよいな」


「はい。最初から多くは出しません」


「足軽どもが怒るぞ」


「分かっています」


「南谷の者も怒る」


「それも、分かっています」


 宗介は鍋を見た。


「だから、隠さず出します。誰に、どれだけ、何のために出すか。全部、見えるようにします」


 喜兵衛は鼻を鳴らした。


「お前は本当に、何でも見えるようにしたがる」


「見えないと、疑われます」


「見えても、腹は立つ」


「はい」


 それが現実だった。


 正しければ納得されるわけではない。


 理由があれば怒りが消えるわけでもない。


 それでも、隠せばもっと悪くなる。


 宗介はこの数日で、それだけは嫌というほど学んでいた。


 門の近くでは、与七が座らされていた。


 若い捕虜である。


 灰原甚内の下で動いていた男。


 今は手を縛られているが、昨日より顔色は少しましだった。水を少し、粥を少し入れたからだ。


 その与七を、今日使う。


 甚内の下の者へ呼びかけるために。


 宇平次が与七の前に立った。


「逃げれば斬る」


 与七は青い顔で頷いた。


「嘘を混ぜても斬る」


「……はい」


「だが、本当に甚内の下の者が降れば、お前の言葉は覚えておく」


 与七が顔を上げた。


「俺は、どうなるんですか」


 宇平次は答えなかった。


 代わりに、片瀬弥四郎が歩み寄った。


「すぐ自由にはせぬ」


 与七の顔が曇る。


「だが、話したこと、働いたことは帳に残す。お前が人を殺めず、こちらを欺かず、甚内から人を離す助けをしたなら、その分は見る」


「……粥を、もらえるんですか」


 その問いが、あまりに素直で、宗介は胸が痛くなった。


 弥四郎は頷いた。


「半椀からだ」


「半椀……」


「足りぬか」


 与七は首を横に振った。


「灰原じゃ、湯だけの日もありました」


 周囲の足軽たちが黙った。


 怒りが消えたわけではない。


 だが、敵の苦しさが見えてしまった。


 それはそれで、扱いに困るものだった。


 弥四郎は城庭の者たちへ向き直った。


「聞け。今日、甚内の下にいる者へ、水と粥を示す」


 ざわめきが起きた。


 弥四郎は声を強めない。


 静かなまま続けた。


「これは敵を厚くもてなすためではない。甚内の腹を崩すためだ。武器を捨て、名を言い、甚内の命を話す者だけを受ける。粥は半椀。水は小椀。すぐ自由にはせぬ」


 足軽の一人が唇を歪めた。


「俺らの粥が減るんですかい」


 宇平次が睨みかけた。


 しかし弥四郎は手で止めた。


「減る」


 はっきり言った。


 場が静まる。


「だが、甚内の者を一人剥がせば、夜に井戸の縄を切る手が一つ減る。薪を濡らす手が一つ減る。名を盗む手が一つ減る。粥半椀で敵の手が減るなら、安い」


 足軽は何も言えなかった。


 弥四郎はさらに言った。


「不満は分かる。だから隠さぬ。出した粥も水も、板に残す。お前たちへ回す分も減らさぬよう、喜兵衛と宗介が見る」


 喜兵衛が渋い顔で頷く。


「見る。だが、無駄に食わせた者はわしが叱る」


 その言葉で、少しだけ空気が緩んだ。


 午前のうちに、一行は南谷奥へ向かった。


 宇平次。


 佐太。


 三郎兵衛。


 善助。


 宗介。


 そして、与七。


 与七の手は縛ったままだが、歩けるように前で結び直してある。逃げ出せない距離に佐太がつき、三郎兵衛が少し離れて周囲を見る。


 宗介は小さな桶を持っていた。


 中には薄い粥が入っている。


 もう一人が水竹筒を持つ。


 たったそれだけの荷が、やけに重く感じた。


 南谷奥の道には、昨日見つけた三本傷が残っていた。


 木の根元に刻まれた三本の傷。


 三筋の通り道。


 名を拾い、声を投げる者たちの印。


 そこから少し離れた窪地で、一行は足を止めた。


「ここでよい」


 宇平次が言った。


 深く入りすぎない。


 こちらが見える場所。


 敵も声を聞ける場所。


 逃げ道を塞がれない場所。


 宗介は桶を置き、周囲を見た。


 水場はない。


 だからこそ、こちらの水が意味を持つ。


 灰原側の者が欲しがるのは、米だけではない。


 きれいな水だ。


「与七」


 宇平次が言った。


「呼べ」


 与七は震えた。


 声が出ない。


 宗介は小椀に水を少し入れ、与七の口元へ運んだ。


「喉だけ湿らせてください」


 与七は水を飲み、何度か咳をした。


 それから、藪の奥へ向かって声を出した。


「灰原の者! 久野瀬の者! 沢にいる者!」


 声は細かった。


 宇平次が低く言う。


「腹から出せ」


 与七は唇を噛み、もう一度叫んだ。


「甚内様の下にいる者! 聞け! 笠森には煮た水がある! 粥がある! 武器を捨て、名を言えば、水を飲ませる!」


 藪は黙っていた。


 風が竹を鳴らす。


 宗介の背中に汗が流れる。


 本当に聞いているのか。


 それとも、もう囲まれているのか。


 与七はさらに叫んだ。


「俺は与七だ! 久野瀬の与七だ! 生きてる! 粥を食った! 嘘じゃない!」


 その言葉が終わった直後、藪の奥で音がした。


 佐太が槍を構える。


 三郎兵衛が横へ動く。


 宇平次は動かない。


 藪から顔を出したのは、痩せた男だった。


 手に槍を持っている。


 年は三十ほど。


 目が落ちくぼみ、唇が白い。


「与七」


 男は低く呼んだ。


 与七が息を呑む。


「勘六さん……」


 知り合いらしい。


 勘六と呼ばれた男は、こちらを睨んだ。


「裏切ったのか」


「違う。俺は……」


「粥を食ったんだろう」


 与七は何も言えなかった。


 宗介は一歩前へ出た。


 宇平次が手で止めかけたが、宗介はすぐに足を止めた。


 前へ出すぎない。


 戦えない自分が近づけば、邪魔になる。


「水はあります」


 宗介は言った。


「武器を置けば、飲めます」


 勘六の目が桶へ向いた。


 一瞬だった。


 だが、見た。


 飢えた者の目ではなく、渇いた者の目だった。


「毒か」


「毒ではありません」


「敵の言葉を信じろと?」


「信じなくていいです。与七が飲んでいます」


 与七は慌てて頷いた。


「腹は……壊してない」


 勘六は迷っていた。


 藪の奥で、さらに別の音がした。


 もう一人いる。


 いや、二人。


 宇平次が低く言った。


「出るなら、武器を前へ投げろ。出ぬなら、去れ」


 勘六は唇を噛んだ。


 その時、藪の奥から別の声が飛んだ。


「戻れ、勘六!」


 硬い声だった。


 命令する側の声。


 勘六の肩が跳ねる。


「戻れば、飯はある」


 その声が続く。


 宗介は桶の中の粥を見た。


 飯はある。


 本当にあるのか。


 甚内側に、まだどれだけの飯があるのか。


 勘六の顔を見る限り、多くはない。


「勘六さん」


 与七が叫んだ。


「塩、もうないだろ! 沢の水、まだ濁ってるんだろ! 戻っても腹を壊すだけだ!」


「黙れ!」


 藪の奥の声が怒鳴る。


 その瞬間、何かが飛んだ。


 短い矢だった。


 勘六の足元に刺さる。


 勘六は反射的に後ろへ下がった。


 戻れという脅し。


 逃げる者を射るという合図。


 宇平次が吠えた。


「伏せろ!」


 次の矢が飛ぶ。


 三郎兵衛が勘六の前へ出て、槍の柄で払った。


 佐太が藪へ向けて槍を構える。


 宇平次は追わない。


 追えば罠だ。


 宗介は桶を抱えた。


 こぼしてはいけない。


 こんな時でも、そう思ってしまった。


 藪の奥で声が乱れた。


「戻れ! 戻れと言っている!」


 勘六は震えていた。


 槍を握ったまま、前にも後ろにも動けない。


 宗介は叫んだ。


「武器を捨ててください!」


 勘六がこちらを見る。


「武器を持ったままでは、水を出せません!」


 勘六の手が震える。


 槍が下がる。


 だが、藪の奥からまた矢が来る。


 今度は勘六の肩をかすめた。


 血が飛んだ。


「ぐっ!」


 勘六は膝をついた。


 与七が叫ぶ。


「勘六さん!」


 宇平次が即座に判断した。


「佐太、三郎兵衛、壁になれ! 善助、勘六を引け! 深追いするな!」


 動きは一瞬だった。


 佐太と三郎兵衛が前へ出る。


 善助が勘六の襟を掴んで引く。


 勘六はまだ槍を握っていた。


 宗介は叫んだ。


「槍を捨てて!」


 勘六は、ようやく槍を手放した。


 槍が土に落ちる。


 その音を聞いた瞬間、宗介は自分でも驚くほど大きな声で言った。


「水!」


 善助が勘六を引きずりながら戻る。


 勘六の肩から血が流れている。


 傷は浅い。


 だが、放れば悪くなる。


 宗介は竹筒を取り、小椀に少しだけ水を入れた。


 勘六は椀を見るなり、むさぼるように飲もうとした。


「少しずつ!」


 宗介は椀を引く。


 勘六が睨む。


 だが、すぐに咳き込んだ。


「一気に飲むと吐きます。少しずつ」


 勘六は荒い息を吐いた。


 藪の奥では、声が遠ざかっていく。


 命令していた男は逃げたようだった。


 宇平次は追わせなかった。


 その代わり、落ちた矢を拾わせた。


「甚内の者だな」


 三郎兵衛が矢を見て言った。


「短い。藪から射るための矢だ」


「勘六を殺す気だったのか」


 佐太が呟く。


「戻さぬためだろう」


 宇平次の声は冷たい。


 勘六は肩を押さえながら、下を向いていた。


 宗介は粥を半椀だけよそった。


 約束通り。


 多くは出さない。


 しかし、出す。


「名は」


 宇平次が問う。


「……勘六」


「どこの者だ」


「久野瀬の川端。田は流れた」


「甚内から何を命じられた」


 勘六は粥を見つめていた。


 答えない。


 宗介は椀を手にしたまま言った。


「話せば粥を増やすとは言いません。でも、話さないなら渡せません」


 勘六が顔を上げた。


 憎しみと空腹が混じった目だった。


「卑怯だな」


「はい」


 宗介は否定しなかった。


「でも、あなたたちも井戸の縄を切ろうとしました。薪を濡らしました。名前を盗みました」


 勘六は黙った。


「こちらも綺麗なことだけでは守れません」


 宗介の声は震えていた。


 だが、逃げなかった。


 勘六はしばらくして、低く言った。


「甚内は、もう沢には戻らん」


 宇平次の目が鋭くなる。


「どこだ」


「古い水車小屋だ。灰原から南へ下った、朽ちた水車。水はまだ使える。そこで飯を炊くつもりだ」


 善助が息を呑んだ。


「水車小屋……」


 三郎兵衛も頷く。


「槙尾の古い道からも近い」


「人数は」


 宇平次が問う。


「動けるのは二十そこそこ。腹を壊した者が十近く。三筋は昨夜から戻りが悪い。空俵を掴まされたって怒ってた」


 宗介は心臓が強く打つのを感じた。


 捨て道が効いている。


 空俵を掴まされ、三筋が揺れた。


 水が悪く、腹を壊した者が増えた。


 そして甚内は水車小屋へ移る。


 敵の本当の飯場が見えた。


 勘六は続けた。


「けど、甚内はまだ諦めてない。水車小屋で飯を炊いて、今夜か明日、南谷の荷を襲う。米じゃなく、人足を取るって言ってた」


「人足?」


 宗介が聞く。


「荷を運ぶ手だ。飯をやるから働けと言って、村の若い者を連れていく」


 宗介の背中が冷えた。


 米、水、薪、名。


 次は人足。


 敵はついに、運ぶ手そのものを狙い始めた。


 宇平次は勘六を睨んだ。


「嘘なら」


「嘘じゃない」


 勘六は粥を見て言った。


「嘘ついても、腹は膨れねえ」


 宇平次は宗介を見た。


 宗介は頷いた。


「半椀、渡します。約束です」


 勘六は椀を受け取った。


 手が震えている。


 一口啜った瞬間、勘六の顔が崩れた。


 悔しそうに。


 情けなさそうに。


 それでも、粥を飲み込んだ。


「温けえな」


 それだけ言った。


 宗介は何も返せなかった。


 一行は勘六を連れて笠森城へ戻った。


 与七は何度も後ろを振り返っていた。


 勘六は肩を押さえ、黙って歩いた。


 敵を一人剥がした。


 情報も得た。


 なのに、宗介の胸は晴れなかった。


 粥半椀で、人がこちらへ来る。


 それだけ敵が苦しいということだ。


 同時に、それだけ戦国の腹は軽く人を動かすということでもあった。


 城へ戻ると、弥四郎はすぐに報告を聞いた。


 勘六は門の内側で座らされ、傷を手当てされた。


 捕虜として、与七とは別に置かれる。


 市松が板を抱えて走ってきた。


「何を書く」


 宗介は深く息を吸った。


「勘六、武器を捨てて降る。肩に矢傷。水と粥半椀。甚内は灰原の沢を捨て、水車小屋へ移る。動ける者二十ほど。腹を壊した者十近く。次は人足狙い」


 市松の顔が変わった。


「人足って、南谷の若い衆か」


「たぶん」


 善助の顔も硬い。


 南谷の若者たちが互いを見る。


 敵はもう、米だけではなく、自分たちの腕と足を狙っている。


 弥四郎は板を見た。


 そして、静かに言った。


「次はこちらから動く」


 宇平次が顔を上げる。


「水車小屋を?」


「攻め落とすのではない。先に水を押さえる」


 宗介は弥四郎を見た。


 若い城主の目は、はっきり敵の腹を見ていた。


「水車小屋の水を甚内に渡せば、敵は息を吹き返す。なら、そこを先に見る。水を断てるか。飯場を使わせぬようにできるか。槙尾にも知らせよ」


「承知」


「宗介」


「はい」


「水車小屋に、敵がどれだけ飯を炊けるかを見る。だが、今度は見るだけでは終わらぬ。水と飯で、甚内の下をさらに剥がす」


「はい」


 宗介は頷いた。


 ついに、敵の新しい飯場が見えた。


 灰原の沢ではない。


 朽ちた水車小屋。


 そこを押さえられるかどうかで、甚内の腹は決まる。


 竈の火が、低く揺れる。


 粥はまた少し減った。


 だが、その半椀で敵の手が一つ減り、敵の飯場が見えた。


 市松が板に新しい印を描く。


 水車。


 粥半椀。


 勘六。


 人足狙い。


 そして、甚内の腹へ伸びる一本の線。


 笠森城は、ようやく灰原甚内の喉元に近づき始めていた。


第26話─了

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