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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第25話 捨て道

 捨て道を作る。


 その言葉を聞いた時、久住宗介の腹は重く沈んだ。


 米を捨てる道ではない。


 人を捨てる道でもない。


 敵に見せるためだけの道。


 本物の荷は通さない。


 本物の人も逃がさない。


 ただ、敵の目と足をそこへ向けるための道である。


 片瀬弥四郎は、板の前に立っていた。


 若い城主の目は、もう守りの目だけではなかった。


「甚内は、名を拾う。道も拾う。なら、こちらが拾わせる道を置く」


 宇平次が頷いた。


「本物の米は通さぬ。だが、通すように見せる」


 喜兵衛は渋い顔で腕を組んだ。


「また偽の荷か」


「今回は、荷より道です」


 宗介は板に描かれた南谷の奥を指した。


「南谷の奥に、古い炭道があります。善助さんの話では、昔は炭焼きが使っていたけれど、今は崩れ沢で荷車は通りにくい」


 善助が頷いた。


「人なら通れます。ですが、米俵を担いで急ぐには悪い道です。水場も細く、夜は危うい」


「だから本物は通さない」


 弥四郎が言った。


「はい。けれど、敵にはそこを通すと思わせます」


 宗介は炭で、捨て道に小さな線を引いた。


「南谷奥から槙尾へ、預かり米を逃がす。そういう話を拾わせます」


 庄屋の顔が強張った。


「南谷の米を餌にするのですか」


「本物は使いません」


 宗介はすぐに首を振った。


「空俵と湿った藁だけです。ですが、敵が見れば、米を移すように見える。こちらが南谷の米を安全な場所へ移そうとしている、と思わせる」


 庄屋はまだ納得しきれない顔だった。


 当然だった。


 南谷の米は、実際に命だ。


 たとえ偽物でも、その名を餌にするのは気分のよいものではない。


 弥四郎が庄屋へ向いた。


「本物の南谷の米には触れぬ。だが、敵が南谷の米を狙うなら、その欲を逆に使う」


 庄屋は長く息を吐いた。


「……承知しました。ただし、南谷の者へは、後で必ず説明を」


「する」


 弥四郎は短く答えた。


 宗介はその横で、胸の痛みを飲み込んだ。


 騙す。


 また騙す。


 偽の米俵、捨て名、今度は捨て道。


 戦うためとはいえ、気持ちのいいものではない。


 だが、守っているだけでは甚内に削られる。


 井戸の縄を狙われ、薪を濡らされ、名を盗まれ、人を動かされる。


 こちらも、敵を動かさなければならない。


「大事なのは、同じ夜に本物を通すことです」


 宗介は言った。


 宇平次が目を細める。


「本物?」


「南谷の北の祠に残している年寄りと子供の一部を、城へ入れます。それと、南谷奥の乾いた薪、井戸の予備縄、使える釣瓶を少し。敵が捨て道を見ている間に、いつもの曲がりから本物を運ぶ」


 喜兵衛が頷いた。


「なるほど。敵の目を古炭道へ向け、本物は南谷の曲がりを通す」


「はい。ただし、本物の米は大きく動かしません。米を動かせば重いし、匂いも出ます。今夜は人と縄と薪です」


「米ではなく、米を炊くためのものか」


 弥四郎が言った。


「はい。水を汲む縄、釣瓶、乾いた薪。これがあれば、南谷の井戸と城の竈が持ちます」


 宇平次は少し考え、頷いた。


「敵は米に目を向ける。こちらは火と水を通す」


「そうです」


 弥四郎はすぐに命じた。


「宇平次、捨て道を見る者を置け。だが深追いするな。敵が食いついたことを確認するだけでよい」


「承知」


「喜兵衛、本物の荷を小さく分けよ。乾いた薪、予備縄、釣瓶。米俵のように見せる必要はない。むしろ軽く、早く動かせ」


「承知」


「宗介」


「はい」


「お前は本物の荷を見る。捨て道ではない」


 宗介は一瞬、息を止めた。


 捨て道の方へ行かずに済んだ。


 安堵した。


 だが、本物の荷を見るということは、南谷の曲がりへ行くということだ。


 そこも安全ではない。


「……承知しました」


「怖いか」


「怖いです」


「なら、見落とすな」


「はい」


 その日の午後、笠森城の中では二つの荷が作られた。


 一つは見せ荷。


 古炭道へ向かうように見せる空俵である。


 中には湿った藁と、使えぬ米屑が少し。


 外からは南谷の預かり米に見えるよう、二重縄を似せて結ぶ。


 ただし、本物とは結びの向きを変えた。


 こちらの者が見れば、偽物と分かる。


 もう一つは本物の小荷。


 乾いた薪を小さく束ねたもの。


 井戸縄。


 予備の釣瓶。


 子供と年寄りに持たせる小さな飯包み。


 それぞれ軽く、すぐ動かせるようにした。


 宗介は一つずつ確かめた。


「この薪は重すぎます。二つに分けてください」


「縄は誰が持つんだ」


「善助さん。井戸を知っている人が持った方がいい」


「釣瓶は」


「壊れやすいので荷車の真ん中。米俵みたいに積まないでください」


「子供は」


「荷を持たせすぎない。水竹筒だけでいいです」


 指示を出しながら、宗介の頭は熱くなっていた。


 やることは多い。


 だが、昨日までのように一つ一つの対策を積むだけではない。


 今夜は、動く。


 敵を動かし、こちらも動く。


 それだけで、城の空気が違った。


 足軽たちも、南谷の者たちも、どこか緊張しながら手が早い。


 守るだけの日々から、一歩出る。


 それが伝わっているのだろう。


 夕暮れ前、言葉を流した。


 門の外で水桶を運ぶ時、南谷の若者がわざと少し大きめの声を出す。


「今夜、古炭道から槙尾へ米を逃がすんやろ」


 もう一人が慌てたふりをする。


「声が大きい。惣八の件みたいに聞かれたら困る」


「すまん」


 短いやり取り。


 それだけだった。


 門の上では、宇平次の配下が藪を見ていた。


 宗介は門の内側で、息を殺していた。


 何も起きない。


 だが、何も起きないことが、何かが動いている気配でもあった。


 言葉は目に見えない。


 どこへ転がったか、すぐには分からない。


 夜が落ちた。


 捨て道へ向かう見せ荷が動く。


 空俵を二つ。


 荷車ではなく、背負いと担ぎ棒で運ぶ。


 本当に米を逃がすなら、重い荷車ではなく、人で小分けにするはずだ。


 そう見せるためだった。


 その一行には、宇平次の配下が二人、槙尾の三郎兵衛、そして南谷の若者が一人つく。


 深くは進まない。


 古炭道の入口近くまで行き、わざと少し足跡を残し、偽の休み跡を作って引き返す。


 一方で、本物の荷は南谷の曲がりへ向かった。


 宗介、善助、佐太、喜兵衛の若い下働き二人、南谷の女衆一人。


 荷車は小さい。


 米俵は載せていない。


 乾いた薪、釣瓶、縄、そして北の祠から移す子供と年寄りを少し乗せるため、後ろに空きを残してある。


「米がないと、かえって怖いな」


 佐太が小声で言った。


「敵が来たら、何を狙うか分からねえ」


「だから、早く通します」


 宗介も小声で答えた。


「止まらない。曲がりでは人を先に走らせない。荷車を抜けさせる。何か落ちても拾わない」


「またそれか」


「はい」


「分かってる」


 佐太は短く頷いた。


 以前なら反発されたかもしれない。


 今は違う。


 全員が、曲がりで止まる怖さを知っている。


 南谷の曲がりは暗かった。


 竹藪が風に鳴る。


 遠くの古炭道の方で、鳥が飛ぶ音がした。


 いや、鳥ではない。


 人の動きかもしれない。


 宗介はそちらを見た。


 見ている場合ではない。


 自分の見るべきは、目の前の荷車だ。


「右、溝に寄ってます」


 宗介が言うと、下働きの一人がすぐに押し戻した。


「水竹筒は倒れてない?」


「大丈夫」


「釣瓶、揺れてます。布を噛ませて」


 南谷の女衆がすぐ布を差し込む。


 荷車は止まらない。


 ゆっくり、しかし止まらずに曲がりを抜けた。


 その時、古炭道の方から短い怒号が上がった。


 宗介の背中が震える。


 敵が食いついた。


 たぶん。


 佐太が反射的にそちらへ顔を向けた。


「見るな」


 宗介が思わず言った。


 佐太の顔が戻る。


「分かってる」


「こっちは本物です」


「ああ」


 荷車は進む。


 曲がりを抜け、北の祠へ向かう細道へ入った。


 そこでは、弥三と半助が待っていた。


 半助は腕を布で吊っている。


 それでも、立っていた。


「年寄り二人、子供三人。準備できています」


 弥三が言った。


「荷は少なく」


 宗介は確認した。


 布包みは小さい。


 鍋は一つだけ。


 水は竹筒に分けてある。


 年寄りの一人が、申し訳なさそうに言った。


「こんな夜に、すまぬな」


「謝らないでください。今のうちに動いた方がいいんです」


 宗介は答えた。


 本当にそうだった。


 敵が古炭道に目を向けている今しかない。


 子供の一人が泣きそうになった。


 南谷の女衆が膝をつき、口元に指を当てる。


「静かにね。城へ行けば粥がある」


 粥。


 その言葉で、子供は唇を噛んで黙った。


 宗介の胸が少し痛む。


 子供まで、粥のために泣くのを堪えている。


 だが、今はそれで助かる。


 年寄りを荷車の後ろへ座らせ、子供三人は歩ける者を歩かせる。


 途中で疲れたら交代で乗せる。


 釣瓶は真ん中。


 縄は善助が背負う。


 乾いた薪は二人で担ぐ。


 帰り道、古炭道の方の騒ぎは少し大きくなっていた。


 だが、笠森側の見せ荷は、すでに引き返す手順になっているはずだ。


 深追いしない。


 敵を討たない。


 食いついたことを確かめて戻る。


 宗介はそう信じるしかなかった。


 南谷の曲がりに差しかかる直前、竹藪の奥で音がした。


 今度は近い。


 佐太が槍を構える。


 宗介の足が止まりかけた。


 藪から出てきたのは、敵ではなかった。


 三郎兵衛だった。


 息が荒い。


 肩に泥がついている。


「捨て道に食いついた」


 短く言った。


「敵は六。三本傷の者が二人。空俵を追って奥へ入った」


「味方は」


 佐太が聞く。


「無事だ。先に戻っている。俺だけ知らせに回った」


 宗介は胸を撫で下ろしかけた。


 だが、三郎兵衛の顔は緩んでいなかった。


「ただし、甚内は来ていない」


「分かるんですか」


「指図する者が別にいた。甚内本人ではない。だが、三筋は確かに動いた」


 三筋。


 名を使う者たち。


 それが捨て道へ向かった。


 なら、今夜の呼び声や名の罠は薄くなるかもしれない。


 少なくとも、この本物の荷を通す間は。


「進みます」


 宗介は言った。


「ここで止まる方が危ない」


 三郎兵衛が頷く。


「同感だ」


 荷車は再び動いた。


 子供の一人が疲れて足を引きずり始めた。


 宗介はすぐに荷車の空きを見た。


「乗せます」


「重くなる」


 下働きが言う。


「途中で倒れるより早いです」


 子供を乗せる。


 年寄りが自分の膝を少しずらし、場所を作った。


 釣瓶が揺れないよう、布をもう一枚噛ませる。


 細かい。


 面倒だ。


 だが、これで進める。


 笠森城の門が見えた時、宗介は初めて息を吐いた。


 門上から声が飛ぶ。


「本物の荷、戻る!」


 門の中央は空いていた。


 水桶は左右。


 火消し用は二本線。


 人は脇。


 荷車が中へ入る。


 おきぬがすぐに子供を受け取り、竈の方へ連れていった。


「粥はあるよ。熱いから慌てるんじゃない」


 子供は泣かなかった。


 ただ、湯気を見つめていた。


 善助が背負っていた予備縄を下ろす。


 喜兵衛が釣瓶を確認する。


「割れておらぬな」


「布を噛ませました」


 宗介が言うと、喜兵衛は頷いた。


「よし」


 乾いた薪も無事だった。


 量は多くない。


 だが、今夜と明日の朝の火を支えるには十分だった。


 少し遅れて、捨て道の一行も戻った。


 空俵は一つ失った。


 だが、人は戻った。


 宇平次の配下の一人が腕に擦り傷を負っていたが、大きな怪我ではない。


 弥四郎は全ての報告を聞き、板の前に立った。


「結果を申せ」


 宇平次が答えた。


「敵は捨て道に食いつきました。六人。三本傷の者二人。空俵一つを奪い、古炭道の奥へ入った模様。深追いせず戻りました」


 三郎兵衛が続けた。


「甚内本人はおらず。指図役らしき男はいましたが、顔ははっきり見えませぬ」


 宗介は本物の荷について報告した。


「北の祠から年寄り二人、子供三人を城へ入れました。予備縄、釣瓶、乾いた薪も無事です。米は動かしていません」


 喜兵衛が頷く。


「これで南谷の井戸は、縄を切られても一度は直せる。釣瓶も替えがある。薪も少し増えた」


 弥四郎は静かに言った。


「初めて、こちらから敵の足を動かしたな」


 その言葉に、城庭の空気が変わった。


 大きな勝利ではない。


 敵を討ったわけでもない。


 城が豊かになったわけでもない。


 だが、今夜は違った。


 甚内の手を受けるだけではなかった。


 こちらが捨て道を置き、敵が食いつき、その隙に本物を通した。


 小さいが、確かな前進だった。


 市松が板に印をつける。


 捨て道。


 敵六。


 三本傷二。


 空俵一つ失う。


 本物の荷、無事。


 年寄り二人。


 子供三人。


 縄、釣瓶、薪。


 市松は書き終えると、ぽつりと言った。


「今日は、ちょっと勝ったんか」


 誰もすぐには答えなかった。


 宗介も迷った。


 人は戻った。


 荷も戻った。


 敵は動いた。


 なら、勝ちなのかもしれない。


 だが、敵はまだいる。


 甚内本人も来ていない。


 捨て道は一度しか使えないだろう。


 それでも。


「少しだけ」


 宗介は言った。


「少しだけ、こちらが動かしました」


 市松は板を見て、満足そうに頷いた。


 弥四郎はその横で、敵の板を見つめていた。


「甚内は、次に気づく」


 宇平次が言った。


「はい」


 宗介は頷いた。


「同じ手は使えません」


「なら、次は飯場だ」


 弥四郎の声が低くなる。


「敵は捨て道へ人を割いた。古炭道の奥で空俵を開けば、怒る。戻る。腹も減る。水も悪い。甚内の下の者は、さらに不満を持つ」


 宗介は、敵の飯包みを思い出した。


 干し飯だけ。


 塩なし。


 味噌なし。


 下の者は、もう苦しい。


「水と飯で、離れる者が出るかもしれません」


「出させる」


 弥四郎は言った。


 その声は、若いのに鋭かった。


「甚内の下の者へ、笠森は水と粥を出すと知らせる。ただし、武器を捨て、名前を申した者だけだ」


 宇平次が驚いたように弥四郎を見た。


 喜兵衛も眉を上げる。


 宗介の胸が鳴った。


 守る。


 釣る。


 次は、離反させる。


 話が一段進んだのを感じた。


「若」


 宇平次が言う。


「敵を受け入れるのですか」


「全員ではない。腹を理由に甚内へ従っている者を、甚内から剥がす」


 弥四郎は宗介を見た。


「できるか」


 宗介はすぐには答えられなかった。


 敵に粥を出す。


 それは足軽の反発を呼ぶ。


 南谷の者の怒りもある。


 だが、甚内の下の者を減らせれば、戦わずに敵の腹が崩れる。


「……条件をはっきりさせれば」


 宗介は言った。


「武器を捨てる。名を言う。誰から命を受けたか話す。粥は半椀から。水は少し。すぐ自由にはしない。板に残す」


 喜兵衛が苦笑した。


「捕虜にも帳。降る者にも帳か」


「はい」


「なら、やれる」


 弥四郎は頷いた。


「明日、与七を使う。甚内の下の者へ伝えさせる」


 宗介は与七の顔を思い出した。


 若く、飢え、恐れていた敵。


 彼が次の鍵になる。


 竈の火が、低く鳴った。


 南谷の子供たちが、薄い粥を受け取っている。


 乾いた薪が少し増えたため、湯気はいつもより安定して見えた。


 宗介はその湯気を見つめた。


 捨て道は効いた。


 本物の荷は通った。


 そして次は、敵の腹そのものへ手を伸ばす。


 小さな笠森城は、ようやく守りの穴蔵から一歩、外へ出始めていた。


第25話─了

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