第25話 捨て道
捨て道を作る。
その言葉を聞いた時、久住宗介の腹は重く沈んだ。
米を捨てる道ではない。
人を捨てる道でもない。
敵に見せるためだけの道。
本物の荷は通さない。
本物の人も逃がさない。
ただ、敵の目と足をそこへ向けるための道である。
片瀬弥四郎は、板の前に立っていた。
若い城主の目は、もう守りの目だけではなかった。
「甚内は、名を拾う。道も拾う。なら、こちらが拾わせる道を置く」
宇平次が頷いた。
「本物の米は通さぬ。だが、通すように見せる」
喜兵衛は渋い顔で腕を組んだ。
「また偽の荷か」
「今回は、荷より道です」
宗介は板に描かれた南谷の奥を指した。
「南谷の奥に、古い炭道があります。善助さんの話では、昔は炭焼きが使っていたけれど、今は崩れ沢で荷車は通りにくい」
善助が頷いた。
「人なら通れます。ですが、米俵を担いで急ぐには悪い道です。水場も細く、夜は危うい」
「だから本物は通さない」
弥四郎が言った。
「はい。けれど、敵にはそこを通すと思わせます」
宗介は炭で、捨て道に小さな線を引いた。
「南谷奥から槙尾へ、預かり米を逃がす。そういう話を拾わせます」
庄屋の顔が強張った。
「南谷の米を餌にするのですか」
「本物は使いません」
宗介はすぐに首を振った。
「空俵と湿った藁だけです。ですが、敵が見れば、米を移すように見える。こちらが南谷の米を安全な場所へ移そうとしている、と思わせる」
庄屋はまだ納得しきれない顔だった。
当然だった。
南谷の米は、実際に命だ。
たとえ偽物でも、その名を餌にするのは気分のよいものではない。
弥四郎が庄屋へ向いた。
「本物の南谷の米には触れぬ。だが、敵が南谷の米を狙うなら、その欲を逆に使う」
庄屋は長く息を吐いた。
「……承知しました。ただし、南谷の者へは、後で必ず説明を」
「する」
弥四郎は短く答えた。
宗介はその横で、胸の痛みを飲み込んだ。
騙す。
また騙す。
偽の米俵、捨て名、今度は捨て道。
戦うためとはいえ、気持ちのいいものではない。
だが、守っているだけでは甚内に削られる。
井戸の縄を狙われ、薪を濡らされ、名を盗まれ、人を動かされる。
こちらも、敵を動かさなければならない。
「大事なのは、同じ夜に本物を通すことです」
宗介は言った。
宇平次が目を細める。
「本物?」
「南谷の北の祠に残している年寄りと子供の一部を、城へ入れます。それと、南谷奥の乾いた薪、井戸の予備縄、使える釣瓶を少し。敵が捨て道を見ている間に、いつもの曲がりから本物を運ぶ」
喜兵衛が頷いた。
「なるほど。敵の目を古炭道へ向け、本物は南谷の曲がりを通す」
「はい。ただし、本物の米は大きく動かしません。米を動かせば重いし、匂いも出ます。今夜は人と縄と薪です」
「米ではなく、米を炊くためのものか」
弥四郎が言った。
「はい。水を汲む縄、釣瓶、乾いた薪。これがあれば、南谷の井戸と城の竈が持ちます」
宇平次は少し考え、頷いた。
「敵は米に目を向ける。こちらは火と水を通す」
「そうです」
弥四郎はすぐに命じた。
「宇平次、捨て道を見る者を置け。だが深追いするな。敵が食いついたことを確認するだけでよい」
「承知」
「喜兵衛、本物の荷を小さく分けよ。乾いた薪、予備縄、釣瓶。米俵のように見せる必要はない。むしろ軽く、早く動かせ」
「承知」
「宗介」
「はい」
「お前は本物の荷を見る。捨て道ではない」
宗介は一瞬、息を止めた。
捨て道の方へ行かずに済んだ。
安堵した。
だが、本物の荷を見るということは、南谷の曲がりへ行くということだ。
そこも安全ではない。
「……承知しました」
「怖いか」
「怖いです」
「なら、見落とすな」
「はい」
その日の午後、笠森城の中では二つの荷が作られた。
一つは見せ荷。
古炭道へ向かうように見せる空俵である。
中には湿った藁と、使えぬ米屑が少し。
外からは南谷の預かり米に見えるよう、二重縄を似せて結ぶ。
ただし、本物とは結びの向きを変えた。
こちらの者が見れば、偽物と分かる。
もう一つは本物の小荷。
乾いた薪を小さく束ねたもの。
井戸縄。
予備の釣瓶。
子供と年寄りに持たせる小さな飯包み。
それぞれ軽く、すぐ動かせるようにした。
宗介は一つずつ確かめた。
「この薪は重すぎます。二つに分けてください」
「縄は誰が持つんだ」
「善助さん。井戸を知っている人が持った方がいい」
「釣瓶は」
「壊れやすいので荷車の真ん中。米俵みたいに積まないでください」
「子供は」
「荷を持たせすぎない。水竹筒だけでいいです」
指示を出しながら、宗介の頭は熱くなっていた。
やることは多い。
だが、昨日までのように一つ一つの対策を積むだけではない。
今夜は、動く。
敵を動かし、こちらも動く。
それだけで、城の空気が違った。
足軽たちも、南谷の者たちも、どこか緊張しながら手が早い。
守るだけの日々から、一歩出る。
それが伝わっているのだろう。
夕暮れ前、言葉を流した。
門の外で水桶を運ぶ時、南谷の若者がわざと少し大きめの声を出す。
「今夜、古炭道から槙尾へ米を逃がすんやろ」
もう一人が慌てたふりをする。
「声が大きい。惣八の件みたいに聞かれたら困る」
「すまん」
短いやり取り。
それだけだった。
門の上では、宇平次の配下が藪を見ていた。
宗介は門の内側で、息を殺していた。
何も起きない。
だが、何も起きないことが、何かが動いている気配でもあった。
言葉は目に見えない。
どこへ転がったか、すぐには分からない。
夜が落ちた。
捨て道へ向かう見せ荷が動く。
空俵を二つ。
荷車ではなく、背負いと担ぎ棒で運ぶ。
本当に米を逃がすなら、重い荷車ではなく、人で小分けにするはずだ。
そう見せるためだった。
その一行には、宇平次の配下が二人、槙尾の三郎兵衛、そして南谷の若者が一人つく。
深くは進まない。
古炭道の入口近くまで行き、わざと少し足跡を残し、偽の休み跡を作って引き返す。
一方で、本物の荷は南谷の曲がりへ向かった。
宗介、善助、佐太、喜兵衛の若い下働き二人、南谷の女衆一人。
荷車は小さい。
米俵は載せていない。
乾いた薪、釣瓶、縄、そして北の祠から移す子供と年寄りを少し乗せるため、後ろに空きを残してある。
「米がないと、かえって怖いな」
佐太が小声で言った。
「敵が来たら、何を狙うか分からねえ」
「だから、早く通します」
宗介も小声で答えた。
「止まらない。曲がりでは人を先に走らせない。荷車を抜けさせる。何か落ちても拾わない」
「またそれか」
「はい」
「分かってる」
佐太は短く頷いた。
以前なら反発されたかもしれない。
今は違う。
全員が、曲がりで止まる怖さを知っている。
南谷の曲がりは暗かった。
竹藪が風に鳴る。
遠くの古炭道の方で、鳥が飛ぶ音がした。
いや、鳥ではない。
人の動きかもしれない。
宗介はそちらを見た。
見ている場合ではない。
自分の見るべきは、目の前の荷車だ。
「右、溝に寄ってます」
宗介が言うと、下働きの一人がすぐに押し戻した。
「水竹筒は倒れてない?」
「大丈夫」
「釣瓶、揺れてます。布を噛ませて」
南谷の女衆がすぐ布を差し込む。
荷車は止まらない。
ゆっくり、しかし止まらずに曲がりを抜けた。
その時、古炭道の方から短い怒号が上がった。
宗介の背中が震える。
敵が食いついた。
たぶん。
佐太が反射的にそちらへ顔を向けた。
「見るな」
宗介が思わず言った。
佐太の顔が戻る。
「分かってる」
「こっちは本物です」
「ああ」
荷車は進む。
曲がりを抜け、北の祠へ向かう細道へ入った。
そこでは、弥三と半助が待っていた。
半助は腕を布で吊っている。
それでも、立っていた。
「年寄り二人、子供三人。準備できています」
弥三が言った。
「荷は少なく」
宗介は確認した。
布包みは小さい。
鍋は一つだけ。
水は竹筒に分けてある。
年寄りの一人が、申し訳なさそうに言った。
「こんな夜に、すまぬな」
「謝らないでください。今のうちに動いた方がいいんです」
宗介は答えた。
本当にそうだった。
敵が古炭道に目を向けている今しかない。
子供の一人が泣きそうになった。
南谷の女衆が膝をつき、口元に指を当てる。
「静かにね。城へ行けば粥がある」
粥。
その言葉で、子供は唇を噛んで黙った。
宗介の胸が少し痛む。
子供まで、粥のために泣くのを堪えている。
だが、今はそれで助かる。
年寄りを荷車の後ろへ座らせ、子供三人は歩ける者を歩かせる。
途中で疲れたら交代で乗せる。
釣瓶は真ん中。
縄は善助が背負う。
乾いた薪は二人で担ぐ。
帰り道、古炭道の方の騒ぎは少し大きくなっていた。
だが、笠森側の見せ荷は、すでに引き返す手順になっているはずだ。
深追いしない。
敵を討たない。
食いついたことを確かめて戻る。
宗介はそう信じるしかなかった。
南谷の曲がりに差しかかる直前、竹藪の奥で音がした。
今度は近い。
佐太が槍を構える。
宗介の足が止まりかけた。
藪から出てきたのは、敵ではなかった。
三郎兵衛だった。
息が荒い。
肩に泥がついている。
「捨て道に食いついた」
短く言った。
「敵は六。三本傷の者が二人。空俵を追って奥へ入った」
「味方は」
佐太が聞く。
「無事だ。先に戻っている。俺だけ知らせに回った」
宗介は胸を撫で下ろしかけた。
だが、三郎兵衛の顔は緩んでいなかった。
「ただし、甚内は来ていない」
「分かるんですか」
「指図する者が別にいた。甚内本人ではない。だが、三筋は確かに動いた」
三筋。
名を使う者たち。
それが捨て道へ向かった。
なら、今夜の呼び声や名の罠は薄くなるかもしれない。
少なくとも、この本物の荷を通す間は。
「進みます」
宗介は言った。
「ここで止まる方が危ない」
三郎兵衛が頷く。
「同感だ」
荷車は再び動いた。
子供の一人が疲れて足を引きずり始めた。
宗介はすぐに荷車の空きを見た。
「乗せます」
「重くなる」
下働きが言う。
「途中で倒れるより早いです」
子供を乗せる。
年寄りが自分の膝を少しずらし、場所を作った。
釣瓶が揺れないよう、布をもう一枚噛ませる。
細かい。
面倒だ。
だが、これで進める。
笠森城の門が見えた時、宗介は初めて息を吐いた。
門上から声が飛ぶ。
「本物の荷、戻る!」
門の中央は空いていた。
水桶は左右。
火消し用は二本線。
人は脇。
荷車が中へ入る。
おきぬがすぐに子供を受け取り、竈の方へ連れていった。
「粥はあるよ。熱いから慌てるんじゃない」
子供は泣かなかった。
ただ、湯気を見つめていた。
善助が背負っていた予備縄を下ろす。
喜兵衛が釣瓶を確認する。
「割れておらぬな」
「布を噛ませました」
宗介が言うと、喜兵衛は頷いた。
「よし」
乾いた薪も無事だった。
量は多くない。
だが、今夜と明日の朝の火を支えるには十分だった。
少し遅れて、捨て道の一行も戻った。
空俵は一つ失った。
だが、人は戻った。
宇平次の配下の一人が腕に擦り傷を負っていたが、大きな怪我ではない。
弥四郎は全ての報告を聞き、板の前に立った。
「結果を申せ」
宇平次が答えた。
「敵は捨て道に食いつきました。六人。三本傷の者二人。空俵一つを奪い、古炭道の奥へ入った模様。深追いせず戻りました」
三郎兵衛が続けた。
「甚内本人はおらず。指図役らしき男はいましたが、顔ははっきり見えませぬ」
宗介は本物の荷について報告した。
「北の祠から年寄り二人、子供三人を城へ入れました。予備縄、釣瓶、乾いた薪も無事です。米は動かしていません」
喜兵衛が頷く。
「これで南谷の井戸は、縄を切られても一度は直せる。釣瓶も替えがある。薪も少し増えた」
弥四郎は静かに言った。
「初めて、こちらから敵の足を動かしたな」
その言葉に、城庭の空気が変わった。
大きな勝利ではない。
敵を討ったわけでもない。
城が豊かになったわけでもない。
だが、今夜は違った。
甚内の手を受けるだけではなかった。
こちらが捨て道を置き、敵が食いつき、その隙に本物を通した。
小さいが、確かな前進だった。
市松が板に印をつける。
捨て道。
敵六。
三本傷二。
空俵一つ失う。
本物の荷、無事。
年寄り二人。
子供三人。
縄、釣瓶、薪。
市松は書き終えると、ぽつりと言った。
「今日は、ちょっと勝ったんか」
誰もすぐには答えなかった。
宗介も迷った。
人は戻った。
荷も戻った。
敵は動いた。
なら、勝ちなのかもしれない。
だが、敵はまだいる。
甚内本人も来ていない。
捨て道は一度しか使えないだろう。
それでも。
「少しだけ」
宗介は言った。
「少しだけ、こちらが動かしました」
市松は板を見て、満足そうに頷いた。
弥四郎はその横で、敵の板を見つめていた。
「甚内は、次に気づく」
宇平次が言った。
「はい」
宗介は頷いた。
「同じ手は使えません」
「なら、次は飯場だ」
弥四郎の声が低くなる。
「敵は捨て道へ人を割いた。古炭道の奥で空俵を開けば、怒る。戻る。腹も減る。水も悪い。甚内の下の者は、さらに不満を持つ」
宗介は、敵の飯包みを思い出した。
干し飯だけ。
塩なし。
味噌なし。
下の者は、もう苦しい。
「水と飯で、離れる者が出るかもしれません」
「出させる」
弥四郎は言った。
その声は、若いのに鋭かった。
「甚内の下の者へ、笠森は水と粥を出すと知らせる。ただし、武器を捨て、名前を申した者だけだ」
宇平次が驚いたように弥四郎を見た。
喜兵衛も眉を上げる。
宗介の胸が鳴った。
守る。
釣る。
次は、離反させる。
話が一段進んだのを感じた。
「若」
宇平次が言う。
「敵を受け入れるのですか」
「全員ではない。腹を理由に甚内へ従っている者を、甚内から剥がす」
弥四郎は宗介を見た。
「できるか」
宗介はすぐには答えられなかった。
敵に粥を出す。
それは足軽の反発を呼ぶ。
南谷の者の怒りもある。
だが、甚内の下の者を減らせれば、戦わずに敵の腹が崩れる。
「……条件をはっきりさせれば」
宗介は言った。
「武器を捨てる。名を言う。誰から命を受けたか話す。粥は半椀から。水は少し。すぐ自由にはしない。板に残す」
喜兵衛が苦笑した。
「捕虜にも帳。降る者にも帳か」
「はい」
「なら、やれる」
弥四郎は頷いた。
「明日、与七を使う。甚内の下の者へ伝えさせる」
宗介は与七の顔を思い出した。
若く、飢え、恐れていた敵。
彼が次の鍵になる。
竈の火が、低く鳴った。
南谷の子供たちが、薄い粥を受け取っている。
乾いた薪が少し増えたため、湯気はいつもより安定して見えた。
宗介はその湯気を見つめた。
捨て道は効いた。
本物の荷は通った。
そして次は、敵の腹そのものへ手を伸ばす。
小さな笠森城は、ようやく守りの穴蔵から一歩、外へ出始めていた。
第25話─了




